“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

部分な私 その1(ちっぽけ編)

あれは、カウンセリングの帰り道でのでき事だった。

その当時の私は、エネルギーワークを学ぶ学校に通っていて、そこの規定もあり月に2回はカウンセリングに通っていた。

その帰り道を歩く私に、ふいに襲ってきた強烈な感覚。

「私は、自分をはみだすことできない」。

 

家族や友人、異性や上司といった様々な人間関係で悩んだり、怒ったり、悲しんだりする度に、いつも同じところにたどりつく。

 

なぜ、父(母)はあんな事を言ったのか。

傷つかないフリをして、どれほど自分を守ってきたのか。

そしてどれだけ自分で世界を歪めてきたのか。

 

なぜ彼(彼女)は、そんな事をするのか。

なぜそのように私は感じるのか、思うのか。

どうして私は、そこに反応するのか。

そして世界は、なぜこんな風にしか進んでいかないのか。

 

あげく、突然私に舞い降りた言葉。

「あなたは何をどうやっても自分をはみだすことができない」と。

 

もし私が自分をはみだして、すっぽり別の人の身体の中に入り、

彼(彼女)の感覚器(目、鼻、耳、口、皮膚、頭など)を使って世界をみてみたら、

その世界はピタリと整合性がとれているのだろう。

 

そしてそこには、私が見たことも感じたこともないような、

自分がみているのとは全く異なる世界がひろがっているに違いない。

たぶん見ている色さえ違う。

聞こえる音すら変わる。

きっと世界は全然違う。

 

そう、私は自分の世界しか感じることができない、限られた「部分」なのだ。

 

 

東洋医学には、部分から全体をとらえる見方がある。

足裏には身体のすべてが集約されている。

耳は胎児が母体にいる時の形をしていて、身体のあらゆる器官に対応している。

舌の部位や状態によって、内臓の状況が読みとれる。

目や爪を観察すれば、肝臓のありようが見える。

お腹の特定の部位は、各臓器を映しだす。

脈をとってみると、五臓六腑の状況がわかる。

人体は小宇宙であり、宇宙と一体である。。など、など。

 

部分は全体の縮図となり、時に層となる。

全体は部分に凝縮される。さらに部分へ、部分へと層をなす。

まるでマトリューシュカ人形のように。

 

<例:たとえば、人間の身体を役割別に3つに分けてみます。頭・躯体・四肢に分類できるかと。さらに頭部を3つ(額・目鼻・顎)に、躯体も3つ(中医においては、[上焦]じょうしょうといい「心と肺」・[中焦]ちゅうしょうといい「脾と胃」・[下焦]げしょうといい「腎・膀胱・大腸・小腸」)に分けられます。下肢(脚)も大腿・下腿・足と3つに分類できます。手はそれ自体で身体全体の縮図となっていますが、上肢(腕)全体に視点を移して3つに分類すると上腕・前腕・手となり、手はひとつの部分にすぎません。つまり特定の部位は、視点を変えることにより、全体をしめす縮図にも、より大きな部位における部分にもなるのです。>

  

<注:西洋医学東洋医学の比較において、西洋医学は分析的であるのに対し、東洋医学は全体的であるといいます。西洋医学においては、病因を細部(細胞や遺伝子など)に求めて分析し、画像や数値といったデータに変換します。一方東洋医学では、身体全体の流れとして病因をとらえ、全体から部分(患部)をみます。さらに、上記のような部分から全体をみるといったベクトルもあり、この双極を重ねてみるのが東洋医学の特徴といえるでしょう。東洋医学が全体的であるという意味は、この2つの方向性を同時にあわせもっていて、層をなす身体に視点を変えてむきあうという意味です。ぼんやりボヤボヤ大雑把というわけではありません。>

 

部分と全体の相関性に疑いはない。 

しかし、部分には限界がある。

 

部分は全体を把握できない。

 

はみだす術のない私は、私をとりまく世界のすべてをみることはできない。

自分の背中を見ることができないように。

自分自身とは、鏡をとおしてしか対面できないように。

占い師が自分の未来だけは占えないように。

 

どれほど自我をクリアにできたとしても、俯瞰(ふかん)という視座に終わりはない。

 

そして私の細胞が、組織が、耳が、足裏が、臓器が、

私の身体の部分のように、

それらの総体としての私という個人もまた、

まぎれもなく、この世界のとるに足らない大きさの、

それでも確固たる一部分に違いない。

 

窓辺におかれた植物が、

こぞって太陽の光の方向に枝を伸ばし葉を広げるように、

それぞれが自分の信じる光の方へと伸びている。

 

その個々人の力のすべてを内包して、

総体としての全体はどこかに向かうのだ。

家庭が、会社が、社会が、そして世界がどこかへと。

 

人間の未知である能力が次々と開発されて、より万能感を感じる未来がくるのかもしれない。

そのことに期待もする一方で、

自分は全体を理解できないのだと思いしる時、

万能感は影をひそめ、ちっぽけな自分に安堵する。 

 

「自分をはみ出すことできない」と、強烈な示唆を受けた時から、

私はちょっと楽になった。自分の失敗を責め続けることが少し減った。

 

だって、私は部分だもの。

あれ以上はできなかったのよ。

 

そして自分を責めることが少し減ったら、他人を責めることも少し減った。

 

だって、彼(彼女)も部分だもの。

しかも私とは違う部分だもの。

きっとすべては総和で動いていくんだから、それでいいじゃない。

 

人間関係でへこんだ時は、自分は部分にすぎないのだと思いだしたい。

ジャッジ(誰かを裁いたり、正誤をつけること)をしないとか、

多様性を認めるとか、

本当の意味で、

自分にはどうにも超えることができないと思っていた壁が低くなるような、

そんな小気味よさがある。

 

 

f:id:garaando:20170928004202j:plain

クロアチア、ドゥブロヴ二クの道端にて撮影

 

恩寵 その1(モーレア島編)

太平洋に浮かぶ島、タヒチ。そこから30分ほどフェリーに乗ると、モーレア島という島に着く。当時私は、95日間世界一周の船(ピースボート)に乗り、治療クルーとして働いていた。

 

船で不調な方を治療するのが仕事なのだが、たぶん私が誰よりも船酔いをしていて、いつもフラフラしていた。ずっと船で揺れているせいで、寄港地について陸地を歩いても、今度は陸酔い(オカヨイ。揺れていないのに揺れている感じ)に見舞われる。この際だ!と思って、それほど好きでもないお酒も飲んでみて、酔いの2乗でシラフにならないかと何度も試しているうちに、世界のビールやカクテルの種類をいつのまにか覚えてしまった。そして更にフラフラしていた。

 

こうしてフラフラの私は、ただただ揺れない大地での睡眠を夢見て、誘われるままに、このモーレア島にたどり着いたのだ。

 

島に着くと、仲間の外国語の先生達(欧米人)7、8名が、コンガやジャンベをはじめ、なにやら身体で抱えるほどの大きな太鼓を持って、ジリジリと音が聞こえそうな炎天下の中を鼻歌まじりに歩いていった。ひどく暑そうだった。

 

そんな彼らを眺めつつ、私はリュックひとつを軽々と背負い、木陰のバス停で涼しげにバスを待つ。しかしバスは全く来ない。40分待っても。誰かに聞きたくても人もいない。私達が予約したコテージはどこなのかと思い、住所が書かれた小さな紙のきれはしを探した。そこには、通り過ぎていった先生達の誰かが書いてくれたアルファベットの住所らしき文字が書かれていた。しかし。。その文字は全く解読不能だったのだ!

 

このままバスも来ず、日が暮れたらどうするのだ?異国の地での不安は、一気に膨れあがり底なしとなる。祈るような気持ちで待っていると、やっとバスが来た。なんでも島を1周するという。拉致のあかないこの場所を離れるために、とにかくバスに乗り込んだ。

 

バスの窓から汗だくで太鼓を抱えつつも、楽しげに歩く欧米人の先生達の、かげろうに揺れる後ろ姿を見つけた時は、心底ホッとした。そこでバスを降ろしてもらい、彼らの後を歩くことにした。

 

やっとたどり着いたそのコテージは、コンクリートでできた8畳1間位の質素な平屋だった。回りに商店はほとんど見あたらず、たった一軒ある小さな店は閉まっていた。道には裸電球が2個ぶら下がっていたが、ひとつは割れており、もうひとつだけが心もとなげにうっすら灯っていた。まだ夜の6時というのに、あたりはほとんど真っ暗だった。

 

何もすることがない。

うす暗い部屋の中でリュックをおろしながら、私はそう思った。一緒に部屋をシェアする友人達も「もう寝るしかないね」と言った。

 

横になっても時間が早すぎて、オナカもすいていて、全然眠れない。

 

それでもジッと辛抱していたら、どこかから太鼓の音が聞こえはじめた。

ひとつのリズムに更なるリズムが加わって、次々に響きわたる様々な音。

そのリズムに更に加わる声。

 

彼らだ。

私達は飛び起きて、野外へくり出した。

真っ暗で足下すらもまったく見えない。

少しずつ、少しずつ、手探り足探りで、音だけをたよりに歩いた。

10メートル位歩いただろうか。平地はとぎれ、どうやら段差がある。その段差の淵に腰をかけて、おそるおそる足をのばす。そっと地面についた足裏からは、暖かくサラサラとした砂の感触が伝わってきた。

そこは砂浜だった。

真っ暗ではあったが、海の匂いと優しい水の音がした。

そして少し遠くの砂浜に、小さな炎を灯しながら太鼓を叩き、歌いながら踊る彼らがいた。

 

私は砂浜に大の字に身体を横たえ、目を閉じて太鼓のリズムと声を聞いていた。

真っ暗な中に響き渡る音、歓声や拍手。

闇の中で聞く音は、音の持つ迫力をさらに際立たせる。

身体の細胞のすみずみにまで届く響き。

 

彼らはこのために、わざわざ重い太鼓を運んでいたのだ。

楽しむために惜しみなく注がれるエネルギー。

ただ楽しむためだけに。

私はといえば、楽な方ばかりを選ぶクセがついていて、喜びが少ないことにもマヒしていた。

太鼓の音は、私にすっかり忘れてしまっていた感覚を思いおこさせた。

そして、とめどなく湧きあがる感情。

 

どの位たったのだろうかと我にかえって、目をあけてみる。 

そこにあったのは、深い闇夜の天空。

その天空をバックに無尽の星たちが大小の光を放つ。

そしてどんどん見える星の数が増え続ける。

真っ暗だと思っていたことが不思議に思えてきた。 

こんなにも明るい空だったとは。

ちりばめられた無数の星が、毛布のように私を包んでくれる感じがした。

ベルベットの生地のような、奥行きのある深いブラックの優しさ。

その深い闇が際立たせる光の世界。

 

それは、

闇と光が織りなす、

この世をあまねく包み込む、

途方もなく壮大な大伽藍だった。

 

そう感じた時、すべてが振動し、回りはじめた。 

私の身体の細胞が。

あふれでる感情も。

そして大伽藍の天空までもが泰然と回る。

 

回りながら堕ちていく自分。 

死とは、こんな感じ。

深い安心の中で、大いなる世界へと還っていく。

 

私を含むすべての世界が回りはじめるのと同時に、

直線的時間はとまった。

 

大伽藍は、時(トキ)すらもその中に折り込んでしまい、今(イマ)だけを生む。

 

同じ空間でありながら、昼間とは全く違う世界に私はいた。 

こんな近くに、これほどの世界がある感動に酔いつづけた。

  

夜明けとともに、

太陽がのぼりはじめる。

目を閉じていても光を感じる。

身体の細胞も明るさを感じる。

 

そして目をあけてみると、

そこは楽園だった。 

 

f:id:garaando:20170517234606j:plain早朝のモーレア島にて撮影

 

<後記>

この後、気がついてみると私の身体の不調(腰痛、腕の痛み、フラツキなど)は、すっかり治っていました。

生まれ変わったかのような身体と心。

 

これまで何か病気になると、自分の中の自然治癒力を発揮しようと思ってきたのです。しかし。。

自分の中にある何かをなんとか頑張って発動させるよりも、自分自身が大自然の部分(パーツ)になってみる。

すると大いなる源の力(ソース)が自分に流れはじめる。

このことを、この体験で実感しました。

 

癒える(be healed)の heal の語源は、ギリシャ語のholos(whole)に由来しているといいます。

つまり、癒えるとは全体になること。

そして持論ですが、その時の鍵は、感情(ハート)を開くことにあるのだと思っています(この事については、またいつか)。

 

大いなるものの慈愛の中に、

置き去りにした感情を感じながら、

時を忘れるほどに、

浸ってみる。

 

こんな体験を時々できたなら、

私は、

そして私をとりまく世界は、

もっと優しくなれるに違いありません。

 

バイオエナジェティクス(隣人編)

でっぷりと太った、それほど背が高くないその男性は、手に持った飛行機の座席番号の紙と機内の表示とを確かめつつ、ゆっくりと進んできた。

 

なんとなくの予感は的中した。

彼は私の前で立ちどまり、小声で「すみません」と言ったのだ。通路側に座っていた私は、たちあがって隣の席に彼を通す。窓際には小太りの男性がすでに座っており、真ん中のシートに彼。そして通路側に私だ。

 

よりによって真ん中とは・・。座るやいなや彼は、前席の背もたれについているテーブルをセットして、厚さゆうに7、8㎝はある分厚い本を開いて置き、そこに両手のひらを乗せている。どうやら本を読んではいない。

 

私は、彼のこの行動に面白さを感じた。彼の腕が隣人の領域にはみ出さないためにとっている策に思えたからだ。実際この行動により私のスペースへの侵入は、ギリギリのところで食い止められている。

 

離陸が近くなると、乗務員からテーブルを戻せとの注意がはいる。腕の置き場がなくなった彼は、腕を組んで(といっても腕が太くて組めない模様。右手の平で左の肘を、左手の平で右の肘をグッと持って)対処した。

 

飛行機が離陸し安定飛行に入るやいなや、彼はまたテーブルをセットし分厚い本を広げ両手を本の上にのせた。彼の両肩はアゴのあたりまであがっており、肩関節は内側にはいって肘は伸びている。腕全体に力が入っていて固まっているように感じられた。

 

さて私はというと、一連の彼の行動が気になって気楽な時間を楽しめない。せっかく一人での移動を楽しみにしていたはずが・・。

誰に気を使うこともなく、音楽を聞くも、本を読むも、景色を見るも、眠るのも良し!そうやって無為にすごしたり、ボンヤリできる気ままな一人旅が好きなのに。

 

小学校の頃、学校から帰った私は、歩いて5分位の所にある公園へ毎日のように行った。

鉄棒にカーディガンを巻いて、片膝を鉄棒にかけ、その膝を抱えるように両腕を鉄棒にくぐらせ、膝小僧の所で左右の指を組み、そこを支点にして身体全体で回転する。さらには両膝を抱えこんで回る。

とにかく回った。

まるで永久運動がこの世にあるのかどうかを確かめるかのように。

100回、200回、・・500回・・と。

 

薄れゆく意識の中でボンヤリするのが好きだった。

世界と自分が一体になる感じがした。

欲しい洋服といえば、鉄棒に巻ける厚手のもの。

 

膝裏と両肘の内側にできる内出血の大小の赤い点々が、自分の勲章のように誇らしく思っていたあの頃の話だ。

そして私は小学校高学年で心臓肥大となり、何度も病院へいくことになったのだった。

 

そうだ。

あの頃から、自分が置かれている現実から遠ざかり、ボンヤリと無為に過ごす時間が私には必要だったのだと、飛行機の狭い座席の中でハタと気がついた。

 

さて問題は今だ。

この逃れられない状況の中でどうしたらのいいのだろうか。

「置かれた場所で咲きなさい」ー書店でみかけただけの本のタイトルがふと浮かび(中身を読まなくても全てを読んだ気持ちになれるこの本は、スゴイと思います。読まずにいうのも何ですが・・)、どうせなら現在の私の状況を楽しく調べてみようと心を決めた。

 

私が気楽に楽しめない理由はこうだ。

私のスペースは目に見えては保たれているものの、明らかに彼のエネルギーフィールド(オーラ、あるいは彼をとりまく「気」)が私のそれとかぶさっており、しかも窓際の彼も小太りなので、自分の右側が彼らのエネルギーで、ひどく押されている。

自分の中心軸をみてみると、正中線からはっきりと左にずれていて、身体右半分の流れが悪く、すっかり固まってしまっているのだ。

乗馬をする人や道具を使うスポーツ選手とか、楽器を演奏する音楽家達は、その目的にあわせて、自分を含む全体としての中心軸を作りなおすという。

私もちょっと試してみようかと思ったが、見ずしらずの隣人を含めて自分の軸をとるのは、あまりに変だ!いい加減にしなさい、自分!とカツも飛ぶ。

 

たぶん隣の彼は充分に気をつかってくれている。しかし気をつかわれればつかわれるほど、そのエネルギーは伝播して私も固まる。

そうなのだ。「気」は天地万物の感応を媒介するという性質があるのだから、否が応でも伝染してしまう。

 

そしてそのうちに彼は寝た。肩をあげたまま、腕を硬直させたままで・・。

 

少しホッとした私は、この心優しき隣人を、バイオエナジェティクスという方法論(ウィリアム・ライヒの流れをくむアレキサンダー・ローエンが確立した心身相関のセラピーの手法)を使って、観察してみた(本当に余計なことです。名も知らぬ彼よ、お許しください)。

 

バイオエナジェティクスによると、彼はマゾキスト(俗にいわれる「マゾ」とは意味が異なり、性格構造を示す5つの分類のうちのひとつの呼び名)という型に分類される。

 

せっかく?なので、説明を少し。

 

マゾキストの身体的特徴は、背は比較的低く、分厚い筋肉で覆われた、でっぷりした身体だ。

 

生命エネルギーは、充分に充電されているものの、抑制がきつく発散や解放ができずに停滞し内向している。

 

身体の動きも制限され、自分を広げたり、伸ばすことが難しく、手を差しのべるといった行動もスムーズにできない。そのため、より一層身体がしまって短小・硬直化に向かう。

 

またエネルギー的な防衛として、さらに身体に肉をつけて自己を守る。

 

心理的には、厳しい抑制のため自己主張が制限される。その代わりに泣き言や不平が多く、攻撃性は奥へ奥へと追いやられる。時に暴力的、爆発的な攻撃性をもつこともある。

 

原因としては、支配的で犠牲的な母親と受動的で服従的な父親の家庭で育つとされる。

 

子供は窒息し、自由な表現が許されない。

 

このタイプが統合されるには、抑圧された感情の解放が必要。

(参照:「バイオエナジェティクス」 アレキサンダー・ローエン著)

 

ざっくりマゾキストの身体的特徴からエネルギーの使い方などをひも解くと、こんな感じだ。

 

もし彼が私にそれほど気遣うことなく、私のスペースへとはみ出るほどに肩を落として、腕を緩めることができたなら、きっと彼はもっと生きやすいに違いない。

彼の優しさに感謝しつつも、そう思ってしまった。

 

そしていつしか私も眠りに落ちた。

 

やっと飛行機は目的地に到着。私は立ち上がり、頭上に納めたキャリーケースをおろそうとすると、件(くだん)の彼が手をのばし、床におろしてくれた。手はのびる。

 

彼はきっと統合されたマゾキストタイプの、心優しき人に違いない。

 

キャリーケースを引きながら、早足で出口へ向かう。

 

結局、昔を回想しながら、ボンヤリすごすことができたのだと思った。

 

やはり、ひとり旅は悪くない。

 

アーキタイプとして観察させていただいた隣人に感謝をこめて)

 

注:バイオエナジェティクスによる性格構造の分類は、分析して判断するためのものではなく、身体と心の関係を知り、よりよい統合の手段をみつけるためのメソッドである。

 

f:id:garaando:20170418132800j:plain

キューバハバナのパン屋さんにて撮影)

 

 

記憶(酵素編)

巷で話題の酵素作りに、昨年からどっぷりとハマってしまった。何十種類もの果物や野菜、ハーブを白砂糖につけこみ、朝晩2回、自分の手でソッと混ぜる。私オリジナルの常在菌を含み、柔らかく湿った砂糖漬けの果物と野菜たちは、ほどよい温度で発酵しはじめ、3日〜1週間くらいでポツポツと小さな泡を放つ。上白糖は、そのツンとくる尖った甘さからまろやかな味へと変わりつづけ、ついにはトロミのある濃厚な液体となる。

 

砂糖が溶けてできた液体の中に浮かぶ、3センチ角の大きさの青パパイヤとパイナップル、リンゴやオレンジ、パプリカや薬効あるハーブ、キャベツやカボチャといった色鮮やかな個体たち。そこからは息をしているかのように大小の泡がいっぱい放たれている。この個体と液体とがまざりあった全てを網やザルで濾して、はれて液体のみの上質酵素が産声をあげるのだ。

 

この濾過する作業は、真夜中に、しめやかに、儀式めいて行われることが多い。無心になれるからだ(こういうの、私の趣味です。仰々しくてごめんなさい)。先日も、この作業をしていてふと思った。

 

はたしてこの濾過する網は、何と何を分けているのか。

果物・野菜などの個体と酵素となるべき液体、どっちが本体なのだろう。

さらに、ぬか床にも想像がおよぶ。ぬか床とぬか漬け、どっちが大事なの?

 

さて、私は仕事柄、患者さんの人生の総括や断片を聞かせていただく貴重な機会に恵まれている。

恋愛や結婚、出産、そして仕事の成功などの喜びあふれる思い出。また離婚や別離、事故、仕事の失敗や借金、そして愛する者の病気や死といった悲しく、辛い出来事。

子育てが終わった時、退職された時、病気になった時、そして死が近づく時など、「私の人生は何だったのか?」とつぶやく方も少なくない。たとえそれが、他人の目には順風満帆で恵まれた人生のように映っていたとしても。

こうして振り返りつつ、大きな節目での出来事で語られる過去。

  

もしこれを文字で綴ったのならば、たったの2、3行で書きつくされてしまうかもしれない。それぞれの方の生の重さに比して、あまりに簡単すぎるような割り切れなさが、時々私に残る。

 

印象的な出来事で語られる過去。

過去の鮮明な記憶。

 

これに対して、記憶には残らない、それ以外の無尽にあるであろう日常の小さな小さな出来事は、いったいどこにいってしまったのだろう。

 

時間枠にとらわれない、ささいで、とるにたらない事象。

時間枠をすりぬけてしまった、記憶にすらのぼらない、忘却の彼方へと流れでた膨大な事柄たち。

 

酵素を濾過させる網は、人の記憶と忘却の境目なのかもしれない。

記憶とは、この網の上に残った果物や野菜たち。

時間という網の上に引っかかってしまった出来事たち。

未だに記憶という制限に囚われて、時間枠から自由になれない様々な事柄。

 

人生の本体は、実は記憶ではない、この忘却の彼方の方にある。

 

忘却の彼方・・・。

たぶんそれは、

朝露に濡れた草が、朝日を浴びて一層の輝きをます、眩いばかりの緑色だったり。

激しく降り続ける雨が、屋根からつたって地面を叩きつける音だったり。

真冬の晴れた朝に吐く息が白くなる、そんなピリリとした寒さだったり。

異国の大聖堂の中で味わう、自分がひろがるような空気感だったり。

 

あるいは、

通りすぎていった幾千、幾万もの風景。

もわっと拡がった排ガスの、息がつまるような臭い。

かすかにそよいだ風。

ただうるさいだけの、あるいはうるさいとも感じないほど当たり前の、猥雑な街の喧噪。

 

そしてまたあるいは、

意味すら、感覚すら見いだせぬ

単なる心臓の律動。

私の中で起こった小さな振動、微震。

生物としてのかすかな蠢き、揺らぎ。

 

忘却の彼方へと流れた膨大な事柄の中に、私の人生の本体がある。

 

その昔、このことを教えてくれた私の師は、こう言った。

「荷造りをする時、送るべきいくつかの品物ではなく、その間につめるプチプチやらクシャクシャと丸めた新聞紙こそが、あなたの人生なのだ」と。

 

間(マ)をツメるモノ、それこそが本体なのだ。

ツメモノこそ、我が人生。

 

そう思って、できあがったばかりの酵素を飲んでみる。

果物や野菜のエキスがぎっしりつまったツメモノの酵素

その酵素の生きたエネルギーが、私を成り立たせている身体というツメモノの中に、いつにも増して一層しみこんでいく感じがした。

 

<後記>

これを書いていたら、忘れていた昔の記憶が、ぼんやり蘇りました。

とても面白かったはずの本(なんと内容はすっかり忘れてしまった!)のことを。やっと思い出した、その表題は「日々の泡」(ボリス・ビィアン)。

 

 

f:id:garaando:20170225010404j:plain

酵素材料の一部を撮影)

 

 

 

 

 

 

 

信を築く (ノーシャンプー編)

「私ね、ノーシャンプーにしたの!」と、経皮毒(皮膚から浸透し体内に蓄積され、人体に悪影響を与える化学物質等の総称)に詳しいオシャレな友人が、サッラサラでツヤッツヤの髪をかきあげながら私に言った。なんでも15分以上、頭皮をよくよくマッサージしながら、お湯で毛根の油を流しつづけて頭を洗うのだという。もちろんシャンプーもリンスもなし。

 

私の腕と手は、治療家という仕事柄、慢性的に使い過ぎだ。手の疲れをとることを何よりも心がけているのに、その夜の私は違った。お風呂に入ると、私の持てる技術を総動員して、頭皮を15分以上マッサージしながら、教えられたとおりに頭を洗いつづけた。そしてその後湯船につかる。ふうぅ。。いつにも増してグッタリしながらボンヤリ思う。何をしているのだ、この自分。はたして私にノーシャンプーを継続できる体力はあるのだろうか。ヘアマニュキアはどんどんはがれ落ちるに違いない。不経済ではないか!と、やらないですむ理由がふっと浮かぶ。

 

しかし。。たかがシャンプーだが、実は大問題なのだ。最近は、産まれてくる赤ちゃんがシャンプーやリンスの匂いがするほど、羊水まで化学物質にまみれているという説もあるのだから。そして実際、頭皮の痒みや身体の湿疹、皮膚炎に悩む患者さんがかなり多く、シャンプーやリンスを変えて症状がなくなったり、軽減するケースもある。重曹と塩をまぜた粉をシャンプーがわりに使うのがちょっと前までのオススメだったのに、とうとうノーシャンプーときたか!「押してもダメなら引いてみな」、世渡り上手の極意を示すフレーズがこだました。

 

私は、治療家になって以来、食品はもとより化粧品、歯磨き粉や入浴剤などの日用品から寝具に至るまで、評判のいい情報が入れば試さずにいられなくなってしまった。そして、たまに患者さんにも無理強い?をして試してもらったりして、どこに発表する訳でもないデータをコソッと集めたりしているのだ。自分でもアキレマス。。。(たぶん渋々こんな私につきあってくださっている患者さん達も多いかと思いますので、この場をかりてお詫びします。ゆるしてください。)

 

それにしても巷には、健康法や美容グッズや若返り法の情報が驚くほど氾濫している。これほど健康やら美容やら、自分自身にベクトルを向ける社会は、はたして幸せなのだろうかとも時々考えてしまうが、環境も環境だ。放射能も花粉もPM2.5も、そして黄砂とやらも、容赦はしない。

 

ガンなどの病気についての治療法も、病院の3大療法(オペ、抗がん剤、重量子線やトモセラピーなど多種の放射線)の他に、高濃度ビタミン点滴療法、ビタミン・ケトン療法、オゾン療法、ハスミワクチンやHITV療法などの免疫療法、ホルミシス療法、鍼灸治療、サイモントン療法に代表されるイメージ療法、温熱療法やビワの葉療法、フラワーエッセンス療法、ジェムエリクサー療法、ホメオパシー飲尿療法、呼吸法、瞑想、気功、HSP(ヒートショックプロテイン)入浴法、爪もみ療法などと実に多岐にわたる。

 

またガンに効果があったとされるサプリや食品としては、プロポリス、人参リンゴジュースなどの酵素、EM菌や万能酵母菌、アガリスクメシマコブなどの菌類、ミネラル、有機ゲルマニウム漢方薬ゲルソン療法でオススメの野菜や玄米。なかでも玄米は長岡式の酵素玄米(最近は、断糖の食事が大事だとささやかれだして、米は食べない方がいいとの説も強力!)。そしてこれに水素水が加わった。

 

しかもだ。プロポリスがいいといっても、普通のじゃだめなの。あそこで売っているアレ!ポーレンという花粉がいいらしいけど、その中でもコレよコレ!サルノコシカケもね、◯◯年に◯◯省でとれたサルノコシカケ!そしてそれはどれもこれもお値段もトビキリ!といった具合に、一筋縄ではいかない。

 

この上さらに、デトックス不食ブームも後押ししてか、断食療法も勧められる。まずは宿便も出して、身体をきれいにしなくては。

 

病院からは3大療法を勧められ、その一方で「ガンは何も治療するな」と言われだし、とうとう「放置療法」と呼ばれるメソッドにまでなってきた。病院の治療か、自然療法かどっちを選ぶの?または、両者のいいとこ取りで?と迫られるのだ。

 

このほとんど沈没が確実と思われる情報の海の中で、さて私は、そしてあなたは、どうするだろう?

 

治療法に関しては、これはよくて、あれはダメという、◯かXかといった一般論には無理があると思っている。それほどに個々人は違う。生来、楽観的か悲観的かといった性格に加え、体力、薬物に対する受容・許容能力、サプリメントや栄養素などの消化能力、そしてメンタルの強さや既成の概念に対する自立度や依存度がまるで違うのだ。また、そもそも◯が良くてXが本当に悪いのかといった根源的な問いもある(つまり、Xだって結果がよければいいじゃないの。タレシリタモウ、その是非を)。

 

抗がん剤については、そこから負のループに入ったと思われるずいぶんと辛い思い出が私にもいくつもある。しかし抗がん剤を使ってオペができるようになり、緩解していった事例もあるのだ。抗がん剤を肯定はできかねるが、全否定もできない。

 

また抗がん剤に限らず、薬について考えてみる。

ひとつの病気にはいろいろな次元が同時に存在するように思う。

肉体が表現している「症状」の裏には、魂が表現したい何かがある。

たとえそれが、ほんの小さな症状であったとしても。

薬は、「魂が表現したい何か」を一旦棚上げする力を持つ。そしてそれが必要な時も場合もあるのだと思う。また病状によっては、薬がないと生命の維持が難しい場合もある。薬についても、とても一般論では語れない。

ただ、もしできるなら、身体の可逆性がなくならないうちに、習慣となっている薬の使用は避けてほしい。薬に変わる方法や改善策に切り替えていけないだろうかといつも考える。

 

また患者さんの病が良くなっていると私が確信しても、なかなか検査データに上ってこないことが何度もある。そしてその度に私は患者さんに、「良くなっています!数値は後からついてくるはず!」とドキドキしながら、詐欺師のようにいい続けなければならない。つまりデータに出るまでにタイムラグがあることが多い。そしてデータがグンと良くなったトタンに、ストレスが消えて更にどんどん良くなるのだ。データの持つ力もすごいと思うと同時に、それ以上にストレスが治癒を阻む力もすごい

また薬にもこういった心理面を支える効果がある。薬を飲んでいるという安心感(多くの患者さんを通して、やっとこの事実に気がつきました・・)。多くの人達の客観的データや薬に対する信頼は、(断薬をのぞむ人が増える一方で)依然かなり大きいと言わざるをえない。そして事実、私も検査結果が良くなるとホッと胸をなでおろす。全面的な現代医療や薬の信奉者ではない私が、この矛盾とどうつきあって折り合いをつけていくかが自分の課題なのだ。簡単には答えが出ない。

 

 

ならばせめて、病気になって治療法を選ぶ時に、役立つことは何かと考える。

 

それは、病気と診断が下る前から、つまり日頃から自分にあったやり方を模索し、自分の身体の感覚を開き、その上に「信」を築くこと。

 

「信」を築くという術(すべ)を磨くのだ。

たおやかでありながら、一条の光が天までつながるような「信」を築くために。

 

私の今までの経験で、奇跡的(本当に奇跡なの?)な生還をとげた患者さん達に共通していたのは、「これで変わった」「どうもこれが特にいい」と何かはっきりした分岐点があった。それは種類は違えど、その治療法への信頼を獲得し、治っていく希望を見つけた瞬間だ。そしてそれは、心と身体がつながった瞬間だと感じた。

 

また、それは体感でなくてもいいのかもしれない。窮地に陥ったときに救われた誰かの言葉かもしれない。「その時に、ぱぁーと腑に落ちて、それから自分は救われた」と振り返る方もいた。そして確かにそこから流れが変わった。

 

さらにビワの葉療法で愛犬の腫瘍が消えたという体験から、ご自身の腫瘍も治した方もいた。この場合は、体験が確信になったのだ。

  

反対に治療による負のループに入っているのに、そこから出られない場合がある。そしてやみくもにサプリやら治療法の数が増える。どんな感じですか?と聞いても、わからないと言う。いろいろやっているから、何がいいかわからないとも。半信半疑な治療法をとりあえずやってみる。そして確信のないまま続ける。確信がないから不安になって身体の回復を信じて「待つ」ことができない。さらに評判になっているサプリが増える。そして、これがなんとなく予後が悪い。オーバードーゼ(刺激過多)の療法は、弱った身体をこじらせるのだ(このような場合は、自然の中で過ごしてリセットされたケースもあり)。

 

形だけの、こなすだけの自然療法には、エネルギーが強くは反応しない。

 

イノチの根源とつながるチャネルは、自分自身の心と共振するものの先にあるように思えてならない。 

頭の理解ではなく、身体の感覚を開き、磨く。

そして、さらに心を開くのだ。

 

これは、どんな治療家にも、いかなる治療にも、薬でもできない。

そう、本人にしかできない。

 

私は、今までもそしてこれからも、私自身の「信」を築く練習をしていくのだろう。

どんな感じがするのか、どんな変化があるのか、その些細な変化を追うために、きっと明日もグッタリしながらノーシャンプーを試すに違いない。

 

ありがたいことに、「信」を築く術を磨く材料は、そこかしこにあふれている。

 

f:id:garaando:20170224004302j:plain

       (キューバ、トリニダーの街角にて撮影)

    (この記事は現在係わりある患者さん達の承諾を得て掲載)

 

ハリ様への道 案内人編

25歳の春を迎えた私は、気づいていた。中学時代からの親友Mさんの変化を。

彼女はハングリー精神が旺盛で個性的な人だった。それゆえ現状への不満も多かったが、オープンで正直でもあったので、なんだか面白かった。その彼女が、半年前から人格が変わったように優しくなった。文句はすっかりなりをひそめて・・。

「私ね、ハリをしてもらっているよ。今まで自分は性格が悪いと思ってきたけど、そうじゃなかった。身体が悪かったの。だってね、身体が楽になったら性格もすごく良くなった。私、本当は性格も良かったのだわ」と、彼女はその変化の秘密を明かした。そしてつけ加えた。「サカウシもね、ハリに行きな。ハリにいったら性格も良くなるし、人生が明るくなるよ」

 

こうして私は、彼女の紹介により、カリスマ性あふれる魅力的なハリ師のT先生と出会うことになる。T先生の流派は、江戸幕府御用達の石坂流。まだ西洋医学が日本に入っていない時代の幕府ご推奨の流派。五寸釘とまではいかないものの、かなり太く長いハリ(美容鍼として顔に施術するハリは0番や1番という単位で、指ではじくと簡単にしなる程度の細さ。石坂流は30番、32番位の銀製のハリで、クリップや針金の太さは充分にある)を使用する。

 

はじめてハリを受ける私には、何の知識もなかった。ただ一点、性格が良くなって人生が明るくなるのだったら・・。そして無性に怖かったのを覚えている。その恐怖に震える私にT先生は言ってくれた。「大丈夫。生きて帰れます!」とキッパリ。この言葉に安堵したのか、さらに震えたのかは忘れてしまったが、とにかく私はT先生が気にいった。

 

うつぶせで寝て、背中にハリをしてもらう。「ハリの事を考えずに、今晩何食べる?とか考えてね」と言われる。バリウムを飲む時に「ゲップはしないでください」と言われると、それまで全く意識していなかったゲップをなんだかしたくなったり、写真をとるときに「マバタキはしないでください」と言われると、息までとめてこらえているのに肝心のシャッターが押される瞬間にマバタキをしてしまうのに似て、「これはしないで」と言われると、ついついしてはならないことを選んでしまう。こんなヒネクレタ私の性格を、このハリで変えるのだ!そう思いつつ、私は頑張った。

 

初回は緊張で、あまり記憶がない。安心して施術が受けられるようになった頃から、徐々にハリの面白さにひきこまれていった。

うつぶせになって背中にハリが数本入って、しばしそのままでいると、左に比べて落ちこんでいたと感じる右側の背中が、だんだんと盛りかえしてくる。呼吸する毎に身体が勝手に調整して左右差をなくしてしまう。そして背中全体がボワンと大きくなってくるのだ。

腰にハリが置かれると、力のない方の足に何かが流れて、通っていく感覚がある。まるでクリスマスツリーの電飾に使う、コードのついた沢山の小さな電球達に電気が流れだして、そのひとつひとつが順番に灯るように。

 

今日の身体はまぁまぁいいだろうと思って施術に臨むと、思ってもいない所がおかしいことに、はじめて気づく。今日はダメダメだと思って行くと、意外にバランスがとれていたりする。

 

トコトン裏切られる頭の理解。

ままならぬ私の身体と抗うことのできない体感。

私が私と定義しているものの解体。

すべてが初めての体験であり、小気味よかった。

 

なんだかわからないけど、どうでもいいけど、ボヨ〜ンと気持ちいい。

このままダンゴになってしまいたい。

もしくは、どうぞこのまま無境界に拡がっていたい。

 

そして面白いことが次々と起こった。

心地よさに身をまかせていると、額の裏に色が見える。

発色する濃いコバルトブルーだったり、光輝くエメラルドグリーンだったり。

白色の玉が見える時は、次から次から現れてきて、無限の世界を垣間みる。

ある時は、背中のハリを中心に自分がクルクル回る。自分の現実の肉体とは別の身体が明らかにあって、回りはじめる。このような時に壮大な音楽(宇宙をイメージさせる曲など)がかかっていると、なお良い。ま、オペラでもクラシックでもラテンでもいい。自然の波の音でもさえずる鳥の鳴き声から森林を感じるような音でもいい。音楽と一体となって、たゆとう身体(肉体を含む高次エネルギー体として)を存分に味わうのだ。

またある時は、ハリが終わると、片方の足に湿疹でもない、内出血でもない、赤い小さな玉が線状になって点々とうかびあがる。草間彌生さんがデザインしたストッキングをはいたような・・。

(まだまだあるけど、もういい加減にします。ああ、私の患者さん達よ!この私の初めての告白に願わくばドン引きしないでと切に願います。)

 

私にとってハリに行くことは、ポパイがほうれん草を食べるようなもの。

施術前と後の自分が、自分の身体感覚が面白い程違う。

すっきり元気に力がみなぎる時もあれば、頑張っていた偽りの自分が強制終了させられ、ムダなヤル気を喪失してしまう時もある。それでもなお不思議な幸福感に包まれるのだ。コレデイイノダ。。

 

治療というと、病気を治すために辛抱するというイメージがあるけど、

身体って、気持ちいいことをしていくと治っていくものではないの?

ねえねえ、そもそもこの身体の中を通る不思議な感覚は何なの?

どうして、こっちにハリをしたのに、あっちに響くわけ?

これは、感覚の世界、つまりアートなのではないの?

そしてそしてね!ハリは、究極のエンターテイメントなのではないの?

 

実際、ハリの治療を受けることは、内的な冒険旅行に行く感覚だった。

こんなステキなものがあるなんて・・。

 

つまり、私はハリなしの人生はもう考えられないってこと?に、どうやらなってしまったのだ。そしてその頃から、ハリをハリと呼び捨てにするとは何事だと思い、自分の中では「ハリ様」と「様」をつけて呼ぶことにしたのだった。

 

 

さて、思い出していただけるだろうか。

このブログのサブタイトルは「さかうしけいこが語る東洋医学の世界」(前回の記事にいたっては、すっかり忘れていました!)。

ちょっとはハリの効用の機序について話さなくてはならない。

 

ハリが効くのは「気」を身体に巡らせることができるからだという。

そもそも東洋医学は、東洋哲学を土台に成り立っている。東洋哲学の概念をザックリいうと、①天人相応説②気の思想③陰陽五行説などがあげられる。それゆえ不可視の「気」は、その存在が科学的に証明されようがされなかろうが、東洋哲学においては根源的な唯一の構成要素とみなされているのである。

 

「・・人の生は気の聚(あつまり)なり。聚まれば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る。・・天下を通じて一気のみ・・」(『荘子』知北遊編)

 

そして気の通り道として、経絡(けいらく)と呼ばれるルートがある。これは身体の深部をめぐる経脈(けいみゃく)とスパイダーマンの網の目のように広がる絡脈(らくみゃく)が、互いに連結し絡みあって作る、全身をめぐるネットワークのことだ。

 

この経絡を電車が通る線路と考えてみるとわかりやすい。

簡単にいうならば、身体の縦方向に12本の線路がある。加えて身体の中心に2本(体幹の中心前面を流れる任脈〈にんみゃく〉と体幹の中心後面を流れる督脈〈とくみゃく〉)。この合計14本の線路が正経14経脈とよばれ、基本的な経絡とされている。

 

そして気の出入り口である穴(ツボ)は、その線路の上にある駅にたとえられる。駅で人が列車から降りたり、乗ったりするように、ツボにおいては気の出入りがおこなわれる。

 

ハリは、ツボを刺激して生命エネルギーである気の量を調節(足りない所は補って増やし、詰まっている所は流して出す)し、経絡の流れをスムーズにして、ネットワークの機能性をより高めるといえる(注:気は量よりも流れの方が大事。気の量が少なくても流れがよければよし。ココ、ポイントです!つまり全体のエネルギー量が多いとか少ないとか誰かと比べるのではなく、自分の中で滞りなく流れていることこそが、その人にとっての健康となり、最大限に自分を生かすことができるのです)。

 

経絡というネットワークに気という生命エネルギーを滞りなく循環させる。

これこそが鍼灸治療の目的となる。

 

想像してみて欲しい。

頭のてっぺんから足のつま先までの両手・両足を含む全身に、14本の縦にのびる線が走っていて、その上にポツポツとツボが365個以上くまなく点在していることを。そして生命エネルギーである気が、その線の上を汗がしたたり流れるような速度で、光を放ちながら走る様を。全身に点在するツボが発光したり消えたりと、濃淡をつけながら点滅を繰り返す様を。

 

流体としての身体。

それを感じられれば、

生きることは流れることと実感できるのかもしれない。

 

                      

〈後記〉

私にハリを紹介してくれた親友のMさんは、今年4月に他界しました。彼女の49日を過ぎても、新盆を過ぎても、どこかで気持ちが晴れずにいます。ただ旧友がいなくなるのは、こういうものだとアキラめはじめてきました。

彼女がいなかったら、私はハリに出会うことがなかったかもしれない。そしてカリスマ性のあるT先生を紹介してもらわなければ、ハリ師までめざしたかどうか、はなはだ疑問です。改めて、私にハリと出会わせてくれた旧友に心から感謝しつつ、私は自分の原点であるハリに精進していきたいと思っています。

  

最後に、私がハリとの出会いから5年の歳月を経た時、Mさんが私に言った言葉を紹介させていただき、彼女の面白さをお伝えしたいと思います。

「私ね、わかったの。すごくイライラして怒りっぽくなるのはホルモンのせいだったの。性格が悪いわけではなかったのだよ。ホルモンってやつは、まったく!」

 f:id:garaando:20160814130522j:plain

親友Mさんとよく歩いた故郷の林にて撮影

 

何度でもネルソン・マンデラ

伝説の大統領ネルソン・マンデラ。その彼が収監されていたロベン島の刑務所を私が訪ねたのは、もう10年以上も前だった。

 

南アフリカ共和国ケープタウンから定期船にのってたどり着くその島は、ハンセン氏病の隔離所や政治犯の刑務所があった監獄島だ。今ではロベン島全体を政府が博物館として管轄し、負の遺産として世界遺産の認定も受けている。

 

マンデラは、アパルトヘイト(白人優先、黒人差別の人種隔離政策)に反対した運動のリーダーとして、国家反逆罪で終身刑を言い渡され、ロベン島の刑務所に収監された。その後国内のマンデラ解放を要求する継続的な運動と国外からの人権擁護の圧力によって、27年余にもおよぶ投獄は、ついに終わりをつげる。そして全人種が参加した初の選挙により大統領に任命されたマンデラ。彼の大統領就任演説では、どよめきが起こったという。

 

虐げられ、迫害され続けた黒人たちが夢にまでみた初の同胞大統領。やっと自分たちの国ができると思っていた。しかしマンデラは次のように語った。

「黒人も白人も、すべての南アフリカ人が胸を張って歩くことができ、何も恐れることなく、人間の尊厳を決して奪われることのない社会、『虹の国』を創ろう」

6色に彩られた新国旗に象徴される「虹の国」を。

 

マンデラが収監されていた刑務所を私が訪れると、老人と青年の2人が案内してくれた。老人と青年が必ずコンビになってガイド役を努めるという。老人から語り継がれ、若者に引き継がれる史実。過去を風化させないために、同じ歴史認識をもつためのシステム。すばらしいと思った。そして、残虐で悲惨なアパルトヘイトという歴史、その歴史から人間が学ぶことを誇り高く語る青年に、私は心を打たれた。

投獄されたマンデラは、抑圧した側に対する激しい怒りや憎しみ、さらに肉体的苦痛を超えて、ついには抑圧する側の心情に思いをはせる。そして刑務所内で、白人の公用語アフリカーンス語」を学び、刑務官と対話し看守達からも尊敬を受けるまでになる。

想像をはるかに超えた対話力と人間力

 

大統領になったマンデラは、人権を侵害された人々の尊厳を回復し、積年の人種間の対立構造を打開するために、Truth and Reconciliation Commission(真実和解委員会)を設置し、非暴力を唱えるツツ大司教を委員長に任命する。この委員会は、虐待を加えた加害者が真実をすべて告白したなら、被害者およびその家族は加害者を赦すというルールに基づく。復讐や懲罰を目的とせず、徹底して真実を知り、和解をめざす。

私がこの委員会を訪れた時、説明してくれた方は、「真実を知ることで直面する苦しみ、怒り、痛みに再度さらされる。現実的には感情的に難しいケースがいろいろある」と話してくれた。そして彼はこうつけ加えた。「実際、和解は大変困難な道のりだ。しかし、前に進むためにはこれしか道がない。そのことを多くの人が理解しようと努力している。そしてこのルールを選択しているということを誇りを思う」と。

 

なぜこれほどまでに悲惨な現実の中で、ある意味理想主義の形を目指すことができたのだろう。

 

現地の人が語ってくれたところによると、アパルトヘイト下では、痛みを共有する団結したコミュニティが充分に発達していたという。20人がいて、パンが1個しかなかったら、20分の1に均等に分けて配るほどに。

確固たるコミュニティの基盤の上にたつオピニオンリーダーマンデラ

あのマンデラが言うのだから。

あのマンデラが「すべての人が共に生きる社会」を目指すのだから。

そう話し合い、コミュニティが支え合って、新たな道を選択したのだ。

 

理想を現実におとしこむことができたのは、

圧倒的な対話力のあるリーダーと成熟した人民がいたから。

 

私は、何度でもこの時の感動を思いだす。

 

そして先日、私の国の参院選が終わった。

「自分らしくあれる社会」をスローガンにした東京の候補者、三宅洋平氏は、

その演説の中で「非暴力コミュニケーション(Nonviolent Communication: NVCカール・ロジャース博士の弟子マーシャル・B・ローゼンバーグ博士によって体系づけられた共感をもって行うコミュニケーションの手法のこと)」の重要性についても語っていた。

 

私は彼にマンデラの片鱗をみていたのだと思う。

マンデラの目指した、多様性を認める社会。

そして対話を通じての徹底した非暴力で、和解をめざす世界。

 

街頭の選挙演説(フェス)が、これほどまっすぐに心に響いたのは、実にはじめてのことだったからだ。

 

 

f:id:garaando:20160714152707j:plain

南アフリカ共和国マンデラが収監されていたロベン島刑務所内にて撮影

(写真はマンデラとウォルターシスル)