“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

勝手に陰陽論1 グラウンディング

 あの時は、何もわかっていなかった。

 

あの時。そう、鍼灸学校の初老の先生が、治療院を開く心得を卒業間近の私達学生に話した時のことだ。

「とにかく3年だ。患者さんが来なくても、3年間毎日ジッと治療院を開きつづけ、待つことさえできれば、食べていけるようになる。石の上にも3年だ」。

 

はぁ?3年開きつづけて待っていれば、それだけで食べていけるって?

技術は?人間性は?適性は?

どーなの??どーなの??

 

卒業してすぐに治療院を開くなんて、ヘタクソがばれちゃう!と思っていた私には、そもそも縁のない話だった。

ましてや、患者さんが来なくても3年治療院を持ち続ける財力は、からっきしない。

半年、いや3か月でも無理。ご冗談でしょ!って感じだ。

しかも、常識的社会におさまることのできない世捨て人的な風来坊人間に与えられた、鍼灸師というせっかくの職業!(30年ほど前のバブル絶頂期だった時代の全くの私見です!傷つく同業者の方がいらしたら謝ります。ごめんなさい。)

その憧れの根なし草生活には、治療院という枠組みはいらないね!なんて思っていたのだ。

 

いつかはハリ箱ひとつを持って世界を旅してまわりたい。

望むことは、ずっとハリを好きでいつづけられること。

 

こうして私は、鍼灸学校卒業後も、研修させていただいている治療院で働きながら、様々なアルバイトや出張治療をしながら、風来坊生活をお気楽に5年以上も満喫していた。

 

貧乏ではあったが、今を生きてる感じがした。

 

しかし、その後にエネルギーワークを学びはじめ、この風来坊的な、あるいは根無し草の生活に警鐘が鳴らされたのである。

 

私が行った学校(Barbara Brennan School of Healing。現在の米国フロリダ州単科大学)では、1年目にその年間を通して、グラウンディングというものを習う。姿勢を正し呼吸を深め、エネルギーを下半身へ落とし、さらに地球の核へとつながるというグラウンディングの基本をだ。

 

グラウンディング創始者はクリント・オーバー氏)とは、いわゆる「地に足をつける」という、根なし草とは対極の概念である。

アーシングとも言われ、素足で大地に立って地球とつながり、アースすることをいう。アースすることによって電子の移動があり、肉体に起こっている炎症を沈める効果をはじめ、抗酸化作用などもあるとされる(かなりの効果が期待される治療法です。場所さえあればタダでできるので、ダマサレタと思ってお試しください。土をみつけ裸足で立てば、とりあえずそれでよし!)。

 

またグラウンディングは、西洋的な概念というよりも、東洋思想に端を発している。

太極拳などの武術では、下実上虚(カジツジョウキョ)の状態が理想とされる。下実上虚とは、ヘソ下5cm、さらに腹筋内奥5cmくらいの場所にある丹田(女性ならば子宮近くの位置)に「気」が充実しており、上半身は下半身の上に軽く乗っているような状態をいう。

なお、現代人は、PCや携帯やストレスなどで上半身に緊張を強いられ、上実下虚(ジョウジツカキョ:上半身にエネルギーが集中し、下半身まで回らない)の状態でいることが圧倒的に多く、不眠、頭痛、めまい、肩こり、耳鳴りなどの原因にもなるとされる。

立禅(リツゼン:立った状態で行う気を練る手法)などは、まさにグラウンディングを鍛える方法だ。エネルギー(気)が十分に下半身、足、足裏へとさがって充実し、地面と接して、さらに地中深くに根をはる状態を目指すのだから。

 

そして肉体でグラウンディングが十分にできていけば、

つまり「地に足がつく」と、

現実世界が充足してくるという。

(注:肉体がグラウンディングしているというのは、地に足がつく以前に、自らの肉体に意識を向け、身体感覚を磨いてケアをし、身体を創る。つまり自らの身体と繋がりなおすことからはじまります。)

 

物質的、現実的側面(肉体も含む)を忌み嫌うことなく、

十分に受け入れて真の豊かさを味わうというのが、

広義のグラウンディングだ。

 

グラウンディングされてはじめて、精神性や理想といった高みへと向かうのだ。

深く深く地中に根をはり、高みをめざす。

より深く、より高く。。

 

今回は、このグラウンディングを陰陽論で読みといてみたい。(ああ、これすべて私見です!恐れ多いですね。。)

 

根なし草生活をやめ、場所を構えて治療院をはじめることは、グラウンディングするということだ。

<ちょっとおさらい:陰とは、下や内に向かって凝集する力を持ち、集約されて物質的な構造を生み、形を作る。陽とは、上や外に向かって拡散する力を有し、動的な力を生む。>

 

グラウンディングして下に向かう現実的な力(陰) と 精神性や理想をめざす上へ伸びる力(陽)。

治療院という物理的な器(陰)と 患者さん達や治療家のエネルギーを含めた動的な力(陽)。

 

大地に根をおろす治療院としての器(陰)を持てば、

その器にあった動的エネルギー(陽)である患者さんが入りこむ。

この動的エネルギーが大きくなれば、それに拮抗する力である器のエネルギーも大きくなり、安定する。

その結果、自然に患者さんが多くいらしてくださり、はれて繁盛治療院の誕生となる(なるはずである)。

 

こうして治療を目的とした「場」ができあがるのだ。

 

さらに先生は言った。「3年治療院を開きつづけ、待つことができれば・・」と。

3年治療院を持ちつづけ、待つということにも意味があった。

<ちょっとおさらい:陰はさらに陰陽にわけられる(陰陽可分)。治療院は物質ととらえると「陰」に分類できるが、その陰の中にも、治療院を創るという動的なエネルギーである「陽」がある。>

 

治療院という器(陰:目にみえる実態)を作り、そこに時間(陽:目にみえないエネルギー)をかけて、とにかく居つづけて待つ。自分の理想とする治療が行われていると想像し、なるべく勉強し、いつ患者さんがいらしてもいいように準備をし、治療するための気を練りつづける。

これらすべては、器(陰)を作るための動的エネルギー(陽)だ。

物質的な器だけあっても、場はできない。

 

動的エネルギーを入れるための器(陰)をつくり、

時間とエネルギー(陽)をかけて

陰陽一体となって

場が生まれる。

 

場という器(陰)ができたなら、

患者さんをはじめとする人々(流動的エネルギーである陽)が集まってくる。

これがあの時、先生が経験から教えてくれたことだったのだ。

 

私は治療所を構えて、今年で18年になる。

繁盛治療院とは言いがたいが、身の丈に合っていると満足している。

だからこそ、ハリを好きでいつづけられている。

そして時々ハリ箱を持って、旅に出る。

 

かくて足かせだと思っていた治療所は、一番長い時間を過ごす私の人生の居場所となった。 

 

陰陽が合わさった世界の可能性は、深くて大きい。

 

さぁ、大地に深く深く根ざしなさい!

グラウンディングを教えてくれた恩師達に感謝したい。

 

(なお、治療院を持たなければグラウンディングできないというものでもありません。根無し草に憧れた私の場合の話であり、流し?の治療家でグラウンディングなさっている場合もあります。どの視点でどう見るかが陰陽論の面白いところです。)

 

 

  <後記>

大地が揺れる。大地が崩れる。大地が沈む。

人間がよってたつ大地の崩壊は、どれほど安心感を失わせることなのでしょう。

今年は頻発する自然災害に見まわれ、

私はずっとエネルギーについて考えていました。

 

エネルギー。

そもそも豪雨、山崩れ、地震、台風といった災害の中心になっているものは自然エネルギーと言えます。

災害の被害を大きくしてしまったのも、ダムの放流、山を削っての太陽光パネルの設置、ブラックアウトといったエネルギーにまつわるものであったかと。

そして停電になって、ほとんどの生活システムがストップし、町の機能はいきなりマヒ状態に。電気はどれほどの恩恵を与えてくれているのかと今更ながら思います。

 

よくよく考えてみれば、

いつの世もこのエネルギーをめぐって、人類は戦争をしてきました。

複雑に入り乱れたパワーゲーム的な覇権争い。パワーもまさにエネルギー。

その裏にある石油エネルギーの利権、お金というエネルギーをめぐっての経済的な対立(注:エネルギーは高きから低きへ流れるものですが、お金だけは低きから高きに流れていないか?という疑問がありますが)などなど。

 

ああ、なんとエネルギーをめぐる問題は果てしなく巨大なものなのでしょうか。

自然エネルギーであれ、人工的なエネルギーであれ、そして人間関係における感情エネルギーであれ、我らはエネルギーの海の中で暮らしているのだとしみじみ感じます。

 

このエネルギー問題を陰陽で考えるとどういうことなのでしょう。。

 

ある朝目ざめると、言葉が浮かびました。

「不当にパワーを失うな」と。

どうにも歯が立たない自然災害や不透明な社会構造や状況を目の当たりにして、

どんどん力を失う感じがしていたのです。

 

地球規模でおかしいらしい。

どうせ、何が起こるかわからない。

もうそうなったら、お手上げだ。

ガラスのような割れるものは処分してしまおう。

最小限の物だけでいい。

形あるものは壊れるのだから。

 

これはこれでその通りなのですが、それと同時に自分のパワーまで失い、そのパワーをどこかに明け渡してはならないのではないかと思ったのです。

エネルギー保存の法則(昔ならったはずのうる覚えの法則)があるとしたら、

明け渡してしまったエネルギーは、さらにフワフワと動的なエネルギーへ吸収される気がするのです。

荒れ狂う動的なエネルギーを入れるに、ふさわしい確固たる器を作ることができれば。

つまり、陰の力を強められれば、陽の力と少しは拮抗できるのではないでしょうか。

 

まずは自分がパワーレスにならずに、

しっかりと自己の肉体を感じ、

その肉体を通して、

地球の核にむかって錨をおろし、

グラウンディングすること。

こうして少しでも陰の力を強めることができたなら。。

 

家族、仲間、学校、町内会、会社、コミュニティ。。そして地球。。

いろいろな器(陰)があると思いますが、

まずは自分の肉体にグラウンディングすることから。

 

私は、今一度、自分の肉体を充実させ、大地をしっかり踏みしめることを考えさせられています。

  

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 イースター島にて(立禅する?)モアイ像を撮影

 

 

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近年、実はグラウンディングしていたことがわかったモアイ像 (なお、写真はネットから拝借)

 

緊急告知 セルフケア2 ヒエトリ道

こんな夏は、はじめてだ。

多くの患者さん達が、こう語る今年の猛暑(2018年@東京)。

 

皆様のお身体を診せていただいている私は、日ごと危機感がつのる。

この夏の患者さん達の身体の固まり具合は、ハンパないから。

まるで石像のよう。。

そして今の期間をどう過ごしたかの結果が、秋にやってくる。

(身体は数ヶ月遅れて症状が表面化します。大病をなさった方の多くは、「発病する半年前くらいからモーレツに疲れていた」とおっしゃいます。)

 

そこで緊急告知。

いま一度 “冷えは万病のもと” と冷えの怖さを知り、“ 何はなくとも冷えとり(以下、「ヒエトリ」と表記する)” を合言葉に対策をねっていただきたい。

 

まず冷えはなぜ悪いのか。

東洋医学において、「人体の健康とは、よどみなく 気 が流れていること」と定義される。

つまり、「流れ」こそ生命体の真髄。

その流れを阻むもの、それが冷えなのだ。

冷えると生命活動が縮こまって固まりだし、流れがなくなる。

また固まった箇所ができることで、スムーズだった大きな流れをさらに阻む。

こうして全体の生命活動が停滞へと向かう。

それゆえ低体温が

あらゆるガンを

アトピーなどのアレルギーやリウマチ等の膠原病といった免疫不全を

婦人科系の病気を

糖尿病といった代謝系の病いを

ギックリ腰や膝痛、五十肩といった外科的な痛みを

躁鬱病

不眠症や体調不良といった自律神経失調症

そして認知症をも

誘発するのである。

この状態を打開し、流れをつくりだすために必要なもの、それこそが熱なのだ。

よって、体温が高く頭寒足熱の状態が、ヒエトリのめざすべき理想形といえる。

  

そして現状のチェック!

冷房のきいた場所で冷たい物(スムージーやアイスコーヒーなど)を飲み、内側からも外側からも身体を冷やすと

→ 感覚が鈍って冷えてると感じない

→ 身体がすっかり固まっているのも気がつかない

→ さらに冷たい物を飲み、シャワーで汗を流し、冷房をつけて睡眠をとる

→ 足がだるい、身体全体が重い、頭が痛い、寝ると足が熱くて、ほてる*

→ 自律神経がダメ(例:睡眠が浅く疲れがとれない、食欲がなく胃腸の働きが悪い)

→ 暑いのか寒いのかわからないながらも、裸足ですごす

→ ますます身体が冷えて、固まる

→ ますます無感覚になる

 (*:ほてりは冷えの極まった状態。陰極まりて陽となったもの)

 

あなたは、この無限ループにはまっていないだろうか。

このような流れを断ち切るのに最も効果的な方法が、ヒエトリなのだ。

 

ここに効果的なヒエトリ方法のいくつかを紹介させていただくことにした。

 

〈お風呂〉

まずはなんといってもお風呂。

シャワーですませていないだろうか。

シャワーだと汗を流して爽快感はあるのだが、冷えは全くとれていない。

朝風呂の人も多いが、その日の冷えはその日のうちにとるべきで、夜の入浴がオススメ。1日の疲れもとれ、睡眠の質もグッと向上する。

 

暑いと身体を冷やすために汗が出るが、お風呂に入って出る汗は、毛穴が開いて身体の中にある毒素(重金属、放射能、ストレスなどのメンタルからくる気の滞り)を排出してくれる。

 

入浴のポイントは、身体の中まで、芯まで温まること。

ただし入浴前の水分補給は忘れずに!

 

大根を強火で煮ると、外側はすきとおった色になるのに、中は白色のままで硬い芯がのこる。

 

弱火でコトコト煮込むと、全体がすきとおった色に変わり、中まで火がはいり、ほっこりする。

 

温度の高いお風呂(40度以上)に浸かると、肺に熱がはいり熱く感じて温まった気になるが、実は身体の中心まで熱がいきわたっていない。

 

弱火でコトコトをイメージして、ぬるめのお風呂(約37〜38℃、適温は個人差があるので調整を!)に入り、温まって透きとおったダイコンのような身体をめざしていただきたい。

半身浴が好ましく、時々肩や首までドップリつかる。

入浴後はくつ下をはいて、足先の温かさをなるべくキープする。

 

またお風呂は入りたいけど、その後の掃除がね。。と渋るあなたには、銭湯がオススメ(大人460円。10枚綴り回数券だと1回430円@東京)。

週に1回でも大きなお風呂で、たまった冷えをぬぐいさり、浮き世の疲れも一掃できたら、なおよし!

 

〈サウナ〉

この時期のサウナは、かなり消耗するのでオススメできない。

ま、ひとたび玄関ドアを開けたなら、そこは無料のサウナ。

わざわざ有料サウナに行くこともないと思うのだが、それでもどうしても入りたいというサウナラブ族は、サウナ後に程よい温度の場所で十分な休息とエネルギー充填(塩分やビタミン、ミネラルなどの補給)が必須だ。

水風呂とサウナのループを楽しむ方は、長く水風呂に入ると身体が冷えきるので、十分にご注意を!

(補足 : もともと温冷浴は、西式医学の祖、西勝造氏が提唱したもので、基本は1分ずつ4セットの交互浴+最後の冷浴。これは自律神経の切り替えスイッチを強化し、皮膚の働きを活性化させるのをめざしたもの。)

 

〈足湯〉

お風呂も銭湯もダメなら、足湯。

お風呂場に足首、できればふくらはぎまでお湯を入れて、足をつける。上質のラベンダーオイルを数滴たらせば、深い眠りが待っている。

ながらスマホ(オススメしたくはないが!)でもできる、あなたを健康へと導く20分。

お湯が冷めてきたらさし湯をして、上半身も汗ばむくらいが目安。

これも弱火でコトコトと。

 

〈入浴・足湯後の水分の取り方〉

身体が温まり、お風呂あがりに冷えたビールをグイッといきたいところだが、ここはグッとガマンして、氷をひとかけら口に含む。

舌の上でトロケル氷は、ほどよいノドゴシをあなたに与え、喉の乾きを潤してくれるはず。

せっかく身体を温めたのに、冷えた飲み物をグイグイ飲むと、ああ!悲しいかな、またも無限ループに逆戻り!

 

〈冷房の中での睡眠〉

長ズボン、長袖の薄手のパジャマなどが理想的。

なぜなら、冷えは関節から入り込むから。

(スーパーなどの冷凍食品などの売り場に行くと、肘が痛くなる経験はないでしょうか。あれは、短時間でも冷えが関節に入りこむからです。)

よって肘・肩・膝は、薄手でもいいので1枚の布で保護するのがよい。

東洋医学の見方:起きて活動している間は、身体の表面に“ 衛気 [えき] ”とよばれる気をまとっています。これは、寒さやウイルスといった外からの侵入者に対して、防衛する働きがあります。ただし、寝てしまうとこの衛気は身体の内側にはいってしまい、外敵からの攻撃に弱くなるのです。寝る時に布団をかけて寝るのは、このためです。)

また昨今は首を冷やすのを奨励するCMなどもあるが、あまりオススメできない。

(首を冷やしすぎて自律神経がおかしくなった症例が、私にも数多くあります。自律神経が通る首から背骨に冷えがはいると内蔵の機能低下を招きます。)

冷房の風が首まわりに直接当たるときは、日本てぬぐいやガーゼ等の薄手のてぬぐいを巻いて防御すると、夏風邪の予防となる。

洗った髪は、乾くのを待ってから寝る。

 

〈日中の冷房下での注意〉

ミュールやサンダルなど素足で外出するときは、靴下を持ち歩き、喫茶店など長時間冷房下で過ごす時は、はく。

慢性的に頭痛に悩んでいる方のほとんどは足が冷えているので、このケアを忘れずに!

スカーフやショールなども常に携帯し、首、肩、肘、膝に冷えが入らないように注意する。

飲み物は、温かいものをとり、氷入りのキンキンに冷えたものは控える。せめて常温の飲み物を。

 

上記のような対策をはじめられたなら、ご自分の身体感覚が蘇り、新しい気づきも生まれるのかもしれない。

 

これほどの酷暑。

対処法をとおして自己の冷えに気づき、身体を見直すチャンスに是非ともかえていただきたい。

相手に不足はないはずだから。

 

《後記》

 5本指靴下、足湯はとうに衆知となり、最近ではシルクソックスの重ねはきや腹巻きもトレンドとなりつつあります。

コンビニでは常温の水も販売されるようになりました。

ヒエトリに対する意識は、高まりつつあるといえます。

しかしその一方で、ローフードやスムージーもはやり、夏になると若い女性達は、圧倒的にサンダルやミュールを履いています。

 

身体の健康を保つ上でもっとも大事なことは、冷やさないこと。

冷えを取り除いてはじめて、食事療法といったさまざまな療法が功を奏すのです。

大病を患って私の処へいらした患者さん達の多くは、お風呂に滅多にはいらずシャワーだけだったとおっしゃいます。

コマメにヒエトリができていたなら、大病にならなかったかもしれない。

そう思う度、徹底してヒエトリの大事さを皆様にお伝えしたいと思っていました。

いつか「ヒエトリ道」として、お伝えしたいと。

 

この自然環境の厳しくなる一方の昨今、今一度ヒエトリの重要性を考え、是非とも実践してみてください。  

 

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パタゴニアフィヨルドにて約200万年前の氷河を撮影

 

 

 よかったら、この記事も。

garaando.hatenablog.com

 

 

東洋医学各論2 陰陽の本質(男女編、両親からの考察)

彼は、元旦になると決まってこう言う。

「今年こそは、新聞の置き場所を決めて、読んだら必ずそこに置くことにしよう!」と。

彼、わが父。90歳。

 

このセリフを聞いた母と私は、目配せしながら無言の会話をする。

「年頭の決意が、新聞の置き場所とは!小さい!あまりにも小さい!!」。

 

父は「キチンとしていること」をモットーとし、きれい好きだ。趣味で水彩画を描くが、スケッチした線からはみ出して色を塗ることができない。それゆえか、洋服はキチッとしたチェック柄やストライプ、そして無地を好む(エネルギーの視点でみると、無意識に選ぶ洋服は、自分自身のエネルギー体*になじんでいて、 その柄や色、さらに質感などは、その人自身が持っているエネルギーを表現していることが多い)。

<*: エネルギー体とは、肉体の上に層になって重なりあっている高次体をいう。神智学では、肉体の次にエーテル体、アストラル体、メンタル体とよばれる、重なりあうエネルギーの層があるとされる。いわゆるオーラ >

 

一方「生き死に以外は慌てるな!」をモットーとする母は、自由度が高く、文字はどうしても罫線をはみ出してしまう。部屋のドアを開放するのを好む。

わが母、82歳。

趣味の料理は、時に和食だか洋食だかわからない、驚くべき組み合わせの創作料理も多いが、わりと美味しい。洋服は、チェック柄を着ているのを見たことがないが、たぶん全く似合わない。無地か、ペイズリーとかの柄もので、原色から淡い色までこだわりがなく、時々私の服をこっそり着る。

 

今回は、我が父母に登場してもらい、陰陽論を考えてみたい。

(ちょっとおさらい:陰とは、内に向かって凝集する力を持ち、集約されて量を産む。陽とは、外に向かって発散する力を持ち、それゆえ動きを生じる。陰は月に、陽は太陽に代表される)

 

生物学的に、男性は陽、女性は陰とされる。

外(社会)に向かって行動する力である陽 と 内(家庭)に向かい育む力である陰。

(今では女性の社会進出も当たり前ですが、母性としての特質は変わりません。) 

このように陰陽は、相反する性質であり、かつ対等な力で対立し衝突しながら、互いにその性質を抑制しあって統一体として働くのだ。

十分に衝突し、それゆえ制約しあい、互いに折り合って相互作用が生まれる。

(これは自然現象はもとより、移り変わる運気や現象などの万事にあてはまります。)

 

さてわが両親。

性格が、まっこう反対のふたりは、まさに陰陽対立。

たとえば、私がサイフを落としたとする。

父は、「いつ、どこで、どうして?」と原因を追求し、まさに親身になってあらん限りのアドバイスをしてくれる。

一方母は、だいたいの話を聞いたところで

「仕方ないわ」となぐさめ、「厄落としだと思えば良かったんでしょ」と励ましをつけ加える。

困ったことがあれば「仕方ないわ」。嬉しいことがあれば「良かったね」。

そして時々、この2文の混合使用。

いつもこう言われて育った私は、この2つのセリフさえあれば世の中を渡っていけるのではないかと本気で思った時期もある。

どこで覚えたのかは知らないが、母は「私は、あるがまま」と、悟った風にちょっと威張って言うこともある。

 

細部にこだわり、分析という内に向かう陰な父

大雑把で、次のことへ思考を動かせる陽な母。

 

しかしこれが時々入れ替わる。

母が「これから先の老後(もう十分に老後!)について、どうするのか話し合おう」と言うと、

あれほど用意周到な父が、「まぁ考えなくてもいいじゃないか。きっとどうにかなる」とお茶を濁し、一転のんき老人へと姿を変える。

これに対して母は「おめでたい人だ。向き合うことができない。こんなにのんきな人をみたことがない」とあきれ顔。

そう、母にとってこれからの老後は、彼女のモットーである「生き死にに関わること」なのだ。

ここで母は将来の不安に執着して内向する陰に、

父はスルーすることで執着から逃れて動きだす陽になる。

 

このように、どこでどのように見るかによって、両親の性格上の陰と陽は容易に入れ替わる。

またこれは、一方が黒になるともう一方が白になるといった夫婦という動態の平衡感覚であり、お互いの考え方や性質もさることながら、ひとつの生命体の反応とも言えるのかもしれない。

(このようなコインの表裏のように、片方の存在自体がもう片方の存在に依存している場合、陰と陽として分析はできるが、どちらかだけを取り出すことはできません。「陰陽の可分不離」といいます。)

 

また近年は、老いというある種の痛みを共有しているという連帯感が、父母の間で生まれてきてしまった。

たとえば

「テレビの音を小さくしてもいい?」とか

「盛りつけは、あっちのお皿の方がピッタリじゃない?」などと私がいうと、

「まぁまぁ、お父さんが楽しんで見ているのだからいいじゃない」と母から拒まれたり、

「お母さんも大変なんだから、このお皿でも十分だ」と私が父に諭されたりするのだ。

おいおい!こんなことは今までなかったゾ。

どうなっちゃたん??私、悪者??って感じ。。

そうなのだ!

時がたち、陰陽まじりあう総体である夫婦は、その団結力を強くした。

私を外敵とみなすほどに。

 

しかしだ。

私はある時に気づいてしまった。

新聞をきちんと決まった場所に置くという、たったそれだけのルール。

または

夏は暑いからドアは開けっぱなしにするという、いわば当たり前の要求。

結婚60年強を迎えてもなお、わが父母は、お互いに一ミリも歩みよってはいないということに。

 

強行に変わらない核を互いに持ちながら、陰と陽の性質が時に応じていれかわり、そして夫婦という全体でみれば、時を経るにつれ、互いの存在が生活の中で溶け合い、依存度がいやおうなく高まり、キズナが強まるという変化をとげていく。

ただ今なお変化中の二人。

 

この夫婦のありようを陰陽で説明する場合、

男性が陽で、女性が陰という対立要素だけでは到底不十分なのだ。

 

陰陽で物事を論ずる時、◯◯は陰で◯◯は陽という対立要素にまず分けられる。

◯◯は陰だから。。◯◯は陽だから。。

こうして、陰陽のバランスを整え、病気や状況を好転させるのに役立つことも多い。

しかし分析できるのは、切り取られた一側面。

さらに視点を変えると、別の構造が見えてくる。

 

陰陽の本質は、

切り取られた2次元の平面から、円環系*の3次元の空間へ、さらには時間を経て変化するありようをとらえる4次元の世界までの、拡大して偏在できる視点にあるのだと思う。<*トーラスとよばれるリンゴのシンをくりぬいたような形の世界>

このような視点からとらえた時、今まで気づくこともなかった折り重なるエネルギーの世界が見えてくる。

そしてそこでは、見方によっては世界が反転するというオセロな醍醐味を味わうことができるのだ。

 

〈後記〉

前回の陰陽論概論が難しかったとの感想を患者さん達からいただき、なんとかわかりやすい例はないかと挑戦してみました。

概ね陰陽は、対立要素の分析に使われることが多く、この例についてはまた具体的に少しづつ書いていきたいです。

 

しかし、陰と陽に分けて分析するというのは、陰陽論の一部にすぎません。 

私が最も魅せられた陰陽論の本質は、複眼の視点にあります。

 

世界は見方によって変わる。

だからこそ病いのとらえ方も

単に忌むべきものでも、

ただ治すべきものでも、

身体だけの問題でも、

またすべてがメンタルで片づけられるものでも、

ないのです。

 

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 キューバハバナの街角にて撮影

(なお父母の了承を得ずして掲載。お父さん、お母さん、お許しあれ!)

東洋医学概論3 (陰陽論:宮沢賢治の世界から)

机の上に一冊の本がある。

友人が長い年月をかけて制作にかかわり、私に送ってくれたものだ。

表題は「宮沢賢治の元素図鑑」(桜井弘著、豊遥秋写真協力 / (株)化学同人)。

 

賢治は、幼い頃に「石っこ賢さん」とよばれたほどの石好きで、植物や昆虫を採集しながら、農学や化学を通して自然を学ぶサイエンティストとなっていく。

のちに彼が、「私は詩人としては自信がありませんけれども、一個のサイエンティストと認めていただきたいと思います」と述べるほどの。

 

賢治作品に散りばめられた彩りあふれる鉱物と、そのエレメントである元素。これらを解説し、新たな切り口で作品の魅力に迫ることができる1冊である。

 

「石っこ賢さん」かぁ。。そしてサイエンティスト。。

私を魅了し、神秘的な世界へと誘う「よだかの星」「風の又三郎」そして「銀河鉄道の夜」といった作品たち。確かにあれらも、自然科学への造詣なくしては、生まれえなかったのかもしれない。。

そう思って、パラパラとページをめくっていく。

すると。。

童話や詩といった文学作品から浮かび上がる、

ある種幻影的な宮沢賢治の世界観。

その輪郭が、妙にくっきりと際立ってくる感じがした。

 

石、鉱物、元素、化学、自然科学、さらに宇宙や異次元へとつながる連鎖。

そしてこれら理系の分野とは、対極とも思える情感あふれる文学作品たち。

一見相反するような分野が、実は相補的に組み合わさって、さらに完全無欠の世界を創り出しているように感じたのだ。

 

また作品のテーマが善悪や生死といった光と影に象徴されているものの、暗闇をみすえて仄(ほの)かに浮かびあがる光が、私に天への憧憬を呼びおこさせる。

 

私は、“ 石っこ”の中に、彼の作品の中に、そして彼自身の中に、古代中国思想でいうところの陰陽の世界をみたのである。

 

そしてこの本のご縁をかりて、ここに中医学の基礎となる陰陽論について、概要をお伝えすることにした。思いきってザックリと!

(その深淵さゆえに、なかなか書き出せなかった「陰陽論」に、やっと挑戦します!)

 

1 陰陽のはじまり

古代中国思想の重要な構成要素である陰陽論は、「呂氏春秋」、「周易」、「管子」、「素問」、「太極図解」などの文献に記されている。

それらによると、陰陽は太極*から生まれたとされる(*太極とは、混沌たる?あるいは静謐なる?宇宙のはじまりの状態をいう。太一とも呼ばれ、究極の一(イチ)を示すとされる。量子物理学でいうところの物理量の基本単位である1(イチ)であるが、「一(イチ)にして全」という世界観を持つ。ううぅ。。難しいですな。なので説明は、あえなくここまで!)。 

 

2 陰陽の概念

陰陽とは、自然界の運動と変化をつかさどる基本原則である。

つまり、

諸行無常(変化しないものはない。変化しないものはただひとつ、変化しないものはないという法則のみ)のこの世にあって、

生命体の誕生から死へと向かうプロセス、

あらゆる日常の事象や現象の発生・盛衰・消滅といった一連の流れ、

こういった栄枯盛衰の自然摂理であり、総則といえる。

 

3 陰陽の特質

 ① 対立 陰陽は互いに対立した性質をもつ。

  <例:天地、上下、内外、生死、遅速、明暗、雌雄など>

      孤陰・孤陽はなく、完全な中立もない。

  <例:太陽(陽)がのぼって日中となり、沈んで月(陰)が出ると夜になる>

  (注:陰陽は要素として分析することはできるが、取り出すことはできない。     ココ、ポイントです!)

 ② 相対 陰陽は、それぞれがさらに陰陽に分けられる(陰陽可分)

  <例:男性(陽)は精子(極陰)を、女性(陰)は卵子(極陽)を有し、

      陽の中にも陰が、陰の中にも陽がある>

  (注:またどこに視点をおくかによって陰陽がいれかわる。

     ココもまた、ポイントです!また別の記事で!)

 ③ 統一 相反する2つの極が、ある結果をなす(相互依存)。

  <例:精子(極陰 )+ 卵子(極陽)→ 受精卵となり、生命が誕生する>

      陰陽は互いにひきつけあい、はねつけあう。<例:男女関係!>

 ④ 転化 陰極まれば陽、陽極まれば陰。

      一方の極限に達した時や一定の条件下で、もう一方の極に反転する。

  <例:健康を心配しすぎると病気になる。発熱(陽)で悪寒(陰)がする>

 (注:これら①〜④の他の具体例については、おって別の記事で!)

 

上記1〜3をざっと踏まえた上で、もっとも大事な陰陽の本質について押さえていただきたい。

  

陰とは、

集約され、凝縮される方向(下・内)へと向かう、

右まわり(ペットボトルのキャップを閉める)のエネルギーを指し、

「水」に代表される「寒」や「静」の性質で、

色はあらゆる色を混ぜた「黒」に象徴される。 

陽とは、

放出し、拡散される方向(上・外)へと向かう、

左まわり(ペットボトルのキャップを開ける)のエネルギーを指し、

「火」に代表される「熱」や「動」の性質で、

色はあらゆる色を含む「白 」に象徴される。

 

さらに 

陰は、

その内へ向かって凝集するエネルギーから、

物質的で量的な性質を帯び、目に見える。

陽は、

その外へ向かい発散するエネルギーから、

機能的で動的な性質を持ち、目に見えない。

<例:手を握るという現象は、

 手という目にみえる肉体部分(陰)+ 握るという目にみえない運動機能(陽)

 とで説明される>

 

ざっとおわかりいただけただろうか。

 

“ 気 ”と同様、陰陽もまた、不可視の世界を探る視点を与えてくれる。

ひとつに見える事象に、実は相反する方向性を持ったエネルギーが内包されているのだ。

 

そして

それぞれに際立った陰と陽がより深く濃密に融合する時、

その事象に与えられたエネルギーは最大となり、

異次元への扉が開く。

鍵穴に鍵がカチッとはまり、クルっと回転してドアが開くかのように。

 

宮沢賢治が、

美しくも遠い天空の世界だけを見上げていたのではなく、

足下にある石やそれを構成する元素にまで視線を落としていたからこそ、

あるいは

凝縮された小さな石の中に、拡がる宇宙をも見いだしていたからこそ、

彼の作品たちが

いつまでも天に煌めく星のごとく、

または鉱物を燃焼させた時に放つ炎の色のごとく、

輝き、発色しつづけているのではないだろうか。

 

<おまけ> 

宮沢賢治を魅了した石について。

石の目にみえる部分、元素や鉱物といった材料の部分は陰となり、

それら材料を集めて、石の形をキープしつづけるといった動的な力は陽となり、

この陰陽があわさってはじめて石として存在できるのである。

 

 

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アルゼンチン、ブエノスアイレスのパンパにて撮影

間(マ)をつなぐもの 「人生が変わるメガネ」

憧れのメガネをとうとう手に入れた。あの噂の「人生が変わるメガネ」とやらを。

 

事のはじまりはこうだ。

ある時私は、初老の患者さんにこう言った。

「私も目が悪くなった・・。コンタクトをしていたら遠くは見えるけれど、近くを見る時には老眼鏡がいる。裸眼だと本は読めるけれど、遠くは近眼のメガネが必要。足したり引いたりしながら、持ち物ばかり増えて・・。」

 

すると彼女はこう言った。

「まだまだよ。もっと年とると、耳も聞こえなくなって補聴器(両耳なので2つ。替えの電池も含む)も増える。そしてヨダレは垂れるし涙腺はつまって涙もでるから、ティッシュやハンカチも絶対忘れちゃダメ。それなのに唾液が出なくて喉がカラカラになる時もあって飴玉も持たなくちゃ。そしてね、歩く時にはツエも持つのよ」。

確かに!グゥの音もでない・・。

 

チマタの加熱すぎるアンチエイジングやら医学会の加齢制御なるものの流れにどうも乗り切れない私は、妙に納得した。

そしてこの時、きたるべき老いというものを観察する!と心に決めたのだ。誰に頼まれたわけでもないが、老いの実態を探る冒険がはじまる気分だ。

人生は絶え間ない探求の連続であるというのが、真理を追求する者の運命(サダメ)なのである。

 

まずは目の問題。

これから老いていくにせよ、今のスタートラインを決めたい。

そこでコンタクトもメガネも新調し、今ある私の最善の状況をつくることからはじめることにした。

コンタクトを新調する際のことだ。

左右ほとんど変わらない視力なのに、矯正しても左眼だけ視力があがらず、

「これ以上はレンズを変えても視力はあがりません」と医者からキッパリ告げられる。

右の視力はあがるのに、そんなことがあるのだろうか・・。

疑問は湧けど、忙しそうな先生に質問する勇気がない。

「まぁよく見えるからいいや」と真理を追求する者にあるまじき撤退に転じる。

 

次にメガネ。ずっーとずっーと気になっていた噂のメガネ。

このメガネを購入するためには、事前にキチンとセミナーを受けて、さらに別の日に2時間にも及ぶ検眼をする。セミナーも検眼もすぐに満席になるため、ずいぶん先に予約をいれなくてはならず、予定が読めずに日程を決められない。一時はご縁がないものとあきらめかけた。

しかし!やっぱりあのメガネでなくては!またムクムクと真理を追求する者が復活。

我が誕生日に思い立ち、運良くセミナー参加の権利をゲットし、会場へと向かった。

 

少人数に丁寧に教え、簡易検査を行うセミナー。

そこで私は、偶然にも魅力あふれるM先生と再会したのだ。

M先生は1年のうちの半分は海外にいらっしゃるため、

なかなかお会いできないでいたのに。

M先生は、その日の朝に知人からこの噂のメガネの話を聞き、すぐに申し込んでやってきたという(なんと幸運なのでしょう。当日知って→電話→当日予約というあり得ないようなスムーズな、この流れ)。

「ところで、どうやったらこのメガネが買えるのですか?」とM先生が質問なさった時、何もご存知なくここへ飛び込んでらしたのだとカナリ笑えた。

そして私は確信した。M先生も真理を追究する者なのだと。

時に真理を追求する者は、驚くべき軽いフットワークで行動することがあるからだ。

 

そしてセミナーを行う松本康先生。彼もまた真理を追求する者が持つ熱すぎるほどの情熱を、余すところなくメガネに、そして眼の不調を抱えている人々に注ぎこんでいた。

 

松本先生は、子供時代のお辛いご経験から目と脳をつなぐ機能に着目。

眼の機能と脳波は正常であっても、「視機能(右と左の眼の焦点があうように調節する脳の機能)」が弱いと、偏頭痛、眼の疲れ、肩こりといった諸症状がでて、集中力が続かない。

視機能の改善によって、子供達の軽度ADHDなどが治るケースもあるそうだ。

 

一般的にメガネを作る際、右目、左目とそれぞれの検査を行い、それぞれの視力を調整する。しかし実際の生活においては、両目で同時に物を見る。

視力はあれど、右目と左目の焦点の位置がずれていることがあるというのだ。

そこでずれたまま物を見つづけると脳も混乱するため、どちらか一方のシグナルが自動的に遮断される。

つまり、実は片目でしか見ていない。

 

「見る」という動作をシステム全体としてとらえた時、右眼と左眼といった個別に分けられた網膜に映る視力ではなく、脳に伝達されて最終的に物を認識する視力(「脳内視力」とよぶそうです)こそが大切なのだ。

 

私は納得した。矯正すべきは「脳内視力」だと。

そもそも私は目が悪い。

それが視力だけの問題ではないと気づいたのはいつだったのだろう。

左右の視力や状態はほとんど変わらないのに、右目と左目で見えてる世界が違うと感じていた。よく片目を隠して見える世界と、もう一つの目で見えるそれとを比べては、色が違う、景色が違うと遊んでいた。

また両目で見た世界は、片方だけで見た世界の中間ではなく、なぜか右目だけで見た世界に近いのだ。

さらに、何気なく道を歩いていると、それぞれの目に飛び込んでくる映像が別個に感じられて、やたらに頭が疲れる時があった。

 

検眼していただいて何より驚いたのは、度のはいらない、焦点を合わせただけのレンズで、視力があがったかのように物がかなり良く見えたことである。それもあの矯正しても視力はあがらないといわれた左眼が。

 

そして両眼からのシグナルがちゃんと脳に伝わるように設定されたメガネをかけてみた。

するとそこには、遠近感の増した、深みある世界が広がっていたのである。3Dメガネをかけたような濃淡ある世界が。

 

セミナーが終わっても、松本先生はメガネを作るように決して勧めはしない。

なぜここでセールスをしないのか?なぜだ?と思うほどに、しない。

作りたいと考えている方もいるであろうに、検眼の予約を積極的に押し出すことなく、家に帰ってゆっくり考えみてくださいとおっしゃるのだ。

それどころか、「かえってこのメガネをかけて立体的にみえすぎて困るという人もいる」なんて言っちゃう・・。

ただ、眼のトラブルで困っている方達にこの脳内視力という概念を知っていただきたい。また子供達の学習障害に役立つのだったら、ぜひ講演なりを行いないたい、とのことだった。

 

あの日は、なんとステキな方達に出会えたのだろう。

 

もうそれだけで、人生がちょっと変わった感じがしたのだ。

 

<後記>

セミナーで教えていただいたことは、大変面白く、興味深いものでした。

身体のひとつひとつの部位それ自体に異常がなくても、「見る」という行為全体をシステムとしてながめた時、各部分の間(マ)をつなぐものの重要性が見えてきたからです。

ネットワーク(つながり)とか関係性とか互換性とかが、機能を円滑にするのだと。

そしてこの考え方は、とりもなおさず東洋医学の特徴的な視点といえます(これについてはまたいつか別の記事で)。

 

このメガネについても、手に入れるに至るプロセスにおいて出会えた人達とのご縁もまた、間(マ)をつなぐものとして感じられたわけです。

 

最後に

このメガネを使ってから1か月以上が経ちました。

深みのある世界に少しとまどいながらも、新しい世界が嬉しくて楽しい。

それだけではなくて、眼と頭が楽だと実感しています。

新調したコンタクトを使う頻度は、どんどん減ってしまいましたが・・。

 

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 イスタンブールの街角にて撮影。題して「右と左」。

(治療中の患者さんとの会話は、ご本人の了承を得て掲載)

東洋医学各論1(気の作用:波動)

小樽の春は遠い。

そう感じた、今年の2月の極寒の日のことだ。

私は、灯油が入ったポリタンクから携帯ストーブに灯油を入れようとして、手動のポンプを取り出した。そして、にぎりこぶし大の赤色の部分(材質はポリエチレン)をギュッと握りつぶして、空気を押し出す。握りを緩めるごとにポリタンクへと垂直に伸びたノズルをつたって灯油がくみ上げられる。再度赤色部分をギュッと握りしめて、もうひとつの蛇腹のノズルを通って携帯ストーブに灯油が入るという仕組みだ。

 

シュポシュポ、シュポシュポと手で握りしめては放す。

繰り返すこの動作で、手は疲れ腕はだるくなった。

うぅ。。なんてことだ。

心臓よりもちょっとだけ小ぶりなサイズの赤いポンプ部分をぐっと握っては放しながら、私は考えた。

血液のポンプとされている心臓のことを。

 

たったこれだけの作業でこんなに疲れるのに、

血液を全身にめぐらすというポンプの役割を背負った心臓は、

どれほど疲れるのだろうか。

 

さらに思う。

微弱とも思える鼓動で、

トントンという可愛らしいほどの、

とるに足らないような脈拍を打つという動きだけで、

手の先や足の指の先の先まで、

はたまた重力に反して頭頂にまで、

血液を送っていけるものなのだろうか。

 

どうなの?

本当にポンプなの?

何か他に仕組みはないの?

 

今回のお話は、心臓の拍動だけで末端まで血液をくまなく送ることができるという Wonder からはじまる。

 

そういえば。。 

「心臓が足の先まで血液を送るのも、波動なんですよ。怒ったら全身に血が回りそうなのに、一瞬にしてカーッと頭にだけ血がのぼって足は冷える。あれも波動。」と、尊敬する A 医師はおっしゃっていたではないか。

( A 医師は、中医学の神髄を実にわかりやすく私に教えてくださるステキな先生です。脈や舌を診るだけで、病状から性格、果ては生活態度に至るまでのほとんどを言い当てられてしまうため、まるで占い師にみてもらったかのようだと、私の患者さん達の間で評判です。)

 

さて、その波動とやら。

つまり、波の動きということだ。

湖面に投げた石を中心にして、だんだんに水面に広がる同心円の波紋。。。

このようにして、心臓から次々と血液が末端へ波及するのではないだろうか。

 

メトロノームのような規則正しいリズムで、

脈拍という振動で、

はたまたそれを信号にして、

波動が起こり、血液を全身に巡らせる。

 

ひとつの波が次の波に伝わっていき、またさらにその先へと続く波の動き。

この動きをおこさせるエネルギーが、東洋思想でいうところの「気」だとしたら。。

 

そして実際、東洋医学の古典である「難経」、「素問」という文献に波動を起こさせるにピッタリの気の作用が記されているのだ。

 

まずは、気の作用の全体像をみてみよう。

(相変わらず偉そうですが、またまたザックリと言ってのけます!)

 

気の作用は、以下の5つに分けられる。これらは、それぞれ独自の性質を持ちながらも、協力しあって生命活動を行っている。

 

①推動(すいどう)作用:おし動かす

マクロな視点では成長・発育を促し、ミクロな視点では血・気の運行を行い(なんと気を動かすのも気!)、生理・代謝活動を活発にするのだよ!

<例:気虚(気が少ない状態)になると、この作用が後退し、成長・発育が遅れ、血行が悪くなり、体液が停滞し、むくみがでる。>

 

②温煦(おんく)作用:温める

体温調節、体温維持を行うよ!

<例:この作用が減退すると、四肢が冷える。>

 

③防衛作用:防衛する

肌表を保護し、外邪を排除するよ!(注:外邪とは、外部から皮膚を通じてはいる病気の原因となるものを指す。)

<例:この作用が機能しなければ、寒さが身体に入りこみ風邪をひく。>

 

④固摂(こせつ)作用:漏出を防ぐ

体液(汗や尿など)の流出を防ぎ、血液の血管外への漏出を阻止するよ!

<例:この作用が十分でないと、汗がとまらず消耗したり、冷える。また生理が止まらない。尿失禁する。>

 

⑤気化作用:物質を転化させる

消化吸収を促し、気・血・リンパ液などを作るよ!(なんと気を作るのも気!)

<例:この作用が弱くなると、新陳代謝が落ちる。>

 

ソコココにある気は、ただフルフルしているだけではなくて、集まってはこんな仕事もしているのだ。

 

さて、ポンプの役割をはたす心臓に係わる気の作用としては、①の推動作用があげられる。

字の如く、推して動かす。

 

まさにひとつの波が次の波に到達し、さらにその波がその次へと伝播する様が浮かぶ。

 

そして、これは身体の内部に限ったことではない。

 

なかなか踏み出せなかった最初の一歩。一端踏み出してみると、そこから先はトントン拍子に事がはこびだす・・。 

または

そんなに怒っている自覚もなかったのに、なぜだか怒りがどんどん湧いてきて、抑えることができなくなってしまった・・。

他愛ない小さな嘘が発端で、事が大きくなってしまい、当惑している・・。

あるいは

株価が、あれよあれよという間に暴落したり・・。

何気ない商品が大ヒットしだしたり・・。

世の中の流れが、どうにも不吉な方向へと加速されたり・・。

 

予期せぬ連鎖反応の裏には、気の推動作用が働いて、波動をおこしているように思えてくる。

 

“ 雰囲気 ”といわれるようにある種ボンヤリと曖昧で、

“ 移り気 というようにウツロイやすいほどの、

吹けば飛んでいってしまうような、

おぼろげな存在である “ 気 ”

 

しかしそんな気が集まりだし、ウズが生まれ、流れとなる。

流れは力となり、次々にドミノ倒しのようにつながって、

新たな現実を創りだす。

あたかも意志を持っているかのように。

 

そのように考える時、

取るに足らないほどの些細な事柄の重要性がみえてくるはずだ。

そして波動がひとたび起きたなら、境界や限界だと思えた現実の壁を、軽々と飛び越えて、事象がつながれていく・・。

 

もし何か夢をかなえたいのなら、何度も何度も自分の意図を確かめ、毎日の生活の小さな行いからそこに気(エネルギー)を集め、継続させるのだ。

反対にぼんやりフルフルしていると、大きなウズに取り込まれ、なぜこんなことになったのかと立ち上がった現実を前に立ちつくすことになる。

 

ほんの小さなひと押しが、次々に伝播して、思いもよらない処へと導かれるのだから。

 

ポンプで灯油を入れてただけの私も、いつの間にか、こんなことまで考えてしまったのである。

  

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インド、チェンナイにてインド洋を撮影

 

 気について知りたい方は、こちらの記事も!

garaando.hatenablog.com

 

 

 

 

東洋医学概論2(Wonder な世界)

The Sense of Wonder。

(自然の不思議に息をのむ感性)

この言葉を知ったのは、鍼灸師になりたての頃だったと思う。

ふ〜ん。。とやり過ごしていた私だが、

その後の臨床を通して、人体の不思議に驚かされ続けることになる。

 

お医者さん達はいう。

「ここまで骨がずれたら、元には戻りません」

「神経が切れてしまったのだから、治すには繋げるオペしかありません」

「ホルモンがでないのですから、この薬は一生飲み続けなければなりません」

などなど・・。

 

しかし、それがそうでもないのである。

骨は筋肉を緩めれば、動く。

肩にたまったカルシウムが腕の神経を圧迫していても、時間の経過とともに細胞達が繋がる回路を探し出して修復し、運動制限や痛みがなくなる。

声帯の神経をオペで切ってしまい声が全く出なくなっても、1年半後にはカラオケで歌えるようになった。

数年にわたり滲出液がでて皮膚移植しなければ塞がらないと言われた損傷が、1ヶ月間毎日の民間療法で、完全に塞がってしまった。

卵管のつまりのため妊娠は無理だったはずが、懐妊した。

一生飲みなさいと言われた薬が出ていたが、身体の不調が減って薬を飲み忘れることが多くなった。そしていつの間にか飲まなくなってしまったが、検査結果は正常値のままキープできている。

などなど・・。

 

つまりどこかの部分が損傷していたり不具合があっても、他の細胞達が動きはじめたり、あるいは幾つかの機能がつなぎ合わさったりして、またはタイミングという要素が加わって、それを修復する形にまで持っていける場合がどうやらあるらしい。

 

鍼灸治療がいいとか、現代医学がどうこうと言いたいのではない。

身体がすごいのである。

患者さんの誰よりも、さまざまな症状をある程度の期間をかけて診せていただいている私こそ、

そのすごさに驚かされているのだ。

私が弱気になっている症状であっても、みごとな回復をみせてくれた症例も少なくない。

その度に私はどこを観て、何を決めつけていたのかと反省し、

同時に身体のすばらしさに、人間の可能性に驚く。

 

ああ、 Wonder な世界!

 

そしてその wonder の一端を紐解くであろうと思われる思想がここにもある。それが東洋医学の基礎となっている古代中国思想(哲学)だ。

 

森羅万象を観察することから、世界を読み解く古代中国思想には、大きな柱がいくつかある。ここでは東洋医学に関連するものをあげてみることにする。

(たいそう偉そうですが、思い切ってまたまたザックリいっちゃいます!)

①天人相応説

宇宙・自然界(天)にあるものは、人間(人)の身体にも同じようにあるよ(だから人間は小宇宙といわれているよ)!そしてそれらはミクロとマクロで繋がっているのだよ!

②気一元論(元気論)

有形(生命体や物質など)・無形(場や想念など)を問わず、万物は気(エネルギー)でできているのだよ!

そして世界は、気というエネルギーの変化で創られていて、変わり続けていくのだよ!

陰陽五行論

陰陽・五行という気(エネルギー)の法則に従って、世界は動いているのだよ!

<陰陽論 : 陰(ー)と陽(+)という相反する方向を示す二つの力が、ひとつの事象に内包されているーこの視点から、状態や状況を観察し、その本質を観る手法>

<五行論 : 木・火・土・金・水に象徴される固有の性質を持つ5つの要素が、互いに影響しあっており、その関係性から様々な現象をとらえる手法>

 

お気づきだろうか。

つまり、古代中国思想は、自然現象を観察することから、みえない世界とみえている世界の関係性や法則を説いているのだ(それゆえ、易・八卦四柱推命、印相や家相、風水などもここから生まれているのです)。

 

みえている現実の裏にある不可視の世界を知ることは、

事柄を奥行きのあるものにする。

 

大自然

生命体としての人体も

身体のみならず人間そのものも

我らがうごめくこの世の中も

多重的要素の集合体なのだ。

 

東洋思想は、

単に健康という分野にとどまらず、

より深い洞察を私に与えてくれる。

まずは自分の体質や性格を知る道しるべとして。

そして自己の特質を生かす生き方を探る道しるべとして。

 

すべては

矛盾だらけの自分をさらに知るために。

 

<後記>

この記事を書きながら、思いました。

知識や理性のみならず、the Sense of Wonder と言われるような感覚を持ち合わせてはじめて、東洋医学の真髄が腑に落ちるのだと。

そしてこの感覚は、生命への畏敬の念や人智を超えた世界があるという喜びにつながっているのだと。

 

あらためて思います。

the Sense of Wonder

なんとロマンに満ちたステキな響きなのでしょう!

 

 

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エジプト、ギザのピラミッドにて撮影

(なお、本文での臨床の記述については、各人の承諾を得て掲載)