“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

勝手に陰陽論8 繋がりあう世界

信じる力。

それはしばしば現実を変えてしまう。

 

今回は、その具体例をご紹介したい。

それは偽薬(ニセグスリ)。

これを飲んで得られる効果をプラシーボ(プラセボ)効果と呼ぶ。

砂糖でできたアメ玉であっても、この病気の特効薬だと信じて飲んだ場合、ホンモノの薬と同じような効果があるという。

使う側の心理ひとつで、アメ玉が薬に化けるというのだ。

 

へぇぇ。。砂糖玉を薬だと信じるだけで効果があるのか。。

 

随分昔の話になるが、私が働いていた治療所では「医道の日本」という鍼灸師むけ月刊誌をとっていた。

ある時、その雑誌にプラシーボ効果についての研究発表(確か筑波大の研究だったと思う)が載った。その内容をオボロゲではあるがザックリ要約するとこうだ。

「ホンモノの薬よりも効き目は落ちるけど、偽薬も効果ありだよ。そしてホンモノよりマシだけど、同じような副作用もあったよ。(肝臓の各種検査数値、腎臓の各種検査数値記載のデータ表添付)。よってプラシーボ効果は本当だよ!」

 

私はこれを読んで驚いた。

はて??副作用??

砂糖玉で薬と同じような副作用まで出るのだろうか?

そして偽薬は有効で副作用もなし!となれば偽薬の役割があるけれど、副作用があるとなれば、そもそも偽薬の意味はあるのだろうか。。

 

この薬は効くと思って飲んだ場合、患部に薬効が及ぶのはわかる。

ストレスで胃に穴まであけちゃうことができる人間だ。

メンタルが肉体に及ぼす影響は、ダイレクトに作用するに違いない。

ここまではわかる。

でも、砂糖玉を飲んだだけで副作用もあるわけ?

どうなの??

 (補足:偽薬の場合、この薬はこれに効く!とわかって飲むのだと思いますが、副作用は調べてみないとわからないことが多いのでは?よって薬の効き目は信じることができても、副作用については知らないので信じるかどうかといった前提が成り立たないと思うのです。つまり、信じることで効果を発揮する偽薬では、副作用が起こるとは考えにくいと思った次第です。)

 

すると友人が仮説を話してくれた。

臓器(陰)どうしがシステムとして繋がり(陽)あっているとしたら、どれかの臓器が回復するために、一時的に他の臓器の機能(陽)をダウンさせる必要があるのではないかと。

(ちょっとおさらい:陰とは、内に向かい集約する力を持って物質をつくり、目に見える。陽とは、外に向かい発散する動的な力を有する。目に見えない流動するエネルギーを指し、機能、関係性、繋がりを生む。)

今は肝臓君(陰)が元気になる時だから、僕たち腎臓らに回るエネルギー(陽)を肝臓君へ回してあげよう!というチームプレーかも??

つまり、肝臓が(薬のおかげであれ何であれ)良くなろうとする場合、一時的に腎臓の機能を低下させるのではないか。

その場合、数値だけを個別に取り出して正常値と比べると副作用とカウントされるかもしれない。しかし、実は薬がダイレクトに影響したのではなく自然の摂理だったのではないか?

どうだ!!

これを検証できるスベの何ひとつも持たない私たちが、ただこっそり考えたのだ。

どこまでが副作用と言えるのか?

どれほど身体の中での臓器や器官どうしがつながりあっているのか?

副作用の定義自体が問われる大発見!に違いない。だがきっと、この是非が証明されることもなければ、薬の副作用の定義がひっくり返されることもないだろう。

 

ただ考えてみても欲しい。

風邪をひいたら絶食すると速く治るということを。

動物は、具合が悪いと絶食をする。

消化に使うエネルギーを、不調を治すために集中させるためだ。

そのことを彼らはわかっている。(補足:私たち人間も、何か内臓の不調があれば、絶食すると確実に治りが速いです。)

身体を治すために内臓たちは、そのエネルギーを自ずと使い分けて連携しあっているのではないか。

 

またステロイドとして知られている副腎皮質ホルモンの働きはどうだろう。

事故などで大出血した場合や大打撃を受けた時、生命を維持するために必要最小限の働きだけを優先し、他の機能をシャットダウンさせる。このために自らの身体から自然に分泌されるホルモン、それが副腎皮質ホルモンであり、化学(バケガク)でいうところのステロイドだ。

身体の活動量を全体的に抑え、低め安定をめざし、なんとか生命は保持される。

それゆえ皮膚のターンオーバーといった特段生命維持に必要のない機能は一時的に停止される。こうしてステロイド剤はアトピーといった炎症性の皮膚疾患を軽減させることができるのである。この他のアレルギーや膠原病といった免疫異常のように過剰に亢進する力もクールダウンさせるのだ。(注:副腎皮質ホルモンの働きは、この他にも多様にあります。)

 

このように身体の各部位は、独自の働きもしながらも、他の器官との関係をも築いている。

臓器は臓器どおしを結び合う。相対的な力学を持って。

生命の危機に際しては、生命体総体として緊急指令システムが作動して最優先活動にのみ焦点を絞り、その他の活動は自動的にフリーズさせる。

すべては、より大きな秩序の中で結ばれている関係性の自律的活動。

 

つまり、身体の各組織や臓器は、

その物質(陰)として個別に存在するのでもなく、

あるいはある役割のためだけに活動しているのでもなく、

その様々な関係性において幾重にも繋がりあって機能(陽)しているのだ。

 

この視点にたって病気を眺めてみる。

皮膚に表れるような表層(陽)の症状は、単に皮膚の問題だけではなく、もっと奥の深い場所(陰)へ病が進むのを食い止めるためのものかもしれない。

一病息災(ひとつぐらい病気がある方が健康に気をつけ長生きするという意味)という言葉通り、ひとつの病が表われている状況は必ずしも悪くはない。

 

ひとつの症状や痛みがやっと取れたら、また別の症状やら痛みが出現するといった不定愁訴の場合も、根本の問題は特定の部位にあるのではなく、メンタルとか自律神経といった別のシステムの問題を表現していることも多い。

 

アングルをひいて眺めてみると

個別に存在しているように見える様々なモノ(陰)やコトが関係しあい

勝手に蠢(うごめ)いているかのごとき小さな動き(陽)で繋がりあって

別世界がたちのぼってくる。

 

繋がりあう世界

信じる心と身体も

臓器どうしも

組織どうしも

部分とより大きな部分も

より大きな部分とさらに大きな部分も

表層に現れる病気と深層におよぶ病気も

移動する痛みどおしも

身体と性格も

病気と健康も

そしてホンモノとニセモノも

  

身体の内部が繋がりあっていて、

その繋がりに流動性があるならば、

タルミがあれば緊張があり、凸があれば凹がある。

ならば

病気や不調がすべて治るというのは、目指さなくてもいいのかもしれない。

 

まぁまぁの所でよしとする。

この鷹揚(おうよう)さこそ、健康の秘訣なのかもしれないと思うのだ。

 

<解説>

今回の陰陽論ですが、「陽の動きによって陰が生きてくる」という例えでもあり、

信じる力、関係性や機能、そういった目に見えないもののエネルギー(陽)が物質世界(陰)を変化させるというお話です。この逆もまた真なりです。人間も肉体という器(陰)があり、そこに目に見えないエネルギー(魂とか霊とか、あるいは気:陽)が入って初めて生命体たりうるのです。陰がなければ陽が動くこともできません。

このような陰と陽が相互に依存しながら、助け合ったり利用しあうことを、「陰陽の互根・互用」と言います。

 

<後記>

プラシーボ効果は、意識や心とも関連していて、これは量子物理学で証明されるのではないかと思います。興味深い量子物理学ですが、ドイツの理論物理学者であるヴェルナー・ハイゼンベルグが「観測者と観測される対象とは完全に切り離せない関係にある」と発見したそうです。つまり物質を見ている人がいるだけで、実験の結果が変わってしまう。物質と人間とが関係しあうのだと。

またミクロの世界においては、物質世界にあるものすべてが密接に繋がっているとも。ミクロの世界までいくと想像するしかないのですが。。

ただ、患者さんの身体に手を当てていると、ハガネのように感じられた深部にある固まった組織が、ある時からその細胞たちと繋がった感じがしてきます。すると少しづつ熱が行き交うようになり、小さな粒子たちが微かに揺れ出す。

この繊細な微振動を私が感じると細胞たちが次々に花開くように、開いていく感覚があります。鍼にしても、施術した場所の固まった細胞は、徐々に開いていく感覚があり、鍼を介して繋がった細胞たちは刻一刻と変化します。

この感覚のせいなのか、あらゆる物質も繋がりあい関係しあっているというのは、私にとっては、多分そうなのだろうなと素直に思えるのです。

 

 

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 イタリア、ナポリにて撮影

 

東洋医学各論3 腎

春が来た。(来たの?本当に?異常に寒い。。2019年4月末@東京)

北国では雪がとけ、長い冬を土中で過ごした種子や球根が芽吹いて花を咲かせる季節が、また巡ってきた。

 

さて、このタネのように生命体のエッセンスを内包している臓器が、我らの身体にもあるとしたら?

今回は、人体の臓器についてのお話である。

 

まずは東洋医学でいう「臓器」の概念を少し。。

西洋医学において「臓器」というと、解剖学的な特定の部位を指す。

肝臓、心臓、脾臓、肺(臓)、腎臓といった具合に。

東洋医学でいう肝・心・脾・肺・腎(五臓六腑の五臓)は、解剖学的な臓器を指すのはもちろん、さらに各々の臓器が持つ機能的働きをも含んでいる。

(例:東洋医学でいうところの「腎」は、解剖学上の腎臓のみならず、成長・排泄・生殖といった機能も含まれる)

これは臓象学説とも言われ、古代の解剖知識に加えて、生理・病理の現象を観察した結果生まれた概念でもある。

器という身体の内側(陰)の活動異常は、必ず外側(陽)に現として表れるとし、その関係性に着目した。(例:肝臓が悪いと爪に縦じわがはいる→肝と爪は関連する)

また「人体は小宇宙」と言われるように、宇宙の構造はまるごと人体に反映されているという。それゆえ自然界の構成要素である水や太陽の光がなければ種子が育たないように、人体における構成要素であるところの各臓器は、それぞれにとって必要不可欠であり、部分として切り離すことができない。

このように東洋医学には、臓器や器官は互いに連携しあう上に、心と身体も影響しあって、更に人体内部のみならず外部(自然・家庭・社会)環境とも関係してはじめて、生命活動がなりたっているという視点がある。

(補足: この関係性を特に示しているのが、五行という思想である。古代中国の思想である五行論では、自然界や人体は、「木・火・土・金・水(モク・カ・ド・コン・スイ)」に象徴される5つの要素に分けられる。五臓六腑の五臓の「肝」は木に、「心」は火に、「脾」は土に、「肺」は金に、「腎」は水に相当している。有機体として不断に変化する生命活動において、それぞれの臓器や器官は繋がって影響を与えあっていると考え、それらの間(マ)をつなぐ役割の重要性に着眼したともいえる。)

 

では、本題。

植物のタネに匹敵する臓器。

それは、ソラマメにも似た形の「腎」。

 

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解剖学的な腎臓の形と位置(図はネットから拝借)

 

東洋医学における「腎」は、「先天(センテン)の本(ホン)」と呼ばれ、両親から受け継がれる潜在力を有していて、生命活動のオオモトとなる。

まさに発育と成長、生殖、排泄、老化といった一切の生命活動の基盤となり、その生命エッセンスを凝縮して内臓している臓器といえる。

それゆえ植物でいうならタネであり、地球でいうなら生命が誕生した海である。また種火として腎をとらえるなら、地球の核であるマグマとも言えるのかもしれない。

 

解剖学的に見ると2つある「腎」は、父方、母方のそれぞれを比喩的に表し、その2つの「腎」からエネルギーが流れる下方の真ん中に生殖器がある。

父母から引き継がれ、誕生したこの肉体。さらに自分の「腎」から流れるエネルギーは生殖器を通して次世代へと繋がれ、遺伝情報という形で生命の連鎖が続く。

 

こうして命の根源が「腎」へと受けつがれ、成長・発育を促すのだ。

また泌尿器としても、水分代謝を司り老廃物を出すというデトックス機能によって、生命は維持される。

やがて腎精(腎に宿るエネルギー。詳しくはまたいつか!)が衰えてくると、肉体は老化しはじめ、物忘れ(脳)が増え、骨密度も低下し骨粗鬆症にもなり(骨)、足腰が弱くなる。歯はグラグラし(歯は骨余といい骨の仲間)、白髪になって耳も遠くなる。

排尿・排便困難も起こる(肛門も腎と関連している。臨終期には「腎」の力が失われ、尿も便も出なくなり毒素が全身に回る)。

 

このように人の一生は、タネが発芽して成長し花や実をつけ、次第に枯れて朽ちていくのと同様に、「腎」に統括されているとも言える。

 

そしてそのタネの潜在力や生命エッセンスが十分に生かされるか否かは、環境によるところが大きい。

どんなに立派な種子であっても、水や養分が十分でなければ、発育不全だったり発芽しない。

臓器における環境とは、他の臓器との関係の中でも育まれる。

「腎」に滋養を届けるのは、食物を消化する能力を持つ臓器の「脾」である。(注:脾の概念は西洋医学脾臓と異なる。ここではザックリ消化吸収の働きをする臓器として理解していただきたい)

つまり「腎」の持つ潜在能力は、栄養を消化・吸収する能力のある「脾」の働きに助けられて、花開くのだ。ここに「腎」と「脾」との関係の重要性が見えてくる。

 

 

十分な素質を持って生まれてきているのに、不摂生をして病気を患っている。

本来弱く生まれついているけれども、その潜在力を存分に生かして元気だ。

ほどほどの体力があるので、もっと潜在力があるとは考えたこともない。

胃腸が丈夫で消化能力がもっとあったら、もっといろいろできるのに・・。

メンタル面の影響が大きく、ストレスが腎臓を痛めている。。

 

一体自分は「腎」に授かったポテンシャルをどれほど生かしているのだろうか?

どうなの?

自分のケースを考えてみるが、これがまたなんとも難しい。

 

春蒔きのタネを見かけるにつけ、我が「腎」の働きについて考えてしまうのだ。

 

(おまけ)

腎のセルフケアとしては、なんといっても早寝で上質の睡眠をとり、内向するタネの世界(陰)に戻ることがオススメ。

また腎臓は毛細血管が密集してカタマリとなった臓器。加齢とともに細い血管はどんどんサボっていく傾向にあるので、血行がよくなる状況を作ることが大事。

つまり、腎臓を直接温めること。

オススメは、コンニャク湿布。大きめのコンニャクを7、8分ほど茹でて乾いたタオルで包み、背中から腎臓の部位に当てて温める。これ、とっても気持ちいいので疲れた時に是非お試しあれ!

さらに臨終の方への最後にできる民間療法は、腎臓に手を当てて温めてあげること。

またいつかセルフケアで書けたら!

 

(後記)

ザックリ東洋医学の腎のとらえ方について書いてみました。

「腎」は、尿の濾過・排出に関わっているだけでなく、発育・成長、生殖機能や老化現象とも密接に関連しています。まずはココカラ!

「肝腎カナメ」と言われるように、腎の大切さがわかっていただけたら嬉しいです。

  

 

 

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ベトナム、ダナンにて撮影

勝手に陰陽論7 ハーモニー

さる雛祭りの日に、大好きな大好きな友人の偲ぶ会に参列させていただいた。

傑出したアーティストだった彼女らしさが溢れる素晴らしい会で、準備された方々の愛情の深さにも感銘を受けた。49日を経てもなお出席者の多くの方達が大泣きし、互いに彼女のかけがえのなさについて語り合った。

泣いて笑って、慈しんで、切なくて、会いたくて、会いたくて。。

帰り道の風景はとびきりだった。

彼女が描く絵そのままの、やわらかな色彩のグラデーションがのびやかに拡がる大空に、あまたの金色の糸が天から放たれては粉雪のごとくキラキラと舞いそそぐ。そんな夕陽の光に、私達を乗せた車が走る一本道はまるごと照らされた。

彼女に祈りを捧げるはずが、今もまた彼女に癒されているのだと気づいた瞬間だった。

あと50年もすれば、今日お会いした方たちの大半は確実に彼女と同じ世界に行けるのだと、柔らかで眩しいほどの神々しい光に包まれながら私は思った。

 

先日も友人が「僕らがいなくなっても、建物や道はそのままで、人間だけが入れ変わって街はあんまり変わらない。なんか変な感じだよね?」と、彼女を偲びながら話してくれた。

 

万物は流転する。

人もやがて死ぬ。

変わらぬものはないのだから、街や道も時を経て風化し変わっていくだろう。

変わる速度の速いもの(陽)と ゆっくり変わるもの(陰)。

今回は、その変化の速度の違うものどうしが結びついてできあがる世界のお話である。

<ちょっとおさらい:陽とは外に向かって発散し、それゆえ軽くなり動きを生じ、速く進む。陰とは内に向かって集中し、それゆえ重くなり量を産む。動きの速度は遅い。>

 

少し前になるが、ある方が話してくださった。何かの本の中に「100年以上続く企業の条件」が載っていたと。そしてそれは、企業理念があることだという。

彼は続けた。

「それを読んで思ったんだ。つまり、企業で働く人々は入れ替わるので、変化する動きのある陽とみなす。企業理念は時代により多少変わっていくだろうけど、その速度は遅い。だから中心軸を作る不動の陰。ゆっくりでしか変わらない企業理念と次々に交代していく会社のメンバー達。これらが組み合わさって初めて、100年以上続く企業が生まれる。どう?この解釈で正しい?」。

正しいも何も、素晴らしすぎるではないか!

私が教えてほしいくらいだと思いながらも、とても嬉しかった。

 

そして私は、鍼灸師になりたての頃の自分の経験を思い出した。

それはご縁あって大企業のオーナーさん宅へ初めて出向いた時のことだった。

ご挨拶をするなり、聞かれた。

「あなたの社訓は何ですか?」と。

「・・・・・」。

はぁ。。社訓???

だって私、流れ者のような鍼灸師だよ。会社もなければ、治療所もない。風来坊みたいなものだよ・・と、心の中で。

その方は、びっくりしている私に向かって容赦なく続けた。

「社訓がスラスラ言えないようではダメだ。社訓でなくてもいい。あなたの場合は、どういう仕事をしていくのかという柱を決めて、文章にして書き出してみたらいい。必ずやってみて欲しい」と。

しばらくその事を考え続けていた。ある意味ショックだったのだ。考えたこともなかったから。

どんな仕事をしたいのか?何をモットーにするのか?そもそも私は何がしたいのか?

自分の仕事の指針をシックリくるまで考えた末、紙に書いて、狭い部屋のベッドの横にその社訓とやらを貼ってみた。それは朝起きると必ず目に入り、歯磨きをしながらその文言を見つめて、私の1日がはじまるようになった。

 

あ、あれは陰陽の話でもあったのか?!(今さら驚く自分に驚きます!)

状況に応じてテンポよく変わりながら行動する自分(陽)と 

初心である変わらぬ軸に焦点を合わせる自分(陰)。

変化する状況に流されて生じるブレを、時々陰に立ち戻り、軸をたて直していたのだ。

 

この世界は、

ゆっくり回る大きな歯車(陰)と  回転の速い小さい歯車(陽)とが

噛み合って呼吸しているのだ。

  

この物質世界 と そこで生きている人間

企業理念 と その構成員

モチベーション と 行動

老人 と 若者

建造物のある街 と 人々

インフラ と 日常生活

社会構造 と 個人

地球 と 文明

 

そして、これらがうまく機能するのに最も大切なのは、

ハーモニー。

歯車が噛み合っていること。

 

適切なモチベーションは、行いに喜びを与える。

素直な若者は、老人の知恵や経験から成熟を学びたい。

素敵な街では、その街を愛する人々の息づかいが聞こえる。

大切にされる建造物には、その歴史を尊重する人々のマナザシが注がれる。

計画性のあるインフラが整ってはじめて、生活に活気があふれだす。

安全な社会であれば、善良な個人がのびのびとしていられる。

 

その一方で

あまりに陳腐な企業理念には、ついてはいけない。

滅びてしまった文明は、その土台となった地球と折り合いがつかなくなったのではないか。

再生が進まない土地や廃墟は、地球の営みと相入れない何かがあるのかもしれない。

つまり、歯車が噛み合わない関係は、どこにも行きようがないのだ。

 

陰と陽とが調和されて歯車が回りだすと

無意識に止めていた呼吸が深くなるかのように

ひとつひとつのパーツに息が吹き込まれ

システム全体が生命体として動きだす。

 

そこにいて

呼吸が楽にできるかどうか。

優しい息づかいを感じられるかどうか。

素直になれるかどうか。

身体がゆるむかどうか。

晴れやかに笑えるかどうか。

神聖さを敬えるかどうか。。。

 

調和がとれているというのは、こういうことなのだと思う。

 

  

<後記>

遺跡を訪れる時、そこで人間が生活していた遥か昔の時代に思いをはせ、止まってしまった時間へと旅をする。そんな感覚に浸るのが私は好きです。

はじめてピラミッドを訪れた時も、その巨大さに圧倒されながら、造られた当時の様子を想像してボーッと眺めていました。

しばらくすると、私はピラミッドから人々を見ている感覚になったのです。

建設されて以来、悠久の時が刻まれるその間、どれだけ多くの様々な人々が入れ替わり立ち代わりここを訪れたのだろうか。そしてその様を、このピラミッドは微動だにせず、幾世紀にも渡ってどれほど見つめてきたのだろう。。

それは、自分の小ささを見せつけられたような、気が遠くなる感覚でした。

ゆっくり変わるもの と 速く変わっていくもの。

このマッチングは、至る所で見られるのだと思います。

 

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エジプト、ギザのピラミッドにて撮影

 

 

勝手に陰陽論6 更年期

なつかしいネーミング、「イノチのハハA」。

それは、ずいぶん昔にテレビCMから何度も聞こえてきた不思議なヒビキ。

いつ頃からなのか、いつまで聞いていたのかもはっきりしないが、音としてしっかり私の耳に残っている。薬なんだ。。とウスラボンヤリ思っていた。

ラッパのマークの「正露丸」ほど、クスリとしての用途がわかっていたわけではない。

 

さて今回は、

子供時代にボンヤリと聞いていた「イノチのハハA」に関連するお話で、ズバリ!更年期についてお伝えしたい。

 

更年期というと女性特有と思われる方もいらっしゃるのではないかと思うので、ちょっと概要を。

 

東洋医学のバイブルというべき「黄帝内経コウテイダイケイ)」という古典の中の「素問」上古天真論によると、

女性は7年周期、男性は8年周期といった男女異なる生命のリズムがあるとされる。

生命力の決め手である腎精* が健全であれば(*腎精五臓六腑の腎に宿る精のことで、生殖能力も含む。東洋医学では腎は生命力と密接に結びついている。このような五臓特有の概念については別の記事で!)、

女性は14歳(7×2)で初潮を迎え(現在はもっと早い)、28歳(7×4)が全盛期で、49歳(7×7)で閉経となる。

男性は16歳(8×2)から生殖能力がついてきて、32歳(8×4)で全盛となり、56歳(8×7)で喪失するという。

西洋医学においては、女性ならば閉経の、男性なら生殖能力喪失の、それぞれ前後10年間を更年期といい、この変化によって生ずる症状を更年期障害としている。

女性の更年期障害には、顔や身体がホテッて発汗するホットフラッシュ、肩こり、イライラ、のぼせ、不眠、めまい、関節の痛み、不安・抑うつ、動悸・息切れなどがある。

男性においては、男性機能の低下、冷える、全身倦怠感、筋肉や関節の痛み、筋力低下、無気力、不眠、集中力・記憶力の低下、うつ症状などがあげられる。

 

西洋医学において、これらの変化は男女それぞれ特有のホルモン量の減少が原因であるとされ、ホルモン量を測れば歴然と数値に表れる。

さて、この更年期を東洋医学の陰陽論でひもとくと、どういうことなのだろうか。

 

陰陽論において、陰は中国語で阴 yin と表記されるように月に象徴され、内に向かって集まって量的なエネルギーを持つ。陽は中国語で阳 yang と表されるとおり、お日さまである太陽に象徴されて、外に向かって広がる動的な力を持つ。

それゆえ、内(家庭)に向かい育むエネルギーであり、月のリズムに影響される女性は陰に、外(社会)に向かい活動するエネルギーの男性は陽に分類される。 

 

男性か女性かといういずれかの性をとりあげた場合(注:LGBTなどいずれかに割り切れない場合もあり、性について一般論で語るのは大変難しいのですが、便宜上このようにさせていただきました)、 

陰である女性の中にも男性性(陽)と女性性(陰)があり、

陽である男性の中にも同様にそれぞれを有する。

(注:「陰陽可分」といい、陰陽それぞれはさらに陰陽に分けられます。例:男性ホルモンとの対比において陰となる女性ホルモン。その女性ホルモンを更によくみてみると、エストロゲン(陰)とプロゲステロン(陽)に分けられる)

 

<女性:陰> 

女性を陰陽の割合でみてみると、

女性の陰がしめる割合は、陽のそれより大きい。

陰は寒を、陽は熱を表すため、

一般に女性は冷え症になりやすく、

体温は男性に比べて低い。(参照:下図左側)  

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陰がまさっている       陰が減り陽は同じなのに相

ため、寒く感じる       対的に暑く感じる (  虚熱  )

それが更年期にさしかかり(参照:上図→の部分)

陰が徐々に減少し、ついには陽の割合よりも少なくなる(個人差あり)。

陽は以前に比べて増えてはいないのに、

陰が減ることにより相対的に陽が多くなってしまう。(参照:上図右側)

そのため更年期を迎えた女性は、ホットフラッシュというところの、

いきなり汗をダラダラかくという症状に見舞われ、以前ほど寒さを感じなくなる。

この暑さを、中医学では「虚熱」(陰が少なくなり[虚になる]、相対として陽がマサルために生ずる熱)という。

また陰のもつ、内に向かう求心力。これが減ったために、陽の広がるエネルギーを抑えきることができなくなる。陽の力は上へのぼり、顔を火照らせ、のぼせさせ、時には目眩をも起こさせる。 

 

<男性:陽>

 一般に男性が女性よりも体温が高いのは、陽(熱)がモトモト、マサっているから。

この陽が陰より多いために発生する熱を「実熱(実=過剰にあるという意味)」と中医学ではいう。(参照:下図左側) 

(注:「虚」と「実」という概念は、東洋医学中医学において大切なものです。「虚」はウツロで少ない、「実」は過剰で多いという意味でとらえてください。)  

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陽がまさっているため            陽が減り陰は同じなのに相

暑く感じる ( 実熱 )     対的に寒く感じる 

それが更年期を迎えると(参照:上図→部分)

持ち前だったはずの陽は衰え、陰よりも減少することもあり、

相対的に陰が陽より大きくなる(個人差あり)。(参照:上図右側)

そのため今まで、あまり感じなかったかもしれない冷えを感じ、

年齢を重ねるにつれて寒さに敏感になる。

 

このように更年期になると、女性にはホットフラッシュという暑くなる症状がみられ、男性には寒さに敏感になるといった変化がみられる。そしてこれは、陰陽のバランスの変動が原因となっているのだ。

 

また男女とも更年期を経てからの身体全体のエネルギー量は、小さくなる(上記のそれぞれの図参照)。

 

それゆえ

他人から見える自分の外見も変わるだろう。

また

自分が物事をみつめる目線の高さも変わり、

同じはずの風景が違って感じられたり、

あるいは

今まで気づかなかった事柄が見えてくるのではないかと思う。

 

時々思う。

我らは、肉体という乗り物を借りて旅するのだと。

現実に外の国々へと飛びだして、冒険することもできる。

また自分の肉体の変化を感じて、内側へと向かい、陰と陽との間(ハザマ)にある  たゆとう 世界へと降りていくこともできるのだ。

そしてそこには、まだ見知らぬ自分がいる。

 

更年期は、微妙に変わりゆく相対の世界を体感し、自然の摂理を味わうチャンスにもなると思うのだ。

 

  

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ユカタン半島にて午後2時のカリブ海を撮影

 

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午後5時の同所にて撮影
 

勝手に陰陽論5 根底に流れるもの(万物流転)

いまや年中スーパーの陳列棚に並ぶバナナ。

むきながら食べられて、栄養価もあり腹持ちもよい。

そのため子供はもとより、お年寄りや運動選手にも人気の果物といえる。

 

木にのぼって最初にバナナを食べた人は、偉いと思う。

たぶん猿が食べているのを見て真似したに違いない。

モチっとして、ネトっとしていて、甘いバナナ。

これを初めて口にした時、美味しいと思ったのだろうか。

どうなの?思ったの??

これは欧米人が初めてオハギを食べた時の印象に似てやしないか?

実際に仲良くなった友人達にはオハギを食べてもらい、美味しいか?と聞くことにしている。

最初は一応にう〜ん??との回答。そして私は、ヤッパリね!とこっそり思っているのだ。

 

幅広い年齢層に支持され、多くの人に好かれる食材のバナナ。

その市民権を獲得できた歴史に思いを馳せながら、私はバナナを食べてきた。

そして今では、なるほど美味しいなと思う自分がいる。

果物なのか野菜なのかと迷わせるアボカドもバナナにちょっと似ていると思い、個人的に注目してきたが、これまたチャッカリ、不動の地位を獲得している感じだ。

 

先日、様々なことを私に教えてくださる財界の重鎮に向かって、つい口が滑った。

最初にバナナを食べた人は偉い!と。

するとその方は、こう言った。

「いやいや、ナマコを最初に食べた人の方がもっとすごい。それにワカメもだ!」。

(ナマコは黒いダイヤと言われ、驚くべき高値で取引されるそうですよ。<最近ハマった本:「サカナとヤクザ」鈴木智彦、小学館>)

そして彼はつけ加えた。

「私が子供の頃は、トロやイクラなんてのは、食べないものとして捨てていたんだよ。

マグロといったらアカミ。なんてったってアカミだった。脂っぽいトロや大トロなんて見向きもされなかった。イクラもそう。捨てるべきものだった。そして松茸もね、タダ同然の食べ物だった。いまや全て高級食材になったわけだ」と。

 

つまりだ。

価値は変わるのだ。

価値が変われば、感覚も変わる。

そしてそれが当たり前になる。

 

その昔、半袖の下から長袖が出るのは妙な感じがした。

スカートの下からズボンが出てるのも。

今や、ちっともおかしいと感じなくなってしまった。

 ファッションにまつわる感覚は、大きく変わる。

 

食事においても

玄米菜食がいいとされた時代もあれば、タンパク質や脂質を重視したローカーボ食が生活習慣病を治すと近年は言われだした。

食餌療法の基礎となる価値観も流転する。

  

ショルダー式長方形のBOX型電話を持ち歩いている人を見て、公衆電話があるのだし、なぜに電話がそんなに必要か⁈と思っていたら、

公衆電話が減って携帯をほとんどの人が持っている世の中になった。

電話というモノの価値は確実に変わり、そのことにより毎日の生活に与える影響は計りしれない。

 

そして価値の変化は、時代のせいだけではない。

 

状況や場合によっても変化する。

 

たとえば薬。 

痛みどめや睡眠導入剤などは、限られた目的での一定期間内は役立つだろう。

しかし根本的な視点に立つと、

切り取られた部分での役割は、身体全体に役立つわけではなく害になる場合すらある。

有益なはずのものが有害にもなる。

 

もっと言うなら、

痴情のもつれの殺人は犯罪となるのに、

国を挙げての大殺戮は正当化されるのだ。

殺人という罪悪の価値すら変わり、

善悪の判断基準までも変わり得る。

 

疑うことのないモノやコトの価値は、時を経てうつろい、

我らの意識も感覚も変化する。

あらゆる効能は、一定の条件下での限られたものでしかなく、

善悪の基準すら時に反転するのだ。

 

人間の解釈は、重層的な世界を無視して、時にずいぶんと都合がいい。

この都合の良さの上に、普段はどっぷりとアグラをかいている。

 

しかしひとたび気がつけば、

ああ!

我らは、なんと可変的な世界にいるのだろうか。

そして世界はなんと相対的であるのだろうか。

 

たぶん生命体は、

この可変的で相対的な能力を持って、

小さな変化からはじまり、

状況に応じて亢進と抑制を使い分け、

不断の変化を重ねて、

生き延びてきたのだ。

 

東洋思想(気の思想、陰陽論、五行論)の根底には、

万物は変化し、流転するという世界観がある。

からみ合いながら変わりつつ、流れゆく世界。

 

とりわけ陰陽論で、

陰と陽とにカチッと分類するという理性的な側面がいきすぎた時には、

分けても分けても分けきれないような、

もつれあいながら変わりゆく、

そんな東洋思想が持つ感覚的な世界に浸りたくなるのだ。

 

陰陽論には、

この分析的で理知的な側面と、

それだけでは網羅できない感覚的な側面とが、

陰陽論それ自体の中に混在しているように思える。

そしてそれが陰陽論の更なるダイナミズムを生んでいるように感じるのである。

 

 

 

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トルコ、バシリカ・シスタン(地下宮殿)にて逆さになったメデューサの頭を撮影
 

 

勝手に陰陽論4 ウルシ塗り2

夢を追いかける。

私の周りには、そんな友人達がいる。

年齢や時間、そしてお金を言い訳にするどころか、楽しんで挑戦している風情が漂よう。

その中の一人に、英語を勉強している人がいる。壮大な夢のために必要だという。そして私は、彼の学習の仕方に脱帽し続けているのだ。

まずは、夢の実現から逆算して大まかなタイムスケジュールをたて、そのために最も効率的な学習方法をじっくり勉強する(学習方法をだよ!)。

自分にあった勉強方法に辿り着くまでに、ゆうに半年以上は費やした。

学校を探し、効率的なツールを選び、英語のコーチをつけ、ネット教材も探す。終日勤務の中で勉強時間を模索する。うまくいかないと感じたら、何度も軌道を修正する。そして自分の弱点を徹底分析して有効な方法を柔軟に取り入れる。等々。。

話を聞く度に私は、ここまでやり方にこだわるんだ。。。と思っていた。

そして本人が納得できる体制が整った時から、彼のTOEICの点数はウナギのぼりに伸びに伸びて、もう伸びようがないのではないかと思えるほどだ。

 

今回は、成果を生む学習に焦点をあてて、陰陽論を勝手に考えてみたい。

(現実化のパワーとして、陰陽両輪は欠かせないと思った次第です。)

 

まず目標をみすえて計画をたて、やり方を決める。

→ これが目標に向けての指針となる。

→器づくりとなり、「勝手に陰陽論」でいうところの陰となる。

あとはコツコツやるだけ。

→実行する(Doing)ということで、「勝手に陰陽論」でいうところの陽となる。

 

<ちょっとおさらい:陰とは内に向かい凝集する力で、量を産み、形や秩序、計画や器を作る。陽とは外に向かい発散する力で行動する力となる。ただし、同じ力でも「持久力」は陰となり「瞬発力」は陽(同じものの中にも陰陽がある:陰陽可分)。彼の場合、毎日ちょっとした時間にさらっと行動しているように見えた。隙間時間を利用して何かをなす場合、持久力というより小さな瞬発力(すぐに行動できる力)が必要に思えるのだ。その結果、毎日行うという持久力への道が開けるように見える。>

 

思えば私の高校時代。試験勉強に際して、私はよく計画表を作った。

あと何日で、やるべき事はコレとアレと。

しかしやらずに日が過ぎる。そしてまた計画表を作り直す。

まだ間に合う。あと何日もあるじゃないか。

その計画は実行されることなく、結局一夜づけの日々が続く。

今思い返せば、陰(計画、器)は良かった。

しかし、行動するという陽がダメだったのだ!

もっというなら、器づくり(陰)にばかりエネルギーをとられて、肝心の実行するパワー(陽)が残らなかった。

あるいは、自分に合った計画ではなかった→陰もダメだった。この場合は、自分をわかってなかったのだ。

 

 

くだんの彼は、私に言った。

「やり方が決まったら、ウルシ塗りのように毎日やるんだ。ひと刷毛(ハケ)でもいいから。」

 

ああそうなのだ。

計画づくりもいいけど、ウルシ塗りもね。

 

そう、人生はダンス。

陰陽のダンスなのだ。

吸気と呼気

濃密な時間と流れる時間

秩序とカオス

束縛と自由

計画と行動

そして

夢と現実。。

これらを舵とるのは、この私。

 

さらに私は思い出した。

何ヶ国語もできる私の上司だった方の言葉を。

「語学はね、一定量に達すると質の変化を生むんだよ」。

それはマラソンのように、一歩を踏み出すというほんの小さな瞬発力が、ある一定量に達すると持久力へと変化しているのに似ている。

量の変化が質の変化を生む。

鍵穴に鍵が入りクルッと回転して、新たな扉が開くがごとく、

陰陽が合わさり、それがある一定量に達すると、別次元へと導かれるのだ。

 

人生がダンスだとして、

何とダンスし、どういうバランスで

どれだけ踊るのか。

 

新たな世界を感じられるまで踊り続けることができたなら、

きっと次なるダンスが待っているに違いない。

 

 <おまけ>

ウルシ塗り。

その繰り返すという行為に焦点を当てると、内に向かい量を生むという陰になる。

その陰なるウルシ塗りをさらに細かくみてみると、

同じ物(内)に向かって(陰)+ ひとハケの力(陽)→ 繰り返しウルシを塗る、「ウルシ塗り」となる。

 

< 後記>

翌朝目覚めると、覚えるべき事柄が丸ごと頭に入っている。

そんな魔法のような睡眠学習に憧れた私には、文中の友人のやり方はかなりの衝撃でした。

多分私だったら、勉強方法をそんなに研究せずに適当に勉強して、やっぱりダメだとあきらめる。そんな繰り返しをするだろうと予測できたのです。

きっと陰も陽も足りずに、失敗癖だけ繰り返す。

このことがこの友人をみていて、よくわかりました。

私は、ハウツー的な啓発があまり好きではないのですが、この友人は勉強していく過程で、明らかに自分への信頼を強くしていったように私には見えました。

そして更に伸びしろが増す。

 

何事かを成す場合の根底には、

常に自分をどれだけ知っているかが問われるように思います。

限界を設けるというのではなく、

どうすれば自分が伸びていくかがわかるという意味で。

 

つまり、

オノレを知るという過程(プロセス)をたどり、

必ずや自分も変化するのではないでしょうか。

そして新たな流れの冒険へと向かっていくのかと。

夢を追いかける友人達は、

意識してるかどうかはわかりませんが、

陰と陽と、それらを舵とる自分とのダンスを楽しんでいるように思えて仕方ありません。 

 

 

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 イタリア、ナポリの街角にて撮影

勝手に陰陽論3 ウルシ塗り

日本を代表する工芸品の漆器、ウルシ塗り。それゆえ、英語の「japan」には「ウルシ」の意味があるという。

ウルシの木から採れる樹液を、加工した木や紙に塗り重ね、30から40の工程を経て漆器に仕上げていく。

何度も何度も塗り重ねて作られる漆塗りの技法の中には、「馬鹿丁寧」の馬鹿をとって馬鹿塗りと呼ばれる津軽塗もあるほどだ。

 

同じ動作を何度も何度も繰り返すこと。

今回はウルシ塗りの「繰り返す」という工程に焦点に当てて、陰陽論を展開してみたい。(ああ、また勝手極まりないです!)

 

繰り返すという行動様式を陰陽に分類すると、「陰」に属する。

その反対に軽やかに次々と移りゆく様は、「陽」となる。

<ちょっとおさらい:陰とは内にむかって集中する力で、凝集して形を作り重さとなる。速度は遅く、時間がかかる。陽とは外に向かって発散する力で動きを生み、軽やかさとなる。速度が速く、時間がかからない。>

 

たとえば音楽。

同じ曲を飽きることなく、時を忘れて聴き続けた経験はないだろうか。

他の曲じゃダメなんだ。

あの曲のあのサビを身体の中に染み込ませるのだ。

そうだ。

音を食べよう。リズムへ分け入れ。歌詞を吞みこめ。もっと大音量で!

細胞の奥深いところへと音の持つ振動が到達するように。

そしてそこから何かが発動するような、そんな衝動を味わうように。

食べるように聞いた、あの音楽。

リピートスイッチがない時代、目当ての曲が終わる頃になるとステレオに近づいてレコード盤に針を何度も何度も落とした。

 

一方で

BGMとして邪魔にならずに聞き流す場合がある。

イージーリスニングと言われるような軽やかさを感じさせながら

スキー場やカフェなどで

次々と心地よく流れゆくメロディを味わい

雰囲気を楽しむのだ。

 

では本はどうだろう。

子供の頃、私は漫画を何度も何度も飽きることなく読んだ。

筋書きも絵もすべて知りつくしているのに

ウキウキ読んだのだ。

子供に本を読み聞かせる場合だってそうだ。

同じ内容の話を何度も何度も

時には毎日繰り返す。

同じくだりで大笑いをし、

その都度本気で驚く。

こうして何度も何度も骨身にしみるほどに繰り返す。

 

大人になって、好きな本を再度読むこともある。

ただ子供の時とは違う。

感動したはずの内容はすっかり忘れており、

感動したという事実のみが記憶に残っている。

ある時は、以前読んだことすら忘れていて

終わり頃に、あれ?この話知ってる気がする??

などと思ったりするのだ。

またある時は、本棚に同じ本を見つけては、自分に愕然とする。

 

音楽と本。

繰り返して聞いたり、読んだりするのは、陰陽論においては「陰」に属する。

一方で、聞き流したり、速読したり、情報を検索したりするのは「陽」となる。

 

思うに、このような繰り返す音楽の聴き方や本の読み方をしたのは、

子供時代から青春時代の陽気溢れる時代に圧倒的に多かった。

 

 

生まれたての赤ちゃんの時から幼少期、

そして青春時代までを人の一生というレンジで眺めてみれば、

「陽」の気がまさる時であり、

そこから徐々に徐々に「陰」へと移行する。

老年は陰気旺盛となり、

身体は硬くなり、

あらゆる機能は遅くなり、

どんどん閉じて

生命体の終焉となる。

(注:ずいぶんザックリ言いましたが、人間の一生は、生・長・壮・老・死という過程をたどり、人間の陽気と陰精の共同作業。陰精については、またいつか機会があれば。)

 

その「陽気」溢れる幼少期。

この時期の行動の仕方は、「陰の力」が強い気がする。

身体の芯に届くようにと

奥へ奥へと染み込ませるように

繰り返す。

身体まるごとで

感情全開で

感覚総動員で

理解というより体得し、味わいつくすまで

繰り返すのだ。

 

中年以降の私は、

すでに陰気マサる時代となっている。

何を見ても、何を聞いても、

じきに忘れる。

わかった気になるのも速ければ、

何をしたのかわからなくなるのも速い。

泥棒に見つけられないようにと

何かを隠したりしたら

自分こそ見つけられない。

その上、苦しめられるパスワードや暗証番号の神経衰弱ゲーム。

そしてヤミクモにキーを叩いてのフリーズ地獄。

落ち着いて行動するというより

手当たり次第やってみるという「陽」の行動パターンだ。

 

子供時代は、

集中して(陰)遊んでいたせいか、時を忘れて行動しており、1日が短い。

そして1年は、随分と濃い中身で、とても長い時間がたった気がした。

1日が短く、1年が長い。

 

大人になると

時間やこなすべき仕事に追われて、忙しく動き回り(陽)、1日は長い。

これは自転車操業(ペダルをこいでいないと倒れる)に似ていて、疲れ果てるからだ。

しかし1年というまとまった期間になると、アッという間に感じられる。

そう、今年ももう12月。。

1日が長く、1年が短い。

(注:1日も速いという場合は、時間に追われれる生活をしていないことが多い。たとえば休日はアッという間に終わってしまうように。)

 

陽気溢れる肉体を持つ子供時代には、繰り返すという「陰」の行動習慣をとり、

陰気まさってくる肉体へと進む大人には、どんどんこなすという「陽」の行動習慣が

みてとれる。

 

この両者の違いが

それぞれの時代の時間感覚を作っているようにも思えるのだ。

 

そして多くの天才たちは、

子供時代に「繰り返す」という行動様式を格別にとっていたように思う。

虫の図鑑を暗記しつくしていたり

SL少年だったり

天体望遠鏡から星座をのぞいたり

無我夢中の世界があるように思う。

完全無欠の閉じた内向する陰の世界。

 

子供に次々と情報を外から与え

どんどんと行動できるように教えるよりも

ひとつのことを何度も繰り返して

内的世界をじっくり味わう時間を与える方が

豊かになれるのではないかと思える。

つまり、子供時代(肉体が陽)の繰り返す行動様式(陰)で、陰陽バランスがとれるのではないだろうか。

陰が深ければ深いほど、陽の伸びしろが増すのだから、全体として大きく育つと言えないだろうか。

  

子供時代から今までの自分の行動様式は、無意識ではあったが、陰陽の法則どおりだったのだと思い返している。

 

あの夢中で繰り返して聞いた音楽や

何度も読んだ漫画が、

そしてその行為自体が、

時々ひどく懐かしい。

 

<おまけ>

ウルシ塗りといった伝統工芸の伝統というものは「陰」となる。長い年月を重ねて培われ、形となって受け継がれるという意味で。これに対して、流行、トレンド、ブームといったものは「陽」。ちょっと伝統から派生して、規則や規範は「陰」で、自由は「陽」。

  

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メキシコ、トゥルムのカフェにて撮影