“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

身体感覚を開く7 「ふつう」「いつも」を問う

 時は、いつも と同じように流れてめぐる。変わりばえしないように思われる日だったとしても、やぶられた日めくりカレンダーの1枚には、昨日とはほんのちょっとだけズレた記憶が刻まれる。気づかぬほどに少しだけ・・。

 

 街をみわたせば、いつも あったはずの喫茶店がポツポツと姿をけしている。 かわりにチェーン店のコーヒー屋さんがふえた。スタバ、タリーズドトール、星野、コメダ・・。そのスタバでの、こんな話を聞いたことがある。高齢の婦人たちが列にならび、注文の順番がきた。「コーヒー」と注文すると、若い細身のお姉さんが「ブレンドですか?カフェラテ?ですか?」とスッとメニューをさしだした。白髪頭の女性たちはメニューをのぞきつつ相談しあって「コーヒーよ、コーヒー」と皆が言う。先頭にたった方が再度「コーヒー!」というと、「ブレンドですね」と細身女子。豪をにやしたお婆さんは大きめの声で言った「コーヒーよ、コーヒー。 ふつう のコーヒー! フツー の!!」。

 いつしかコーヒーという聞きなれた単語は、専門店では通用しなくなってしまったのだろう。昨日までの いつも や ふつう はヒタヒタと姿をかえつづけ、ある時忽然と消えてしまう。

 

 さて、この私は患者さんたちの ”ふつう" や ”いつも” を問いつづけるのが仕事だ。治療の際に、私が患者さんに「このところどうですか?どんな感じですか?」と聞く。すると「別に いつも と同じです」とか「ちょっと疲れたけれど、 ふつう です」とか・・。そう聞いて治療していくと、「あれ、そこ変です」とか「かなり疲れていたのですね」とか「何で気づかなかったのだろう」「そういえば・・」などと変化していくことが多い。

 

  "ふつう" や "いつも" は、無意識の世界だ。

 そしてこれらは驚くほど個人差が大きい。誰かにとっての "ふつう" は、別の誰かにとってはとんでもないことだったりする。 "いつも" とは、習慣となって繰りかえされる日々の総称。病の多くは生活習慣病なのだから、病の芽は "いつも" という自分の習慣のなかにチョコンと埋もれている。たとえば牛乳を良いものと思って "いつも" 飲んでいる人もいれば、毒のようにとらえて一切の乳製品をこばむ人もいる。あるいは "いつも" 果物のスムージーを飲む人もいれば、冷えるものをさけて常温の飲み物しかとらない人も。こういった疑いもしない "ふつう" の習慣のなかに、しのびよる病の兆しが隠されている。裏をかえせば "ふつう" "いつも" の中にこそ、その人だけの健康への道しるべがあるのだ。

 

 自分はなにを ”ふつう” ととらえているのか、私にとっての ”いつも” とはなんだろう。この問題意識をもって暮らすことは、身体感覚を開くためのはじめの一歩となる。まずは自分の いつも の生活をみつめ、ふつう に繰りかえしている習慣にたどりつく。こうしてはじめて、 "いつも" や "ふつう" のなかに埋もれている何かの種を、意識的に身体の反応に結びつけることができる。

 

 もしも 業(ゴウ)とか カルマ と呼ばれるものがあるとしたら、それは習慣のなかに見だされるのだと私は思う。外部のおどろおどろしい得体のしれないものの影響ではなくて。ちょっとしたことなのに変えられないもの。とるに足らないことだから疑うことすらしない癖。こういうものから作りあげられた自分の無意識の世界。ひどく身近だけれど、実はその中に分け入っていくいことが滅多にないような世界の中に・・。

  ”ふつう”  ”いつも”の中に数えきれない種がある。かけがえのない幸せの種も、病へといたるかもしれない種も。

  ”ふつう” に生活を送っている我らをとりまく社会も、今や大きく変わってきている。

 高齢の患者さんはため息をついた。「駅の切符を買うときのタッチパネルにやっと慣れたと思ったら、今度はお店の自動会計。そこに店員さんがいるのに、お金は機械へ入れろという。あわてつつも小銭とお札を迷いながらチャンと入れて、やっと支払えてホッとした。あんまりホッとして買ったはずのパンを忘れたのよ」と。このように、ある日突然、お金の支払いのやり方も "いつも" と同じようにはいかなくなるのだ。

 突然、目の前にあらわれてしまった自動会計。そしていったんシステムとして動きだしたなら、それに従わざるをえない流れに私たちは組みこまれてしまう。これは生活上の変化に限らない。我らの身体の細胞たちも長い年月をかけて少しづつかわり、ある時新たにシステム自体がたちあがる。そしてこれに病名がつけられるのだ。

 

 今の社会はAI(Artificial Intelligence : 人工知能)の出現によって、産業革命の時代ほどに変化しているのではないかと私は思う。AIにかぎらず至るところで変化の兆しを感じる。たとえば引越しの手続きで役所へいき書類を書いたときのこと。氏名の欄の次に性別があった。その分類は、「男」「女」「その他」の3択。数年前まではなかった「その他」。お堅いイメージの役所ですら多様性を認める時代へと移っているのだなぁと思った。急速に変わってきている社会に呼応してなのか、病にも変化がある。突然に亡くなる方も増えているし、重病をいきなり発症する方が多くなってきている実感がある。

 

 今までの "ふつう" や   "いつも" が急速に変わりはじめている。私たちは、さらに"ふつう"  "いつも" を問いつづけ、身体感覚を開く必要にせまられている気がする。

 

(後記)

 引越ししてみると、今までとは違うことばかりに出くわします。新鮮な目でまわりを見つめられる嬉しさがあるのですが、これがいつか慣れていってしまうのだなぁとの危惧もあり。そんなことを思っていたためか、今回の記事となりました。

 ”ふつう” "いつも” を問いつづける。こんなこと、いっつもは無理でしょ!とも・・。そこで、ちょっと視点を変えて「旅人のように暮らす」という遊びにしたらどうでしょうか。あ、自分が北の地小樽で楽しく暮らすために思いついただけですね。はい、小樽で旅人のように暮らしたいと思っています。

 

旅人気分にさせてくれる喫茶店@小樽にて撮影。飲みほしてしまったのは、自家焙煎ブレンド25gの絶品コーヒー。

 

勝手に陰陽論20 伽藍堂

 すべての荷物が運びだされた40平米弱の、その部屋は驚いたことに小さく感じられた。ガラ〜ンとしてたにもかかわらず・・。手伝いに来てくださった方たちも「あれ、意外に小さいですね。もっと広いと思っていたら・・」とおっしゃっていたのだから、私だけの感覚でもないのだろう。

 治療室をここ阿佐ヶ谷ではじめて約25年、ほぼ四半世紀。その間に延べ約4万人の方たちにお越しいただいた。ちっぽけな隠れ家のような、この場所に。伽藍堂となった治療室にひとり座って、ぼんやりと思った。鍼灸師、あるいは治療家という仕事のことを。

 鍼灸学校に通っていた2年目に、私は友人に治療のモデルになってほしいとお願いした。マッサージや指圧のつもりが、鍼をやってほしいとその友は言った。「え?ハリだよ、ハリ!資格もとってなければヘタクソだよ」と言う私に、「いいよいいよ」と彼女は素肌を差しだしたのだ。自分だったら、絶対にできない。こんなに人を信じることはできやしない。彼女の器の大きさを見せつけられると同時に、こうやって実験台になってくれた人の上に自分の技量が磨かれていくことを忘れないようにしようと思った。

 治療家という立場での他人との出会いは、それまで経験したことがない種類のものだった。初対面なのに、病歴や家族歴、痛みや苦しみにくわえ身体的悩みといった、いわば自分の隠しておきたいプライベートを、信頼できるかどうかもわからない人間に、いきなり打ちあけるのだから。誰かに密着して取材するジャーナリストであっても、信頼を得て話を聞けるようになるまでに相当の時間が必要なはずだ。普通ではありえない出会いだと思う。そして私は、一見、元気そうに見える方にも実にさまざまな痛みや苦しみを持っていることを知ったのだ。またおよそ病は、他の病と比べることができない、特有の痛みや辛さを持っていることも知った。私は、それまで出会った学校での知人や友人、職場での同僚、時々しか顔を合わせないアノ人やコノ人のことを考えてみた。なんとなくウマが合わない人たちや自分が嫌いだと遠ざけていた人にも、何かしらの痛みや悩みがあったのだろう。自分が今まで決めつけていた世界は、とてもとても小さいものに違いなかった。

 老若男女の患者さんたちが語る「今」は、未知の魅力にあふれていた。大企業に勤めるお偉いさん、社長業の方、さまざまなサラリーマンやOL、自営業の人、ロスジェネ世代のフリーターや派遣社員、学校に行かない子供、介護のために辞職された方、会社を離れて模索する人、子育て中の専業主婦、スポーツ選手、ダンサー、料理人、職人さん、夜勤の人、あるいは母・妻・会社員の3役をこなす女性・・などなど。仕事や立場、環境などが違う人たちが語る現状は、私の想像をはるかにこえた世界だったのだ。病にあっては、命に関わる病気、生まれながらの障害、どうしても治らない慢性病、膠原病やアレルギー、ケガや事故などの痛みや苦しみを教えられた。さまざまな立場からのナマの声は、切実で真実にあふれていた。私は、何度も世界が違ってみえた。

 患者さんは2台あるベッドの片方に横たわる。カーテン越しに聞くとはなしに聞こえてくるもう一人の患者さんの声は、同じような立場であれ、まったく違う立場であったとしても、どこか客観的視点に人を誘導するのだろう。名前も顔も知らない他人のプライベートにまつわる痛みは、聞いている人をソッと優しく包みこむのだと思う。苦しいのは自分だけではないと。ましてその全部の話を聞いていたのは、この私だ。それでも、こうやってみんな生きている。あるいは死してなお誰かと繋がっている。私は、明らかにみんなに救われた。

 多くの方たちの人生の断片を見せられた私は、治療室アーツを閉じるにあたり、できるだけ緩やかに移行したいと思った。12月いっぱいでの治療の終了予定は、コロナやインフルエンザで来られなかった人たちに会いたいために、引越し直前の2月中旬すぎまでのびた。患者さんたちの中には、オペの人も、検査結果を待っていてハラハラしている人も、ケガした人たちもいて、それぞれの人生がとぎれることなく流れている。このような流れにもできるだけ沿っていきたかった。

 保管不要となった膨大なカルテをシュレッダーにかけながら、一人一人のことを思った。佐渡に帰ってしまって連絡が取れなくなってしまった方、治療をつづけるうちに鍼の面白さにめざめて鍼灸師になった方、大病の後に連絡がとぎれた方、異国の地へいらした方、高齢で阿佐ヶ谷まで行けないとおっしゃった方、失恋のたびに治療にいらした方、気ままにフラ〜とあらわれては去っていく方・・。みんなみんな、どうしているのだろうか。(万一このブログを読まれた方で連絡してもいいかなぁと思われたら、以前の私のメルアドに連絡ください)

 

 訪れてくれた方たちの残り香が、濃密に詰まっていると感じられる治療室アーツ。

 目には見えないものの重さを確かめたくて、緩やかに丁寧にここを閉じたいと思った。

 約3か月におよぶエンディング作業ののちに、このブログタイトルと同じ ”伽藍堂” となったアーツに私は対面した。すべての荷物が運び出された空間は、思っていたのより、ずっとずっと小さかったのだ。それは、今まで何度も引越しを経験した私にとって、はじめての体験だった。

 なぜ小さく感じられるのだろう。私は、このことを陰陽論で考えてみた。

 陰とは、下や内に向かって凝集する力を持ち、集約されて物質的な構造を生み、形を作る。つまりアーツという治療室は、陰としての器となる。

 陽とは、上や外に向かって拡散する力を有し、動的なエネルギーと持つ。つまりアーツに出入りする患者さんは、陽の動的エネルギーとなる。

 この陰と陽は拮抗する。治療室としての器が大地に根ざすほどにしっかりすればするほど、その器にあった動的エネルギー(陽)である患者さんも多くなる。また治療とは自己の内へ内へと向かう作業だ。自分の身体との無言の対話。患者さんたちがこのように経験できたならば、治療室アーツが持つ陰のエネルギーはより深くなったと思う。さらに年月にも底支えされて、陰と陽とは濃密に混じり合っていく。

 治療室アーツは、実際のサイズをはるかに超えて機能していたように思えた。

 

(後記) 

 アーツを閉めるにあたり、目に見えるものにも見えないものにも、こんなにも暖かく優しく自分は支えられてきたのだと実感する日々でした。

 積まれたダンボールの中でも治療を受けてくださった患者さんたちに感謝します。また引越しの間際にお手伝いに来てくださった方たちには、見通しの甘い私を助けていただき、大変お世話になりました。次々と押しよせる難題に、それぞれのスキルを持った方たちが現れてくださり、綱渡りのように物事が進んでいきました。涙あり、笑いあり、驚きあり、安堵ありのドタバタ引越しにも、いい思い出だと語っていただき、ただただありがたかったです。ひょっこりいらしてくださった皆さま、声援を送ってくださった方たち、いつでも手伝うと申し出てくださった方たち、留守中にお越しいただいた方たちにも心から感謝します。

 またすべての患者さま皆さまとの出会いは、かけがえがありません。暖かく見守って励ましてくれた友人、同業の友人たち、漢方薬で私の患者さんたちを支えてくださる中医学の名医たち、太極拳の師匠、東洋医学の先生たち、そしてこれから優れた治療家になるであろう卵さんたち、今まで同様、今後ともよろしくお願いいたします。

 語りつくせない感謝をこめて。

 

 

阿佐ヶ谷駅前にて撮影。治療室アーツのビルが見える。

番外編  声(後編)

 「今すぐ一緒に鍼灸学校へ行って、入試要項をもらってこよう」と、ヨウちゃんは言った。「鍼灸師になろうかなぁ〜」と私が軽い気持ちでちょっと呟いただけなのに。ぼんやりと思った私の未来は、先細りする真っ暗なトンネルのようだった。お金はどうしたらいい?家賃だって必要だ。仕事はどうなる?新しい職場も探さなくてはならない。ましてや将来、ちゃんと成りたっていくのだろうか?考えればキリがなかった。手をひかれてシブシブ学校へ向かう途中にヨウちゃんが言った。「まずは受けてみて。落ちたら縁がなかった。受かったらその時、その後を考える。これでいいじゃない?」と。

 

 鍼灸学校でのはじめての授業の時のことだ。東洋医学概論の、その先生は言った。「いい治療家になるためには、” 気 ” がわからないとダメだ。気を感じる手を作りなさい。それには太極拳が一番だ」と。すると私の前に座っていたイクちゃんがクルッと後ろをむいて「私ね、明日から太極拳を習いにいくの」とだけ言い、また前を向いた。太極拳・・。私には縁があるとは思えなかった、あの太極拳。中国での景色が私の頭の中をめぐりつづけた。授業が終わる頃には、イクちゃんの背中をつついて「私も連れてって」と言っている自分がいた。太極拳のクラスで、はじめて先生について雲手(ウンシュ)という腕を回す動作をした時の驚きは忘れられない。「あれ、いやだ。私、これ知ってる・・」。

 

 ある日のこと、「光の手」(バーバラ・アン・ブレナン著)という本が私の手もとに届いた。「買ってはみたが読みきれない。読んでもらえる人にあげたい」と友人がプレゼントしてくれたのだ。どうやって食い繋いでいたかわからぬほど貧乏だった鍼灸師の私には、到底買えなかったであろう上下2巻で合計6,000円ほどもする本だ。そしてそこには、まさに私が求めていた世界について書かれていた。アメリカには、この本を教科書にして見えない世界を教える学校があるという。それは羨ましかったものの、同時にひどく怪しげにも思えた。

 あれは、その本のことをすっかり忘れてしまっていた頃だった。修行先の治療院の昼下がりに、私は「医道の日本」という治療家むけの、たいそう真面目な雑誌をパラパラとめくっていた。するとバーバラ・アン・ブレナン来日という広告が目に飛びこんできたのだ。しかも髪をなびかせてニッコリ微笑むバーバラの写真つきで。

 

 ここはアメリカのニュージャージ州にあるBBSH(バーバラ・ブレナン・スクール・オブ・ヒーリング)。2年生の私は、過去世のトラウマにアクセスする過去世ヒーリングの授業に出ていた。ネイティブアメリカンの先生が主導するその授業は、大ホールに同学年全員が集められ、アストラル界という一種異様な空間を作りあげていた。多くの生徒たちが床に仰向けに寝た。地中から突きあげられるようなドラムの音は、響きをともなって私の背中を、身体を、そしてホール全体を振動させている。ひとつひとつの細胞に眠っているであろう遥か昔からの記憶。それらがゆっくりと紐解かれて呼びおこされるような、圧倒的な迫力に満ちていた。さらにそこには魂が故郷へと導かれるような懐かしさすらあった。何人もの人たちが絞りだすような低い唸り声をあげはじめ、身体がよじれるように動きだしだ。その異様な空間は、私が子供の頃に感じていた世界そのものに違いなかった。

 痛い!突如私は、自分の左胸に鋭いナイフが突き立てられているのがわかった。ありありと、ココにココに刺さっている。誰か!はやく助けて!苦しい!声が出ない。。微かな呻き声と涙とが混じりあいながら、そばにいる人たちに助けを求めるもわかってもらえない。とその時、体格のよいネイティブアメリカンの先生が長い髪をたなびかせて遠くからゴンゴンと走ってきて、そのナイフをガッシリ掴んで一気に抜いた。「はやく抜くのだ。このナイフを!」と言いながら。そして抜いた箇所に先生は手をあてた。私の傷口は、温かくやわらかい流体物で満たされていった。本当にこういう世界があるのだと呆然とした私は、疲れはてていつの間にか眠ってしまった。

 

 ダナンの海は深い緑色だった。来てみたかった国、ベトナムに私はいる。それまで私は治療三昧の日々を送っていた。鍼をはじめとする様々な方法を通して、身体が持つ潜在力を自分の所へきてくれた患者さんたちに伝えたい。いやもしかしたら自分が人間の持つ可能性を確かめたかったのかもしれない。私は治療に没頭した。しかしどこかで自分のことを、後輪がパンクしたまま走りつづける自転車のように感じていた。仕切りなおしたかった。ちょうどその頃に師匠が、太極拳を教えながら治療するクルーとして世界一周の船に乗って少し休んできたらどうかと勧めてくださったのだ。

 こうしてクルーとして船旅に出ることにした私は、寄港地のダナンに着いた。そこからミーソン遺跡へと向かう。そこは古代チャンパ王国の聖なる遺跡。ベトナム戦争時にアジト壊滅をめざし、アメリカ軍によって爆撃をうけたところでもある。ジャングルのような森林に囲まれた、人里はなれた聖地。ここにも攻撃は容赦なかった。赤茶色のレンガで壁面がデザインされた建造物の多くが、無惨にも破壊され修復もされずそのままだった。太陽が直接照りつけるような晴天だったせいなのか、暑い!しかもただの暑さではない。湿気が執拗にまとわりつくのだ。たぶん、この湿度にアメリカは負けたのだ・・。木々の緑は光をあてたように輝き、鮮やかに濃淡を際だたせていた。風のかすかな摩擦音とミーンミーン、チチチ・チチチと単調に鳴きつづける虫たちの声がこだまする。時がとまりつづけているかのような遺跡にあって、自然は呼吸していたのだ。太陽は照りつけ、草はのび放題で虫がうるさいほどおかまいなく鳴いている。じっとりとする湿度がある。私は草の生えた土に腰をおろして、吹きぬける風を感じながら目を閉じた。

 

 「飛んでごらん」。この言葉に誘われて、私はどこまできたのだろう。ジリジリと肌を焦がすような暑さの中で、頬をかすめる風が心地よかった。

 

ベトナム、ミーソン遺跡にて撮影

 

前編はこちら。

garaando.hatenablog.com

 

番外編  声(前編)

 「飛んでごらん」。それは、黒茶色の長い翼を大きくひろげた鷲のくちばしから聞こえてきた。ここは小高い丘の上にある広場で、UFOがとまっていても不思議ではないほどの広さがある。その広場の端の、さらに一段高いところに戦没者の慰霊塔がそびえたっている。石でできたオベリスクのてっぺんに、その鷲がいる。あんな高い所だったら、小樽の街が、空が、そして遥かの海岸線まで、すっぽりと見わたせるにちがいない。

 夜に声が聞こえるようになったのは、この広場に来た時からだった。それは、ひしめきあって丘をのぼる、数えきれない大勢の軍人さんたちの雄叫び。オォー、オォーという低くて野太い声の大合唱。やむことのない声は、ときに祈りにも聞こえた。さらに丘のふもとの林の間を四方八方から慰霊塔を目ざして黙々と足速に歩く人、人、人の気配が加わった。「大勢の人たちが林をのぼっていくよ」と、小学2年生だった私はよく母に言った。しかしそれは私ひとりの時にしか聞こえなかったので、誰にもわかってもらえなかった。

 発せられたにちがいない声。そこにいたはずの誰か。埋もれてしまっている何か。夜になると私は、このことに心を囚われた。それまで元気に跳びはねて遊んでいた子供から、もう一人の自分へとスイッチするかのごとくに。そして眠れぬ長い夜がやってくる。運よく眠れたとして、行ったことない国の戦場や廃墟での殺戮の夢ばかりを見た。いや見たというより見せられたように思う。

 この時にはまだ、これらの体験がその後の私の人生を左右するとは夢にも思わなかったのだ。

 「飛んでごらん」。私の人生の分岐点で、またこの声が聞こえる。

 

 北京をあとにした寝台車は、西へ向かっていた。ガタンという音と大きな揺れで目を覚ました私は、窓から流れゆく景色を見ることにした。私は、仕事の都合で中国語の語学力が求められ、北京の学校へ職場から送られたのだ。授業の合間にいける所まで旅してみたいと思って私は列車に乗りこんだ。太陽がのぼりはじめ、うっすらと線路脇の土手を照らす。ポツポツと植えられた街路樹の脇で黒い影がゆっくりと動いた。熊だ!車窓から私は何度も同じような影を見た。それが太極拳をする人だとわかったのは、当たり一面に陽の光が差しこんできた頃だった。こんな朝も暗いうちから物好きだな。そういえば留学先の学校でも無料の太極拳の講座があって、クラスメートが寝ている私を起こしにきてくれていた。私は寝たふりをして、ノックの音がやむのを待った。太極拳、あんな酔狂にみえること、興味はないなぁと思いながら・・。

 

 「あなた、分析して幸せになったことある?」と、私の背中に置かれた鍼を動かしながらミツさんは聞いた。鍼の刺激で私の身体は軟体動物のようにボヨボヨとゆるみはじめ、言葉を発することができない。しかしその問いは、私の細胞に尋ねるようにコダマしていた。思えば私は、ずっと分析してきたのだ。なんのために生きているのか。死んだらどうなるのか。どうして戦争はなくならないのか。なぜこんな不条理な世の中なのかと。そして分析して分析して・・結果、私はちっとも幸せにはなっていない。そうだ、分析して幸せになったことはないではないか!薄れゆく意識の中で、決定的な何かが私の細胞に染みわたった。

 そのころの私は、休日も仕事を家に持ち帰り働きづめの日々を送っていた。時はバブルの絶頂期。子供の頃の鮮烈な記憶は幾重にも薄い膜がかかってしまい、すっかり埋もれてしまったかのように思えた。つぎつぎと押しよせるタスクに追われるのは、答えのでない問題を考えつづけるよりずっと楽だったのだ。とうとう私は身体をこわし、鍼治療にたどりついた。20代のミソラで鍼灸治療とは!そう思いつつも、鍼という底なし沼にズブズブとはまっていった。

 うつぶせになり背中に鍼が数本はいって、しばしそのままでいると、左に比べて落ちこんでいたと感じる右側の背中が、呼吸するたびに膨らんでくる。そのうちに左右差がなくなって、背中全体がボワンと大きくなった。腰に鍼が置かれると、力のない方の足に何かが流れていく。まるでクリスマスツリーの電飾に使う、コードのついた沢山の小さな電球が次々に灯り、眠っていた箇所が光で満たされるかのように。今日の身体はまぁまぁいいなと思って治療に行くと、思ってもいない所がおかしいと初めて気づく。今日はダメダメだと思っていても、意外にもバランスが取れていたりする。

 トコトン裏ぎられる頭の理解。ままならぬ私の身体と抗うことのできない体感。私が私と定義しているものの解体。すべてが初めての体験であり、小気味よかった。やがて私は鍼のトリコになった。身体のおもしろさに目覚めていくことで、私は根底から揺さぶられたのだ。もう言葉はいらない。私は、孤独を感じた時に書かざるをえなかった日記や文章を、すべて破り捨てていた。(後編につづく)

 

 

小樽にて、日露戦争後に建てられた戦没者の慰霊塔(現在の名称は顕誠塔)を撮影

雑考9 自分のパターン

 その時、母ヒサコは梨を食べていた。人は忘れられない出来事の折には、その状況の細部を妙に覚えているものだ。私の電話にでた母は、梨を食べていたのだ。話の合間に聞こえつづけるシャリシャリという音、そして口にモノを入れて話す時のこもった声。これらは、私のセッパツマッタ悩みに水をさした。母の食べてる梨は、幸水だろうか?豊水だろうか?私は、そんなことが気になりだした。

 

 さて、その時の私の悩みとは、お金にまつわることである。田舎から都会へ出て一人暮らしをしている人には、ずっと払いつづけなければならない家賃にタメイキをついた経験が少なからずあるのではないだろうか。

 就職を経て鍼灸師となり、フラフラといろいろな仕事をしながら鍼灸治療をしてきた私が40代になったある時のこと。ふと、ずっ〜と払いつづけてきた家賃がバカらしく思えてきた。いっそ小さな中古マンションでも買って、そこに住みながらヒッソリ治療しようか。こう考えて不動産屋さんへ相談しにいくと、ローンの利率が段階別に書かれている紙を渡された。一番下にある最も利率の高いローンのところに赤線が引かれていた。どうやら私が該当するらしい。「え?貧乏人が一番高い利率なんですか?」と私。「はい、申し訳ないですが、そうなります。どこか大手の企業にお勤めになっていらしたら・・。あるいは看護師さんでしたら、利率も安くて即決できるのですが・・。サカウシ様の場合は、保証人など、いろいろな審査も必要となります。」そうか・・、身分によってこんなに差があるのか!チョットやソットの違いではない利率表を見つめていたら、なんだかバカバカしくなってきた。そしてその時やっと、世の中の仕組みが身にしみてわかった気がした。真面目に働きつづけ、滞納することなく家賃を払いつづけて幾星霜。しかし世間様に通用するのは、肩書きってヤツなんだな・・。当たり前のことなのかもしれないと思いつつ、私はどっぷりと疲れを感じた。

 そしてあろうことか私は、この事実を金融界の大御所の患者さんにチョット愚痴ってみた。ずっと私を応援してくださっていたその方は、不条理な世の中をいまさらながら訴える未熟な私の話を聞いた後に、おっしゃった。「そうか、そうか。もしあなたが本当にマンションを買いたいと望み、意中の物件を見つけたなら、その時は私が保証人にもなって力になる」と。ありがたかった。もうその言葉だけで充分だ、充分すぎる、うぅ・・。

 さらに、この一連の流れを知った私の患者さんは言った。「牛ちゃん(私のこと)はね、形になるものに大きなお金を使うことがあんまりなかったのかも。いくつもの学校へ行ったり、旅したり・・。バッグとか車とかではなかったでしょ?最初に形になる買い物がマンションじゃ、チョット無理があったかもしれないね」と。そのとおりだった。さすが、長年の私の患者さん。わかってらっしゃる。私には私の流儀ってものがあるのだ。私は形のないものにこそ、大きなお金を使えるタイプだ。

 しかも私は計画してもその通りに物事が進んだことがなかった。自然に起こってくることがシリトリのように繋がって、私の進むべき道ができてきたように思う。その私に未来設計を強いるローンは似合わない。さぁここで、自分の考え方を変えるのだ。そうだ、家賃を筋トレをする時に使う負荷だと思おう。筋トレの負荷が筋肉をつくるように、家賃は私を鍛えてくれるに違いない。ならば喜んで払っていこう。

 こうして私はすっかり元気になって、チョット広めの家に引越した。気分は上々だった。

 

 しかし・・。しかしだ。いつも問題は、さらに強固になって螺旋をえがいて戻ってくる。その時は突然やってきた。それまでは同僚と2人で治療所をやっていたため、半額の家賃負担ですんだ。それがある時、1人でやることになってしまったのだ。これにより私は、自宅と治療所との完全なるダブル家賃!を払わなくてはならない。その上、私は高齢の両親とすごしながら治療もしようと思い、故郷小樽にもマンションを借りていた。えっ?!いくら筋トレの負荷といっても、ト、トリプル家賃!!

 どうなんでしょ。いくらなんでも、どうなんでしょ。しかも仕事も忙しく、引越しとか大きなエネルギーを使うだけの体力も気力もないままルーティンをこなすのが精一杯!誰か〜、この流れを止めてください。助けてください。私は本当にトリプル家賃を払うことができるのですかー??なぜこんなことに?!いったい私はどうなるの?!

 

 不安で押しつぶされそうになった私は、ついに母に電話した。だってこんなこと、他人には言えやしないもの・・。

 

 電話を受けた母は、梨を食べながら言った。「世の中をよ〜く見てごらん(シャリ:梨を食べる音)。お金っていうのは、稼ぐとか稼がないとかで回っているんじゃない。何をしているのだかわからない人でもいつも優雅に暮らしている人は、いつだって優雅だし(シャリ)、巨額の借金とみごとな返済とを繰り返している人もいる。いっつも働きづめでギリギリで暮らしている人は、何をしてもギリギリだしね(シャリ)。どうやら世の中は、なるように回っているよ。だからこれは家賃うんぬんの問題ではなく、ケイコのあり方の問題だ。いつもギリギリでもやり遂げてきたのだから、絶対に大丈夫!必ず払える!自信を持ってやりなさい!」。

 なんですか??コレ?ケナしているの?ハゲましているの?ホメてるの?私はどんどん興醒めになって、母が食べてる梨の種類が幸水でも豊水でもどうでも良くなった。どうせ今の私には”幸”も”豊”も縁がない。

 電話を切って、私は思った。母ヒサコは、自分のことはとても近視眼的なのに、なけなしの俯瞰力を結集して時々私にぶつける。優しい言葉のひとつでも期待した私が間違っていた。相手が悪かった。悔しいけれど、言われたことはチョット当たっているかもしれない。そして私は、自分のパターンについて考えはじめたのだ。

 そういえば私には気になるパターンがまだあった。学生時代から私は他の学校へも行くダブルスクール派だった。就職しつつも中国語の夜間学校へ週3回で通っていたある時、自分の習性に嫌気がさして年上の従姉妹にこう言った。「私はいっつも学校へ行っている。もうこれを最後にする。もっと別の人生があるはずだ」と。すると彼女は間髪いれずに「いるいる!そういう人。そういう人はね、ずっ〜と、ずっ〜と学校へ行くよ」と言った。「え〜!!そんなことはない。もうこれで本当に終わり!終わりだってば!」

 しかし・・。私はその後、働きながら鍼灸学校( 月〜土の18時〜21時10分 )に3年間かよい、その後も学校と名のつくところへ膨大な時間とお金、つまりエネルギーを注ぐことになる。新たな学校へ通いはじめるたびに、従姉妹の言葉が呪文のように思いだされた。「そういう人はね、ずっ〜と、ずっ〜と学校へ行くよ」と。本当だった。悔しいけれど、いまだに学校とは縁がある・・。

 

 今になって思う。私の悩みの根本は、家賃でも学校でもなかったのかもしれない。

 費やしたお金や時間を見てみると、自分のパターンが浮かびあがる。何に対して、どんなふうにエネルギー(お金や時間)を注いでいるのか。恋愛がその人の病理を浮きぼりにするように、エネルギーを注ぐところに自分のもっとも根深いパターンが潜んでいる。そしてこれが、今ある自分の現実を、良きにつけ悪きにつけ、つくりあげているのだ。

 

 家賃を払うこともなくなり、今までのような真剣さで学校に通うことからも解放されたとして、私はいったい何に対して、どんなふうにエネルギーを注いでいくのか。これからの自分が楽しみでもあり、不安でもある。

 

(後記) 

 最近になって、どうやって家賃を払ってきたのですかと聞かれることが多くなりました。そこで自分の経験を書いてみることにした次第です。開業した治療家にとって、家賃問題はとても切実なことであり苦労を笑い話にして、仲間うちでは話題にあがります。また治療家でなくともお金や時間の使い方というのは、自分を知るヒントに溢れているので、心身の健康にとっても重要なテーマといえるでしょう。

 私は、家賃を払うことで、確実に鍛えられました。足かせがあったからこそ、仕事を継続してこれたとも思います。そしてその先にはじめて見えてきた風景と出会えたような・・。また、なるようになると楽天的にもなった!案ずるより生むが易しの諺を体感した感じです。このように良かった面もありますが、もっと楽な道もあったようにも思います。結局こんな風にしかできなかったのだなぁ。。と。さすがに、トリプル家賃は、早々にダブル家賃に変更しましたが。

 それにしても自分の根深いパターンを変えるというのは、むずかしいなぁと思います。そのパターンに気づくことが、まずもってむずかしい。私は、ハッキリ言ってくれた人がいて良かったのかもしれません。

   

アフリカ大陸のナミビア、登っても登っても砂に足がとられるナミブ砂漠にて撮影 

 

雑考8 居場所

 「この部屋はガランとしているね。落ちつかなくてどこかに行きたくなってしまう」と、友人は言った。本棚と机とベッド。私がOL時代に長らく借りていた部屋にはそれぐらいのモノしかなかった。いつでもどこへでも行けるように・・。こう思っていた気がする。ここではないどこかへ。このような今ある現実との不具合な感じは、子供時代からエンエンと続いていたように思う。

 鍼灸師となった同級生たちが早々に治療所を開いていくニュースを聞くにつけ、どうして治療所を持ちたいのか私にはサッパリわからなかった。ヘタクソがバレちゃうじゃないか!ひとたび下手と認定されたなら、その評判をくつがえすのは簡単ではないだろう。とりわけどこかにドンと居を構えることが苦手な私は、風来坊のままがいいと思っていた。憧れは、鍼箱ひとつを持って世界をまわるような暮らし・・。

 その私が、同じ研修所の仲間に誘われた。一緒に治療所をやらないかと。東洋医学の世界に入ってから12年あまり、研修先の治療所へ勤めるかたわら、さまざまなアルバイトをした。派遣での入力作業、自宅での翻訳、大きな病院の隣にある青汁スタンドでの店員などなど。そして自分の患者さんたちには、出張で治療をさせていただいていた。不安定さに自由をみいだし、今を生きてる感じは性に合っていた。しかし患者さんの数がふえるにつれ、さすがに疲れてきた私は、誘われてはじめて自分の治療所を持つことを真剣に考えたのだ。

 まずは大まかな場所を決めて物件を探す。仕事が終わってから、閉まっている不動産屋さんに貼り出されている情報を見ては、気になる場所へ行ってみたりした。いろいろ探したものの、これだ!というモノに出会わない。私は考えた。そもそも自分は本当に治療所を欲しいと思っているのか。いったいそこでどんな治療をしたいのか。今まで自分が受けた、さまざまな国での、これまた数多い施術を、そしてその多様すぎる治療所の数々を思いおこしながら・・。

 また治療所を開くうえでの条件を考えてみる。駅近だけど静かで、保証金や家賃が割安で、お灸の煙のことで近隣から文句が出なくて・・。でももっと大事な何かがある気がした。自分の治療に欠かせない何かが。日本で私が行った治療院にはどこでも蛍光灯がついていた。人工的な光の下での施術だ。そうだ、光・・。私の施術所の第一条件は、昼間は蛍光灯なしでも治療できること。何はなくとも陽の光!こう決めたら、自分がしたい治療の夢が広がっていき、まだ出会えていない治療所のイメージがどんどん具体的になっていった。

 しかし一方で、太陽光がサンサンと入り、駅近で、家賃も安く、お灸の匂いや煙の苦情もでない、静かな場所。こんなところがあるのかなぁ・・。あるわけないわぁ・・。と弱気になった。それでも私たちは、その後半年にわたり物件を探しつづけた。やっぱりあるわけない。そう思ってグッタリした私は、物件の情報を送ってくれる不動産屋の社長に泣きついた。彼とは私が青汁スタンドでバイトしている時に知り合った。私に患者さんを紹介してくださったり、大変お世話になっていた方に、私は言った。「いろいろ探しましたが、店舗契約の保証金も払えなければ、家賃も無理。もうダメです!」と。すると「そうかぁ。。全部ダメか。。じゃあね、このビルの上、使うかい?店舗じゃなくて住居の契約でいいよ。つまり保証金はなしで敷金と礼金で OK だよ」との返答。「え?!」という私に、駅前にあるビルの最上階の部屋の鍵を渡してくれたのだ。にぎやかで煩雑なアーケード商店街、その中にある小さくて怪しげな門が、そのビルの入り口だった。心もとないようなエレベータに乗って最上階へ。そして部屋のドアを開けると、光が飛びこんできた。ブワッと輝くような光が。商店街の喧騒とはかけ離れた静けさの中、陽の光にスッポリつつまれた部屋があったのだ。窓から景色をながめてみても視界をさえぎる建物もなく、あるのは伸びやかに広がる大空。下界をみわたせるような、まさに別天地だった。ここならお灸の煙で苦情を言われる心配もない。

 あれから24年。3人ではじめた治療室は、私ひとりだけが残った。声をかけてもらわなければ治療所を構えることはなかったかもしれないし、あの当時私ひとりでは到底借りることができなかった物件だと思う。東北の大震災で原発事故があった後、私は内装を変えた。こんな世界であっても治療を続けるのだと思って、私も出直しを誓った。フスマには、親友のヒロリンに “希望” へと向かうような絵を描いてもらい、”Blieve in your dreams"の文言を加えた。

 

 気がつけば私は、この治療室アーツにすっかり居ついてしまった。いつしか私には自分の居場所ができていた。

 

 I love my treatment room named Arts.

 

(後記)

 「ここの植物は元気ですね。私が行っていた治療所はすぐに植物が枯れたけど・・。そこの先生は患者さんたちの邪気で枯れてしまうと言っていたのに、アーツには緑がいっぱい・・」「ここは私のオアシスなの」「この治療所には世界観がある」などなど、多くの讃辞を皆さまからいただく今日この頃です。

 そしてアーツのことを考えていたら、思い出してきたことがあったので、今回の記事となりました。

 思いだしたのは、すべての条件がかなったような物件との出会いがあったこと。こんなことが起こるのだ?!それは持ち合わせた資金が少ない私には、奇跡にように思えたのです。さらにこの後も、確率で考えたなら宝くじが当たってもいいような奇跡が、次々と起こりました。出会いは奇跡。こう、私に実感させてくれた、すべての患者さんたち、友人、先生たちに、そしてその舞台となった治療室アーツに、しみじみと感謝しつつ書きました。

 

 

午前中の治療室アーツを撮影

 

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繋がりあう世界6 生命力

 数年前に父が亡くなった。生と死との境界はなんだか曖昧だなぁと、その時私はぼんやり思った。死んだはずの父の身体は、人肌ほどの暖かさがあるように感じたし肌艶もよかった。爪や髭も伸びる(体内の乾燥により身体が小さくなって伸びたようにみえるという説もあるが)。父の死は緩慢に思えた。

 そもそも死とは、生物学的にどのように定義されているのだろう。心肺停止を死と定めてみても、AEDや人工呼吸などの心肺蘇生法で息をふきかえす場合も多いのだから、早々には決められない。脳死を死と認定するかどうかについても、大変ナイーブな問題だ。また脳死の場合に臓器が移植できるとされている点をみても、脳という局所におこった死は、他の臓器の死までにはいたっていないことになる。つまり私たちがひとつの身体と思っている自らの肉体は、さまざまな生命のより集まりにちがいない。

 心肺が停止して酸素と血液が全身にまわらなくなると、他の臓器や細胞はしだいに代謝できなくなって、やがて活動はとまる。ひるがえっていうならば、酸素や血液といった繋がりさえあれば多くの生命は生きつづけるのである。それゆえ脳死と判定された場合に取りだされたある臓器は、別の肉体でのさまざまな組織との間に関係をきずけたなら、再生できるのだ。ウシやブタの生体弁が人間の心臓に用いられるのだから、種をこえてさえ移植ができる時代になってしまった。移植や再生医療の成功は、その場における繋がりができるかどうかにかかっているように思える。

 また体内にある臓腑(臓とは肝・心・脾・肺・腎の実質的な組織を、腑とは胆・胃・大腸・膀胱といった中空の器官のこと)の一部が失われた場合はどうだろう。病気で胃を全滴した場合も、個人差はあるものの、ある程度の時間の経過とともに食物を消化できるようになる。脾臓や腎臓の片方などを切除してもそれなりに修復されていく。声帯の神経が切れて声がでなくなってもその半年後にはカラオケで歌が歌えるようになった症例もあるし、膝の半月板がなくなっているが支障なく生活していらっしゃる方もいる。主要だと思われる臓器や組織をなくしたとしても、働きは緩やかに復活する。形は失えどその機能は回復していくのだ。

 ひとつの個体と思っている私たちの肉体は、大小さまざまな生命体の共生の場であり、多くの生命が複雑に繋がりあっている。そしてこの繋がりこそが、身体をひとつの個体として成り立たせているにちがいない。

 こんなことを考えていたら、経絡こそ、臓腑をつなぎ合わせている体内をめぐるネットワークだと閃いた。そういえば胃を全滴した方たちは、胃の経絡(特に膝から足首まで)に力がないことが圧倒的に多いし、心臓弁のオペがうまくいった方は心臓にかかわる経絡(心経と心包経という経絡。腕に流れている)の反応がすっかり改善されていたこともある。

 自らの身体をひとつの個体として成り立たせている繋がり。私は血液や酸素、その他の細胞レベルでの繋がりのみをイメージしてしまっていた。狭い部分にとらわれていたのだ。そうだった。もっと大きな、あるいは別次元の繋がりもあるはずだ。細胞レベルの繋がりのみならず、気の通り道である経絡という繋がりなど、まだまだ生命というものの持つネットワークははかりしれない。

 

 多くの生命が結集した我らの身体。それらを繋ぐものこそ、生命力の根源なのではないだろか。

 

(後記)

 2000年頃から量子力学やエネルギー医学といった分野が注目されてきています。実は鍼灸エーテル体とよばれるエネルギー体をあつかう治療です。エネルギーオタクのように気の観点から物事を見るように実験している私が、時としてすっかり近視眼的な発想にまだまだ縛られているのだなぁとこの記事を書きながら感じました。人体とは、いくつものエネルギーのレイヤーをまとい、外界に対しても体内においても、たえずエネルギー交換をしている有機体と思っていたのに・・。

 東洋医学をはじめ、こういった分野がもっともっと研究されていくことを切に願いつつ、私も精進していきたいなぁとあらためて思っています。

 

 

 

太平洋と大西洋を繋ぐ、全長82kmのパナマ運河を明け方に船上から撮影。3段階の閘門を作り、船の水位を上下させて通航させる方式の運河。

 

気については、こちらを参照

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経絡については、こちらを参照

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