“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

勝手に陰陽論6 更年期

なつかしいネーミング、「イノチのハハA」。

それは、ずいぶん昔にテレビCMから何度も聞こえてきた不思議なヒビキ。

いつ頃からなのか、いつまで聞いていたのかもはっきりしないが、音としてしっかり私の耳に残っている。薬なんだ。。とウスラボンヤリ思っていた。

ラッパのマークの「正露丸」ほど、クスリとしての用途がわかっていたわけではない。

 

さて今回は、

子供時代にボンヤリと聞いていた「イノチのハハA」に関連するお話で、ズバリ!更年期についてお伝えしたい。

 

更年期というと女性特有と思われる方もいらっしゃるのではないかと思うので、ちょっと概要を。

 

東洋医学のバイブルというべき「黄帝内経コウテイダイケイ)」という古典の中の「素問」上古天真論によると、

女性は7年周期、男性は8年周期といった男女異なる生命のリズムがあるとされる。

生命力の決め手である腎精* が健全であれば(*腎精五臓六腑の腎に宿る精のことで、生殖能力も含む。東洋医学では腎は生命力と密接に結びついている。このような五臓特有の概念については別の記事で!)、

女性は14歳(7×2)で初潮を迎え(現在はもっと早い)、28歳(7×4)が全盛期で、49歳(7×7)で閉経となる。

男性は16歳(8×2)から生殖能力がついてきて、32歳(8×4)で全盛となり、56歳(8×7)で喪失するという。

西洋医学においては、女性ならば閉経の、男性なら生殖能力喪失の、それぞれ前後10年間を更年期といい、この変化によって生ずる症状を更年期障害としている。

女性の更年期障害には、顔や身体がホテッて発汗するホットフラッシュ、肩こり、イライラ、のぼせ、不眠、めまい、関節の痛み、不安・抑うつ、動悸・息切れなどがある。

男性においては、男性機能の低下、冷える、全身倦怠感、筋肉や関節の痛み、筋力低下、無気力、不眠、集中力・記憶力の低下、うつ症状などがあげられる。

 

西洋医学において、これらの変化は男女それぞれ特有のホルモン量の減少が原因であるとされ、ホルモン量を測れば歴然と数値に表れる。

さて、この更年期を東洋医学の陰陽論でひもとくと、どういうことなのだろうか。

 

陰陽論において、陰は中国語で阴 yin と表記されるように月に象徴され、内に向かって集まって量的なエネルギーを持つ。陽は中国語で阳 yang と表されるとおり、お日さまである太陽に象徴されて、外に向かって広がる動的な力を持つ。

それゆえ、内(家庭)に向かい育むエネルギーであり、月のリズムに影響される女性は陰に、外(社会)に向かい活動するエネルギーの男性は陽に分類される。 

 

男性か女性かといういずれかの性をとりあげた場合(注:LGBTなどいずれかに割り切れない場合もあり、性について一般論で語るのは大変難しいのですが、便宜上このようにさせていただきました)、 

陰である女性の中にも男性性(陽)と女性性(陰)があり、

陽である男性の中にも同様にそれぞれを有する。

(注:「陰陽可分」といい、陰陽それぞれはさらに陰陽に分けられます。例:男性ホルモンとの対比において陰となる女性ホルモン。その女性ホルモンを更によくみてみると、エストロゲン(陰)とプロゲステロン(陽)に分けられる)

 

<女性:陰> 

女性を陰陽の割合でみてみると、

女性の陰がしめる割合は、陽のそれより大きい。

陰は寒を、陽は熱を表すため、

一般に女性は冷え症になりやすく、

体温は男性に比べて低い。(参照:下図左側)  

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陰がまさっている       陰が減り陽は同じなのに相

ため、寒く感じる       対的に暑く感じる (  虚熱  )

それが更年期にさしかかり(参照:上図→の部分)

陰が徐々に減少し、ついには陽の割合よりも少なくなる(個人差あり)。

陽は以前に比べて増えてはいないのに、

陰が減ることにより相対的に陽が多くなってしまう。(参照:上図右側)

そのため更年期を迎えた女性は、ホットフラッシュというところの、

いきなり汗をダラダラかくという症状に見舞われ、以前ほど寒さを感じなくなる。

この暑さを、中医学では「虚熱」(陰が少なくなり[虚になる]、相対として陽がマサルために生ずる熱)という。

また陰のもつ、内に向かう求心力。これが減ったために、陽の広がるエネルギーを抑えきることができなくなる。陽の力は上へのぼり、顔を火照らせ、のぼせさせ、時には目眩をも起こさせる。 

 

<男性:陽>

 一般に男性が女性よりも体温が高いのは、陽(熱)がモトモト、マサっているから。

この陽が陰より多いために発生する熱を「実熱(実=過剰にあるという意味)」と中医学ではいう。(参照:下図左側) 

(注:「虚」と「実」という概念は、東洋医学中医学において大切なものです。「虚」はウツロで少ない、「実」は過剰で多いという意味でとらえてください。)  

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陽がまさっているため            陽が減り陰は同じなのに相

暑く感じる ( 実熱 )     対的に寒く感じる 

それが更年期を迎えると(参照:上図→部分)

持ち前だったはずの陽は衰え、陰よりも減少することもあり、

相対的に陰が陽より大きくなる(個人差あり)。(参照:上図右側)

そのため今まで、あまり感じなかったかもしれない冷えを感じ、

年齢を重ねるにつれて寒さに敏感になる。

 

このように更年期になると、女性にはホットフラッシュという暑くなる症状がみられ、男性には寒さに敏感になるといった変化がみられる。そしてこれは、陰陽のバランスの変動が原因となっているのだ。

 

また男女とも更年期を経てからの身体全体のエネルギー量は、小さくなる(上記のそれぞれの図参照)。

 

それゆえ

他人から見える自分の外見も変わるだろう。

また

自分が物事をみつめる目線の高さも変わり、

同じはずの風景が違って感じられたり、

あるいは

今まで気づかなかった事柄が見えてくるのではないかと思う。

 

時々思う。

我らは、肉体という乗り物を借りて旅するのだと。

現実に外の国々へと飛びだして、冒険することもできる。

また自分の肉体の変化を感じて、内側へと向かい、陰と陽との間(ハザマ)にある  たゆとう 世界へと降りていくこともできるのだ。

そしてそこには、まだ見知らぬ自分がいる。

 

更年期は、微妙に変わりゆく相対の世界を体感し、自然の摂理を味わうチャンスにもなると思うのだ。

 

  

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ユカタン半島にて午後2時のカリブ海を撮影

 

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午後5時の同所にて撮影
 

勝手に陰陽論5 根底に流れるもの(万物流転)

いまや年中スーパーの陳列棚に並ぶバナナ。

むきながら食べられて、栄養価もあり腹持ちもよい。

そのため子供はもとより、お年寄りや運動選手にも人気の果物といえる。

 

木にのぼって最初にバナナを食べた人は、偉いと思う。

たぶん猿が食べているのを見て真似したに違いない。

モチっとして、ネトっとしていて、甘いバナナ。

これを初めて口にした時、美味しいと思ったのだろうか。

どうなの?思ったの??

これは欧米人が初めてオハギを食べた時の印象に似てやしないか?

実際に仲良くなった友人達にはオハギを食べてもらい、美味しいか?と聞くことにしている。

最初は一応にう〜ん??との回答。そして私は、ヤッパリね!とこっそり思っているのだ。

 

幅広い年齢層に支持され、多くの人に好かれる食材のバナナ。

その市民権を獲得できた歴史に思いを馳せながら、私はバナナを食べてきた。

そして今では、なるほど美味しいなと思う自分がいる。

果物なのか野菜なのかと迷わせるアボカドもバナナにちょっと似ていると思い、個人的に注目してきたが、これまたチャッカリ、不動の地位を獲得している感じだ。

 

先日、様々なことを私に教えてくださる財界の重鎮に向かって、つい口が滑った。

最初にバナナを食べた人は偉い!と。

するとその方は、こう言った。

「いやいや、ナマコを最初に食べた人の方がもっとすごい。それにワカメもだ!」。

(ナマコは黒いダイヤと言われ、驚くべき高値で取引されるそうですよ。<最近ハマった本:「サカナとヤクザ」鈴木智彦、小学館>)

そして彼はつけ加えた。

「私が子供の頃は、トロやイクラなんてのは、食べないものとして捨てていたんだよ。

マグロといったらアカミ。なんてったってアカミだった。脂っぽいトロや大トロなんて見向きもされなかった。イクラもそう。捨てるべきものだった。そして松茸もね、タダ同然の食べ物だった。いまや全て高級食材になったわけだ」と。

 

つまりだ。

価値は変わるのだ。

価値が変われば、感覚も変わる。

そしてそれが当たり前になる。

 

その昔、半袖の下から長袖が出るのは妙な感じがした。

スカートの下からズボンが出てるのも。

今や、ちっともおかしいと感じなくなってしまった。

 ファッションにまつわる感覚は、大きく変わる。

 

食事においても

玄米菜食がいいとされた時代もあれば、タンパク質や脂質を重視したローカーボ食が生活習慣病を治すと近年は言われだした。

食餌療法の基礎となる価値観も流転する。

  

ショルダー式長方形のBOX型電話を持ち歩いている人を見て、公衆電話があるのだし、なぜに電話がそんなに必要か⁈と思っていたら、

公衆電話が減って携帯をほとんどの人が持っている世の中になった。

電話というモノの価値は確実に変わり、そのことにより毎日の生活に与える影響は計りしれない。

 

そして価値の変化は、時代のせいだけではない。

 

状況や場合によっても変化する。

 

たとえば薬。 

痛みどめや睡眠導入剤などは、限られた目的での一定期間内は役立つだろう。

しかし根本的な視点に立つと、

切り取られた部分での役割は、身体全体に役立つわけではなく害になる場合すらある。

有益なはずのものが有害にもなる。

 

もっと言うなら、

痴情のもつれの殺人は犯罪となるのに、

国を挙げての大殺戮は正当化されるのだ。

殺人という罪悪の価値すら変わり、

善悪の判断基準までも変わり得る。

 

疑うことのないモノやコトの価値は、時を経てうつろい、

我らの意識も感覚も変化する。

あらゆる効能は、一定の条件下での限られたものでしかなく、

善悪の基準すら時に反転するのだ。

 

人間の解釈は、重層的な世界を無視して、時にずいぶんと都合がいい。

この都合の良さの上に、普段はどっぷりとアグラをかいている。

 

しかしひとたび気がつけば、

ああ!

我らは、なんと可変的な世界にいるのだろうか。

そして世界はなんと相対的であるのだろうか。

 

たぶん生命体は、

この可変的で相対的な能力を持って、

小さな変化からはじまり、

状況に応じて亢進と抑制を使い分け、

不断の変化を重ねて、

生き延びてきたのだ。

 

東洋思想(気の思想、陰陽論、五行論)の根底には、

万物は変化し、流転するという世界観がある。

からみ合いながら変わりつつ、流れゆく世界。

 

とりわけ陰陽論で、

陰と陽とにカチッと分類するという理性的な側面がいきすぎた時には、

分けても分けても分けきれないような、

もつれあいながら変わりゆく、

そんな東洋思想が持つ感覚的な世界に浸りたくなるのだ。

 

陰陽論には、

この分析的で理知的な側面と、

それだけでは網羅できない感覚的な側面とが、

陰陽論それ自体の中に混在しているように思える。

そしてそれが陰陽論の更なるダイナミズムを生んでいるように感じるのである。

 

 

 

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トルコ、バシリカ・シスタン(地下宮殿)にて逆さになったメデューサの頭を撮影
 

 

勝手に陰陽論4 ウルシ塗り2

夢を追いかける。

私の周りには、そんな友人達がいる。

年齢や時間、そしてお金を言い訳にするどころか、楽しんで挑戦している風情が漂よう。

その中の一人に、英語を勉強している人がいる。壮大な夢のために必要だという。そして私は、彼の学習の仕方に脱帽し続けているのだ。

まずは、夢の実現から逆算して大まかなタイムスケジュールをたて、そのために最も効率的な学習方法をじっくり勉強する(学習方法をだよ!)。

自分にあった勉強方法に辿り着くまでに、ゆうに半年以上は費やした。

学校を探し、効率的なツールを選び、英語のコーチをつけ、ネット教材も探す。終日勤務の中で勉強時間を模索する。うまくいかないと感じたら、何度も軌道を修正する。そして自分の弱点を徹底分析して有効な方法を柔軟に取り入れる。等々。。

話を聞く度に私は、ここまでやり方にこだわるんだ。。。と思っていた。

そして本人が納得できる体制が整った時から、彼のTOEICの点数はウナギのぼりに伸びに伸びて、もう伸びようがないのではないかと思えるほどだ。

 

今回は、成果を生む学習に焦点をあてて、陰陽論を勝手に考えてみたい。

(現実化のパワーとして、陰陽両輪は欠かせないと思った次第です。)

 

まず目標をみすえて計画をたて、やり方を決める。

→ これが目標に向けての指針となる。

→器づくりとなり、「勝手に陰陽論」でいうところの陰となる。

あとはコツコツやるだけ。

→実行する(Doing)ということで、「勝手に陰陽論」でいうところの陽となる。

 

<ちょっとおさらい:陰とは内に向かい凝集する力で、量を産み、形や秩序、計画や器を作る。陽とは外に向かい発散する力で行動する力となる。ただし、同じ力でも「持久力」は陰となり「瞬発力」は陽(同じものの中にも陰陽がある:陰陽可分)。彼の場合、毎日ちょっとした時間にさらっと行動しているように見えた。隙間時間を利用して何かをなす場合、持久力というより小さな瞬発力(すぐに行動できる力)が必要に思えるのだ。その結果、毎日行うという持久力への道が開けるように見える。>

 

思えば私の高校時代。試験勉強に際して、私はよく計画表を作った。

あと何日で、やるべき事はコレとアレと。

しかしやらずに日が過ぎる。そしてまた計画表を作り直す。

まだ間に合う。あと何日もあるじゃないか。

その計画は実行されることなく、結局一夜づけの日々が続く。

今思い返せば、陰(計画、器)は良かった。

しかし、行動するという陽がダメだったのだ!

もっというなら、器づくり(陰)にばかりエネルギーをとられて、肝心の実行するパワー(陽)が残らなかった。

あるいは、自分に合った計画ではなかった→陰もダメだった。この場合は、自分をわかってなかったのだ。

 

 

くだんの彼は、私に言った。

「やり方が決まったら、ウルシ塗りのように毎日やるんだ。ひと刷毛(ハケ)でもいいから。」

 

ああそうなのだ。

計画づくりもいいけど、ウルシ塗りもね。

 

そう、人生はダンス。

陰陽のダンスなのだ。

吸気と呼気

濃密な時間と流れる時間

秩序とカオス

束縛と自由

計画と行動

そして

夢と現実。。

これらを舵とるのは、この私。

 

さらに私は思い出した。

何ヶ国語もできる私の上司だった方の言葉を。

「語学はね、一定量に達すると質の変化を生むんだよ」。

それはマラソンのように、一歩を踏み出すというほんの小さな瞬発力が、ある一定量に達すると持久力へと変化しているのに似ている。

量の変化が質の変化を生む。

鍵穴に鍵が入りクルッと回転して、新たな扉が開くがごとく、

陰陽が合わさり、それがある一定量に達すると、別次元へと導かれるのだ。

 

人生がダンスだとして、

何とダンスし、どういうバランスで

どれだけ踊るのか。

 

新たな世界を感じられるまで踊り続けることができたなら、

きっと次なるダンスが待っているに違いない。

 

 <おまけ>

ウルシ塗り。

その繰り返すという行為に焦点を当てると、内に向かい量を生むという陰になる。

その陰なるウルシ塗りをさらに細かくみてみると、

同じ物(内)に向かって(陰)+ ひとハケの力(陽)→ 繰り返しウルシを塗る、「ウルシ塗り」となる。

 

< 後記>

翌朝目覚めると、覚えるべき事柄が丸ごと頭に入っている。

そんな魔法のような睡眠学習に憧れた私には、文中の友人のやり方はかなりの衝撃でした。

多分私だったら、勉強方法をそんなに研究せずに適当に勉強して、やっぱりダメだとあきらめる。そんな繰り返しをするだろうと予測できたのです。

きっと陰も陽も足りずに、失敗癖だけ繰り返す。

このことがこの友人をみていて、よくわかりました。

私は、ハウツー的な啓発があまり好きではないのですが、この友人は勉強していく過程で、明らかに自分への信頼を強くしていったように私には見えました。

そして更に伸びしろが増す。

 

何事かを成す場合の根底には、

常に自分をどれだけ知っているかが問われるように思います。

限界を設けるというのではなく、

どうすれば自分が伸びていくかがわかるという意味で。

 

つまり、

オノレを知るという過程(プロセス)をたどり、

必ずや自分も変化するのではないでしょうか。

そして新たな流れの冒険へと向かっていくのかと。

夢を追いかける友人達は、

意識してるかどうかはわかりませんが、

陰と陽と、それらを舵とる自分とのダンスを楽しんでいるように思えて仕方ありません。 

 

 

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 イタリア、ナポリの街角にて撮影

勝手に陰陽論3 ウルシ塗り

日本を代表する工芸品の漆器、ウルシ塗り。それゆえ、英語の「japan」には「ウルシ」の意味があるという。

ウルシの木から採れる樹液を、加工した木や紙に塗り重ね、30から40の工程を経て漆器に仕上げていく。

何度も何度も塗り重ねて作られる漆塗りの技法の中には、「馬鹿丁寧」の馬鹿をとって馬鹿塗りと呼ばれる津軽塗もあるほどだ。

 

同じ動作を何度も何度も繰り返すこと。

今回はウルシ塗りの「繰り返す」という工程に焦点に当てて、陰陽論を展開してみたい。(ああ、また勝手極まりないです!)

 

繰り返すという行動様式を陰陽に分類すると、「陰」に属する。

その反対に軽やかに次々と移りゆく様は、「陽」となる。

<ちょっとおさらい:陰とは内にむかって集中する力で、凝集して形を作り重さとなる。速度は遅く、時間がかかる。陽とは外に向かって発散する力で動きを生み、軽やかさとなる。速度が速く、時間がかからない。>

 

たとえば音楽。

同じ曲を飽きることなく、時を忘れて聴き続けた経験はないだろうか。

他の曲じゃダメなんだ。

あの曲のあのサビを身体の中に染み込ませるのだ。

そうだ。

音を食べよう。リズムへ分け入れ。歌詞を吞みこめ。もっと大音量で!

細胞の奥深いところへと音の持つ振動が到達するように。

そしてそこから何かが発動するような、そんな衝動を味わうように。

食べるように聞いた、あの音楽。

リピートスイッチがない時代、目当ての曲が終わる頃になるとステレオに近づいてレコード盤に針を何度も何度も落とした。

 

一方で

BGMとして邪魔にならずに聞き流す場合がある。

イージーリスニングと言われるような軽やかさを感じさせながら

スキー場やカフェなどで

次々と心地よく流れゆくメロディを味わい

雰囲気を楽しむのだ。

 

では本はどうだろう。

子供の頃、私は漫画を何度も何度も飽きることなく読んだ。

筋書きも絵もすべて知りつくしているのに

ウキウキ読んだのだ。

子供に本を読み聞かせる場合だってそうだ。

同じ内容の話を何度も何度も

時には毎日繰り返す。

同じくだりで大笑いをし、

その都度本気で驚く。

こうして何度も何度も骨身にしみるほどに繰り返す。

 

大人になって、好きな本を再度読むこともある。

ただ子供の時とは違う。

感動したはずの内容はすっかり忘れており、

感動したという事実のみが記憶に残っている。

ある時は、以前読んだことすら忘れていて

終わり頃に、あれ?この話知ってる気がする??

などと思ったりするのだ。

またある時は、本棚に同じ本を見つけては、自分に愕然とする。

 

音楽と本。

繰り返して聞いたり、読んだりするのは、陰陽論においては「陰」に属する。

一方で、聞き流したり、速読したり、情報を検索したりするのは「陽」となる。

 

思うに、このような繰り返す音楽の聴き方や本の読み方をしたのは、

子供時代から青春時代の陽気溢れる時代に圧倒的に多かった。

 

 

生まれたての赤ちゃんの時から幼少期、

そして青春時代までを人の一生というレンジで眺めてみれば、

「陽」の気がまさる時であり、

そこから徐々に徐々に「陰」へと移行する。

老年は陰気旺盛となり、

身体は硬くなり、

あらゆる機能は遅くなり、

どんどん閉じて

生命体の終焉となる。

(注:ずいぶんザックリ言いましたが、人間の一生は、生・長・壮・老・死という過程をたどり、人間の陽気と陰精の共同作業。陰精については、またいつか機会があれば。)

 

その「陽気」溢れる幼少期。

この時期の行動の仕方は、「陰の力」が強い気がする。

身体の芯に届くようにと

奥へ奥へと染み込ませるように

繰り返す。

身体まるごとで

感情全開で

感覚総動員で

理解というより体得し、味わいつくすまで

繰り返すのだ。

 

中年以降の私は、

すでに陰気マサる時代となっている。

何を見ても、何を聞いても、

じきに忘れる。

わかった気になるのも速ければ、

何をしたのかわからなくなるのも速い。

泥棒に見つけられないようにと

何かを隠したりしたら

自分こそ見つけられない。

その上、苦しめられるパスワードや暗証番号の神経衰弱ゲーム。

そしてヤミクモにキーを叩いてのフリーズ地獄。

落ち着いて行動するというより

手当たり次第やってみるという「陽」の行動パターンだ。

 

子供時代は、

集中して(陰)遊んでいたせいか、時を忘れて行動しており、1日が短い。

そして1年は、随分と濃い中身で、とても長い時間がたった気がした。

1日が短く、1年が長い。

 

大人になると

時間やこなすべき仕事に追われて、忙しく動き回り(陽)、1日は長い。

これは自転車操業(ペダルをこいでいないと倒れる)に似ていて、疲れ果てるからだ。

しかし1年というまとまった期間になると、アッという間に感じられる。

そう、今年ももう12月。。

1日が長く、1年が短い。

(注:1日も速いという場合は、時間に追われれる生活をしていないことが多い。たとえば休日はアッという間に終わってしまうように。)

 

陽気溢れる肉体を持つ子供時代には、繰り返すという「陰」の行動習慣をとり、

陰気まさってくる肉体へと進む大人には、どんどんこなすという「陽」の行動習慣が

みてとれる。

 

この両者の違いが

それぞれの時代の時間感覚を作っているようにも思えるのだ。

 

そして多くの天才たちは、

子供時代に「繰り返す」という行動様式を格別にとっていたように思う。

虫の図鑑を暗記しつくしていたり

SL少年だったり

天体望遠鏡から星座をのぞいたり

無我夢中の世界があるように思う。

完全無欠の閉じた内向する陰の世界。

 

子供に次々と情報を外から与え

どんどんと行動できるように教えるよりも

ひとつのことを何度も繰り返して

内的世界をじっくり味わう時間を与える方が

豊かになれるのではないかと思える。

つまり、子供時代(肉体が陽)の繰り返す行動様式(陰)で、陰陽バランスがとれるのではないだろうか。

陰が深ければ深いほど、陽の伸びしろが増すのだから、全体として大きく育つと言えないだろうか。

  

子供時代から今までの自分の行動様式は、無意識ではあったが、陰陽の法則どおりだったのだと思い返している。

 

あの夢中で繰り返して聞いた音楽や

何度も読んだ漫画が、

そしてその行為自体が、

時々ひどく懐かしい。

 

<おまけ>

ウルシ塗りといった伝統工芸の伝統というものは「陰」となる。長い年月を重ねて培われ、形となって受け継がれるという意味で。これに対して、流行、トレンド、ブームといったものは「陽」。ちょっと伝統から派生して、規則や規範は「陰」で、自由は「陽」。

  

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メキシコ、トゥルムのカフェにて撮影 

 

勝手に陰陽論2 Doing と Being

時折思い出すのは、あのセリフ。

鍼灸師になりたての頃、研修先の先生がおっしゃっていた言葉だ。

「体の弱い患者さんに元気になってもらうのは割と簡単だが、次々に行動する人を休ませることは実に難しい」と。

 

本当に、そう思う。

 

比較的体力のある方が不調になると、更なる行動に出る。

「運動不足が原因ですね。最低5000歩は歩いているのですが、8000歩にしました」。

「足が弱るのも不安なので、パーソナルトレーナーをつけて筋トレを始めました」。

「もっと身体と向き合うためにヨガとピラティスもやってみます」。

陰陽でいうなら、あっという間に外へ動きだすことができる「陽」。

 

一方、身体の弱い方や持病のある方は、体力がついてくるのをジッと待つ。

「私の外出は週に2回だけ。出かけた次の日は必ず自宅にこもって養生をしなければ身体が持たないのです」。

「1日に大きなことはひとつしかしません。それで精一杯。友人とランチして、夜はまた別の友人とコンサートなんて信じられない」。

陰陽でいうなら、身体と向き合って待つことができる「陰」。

 

 <ちょっとおさらい:陽とは、前や外に向かって拡散し、動的な力を持ち、軽快で前のめりの歩みとなる。思考は未来へと向かう。陰とは、後ろや内に向かって凝集して量を生み、足取りは後づさる。思考は過去へと向かう>

 

現代という消費文化の中にあっては、モノも情報も刺激も過剰であり、過剰でありつづける世界に慣れきってしまった。それゆえ、ひとつひとつの事柄にかけるエネルギー量も少なく、移り変わりの展開も速い。そういった影響もあってなのか、待つことができない人も増えている感じだ。待つ代わりに、行動することで何かを埋め合わせているような印象すら受けることもある。そして時々、この過剰なナニモノかをリセットする行動がさらに必要となる。

 

Do Do Do、断捨離をしてGo 、断食もしてGo Go。環境も身体も風通しが良くなったなら、内面をのぞくマインドフルな瞑想もDo Do Do。さぁリセットできたからまたDo ! Do してGo !!Go Go Go !!!

 

このように陽タイプは、ドンドン外に向かって活動することができ、きっかけを作って大きく変化することもあるが、活動をやめ、立ち止まって内省することがむずかしい。

 

反対に待つことのできるタイプというのは、

否応なく幼少期から身体の不調と向き合わされてきた過去がある。

他の人達は難なくこなせているようにみえる事が、自分にはできない。

みんなにおいていかれるけど、仕方ない。

やりたいけど、動けない。

こうして独自のペースを作って自己を守ってくるしかなかった。

その結果、自分にできることを見極めた上でしか動かない。

 

陰タイプは、自己の内面に向きあい、充電完了までジッとそこにいることができる。動きだせば着実に進むが、行動しはじめることが難しい。

 

 今回は、このそれぞれのタイプを比べながら、最近よく目にする Doing と Being の本質を陰陽論で迫ってみたい。題して、勝手に陰陽論2。(またしても恐るべしカナ!)

 

Doing:行動すること。行動の仕方。

Being:ただあること。存在のあり方。

<注:このDoing Being という言葉は、心理学、医療(特にメンタルケア)、コーチングといった分野において近年よく使われるようになり、自己認識のツールにもなっている。私がエネルギーワークを習った学校では、「 Who are you?(あなたは誰ですか?)」という問いに答える中で、このDo とBe の概念を説明していたように思う。つまり、私は◯◯する者です(Do)。私は、◯◯である者です(Be)といった感じで。。ナンノコトだかさっぱり???という方は読み飛ばしてくださいね!>

 

この Do と Be は、一見相反する方向に見える。Do は もっぱら外に向かい発散して行動する「陽」で、Be は 自己の内面にも向かい対峙することができる「陰」をも含んでいるからだ。

 

前述した患者さんのタイプをとって、外向きの Do と 内向きにも目を向けられる Be とは、並列で対極の方向性を持っているようにもとらえられる。

しかし、ここではもう少し別の視点から探ってみたい。

 

並列で考えてみると、実はどうもしっくりこないのだ。

実際、病気が治っていく過程において、Do タイプ(陽)の人は、変わっているように見えて、似たようなことを繰り返すケースが多い。

これに対してBe タイプ(陰)の人は、着実に変化をとげて、もとには戻らない。

この差は何なのだろう。

 

この Do と Be の両者を「時」の観点から比べてみる。

Doは未来へ向く。つまり「陽」。

Beは過去に向くのではなく(つまり「陰」ではなく)、いわゆる「イマココ」に在ることを意味するのだ。それゆえ、Be は陰という分類には当てはまらない。

 

何をしても(Doing)、どれだけ行動しても、たどりつけない境地がある。

何もしなくても (Being)、自ずから次々に立ちのぼってくる世界がある。

 

どうやら Do と Be は同列の事柄ではないと思えてきた。

つまり、Being > Doing 。 Being とDoingとでは、次元が違うのだ。

 

治療でいうなら、どれほどスバラシイ技術で何をしようとも治らなかった痛みが、

器の大きな治療家と会っただけで癒されてしまうことがある。

(怪しいと思われるでしょうが、ホントこういうことあるのですよ!)

この治療家の人間としての「あり方」が、

痛みを取るための「行い」を凌駕してしまう。

 

また私は、ある先生から陰陽論の本質を次のように習ったことがある。

3次元の空間的器(一定の構造を持つ場所)を陰とし、

4次元の時間(流れ動くエネルギー)を陽として、

この2つが合わさって回転すると、

過去でも未来でもない、

瞬間としての「今」を連続して次々にうみ出している。

イマ、イマ、イマ、イマと生まれ続けているのだと。

(注:これを読んでいるあなたの今も、実は陰陽あわさって「イマ」がくりひろげられているのですよ!) 

 

ガチャポン*のように(*くるっと回して、ポンと出てくるオモチャの機械)

溢れでてくるイマを想像した時、

Being の謎が解けた気がした。

生まれでるイマの只中にいることこそが、Beingの状態となると。 

 

世界は対でできている。

陰と陽。

月と太陽

男と女。

満ち潮と引き潮。

光と影。

ネガとポジ。

プラスとマイナス。

陽子と電子。

DNAの二重になった螺旋もそれぞれの向きが反対であるという。

対とは、それぞれの特質が反対のベクトルを持っており、一本の線に左右に伸びる矢印がついていると想像してみて欲しい。

つまり、←→  こんな感じだ。

この2つの極の真ん中を貫き、この平面に対して垂直に走る方向性があるとしたら??

  

陰陽が地(陰)と天(陽)をあらわし、

その真ん中に人間が入って、

つまり、天・地・人がそろって、

さらなる生命エネルギーの渦が廻りはじめるように

 陰(空間または過去)と陽(時または未来)が合わさって、

その真ん中に「イマ」を生む。

そしてこのイマにいるためには、

私の身体と心と頭(意識)が一体となり

人間まるごとの存在として統合されていなくてならない気がする。

 

もしくはイマという

決して止めることも、

つかむこともできない、

流れゆく瞬間(マタタクのマ)に入ることができたなら、

人はまるごとの自分を味わうのだ。 

 

鍵穴(空間:陰)に鍵(時:陽、Doing )がはまり、

くるっと回転して、

異次元への扉が開く(イマ: Being)。

Being であり続ければ、次々と扉が開いていく。

Doing だけでは、開けられなかった扉が。

 

行動(Do)するならば、

Doing を行う我執(目的、こだわり、思惑)を解きはなち、

忘我の中に埋没せよ!

その時はじめて、

Being の状態を味わえるのだ。

 

もしあなたが

なかなか治らない病気を治したいのなら

今までの行動パターンや思い癖をいったん手放して

 Being の状態へと進めるように

イマココにある自分を感じてみるといい。

 

平面で足ぶみしていた状態から

生命を生みだすオオモトの流れの中へ

その大いなる螺旋のウズの中へと

還っていける方法に違いないのだから。

 

そして陰陽論の学びは、このBeingの状態を経験して実践となる。

 

<おまけ>

瞑想は、瞑想すること(Doing)で、Being の状態に導けるもの。

肉体という器(陰)+ 瞑想する(陽:Doing)→  統合された丸ごとの自分(Being)

 

〈後記〉

この記事を書きながら、ずっと縄跳びの遊びが浮かんでいました。

最後の結びに。

 

思い浮かぶは、「 ♪ お入りなさい ♫」という2人でヒモの端をそれぞれ持って、ぐるぐる回して、その中に次々に人が入っては出て行く縄跳びの遊び。

大地(陰)と空・天(陽)との間にあって、

あの縄が作る空間は、

生まれでるイマの世界。

その世界の中で縄跳びをしている時の無我の自分。

縄を踏まないようにと、

ただそれだけに集中して。。

 

そう、Being は遊びの中に。 

 

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 スリランカコロンボのガンガラーマ寺院にて撮影

 (なお、文中の会話は患者さん達の了承を得て掲載)

 

 よかったらこの記事も。陰陽の世界、体験版です!

garaando.hatenablog.com

 

勝手に陰陽論1 グラウンディング

 あの時は、何もわかっていなかった。

 

あの時。そう、鍼灸学校の初老の先生が、治療院を開く心得を卒業間近の私達学生に話した時のことだ。

「とにかく3年だ。患者さんが来なくても、3年間毎日ジッと治療院を開きつづけ、待つことさえできれば、食べていけるようになる。石の上にも3年だ」。

 

はぁ?3年開きつづけて待っていれば、それだけで食べていけるって?

技術は?人間性は?適性は?

どーなの??どーなの??

 

卒業してすぐに治療院を開くなんて、ヘタクソがばれちゃう!と思っていた私には、そもそも縁のない話だった。

ましてや、患者さんが来なくても3年治療院を持ち続ける財力は、からっきしない。

半年、いや3か月でも無理。ご冗談でしょ!って感じだ。

しかも、常識的社会におさまることのできない世捨て人的な風来坊人間に与えられた、鍼灸師というせっかくの職業!(30年ほど前のバブル絶頂期だった時代の全くの私見です!傷つく同業者の方がいらしたら謝ります。ごめんなさい。)

その憧れの根なし草生活には、治療院という枠組みはいらないね!なんて思っていたのだ。

 

いつかはハリ箱ひとつを持って世界を旅してまわりたい。

望むことは、ずっとハリを好きでいつづけられること。

 

こうして私は、鍼灸学校卒業後も、研修させていただいている治療院で働きながら、様々なアルバイトや出張治療をしながら、風来坊生活をお気楽に5年以上も満喫していた。

 

貧乏ではあったが、今を生きてる感じがした。

 

しかし、その後にエネルギーワークを学びはじめ、この風来坊的な、あるいは根無し草の生活に警鐘が鳴らされたのである。

 

私が行った学校(Barbara Brennan School of Healing。現在の米国フロリダ州単科大学)では、1年目にその年間を通して、グラウンディングというものを習う。姿勢を正し呼吸を深め、エネルギーを下半身へ落とし、さらに地球の核へとつながるというグラウンディングの基本をだ。

 

グラウンディング創始者はクリント・オーバー氏)とは、いわゆる「地に足をつける」という、根なし草とは対極の概念である。

アーシングとも言われ、素足で大地に立って地球とつながり、アースすることをいう。アースすることによって電子の移動があり、肉体に起こっている炎症を沈める効果をはじめ、抗酸化作用などもあるとされる(かなりの効果が期待される治療法です。場所さえあればタダでできるので、ダマサレタと思ってお試しください。土をみつけ裸足で立てば、とりあえずそれでよし!)。

 

またグラウンディングは、西洋的な概念というよりも、東洋思想に端を発している。

太極拳などの武術では、下実上虚(カジツジョウキョ)の状態が理想とされる。下実上虚とは、ヘソ下5cm、さらに腹筋内奥5cmくらいの場所にある丹田(女性ならば子宮近くの位置)に「気」が充実しており、上半身は下半身の上に軽く乗っているような状態をいう。

なお、現代人は、PCや携帯やストレスなどで上半身に緊張を強いられ、上実下虚(ジョウジツカキョ:上半身にエネルギーが集中し、下半身まで回らない)の状態でいることが圧倒的に多く、不眠、頭痛、めまい、肩こり、耳鳴りなどの原因にもなるとされる。

立禅(リツゼン:立った状態で行う気を練る手法)などは、まさにグラウンディングを鍛える方法だ。エネルギー(気)が十分に下半身、足、足裏へとさがって充実し、地面と接して、さらに地中深くに根をはる状態を目指すのだから。

 

そして肉体でグラウンディングが十分にできていけば、

つまり「地に足がつく」と、

現実世界が充足してくるという。

(注:肉体がグラウンディングしているというのは、地に足がつく以前に、自らの肉体に意識を向け、身体感覚を磨いてケアをし、身体を創る。つまり自らの身体と繋がりなおすことからはじまります。)

 

物質的、現実的側面(肉体も含む)を忌み嫌うことなく、

十分に受け入れて真の豊かさを味わうというのが、

広義のグラウンディングだ。

 

グラウンディングされてはじめて、精神性や理想といった高みへと向かうのだ。

深く深く地中に根をはり、高みをめざす。

より深く、より高く。。

 

今回は、このグラウンディングを陰陽論で読みといてみたい。(ああ、これすべて私見です!恐れ多いですね。。)

 

根なし草生活をやめ、場所を構えて治療院をはじめることは、グラウンディングするということだ。

<ちょっとおさらい:陰とは、下や内に向かって凝集する力を持ち、集約されて物質的な構造を生み、形を作る。陽とは、上や外に向かって拡散する力を有し、動的な力を生む。>

 

グラウンディングして下に向かう現実的な力(陰) と 精神性や理想をめざす上へ伸びる力(陽)。

治療院という物理的な器(陰)と 患者さん達や治療家のエネルギーを含めた動的な力(陽)。

 

大地に根をおろす治療院としての器(陰)を持てば、

その器にあった動的エネルギー(陽)である患者さんが入りこむ。

この動的エネルギーが大きくなれば、それに拮抗する力である器のエネルギーも大きくなり、安定する。

その結果、自然に患者さんが多くいらしてくださり、はれて繁盛治療院の誕生となる(なるはずである)。

 

こうして治療を目的とした「場」ができあがるのだ。

 

さらに先生は言った。「3年治療院を開きつづけ、待つことができれば・・」と。

3年治療院を持ちつづけ、待つということにも意味があった。

<ちょっとおさらい:陰はさらに陰陽にわけられる(陰陽可分)。治療院は物質ととらえると「陰」に分類できるが、その陰の中にも、治療院を創るという動的なエネルギーである「陽」がある。>

 

治療院という器(陰:目にみえる実態)を作り、そこに時間(陽:目にみえないエネルギー)をかけて、とにかく居つづけて待つ。自分の理想とする治療が行われていると想像し、なるべく勉強し、いつ患者さんがいらしてもいいように準備をし、治療するための気を練りつづける。

これらすべては、器(陰)を作るための動的エネルギー(陽)だ。

物質的な器だけあっても、場はできない。

 

動的エネルギーを入れるための器(陰)をつくり、

時間とエネルギー(陽)をかけて

陰陽一体となって

場が生まれる。

 

場という器(陰)ができたなら、

患者さんをはじめとする人々(流動的エネルギーである陽)が集まってくる。

これがあの時、先生が経験から教えてくれたことだったのだ。

 

私は治療所を構えて、今年で18年になる。

繁盛治療院とは言いがたいが、身の丈に合っていると満足している。

だからこそ、ハリを好きでいつづけられている。

そして時々ハリ箱を持って、旅に出る。

 

かくて足かせだと思っていた治療所は、一番長い時間を過ごす私の人生の居場所となった。 

 

陰陽が合わさった世界の可能性は、深くて大きい。

 

さぁ、大地に深く深く根ざしなさい!

グラウンディングを教えてくれた恩師達に感謝したい。

 

(なお、治療院を持たなければグラウンディングできないというものでもありません。根無し草に憧れた私の場合の話であり、流し?の治療家でグラウンディングなさっている場合もあります。どの視点でどう見るかが陰陽論の面白いところです。)

 

 

  <後記>

大地が揺れる。大地が崩れる。大地が沈む。

人間がよってたつ大地の崩壊は、どれほど安心感を失わせることなのでしょう。

今年は頻発する自然災害に見まわれ、

私はずっとエネルギーについて考えていました。

 

エネルギー。

そもそも豪雨、山崩れ、地震、台風といった災害の中心になっているものは自然エネルギーと言えます。

災害の被害を大きくしてしまったのも、ダムの放流、山を削っての太陽光パネルの設置、ブラックアウトといったエネルギーにまつわるものであったかと。

そして停電になって、ほとんどの生活システムがストップし、町の機能はいきなりマヒ状態に。電気はどれほどの恩恵を与えてくれているのかと今更ながら思います。

 

よくよく考えてみれば、

いつの世もこのエネルギーをめぐって、人類は戦争をしてきました。

複雑に入り乱れたパワーゲーム的な覇権争い。パワーもまさにエネルギー。

その裏にある石油エネルギーの利権、お金というエネルギーをめぐっての経済的な対立(注:エネルギーは高きから低きへ流れるものですが、お金だけは低きから高きに流れていないか?という疑問がありますが)などなど。

 

ああ、なんとエネルギーをめぐる問題は果てしなく巨大なものなのでしょうか。

自然エネルギーであれ、人工的なエネルギーであれ、そして人間関係における感情エネルギーであれ、我らはエネルギーの海の中で暮らしているのだとしみじみ感じます。

 

このエネルギー問題を陰陽で考えるとどういうことなのでしょう。。

 

ある朝目ざめると、言葉が浮かびました。

「不当にパワーを失うな」と。

どうにも歯が立たない自然災害や不透明な社会構造や状況を目の当たりにして、

どんどん力を失う感じがしていたのです。

 

地球規模でおかしいらしい。

どうせ、何が起こるかわからない。

もうそうなったら、お手上げだ。

ガラスのような割れるものは処分してしまおう。

最小限の物だけでいい。

形あるものは壊れるのだから。

 

これはこれでその通りなのですが、それと同時に自分のパワーまで失い、そのパワーをどこかに明け渡してはならないのではないかと思ったのです。

エネルギー保存の法則(昔ならったはずのうる覚えの法則)があるとしたら、

明け渡してしまったエネルギーは、さらにフワフワと動的なエネルギーへ吸収される気がするのです。

荒れ狂う動的なエネルギーを入れるに、ふさわしい確固たる器を作ることができれば。

つまり、陰の力を強められれば、陽の力と少しは拮抗できるのではないでしょうか。

 

まずは自分がパワーレスにならずに、

しっかりと自己の肉体を感じ、

その肉体を通して、

地球の核にむかって錨をおろし、

グラウンディングすること。

こうして少しでも陰の力を強めることができたなら。。

 

家族、仲間、学校、町内会、会社、コミュニティ。。そして地球。。

いろいろな器(陰)があると思いますが、

まずは自分の肉体にグラウンディングすることから。

 

私は、今一度、自分の肉体を充実させ、大地をしっかり踏みしめることを考えさせられています。

  

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 イースター島にて(立禅する?)モアイ像を撮影

 

 

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近年、実はグラウンディングしていたことがわかったモアイ像 (なお、写真はネットから拝借)

 

緊急告知 セルフケア2 ヒエトリ道

こんな夏は、はじめてだ。

多くの患者さん達が、こう語る今年の猛暑(2018年@東京)。

 

皆様のお身体を診せていただいている私は、日ごと危機感がつのる。

この夏の患者さん達の身体の固まり具合は、ハンパないから。

まるで石像のよう。。

そして今の期間をどう過ごしたかの結果が、秋にやってくる。

(身体は数ヶ月遅れて症状が表面化します。大病をなさった方の多くは、「発病する半年前くらいからモーレツに疲れていた」とおっしゃいます。)

 

そこで緊急告知。

いま一度 “冷えは万病のもと” と冷えの怖さを知り、“ 何はなくとも冷えとり(以下、「ヒエトリ」と表記する)” を合言葉に対策をねっていただきたい。

 

まず冷えはなぜ悪いのか。

東洋医学において、「人体の健康とは、よどみなく 気 が流れていること」と定義される。

つまり、「流れ」こそ生命体の真髄。

その流れを阻むもの、それが冷えなのだ。

冷えると生命活動が縮こまって固まりだし、流れがなくなる。

また固まった箇所ができることで、スムーズだった大きな流れをさらに阻む。

こうして全体の生命活動が停滞へと向かう。

それゆえ低体温が

あらゆるガンを

アトピーなどのアレルギーやリウマチ等の膠原病といった免疫不全を

婦人科系の病気を

糖尿病といった代謝系の病いを

ギックリ腰や膝痛、五十肩といった外科的な痛みを

躁鬱病

不眠症や体調不良といった自律神経失調症

そして認知症をも

誘発するのである。

この状態を打開し、流れをつくりだすために必要なもの、それこそが熱なのだ。

よって、体温が高く頭寒足熱の状態が、ヒエトリのめざすべき理想形といえる。

  

そして現状のチェック!

冷房のきいた場所で冷たい物(スムージーやアイスコーヒーなど)を飲み、内側からも外側からも身体を冷やすと

→ 感覚が鈍って冷えてると感じない

→ 身体がすっかり固まっているのも気がつかない

→ さらに冷たい物を飲み、シャワーで汗を流し、冷房をつけて睡眠をとる

→ 足がだるい、身体全体が重い、頭が痛い、寝ると足が熱くて、ほてる*

→ 自律神経がダメ(例:睡眠が浅く疲れがとれない、食欲がなく胃腸の働きが悪い)

→ 暑いのか寒いのかわからないながらも、裸足ですごす

→ ますます身体が冷えて、固まる

→ ますます無感覚になる

 (*:ほてりは冷えの極まった状態。陰極まりて陽となったもの)

 

あなたは、この無限ループにはまっていないだろうか。

このような流れを断ち切るのに最も効果的な方法が、ヒエトリなのだ。

 

ここに効果的なヒエトリ方法のいくつかを紹介させていただくことにした。

 

〈お風呂〉

まずはなんといってもお風呂。

シャワーですませていないだろうか。

シャワーだと汗を流して爽快感はあるのだが、冷えは全くとれていない。

朝風呂の人も多いが、その日の冷えはその日のうちにとるべきで、夜の入浴がオススメ。1日の疲れもとれ、睡眠の質もグッと向上する。

 

暑いと身体を冷やすために汗が出るが、お風呂に入って出る汗は、毛穴が開いて身体の中にある毒素(重金属、放射能、ストレスなどのメンタルからくる気の滞り)を排出してくれる。

 

入浴のポイントは、身体の中まで、芯まで温まること。

ただし入浴前の水分補給は忘れずに!

 

大根を強火で煮ると、外側はすきとおった色になるのに、中は白色のままで硬い芯がのこる。

 

弱火でコトコト煮込むと、全体がすきとおった色に変わり、中まで火がはいり、ほっこりする。

 

温度の高いお風呂(40度以上)に浸かると、肺に熱がはいり熱く感じて温まった気になるが、実は身体の中心まで熱がいきわたっていない。

 

弱火でコトコトをイメージして、ぬるめのお風呂(約37〜38℃、適温は個人差があるので調整を!)に入り、温まって透きとおったダイコンのような身体をめざしていただきたい。

半身浴が好ましく、時々肩や首までドップリつかる。

入浴後はくつ下をはいて、足先の温かさをなるべくキープする。

 

またお風呂は入りたいけど、その後の掃除がね。。と渋るあなたには、銭湯がオススメ(大人460円。10枚綴り回数券だと1回430円@東京)。

週に1回でも大きなお風呂で、たまった冷えをぬぐいさり、浮き世の疲れも一掃できたら、なおよし!

 

〈サウナ〉

この時期のサウナは、かなり消耗するのでオススメできない。

ま、ひとたび玄関ドアを開けたなら、そこは無料のサウナ。

わざわざ有料サウナに行くこともないと思うのだが、それでもどうしても入りたいというサウナラブ族は、サウナ後に程よい温度の場所で十分な休息とエネルギー充填(塩分やビタミン、ミネラルなどの補給)が必須だ。

水風呂とサウナのループを楽しむ方は、長く水風呂に入ると身体が冷えきるので、十分にご注意を!

(補足 : もともと温冷浴は、西式医学の祖、西勝造氏が提唱したもので、基本は1分ずつ4セットの交互浴+最後の冷浴。これは自律神経の切り替えスイッチを強化し、皮膚の働きを活性化させるのをめざしたもの。)

 

〈足湯〉

お風呂も銭湯もダメなら、足湯。

お風呂場に足首、できればふくらはぎまでお湯を入れて、足をつける。上質のラベンダーオイルを数滴たらせば、深い眠りが待っている。

ながらスマホ(オススメしたくはないが!)でもできる、あなたを健康へと導く20分。

お湯が冷めてきたらさし湯をして、上半身も汗ばむくらいが目安。

これも弱火でコトコトと。

 

〈入浴・足湯後の水分の取り方〉

身体が温まり、お風呂あがりに冷えたビールをグイッといきたいところだが、ここはグッとガマンして、氷をひとかけら口に含む。

舌の上でトロケル氷は、ほどよいノドゴシをあなたに与え、喉の乾きを潤してくれるはず。

せっかく身体を温めたのに、冷えた飲み物をグイグイ飲むと、ああ!悲しいかな、またも無限ループに逆戻り!

 

〈冷房の中での睡眠〉

長ズボン、長袖の薄手のパジャマなどが理想的。

なぜなら、冷えは関節から入り込むから。

(スーパーなどの冷凍食品などの売り場に行くと、肘が痛くなる経験はないでしょうか。あれは、短時間でも冷えが関節に入りこむからです。)

よって肘・肩・膝は、薄手でもいいので1枚の布で保護するのがよい。

東洋医学の見方:起きて活動している間は、身体の表面に“ 衛気 [えき] ”とよばれる気をまとっています。これは、寒さやウイルスといった外からの侵入者に対して、防衛する働きがあります。ただし、寝てしまうとこの衛気は身体の内側にはいってしまい、外敵からの攻撃に弱くなるのです。寝る時に布団をかけて寝るのは、このためです。)

また昨今は首を冷やすのを奨励するCMなどもあるが、あまりオススメできない。

(首を冷やしすぎて自律神経がおかしくなった症例が、私にも数多くあります。自律神経が通る首から背骨に冷えがはいると内蔵の機能低下を招きます。)

冷房の風が首まわりに直接当たるときは、日本てぬぐいやガーゼ等の薄手のてぬぐいを巻いて防御すると、夏風邪の予防となる。

洗った髪は、乾くのを待ってから寝る。

 

〈日中の冷房下での注意〉

ミュールやサンダルなど素足で外出するときは、靴下を持ち歩き、喫茶店など長時間冷房下で過ごす時は、はく。

慢性的に頭痛に悩んでいる方のほとんどは足が冷えているので、このケアを忘れずに!

スカーフやショールなども常に携帯し、首、肩、肘、膝に冷えが入らないように注意する。

飲み物は、温かいものをとり、氷入りのキンキンに冷えたものは控える。せめて常温の飲み物を。

 

上記のような対策をはじめられたなら、ご自分の身体感覚が蘇り、新しい気づきも生まれるのかもしれない。

 

これほどの酷暑。

対処法をとおして自己の冷えに気づき、身体を見直すチャンスに是非ともかえていただきたい。

相手に不足はないはずだから。

 

《後記》

 5本指靴下、足湯はとうに衆知となり、最近ではシルクソックスの重ねはきや腹巻きもトレンドとなりつつあります。

コンビニでは常温の水も販売されるようになりました。

ヒエトリに対する意識は、高まりつつあるといえます。

しかしその一方で、ローフードやスムージーもはやり、夏になると若い女性達は、圧倒的にサンダルやミュールを履いています。

 

身体の健康を保つ上でもっとも大事なことは、冷やさないこと。

冷えを取り除いてはじめて、食事療法といったさまざまな療法が功を奏すのです。

大病を患って私の処へいらした患者さん達の多くは、お風呂に滅多にはいらずシャワーだけだったとおっしゃいます。

コマメにヒエトリができていたなら、大病にならなかったかもしれない。

そう思う度、徹底してヒエトリの大事さを皆様にお伝えしたいと思っていました。

いつか「ヒエトリ道」として、お伝えしたいと。

 

この自然環境の厳しくなる一方の昨今、今一度ヒエトリの重要性を考え、是非とも実践してみてください。  

 

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パタゴニアフィヨルドにて約200万年前の氷河を撮影

 

 

 よかったら、この記事も。

garaando.hatenablog.com