あれは、カウンセリングの帰り道でのでき事だった。
その当時の私は、エネルギーワークを学ぶ学校に通っていて、そこの規定もあり月に2回はカウンセリングに通っていた。
その帰り道を歩く私に、ふいに襲ってきた強烈な感覚。
「私は、自分をはみだすことできない」。
家族や友人、異性や上司といった様々な人間関係で悩んだり、怒ったり、悲しんだりする度に、いつも同じところにたどりつく。
なぜ、父(母)はあんな事を言ったのか。
傷つかないフリをして、どれほど自分を守ってきたのか。
そしてどれだけ自分で世界を歪めてきたのか。
なぜ彼(彼女)は、そんな事をするのか。
なぜそのように私は感じるのか、思うのか。
どうして私は、そこに反応するのか。
そして世界は、なぜこんな風にしか進んでいかないのか。
あげく、突然私に舞い降りた言葉。
「あなたは何をどうやっても自分をはみだすことができない」と。
もし私が自分をはみだして、すっぽり別の人の身体の中に入り、
彼(彼女)の感覚器(目、鼻、耳、口、皮膚、頭など)を使って世界をみてみたら、
その世界はピタリと整合性がとれているのだろう。
そしてそこには、私が見たことも感じたこともないような、
自分がみているのとは全く異なる世界がひろがっているに違いない。
たぶん見ている色さえ違う。
聞こえる音すら変わる。
きっと世界は全然違う。
そう、私は自分の世界しか感じることができない、限られた「部分」なのだ。
東洋医学には、部分から全体をとらえる見方がある。
足裏には身体のすべてが集約されている。
耳は胎児が母体にいる時の形をしていて、身体のあらゆる器官に対応している。
舌の部位や状態によって、内臓の状況が読みとれる。
目や爪を観察すれば、肝臓のありようが見える。
お腹の特定の部位は、各臓器を映しだす。
脈をとってみると、五臓六腑の状況がわかる。
人体は小宇宙であり、宇宙と一体である。。など、など。
部分は全体の縮図となり、時に層となる。
全体は部分に凝縮される。さらに部分へ、部分へと層をなす。
まるでマトリューシュカ人形のように。
<例:たとえば、人間の身体を役割別に3つに分けてみます。頭・躯体・四肢に分類できるかと。さらに頭部を3つ(額・目鼻・顎)に、躯体も3つ(中医においては、[上焦]じょうしょうといい「心と肺」・[中焦]ちゅうしょうといい「脾と胃」・[下焦]げしょうといい「腎・膀胱・大腸・小腸」)に分けられます。下肢(脚)も大腿・下腿・足と3つに分類できます。手はそれ自体で身体全体の縮図となっていますが、上肢(腕)全体に視点を移して3つに分類すると上腕・前腕・手となり、手はひとつの部分にすぎません。つまり特定の部位は、視点を変えることにより、全体をしめす縮図にも、より大きな部位における部分にもなるのです。>
<注:西洋医学と東洋医学の比較において、西洋医学は分析的であるのに対し、東洋医学は全体的であるといいます。西洋医学においては、病因を細部(細胞や遺伝子など)に求めて分析し、画像や数値といったデータに変換します。一方東洋医学では、身体全体の流れとして病因をとらえ、全体から部分(患部)をみます。さらに、上記のような部分から全体をみるといったベクトルもあり、この双極を重ねてみるのが東洋医学の特徴といえるでしょう。東洋医学が全体的であるという意味は、この2つの方向性を同時にあわせもっていて、層をなす身体に視点を変えてむきあうという意味です。ぼんやりボヤボヤ大雑把というわけではありません。>
部分と全体の相関性に疑いはない。
しかし、部分には限界がある。
部分は全体を把握できない。
はみだす術のない私は、私をとりまく世界のすべてをみることはできない。
自分の背中を見ることができないように。
自分自身とは、鏡をとおしてしか対面できないように。
占い師が自分の未来だけは占えないように。
どれほど自我をクリアにできたとしても、俯瞰(ふかん)という視座に終わりはない。
そして私の細胞が、組織が、耳が、足裏が、臓器が、
私の身体の部分のように、
それらの総体としての私という個人もまた、
まぎれもなく、この世界のとるに足らない大きさの、
それでも確固たる一部分に違いない。
窓辺におかれた植物が、
こぞって太陽の光の方向に枝を伸ばし葉を広げるように、
それぞれが自分の信じる光の方へと伸びている。
その個々人の力のすべてを内包して、
総体としての全体はどこかに向かうのだ。
家庭が、会社が、社会が、そして世界がどこかへと。
人間の未知である能力が次々と開発されて、より万能感を感じる未来がくるのかもしれない。
そのことに期待もする一方で、
自分は全体を理解できないのだと思いしる時、
万能感は影をひそめ、ちっぽけな自分に安堵する。
「自分をはみ出すことできない」と、強烈な示唆を受けた時から、
私はちょっと楽になった。自分の失敗を責め続けることが少し減った。
だって、私は部分だもの。
あれ以上はできなかったのよ。
そして自分を責めることが少し減ったら、他人を責めることも少し減った。
だって、彼(彼女)も部分だもの。
しかも私とは違う部分だもの。
きっとすべては総和で動いていくんだから、それでいいじゃない。
人間関係でへこんだ時は、自分は部分にすぎないのだと思いだしたい。
ジャッジ(誰かを裁いたり、正誤をつけること)をしないとか、
多様性を認めるとか、
本当の意味で、
自分にはどうにも超えることができないと思っていた壁が低くなるような、
そんな小気味よさがある。
クロアチア、ドゥブロヴ二クの道端にて撮影