“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

勝手に陰陽論13−1 目からウロコが落ちる

時々、ピタッとハマる言葉のすばらしさに驚くことがある。

「目からウロコが落ちる」という表現もそのひとつ。

調べてみると英語にもあった!「The scales fall from the one's eyes」というらしい。

お国を問わずに存在する「目からウロコが落ちる」という経験。皆さんはどんな経験をお持ちだろうか。

 

あれは、茶髪や金髪が珍しくなくなりカラーコンタクトで目の色を変える時代になりはじめた頃の、私がクルーとして船で働いていた時のことだ。イスラム圏への入国審査のために、我らクルーは船内の大きな1室に集められた。何やら書類に記入しなくてはならないという。そしてそこには「the color of eyes」という項目があった。

私がB...と書きはじめた瞬間、欧米のクルー仲間が私が書くのを覗き込みながら、Brown と言った。

えっ??Black でしょうよ??

だって東洋人だよ、私。

すると「何言ってるの!自分の目の色も知らないなんて!」と、軽蔑した笑みを浮かべてBrownと言い放つ。周りにいたクルー達もこぞって「Brown !」 と言うではないか。

皆は私を見ながらBrown というのだから、なんとも分が悪い。しぶしぶフクレながらBrown と書き込んだ後、脱兎の如く自室へ駆け込み鏡を見た。

な、な、なんと!Brownだった。。

この時のボーゼン度は、まさに目から鱗が落ちるというほどの身体感覚を伴っていた。

 

物心ついて以来、顔を洗い、歯を磨き、化粧もする際に、おそらく毎日鏡を見ていた。ああ、それなのに。。

何を見てきたのだ!この私。

しかも自分は「人は見たいものしか見ていない」などと、チョクチョク訳知り顔で仲の良い友人達にのたまっていた。今でいうマウンティング的に!

 

その昔、フリオ・イグレシアスとかいうオジサンが「黒い瞳のナタリー」という歌を歌っていた。私は、ナタリーという名前だけど彼女は東洋人だな!とピンときた。だって黒い瞳なんだもの。。

それほど私は東洋人ってのは黒髪で黒い瞳だと思っていた。

いや、思っていたというよりは思い込んでいたのだ。

 

人は大きくなるにつれて、何かしら思いこみという色眼鏡をかける。枠を作りながらカテゴライズして物事を自分なりに組み立てて世界を把握しようとする。

一旦でき上がった世界に風穴が開けられたならば、

思いこみや先入観、そしていつしか自らがはめていた枠があったことに気づかされる。

驚きを持って思う。

私の世界は違っていた。

新しい世界がそこにある。

 

ひとつの色眼鏡が取れたとしても、また次の色眼鏡をかけているのだから、何度もウロコは落ちるのだ。

こうやっていくつもの思い込みが、何かのきっかけで落とされていく。

その度ごとに、今ある現実が違って見える。

 

私は子供の頃から、人間は何のために生きているのか?とずーっと考えてきた。

目からウロコが落ちる。

これを経験するために生きているのかもしれない、そう思うようにいつしかなった。

 

外の世界に対して開いていく。

今までの自分に新しい風が吹きこまれる。

思い込んでいた世界が違った色に塗り替えられる。

気にも留めてこなかった事柄に心を奪われる。

惰性で過ごしてきた日常が揺さぶられる。

私を取り巻く世界は、何度でも生まれ変わるのだ。

たとえそれがどんなに些細な事柄であったとしても。

 

偉人達による驚異的な発明や発見も、

そのきっかけは、

当たり前だった世界が塗り替えられるような、

そんな小さな気づきや

目からウロコが落ちるような体験だったのではないだろうか。

 

「目からウロコが落ちる」。

覆いかぶさっていたものが落とされる。

内発的に外へと向かって開かれる。 

この現象を陰陽論でいうなら、

外の世界へと導かれる「陽」と言える。

ああ!勝手ですぅ・・。

 

東洋医学のおまけ>

東洋医学には、体質や病態を表す用語として「」と「」があり、

気はその性質により「正気」と「邪気」とに分けられる。

(注:正気:淀みなく正しく流れている気。邪気:ヨコシマな気であり、正気の流れが滞って行き場がなくなると邪気となる。邪気>生気で病気の発症となる。2種類別々の気があるのではなく、正気の流れが停滞し淀んで邪気となる。とは文字通り中身がウツロな状態で生気が衰えている状態を指し、とは抵抗力が充実している状態と邪気が溢れて病気の素を作り出す状態の双方を指す)

 

鍼灸治療の基本概念>

ハリは、行き場が無くなって過剰に詰まった邪気を解放し、身体の風穴を開けて凝り固まった世界を外にむけて開き流す。この方法を(シャと読み、余分なものを除くの意)という。

は力のないの状態の箇所にエネルギーを充填して生気で満たす。この方法を(足りないエネルギーを補うの意)と呼ぶ。

このように鍼灸治療は、ハリと灸を使いながら病状に合わせてを行う治療をする。

(補足:上記ざっくり大まかな説明ですが、ハリの中にも体内の深部に及ぶハリは瀉、浅いハリは補、経絡という気の流れに沿って行うハリが補で、流れに逆らうハリは瀉という具合に、ハリだけでも補と瀉を用います。灸においても、硬くモグサをひねって熱いお灸をするのが瀉、柔らかくひねって適度な熱のお灸は補となるなど、灸のみでも補も瀉もできます。) 

勝手に陰陽論13−2へと続く予定!?

  

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クロアチアドゥブロヴニクの城壁から旧市街を撮影

 

陰と陽についてはこちらも参照に! 

garaando.hatenablog.com

 

 

勝手に陰陽論12 豆腐と太平洋

冬を迎え鍋料理の美味しい季節がやってきた。

湯豆腐を作るため土鍋に豆腐を入れて煮えるのを待つ時、たまに思い出すことがある。

あれは、私が精神科医であるS医師のもとに足しげく通っていた頃の話だ。フロイトに詳しいS先生が話された内容のいくつかを、私は今も鮮明に覚えている。

その一つに、潜在意識(無意識)についての話があった。

「潜在意識(無意識あるいは本能的なもの)ってのは太平洋みたいに広大で、人間の頭で判断できる顕在意識(表層の意識あるいは理性的なもの)ってのは、そこに浮かぶ豆腐だよ。潜在意識は太平洋、いわゆる意識は豆腐。太平洋に浮かぶトウフ!」

そうなのか!?

ト、トウフでしかないのか・・。

トウフのような個人の表層の意識は、なんと潜在意識という太平洋の海に浮いているのか・・。

 

太平洋に象徴される潜在意識には、いくつかの層がある。まずは個人の無意識の世界があり、その下には家族や社会、民族、国、さらには人類全体に共通する集合的無意識が、好むと好まざるとにかかわらず綿々と繋がって存在しているのだ。

例えばクリスマスに演奏されるベートーヴェンの第九。歓喜の歌を唱い上げる、国籍を問わないあらゆる人々のさまざまな歓び。そのエネルギーが、唱う人や聴く人々の中に眠っている無意識を呼び覚ます。

あるいはガンという病名を聞いた時、個人がその病名に持つイメージそのもの以外に、人間がガンで苦しんできた歴史に刻まれる痛み、悲しみ、苦しみ、怖れといった人類全体に共通する無意識のエネルギーが貼りつけられる。

こうして言葉は、この潜在意識に乗っかって、一人歩きする力である言霊を持ってしまうのだ。

 

さてこのトウフとは意識であり、我らの頭の世界のことである。これに対して無意識とは自分の力を持ってしてもコントロール不能で勝手に自律的に働く神経に支配される身体の世界なのだ。

 

つまり、頭はトウフで身体は太平洋なのである。

陰陽論でいえば、軽々と流されるトウフは陽で、泰然として下ざさえをする太平洋は陰といえないだろうか。

 

さて、皆さんは自律神経失調症と診断された場合、どんな風に思うのだろう。

私の臨床では

「心臓が苦しくて調べましたが異常はありません。自律神経失調と言われました。」

「手の震えは問題ないそうです。緊張すると起こるので、自律神経の問題みたいです。」

こうして器質的疾患にまで及んでいないので、ちょっと安心する。あるいは自律神経がちょっと狂ってるけどどうすることもできないし、繊細で体質が敏感なのだから仕方ない。。と思われるケースが多い。

不眠症

胃酸過多も

めまいも

不整脈

ダルさも

痺れも

高血圧も低血圧も。。

原因不明で体質に起因し機序が説明できない病は、自律神経の失調となるのだ。

 

ただし、外界へ向けて行動することができなくなる鬱も、

自分の細胞を間違って攻撃してしまう様々なアレルギーをはじめとする膠原病も、

取り除くべきガン細胞を増幅させてしまうのも、

トウフである意識の力ではどうにもコントロールできない自律神経の活動といえるのだから、

自律神経失調というのは、実は全くもって油断ならないのだ。

 

では、この無意識の領域で働く自律神経とはどんなものなのだろうか。

 

ざっくり言うと、脳から仙骨を結ぶ背骨に沿って走り、背側と腹側から身体の内臓の全てに、また眼球、涙腺などの各部位に繋がる神経である。知覚や運動の神経とは異なって、自らの意志とは無関係に自律して働く。ゆえに我らは、心臓の鼓動を止めることも血管を収縮させたり拡張させたりすることも、内臓の動きやホルモンをコントロールすることもできない。

そして自律神経は交感神経と副交感神経という2種類の神経からできている。

交感神経は、外敵に出会った時のサバイバルモードを作り出す神経で、起きている時や緊張・興奮している時に活発になる。

副交感神経は、身体内部の環境を整える神経で、寝ている時などに働きリラックスモードを作る。

 

陰陽論で言うなら、外へとエネルギーがむく交感神経が陽であり、身体内部の活動へエネルギーが注がれる副交感神経が陰となる。

人体は、この交感神経(陽)と副交感神経(陰)とで、全体として一つの目的を果たす。(この互いに対立し合うものどおしが、ある目的のために統一して働くというのも、陰陽の特徴でもある)

 

 陰陽論については、こちらを参照

garaando.hatenablog.com

 

さて、交感神経と副交感神経とが対立しながらも、ある目的のために一体となって働く、その目的とは?

それは生命体の基本、自らの命を守りながら育むこと。

外敵に襲われている時に、お腹がすいたり、眠くなってはヤラレル!危険が去れば、自分の内部環境へとエネルギーが向かう。いつもハイではいられない。

<注:注目のポリヴェーガル(複数を意味するポリとその大部分が副交感神経である迷走神経を意味するヴェーガル)理論によると、副交感神経(迷走神経)には原始的な背側のネットワークと進化型の腹側の2種類のネットワークがあり、副交感神経であってもリラックス状態へ導かず、危機に接して心身をシャットダウンさせ、死んだふりをする場合もあるとされる。>

 

いわば本能である自律神経の活動は、生命の叡智に満ちた深淵さを持っている。

自律神経失調症を治すために呼吸法や瞑想が効果的なのも、頭の過活動を抑えるためだ。

よく「身体の声を聴く」と耳にするが、

太平洋の言い分をトウフが聴く?という感じがしてしまう。

病気を治すには「過剰な頭を黙らせる」という方が、あるいは「身体感覚に委ねる」という方が、より核心に近づけると臨床経験を通じても思うのだが、いかがだろうか。

 

ギリシャの哲学者ソクラテスがいった「無知の知」は、自分の頭と身体の関係の中にも見出すことができる気がするのだ。

 

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ミクロネシア付近にて南太平洋を撮影

ハリ様への道2 出会い

人生を変えてしまう力を持つ出会い。

その出会いには、いくつかのタイプがあるように思う。

まずは、出会いのはじめからピンとくる場合。ピンッ!てね。

あるいは後になって、予期せぬその影響の大きさに驚きつつ、カウンターパンチのようにしみじみとじんわり胸が熱くなるケース。

更には時を経ての出会いなおし。などなど。。

 

20代半ばで初めてハリの先生である田中美津さんと出会った時、私はすっかり美津さんの魅力にヤラレタ感じがした。

しかしその出会いがその後の自分の人生を大きく変えてしまうとは、全く気づかずに優に2年以上の時が流れる。

 

田中美津さん・ハリとの出会いのきっかけはこちらから。

garaando.hatenablog.com

 

その頃の私は、毎日追われるように仕事をしていて、ヘトヘトに疲れきっていた。

精魂つき果ててわかった事は、ただ一つ。

毎日のルーティンをこなすことは、実は最小限のエネルギーで済むということ。たとえそれがどんなに大変であったとしても。

仕事を辞めるも転職するも何かを決断するも、変化を起こすには新たなるエネルギーが必要となる。

ましてや考えても答えが出ないであろう人生の意味や目的を求めるくらいなら、生活にどっぷり浸かって日々をやり過ごした方が楽なのだ。

やり過ごして生きている。

(DV被害にあっているバタードウーマンとか、ブラック企業であってもそこにい続ける選択しかできない人たちは、このようなエネルギー状態が極まっていて、体力も尽きて思考停止に陥り毎日が過ぎていくのだと思う。)

そんな中で、出会った美津さんとハリ。

ハリ治療へ行くという変化が、新たに私の生活に加わった。

 

美津さんの声は、スーッと人の深い部分に染みわたるような、そんな透明さとリズムを持っていて、しかも滑舌がいい。ユーモアのセンスも抜群で、拾いあげる言葉に力がある。

その美津さんがポツポツと語る東洋医学をめぐる言葉達は、あまりにも身近すぎて見過ごしてしまった現実の生活 (美津さんの言葉では「ぐるりの事」)に焦点を当てる。

そしてハリガネより太くて10センチ以上の長いハリを使う江戸幕府御用達の石坂流のハリは、私の世界観を塗り変えた。初めての身体感覚をいくつもいくつも伴いながら。。

 

美津さんのハリ治療を受けていると、

自分がイモムシのような一つの細胞になっていく感じがした。

「あなたね、分析して幸せになれた事ってある?」と、

背中にハリを打たれながら、あの心に染み渡る声で問われても、イモムシ状の私は返事ができない。

「分析かぁ。。」

寝てしまったかのように見えるかもしれないが、ドッコイ私は起きている!

「自分の行動やら人間関係のアレコレを分析してたけど、そういえば幸せには結びつかなかったな。。」と遠くでボンヤリ思う。

しかし身体がボヨーンと大きな軟体の塊になっていて、それこそ分析が難しい。

確かジプシーキングスの曲が聞こえていた。まだ売れていない頃の彼らの音楽は、その頃の私には新鮮だった。

ジプシーでボヘミア〜ンな異国の響きが、思考することで生じる束縛を解き放ち、身動きはままならぬが、身体内部をユラユラと自由にさせたよ、オレッOlé! 

 

こんな感覚を味わいながら治療が終わる。

すると、私は身体ごと大きな自分になっている。

ボワーンとドラエモンかドラミちゃんのように、ボワボワに。

そして、もうなんだか現実がどうでもいいように思えた。

投げやりな感じというよりも、「そういう現実もあってもいいかな、なんでもアリで!」というようなちょっと余裕の感じで。

今ならわかる。エネルギーが、気が、満ちたのだ。

それも身体まるごと。

(注:人間の身体は物質的肉体の周りにエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体などと呼ばれるエネルギーの層をまとっています。目に見えないこれらの層が充実してくると、大きくなったり、広がったりする体感があります。瞑想や太極拳、あるいはフリーダンスや踊りながら参加するライブやコンサートなどでも、このような体感を得られます。)

 

その頃の美津さんの治療所は、細い小路を入ってたどり着く隠れ家のようだった。

私は秘密基地へ行くみたいな高揚感を持って通っていた。

疲れたら、身体の様々なところへ打ち込まれた箍(タガ)を外してもらいにハリへいく。

そして箍(タガ)が外され、身体の各所は再び繋がりあい、イモムシのような自分になって、ボワボワと大きくなるのだ。

それだけで日常の様々なことの捉え方が変わった。

「ま、どうでもいいか」とか、

「なんだ、些細なことだったね」とか、

「よし、やってみるか」とか、

「何はともあれ、美味しいものを食べよう!」とか。。

自分に迷いが少なくなって、キッパリしてくる感じだ。

身体が楽になれば、自然に自分が変わる。

 

身体の面白さにのめり込みながら、

小さいことが積み重なっていくうちに、

子供時代に職業として知りもしなかった「鍼灸師」ってヤツを目指すことになったのだ。

もっとハリを知りたい。自分で自分にハリを打てたらいいな。

ちょっと、やってみるか。。と言ったノリの延長で。

このノリは、それまでの自分が選択してきた進路の決定方法とは全く違ったものだった。

それ以来、私の選択と決断はいつもこのノリになったように思う。

 

先日、美津さんのドキュメンタリー映画「この星は、私の星じゃない」が上映された。

映画の中で懐かしい美津さんの声を聞き、力ある言葉に頷いたり笑ったりしながら、昔のことを思い出していた。

久々に美津さんと再会し、私は鍼灸師をずっとやっていくと告げることができた。

美津さんは言った。

「身体って、面白いよね!」 

そう、これに尽きるのだ。

 

美津さんとの出会いは、その初めから魅力的だった。

本質を求めるハリと

美津さんの持つ優しさ、ユーモア、傷つきやすさ、強さ、正直さ、そしてカリスマ性。とりわけ美津さんにはチャーミングという言葉がよく似合う。

今、しみじみ思う。なんと大きな出会いだったかと。

そして私は、

それまで自分であったはずの自らの身体と、出会い直しをすることができたのだ。

たぶん、この自らの身体との出会い直しの道のりは、生涯続いていくに違いない。

それもまた、なんとも嬉しい。

 

田中美津さんの書籍> 

 「明日は生きてないかもしれない・・・という自由」インパクト出版会、2019年

 「この星は、私の星じゃない」岩波書店、2019年

 「かけがえのない、大したことのない私」インパクト出版会、2005年、

 「新・自分で治す冷え性」マガジンハウス、2004年 他多数 

 

 

(後記)

私はハリによって自分が大きくなるという体感を得ました。今にして思うのですが、これは心理療法で使われるエンパワーの手法に他なりません。

大きくなった自分は、クヨクヨ悩んでいた分析脳に支配されていた小さな自分を凌駕します。大は小をかねながら。。

インナーチャイルドワークも自我の成長が進まなければ、そこにアイデンティティを作ってエネルギーを注ぎ、物語をさらに強固なものに塗り変えて、いつまでもそこに居着くことになってしまうのです。

 

美津さんに「分析して幸せになる?」と聞かれた時に、私は頭で理解することの限界をうっすら感じ取り、相まって身体の感覚の面白さを味わうことができました。自分の身体を実感できるようになると安心感が増します。自己の一体感というか。。この安心感を礎に一歩が踏み出せるのだと自らの経験を振り返って思います。

 

「あなた、まずは身体よ!」と教えてくれた美津さんに感謝を込めて

生きづらかったら、苦しくなったなら、

とりあえずは身体、整えましょ。

そして身体感覚、開きましょ。 

私も皆さんに伝えていきたいなと思っています。

 

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チリ、プエルトモン付近(パタゴニア地方)の海上から撮影
 

 

勝手に陰陽論11 トリッキーな身体感覚 ほてり

身近な健康法である入浴。

昨今のシャワー派の台頭を聞くにつけ、私は入浴の恩恵について日々研究している。その成果もあって、体感で大体のお湯の温度がわかるようになった。ま、あってもなくてもいい能力だけどね。

 

それにしても先日はいったお風呂は、熱すぎた(約45℃)!

ヒートショックプロテインHSP)入浴法みたいだ。

<注:ヒートショックプロテイン入浴とは、身体に熱のストレスを与えることで、細胞を修復する時に働くタンパク質(HSP)を増やし、免疫をあげることができるとされる入浴方法。設定温度は40℃〜42℃>

浸かっているうちに、不思議な感覚に襲われる。

熱いはずなのに、皮膚の表面はかえってピリピリと冷たい。

熱いのか?冷たいのか?

 

そういえば昔もこんな逆転現象があったなぁ。。

子供時代、海で泳いでいて冷えきった時だ。

唇もブシ色(注:北海道の方言で、どす黒い紫いろ)になって、ガタガタと震えて海からでるのだが、冷たいはずの海の中(水温18℃以下)の方が陸地(気温20℃以上)よりも暖かく感じたのだ。

寒いのか?暖かいのか?

 

今回は、このトリッキーな身体感覚について考えてみたい。

 

更年期の女性が襲われるホットフラッシュ(顔面、頭からダラダラと滝のように汗をかく症状)。またはベッドで寝ている姿勢から布団を剥いで足を上げて壁につける。そうやって冷やさないと寝れないといった足の火照り。

これらは陰陽の不調によっておこる。

上にあがる性質を持つ陽の気が上半身、とりわけ頭部に昇ったまま下半身へとおりていかない。

頭痛、めまい、耳鳴り、イライラ、不眠などといった更年期の不調は、この陰陽の気の流れの分離によるところが大きい。

 

 更年期については、こちらも参照。

garaando.hatenablog.com

 

そもそもだ。

実質臓器の内臓や脳は絶えず活動しているため熱を生む。そのため実質臓器が多い上半身とその周辺はこの熱の影響で体温も高いが、実質臓器が少なく管腔臓器で占められる下腹部や手足の体温は上半身と比べて低く、冷えている。

 

東洋医学では、人体にはこの冷え(陰)と熱(陽)とが分離することなく巡りあうシステムがあるという。

月(陰)と太陽(陽)は、それぞれが一つ所に留まることなく互いに影響を与えながらも絶え間なく移動する。刻々と夜が更けて必ず朝がくるように。

人体は小宇宙なのだから、このような陰陽のバランスある流れが身体の中に備わっているのである。

 

さてこのシステムとは?

ざっくり言うと、人体には気の通り道である経絡(けいらく)という12本のラインが縦に走っている。

これらには陰陽の2種類が6本づつあり、陽のラインは身体の上から下へと、陰のラインは下から上へとエネルギーを運ぶ。

(注:陽は外・上へ、陰は内・下へ向かうエネルギーである。しかし宇宙や自然界は開放系でなく円環系であることを考えると、上へ向かった陽の気は限界点に達して下へ降りてくることになる。東にずっと行けば西になるように。足の下にも天があるように。

天と地の間に位置する人間は、天から降り注ぐ陽の「気」を受け取り、地から陰のエネルギーを「味」で受け取るとも言われている。

それゆえ人体では、経絡の陽ラインは上から下への方向で、陰ラインは下から上へと向かう流れに乗ってエネルギーを運ぶ。

天・地・人が組み合わさった生命エネルギーが、互いに影響しながら、流転し循環するという自然界のシステムなのだ)

 

つまり、身体の中で陰陽のエネルギー双方が健全に流れる時、それらは身体の上部と下部とに分離されることはない。

 

足がほてる方は言う。「冷え性じゃありません。暑くて暑くて、くつ下なんて絶対はけない」と。

しかし、東洋医学においては「火照り:熱」は「冷え:寒」の極まった状態とされる。(注:中国医学の古典「傷寒論」では、自覚できる冷えは「寒」、他覚的な冷えを「冷」という)。

足のほてりの場合は、更年期の不調の原因と同様、上半身に「熱」、下半身に「冷え」が偏ることが多い。

<注:熱と寒(冷え)が複雑に絡み合うケースとして、身体全体の内部は冷えているが体表全体が熱い場合や、躯体は熱いが、手足が冷えている場合など熱と寒(冷え)は、いくつかのパターンで混在している>

 

さらに陰極まりて陽となり、陽極まりて陰となるのだ。

つまり冷え(陰)が極まると、ほてり(陽)に反転する。

そのため、ほてるから冷やすと、さらに冷えが入り、より一層ほてるという無間地獄の扉を叩くことになる。

 

なんとトリッキーな身体感覚!

 

症状とは、細胞たちの表現であり、

繰り返し現れる症状には、その奥に時の集積がある。

そして症状がいったん取れることと、病気が治ることとは必ずしもイコールではない。

 

最後に長年の足の ほてり が実は冷えだったことに気づいた私の患者さんの、その独自のメソッドをご紹介させていただく。

 

Aさんは、およそ14年間、足の ほてり が悩みだったという。昼は仕事での車による移動がメチャクチャ多い。クーラーをつけて特に熱い足をガンガン冷やしていた。昼間はこうして過ごし、夜寝ると足が熱くて目が覚め、眠れない。バケツに氷を入れた水をはったり風呂場へ行って、足を冷やす。とにかく熱いから冷やす。この冷やし作戦は5年以上に及んだ。

2年ほど前に、それは冷えの極まった状態だ!と私に言われ、驚きながら作戦変更。クーラーを極力避けるように。そして暑かったこの夏。移動する車内はクーラーをかけて、足には後部座席に置いてあるモコモコブーツを取り出して必ず着用。常に足を温める行動をやってみたという。すると、今までの火照りがとれてきたのだそうだ。名づけてブーツ作戦。その後もスムージーを飲んだ日は足がほてるなど独自の研究を続けている。

いかがだろうか。

斬新なる作戦に、賛美を送りたい。

 
遊びココロを持って、自分を知り、自然を学ぶ。

健康へと向かう道のりの先には、希望がみえてくるはずだ。

 

<後記>

北国育ちの私は、真冬に手がかじかんで冷たくなると自分の首の後ろに手の平をあてて暖をとっていました。手が暖かくなると喜んでいると、次第に首が冷たくなるのに気づきます。

暖かいのか?冷たいのか?

この両極が淘汰し合う感覚を遊びながらよく味わっていたものでした。

どこに視点を置くのかによって身体感覚も変わります。

冷えていると無感覚になってしまうことが多いため、熱い方が感じやすく、冷えに気づかないのかもしれません。

その熱さ(暑さ)の裏に、奥に、下に、冷えは潜んでいないのでしょうか?

今一度検証してみていただければ嬉しいです。

 

 

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ブラジル、グアナバラ湾の海底油田の採掘現場にて撮影

臨床例としてAさんのご協力を得て掲載

 

東洋医学概論4 身体感覚を開く

あなたの座右の銘は何ですか?

そう聞かれた時を夢みて、わが座右の銘を決めてみた。かけだし鍼灸師時代の25年以上も前のことだ。その後ずっーと今の今に至るまで、ただの一度も誰からも聞かれたことがないです、ハイ。

私の座右の銘は「押してもダメならひいてみな!」なのにね。

 

先日そのことを思い出していたら、気づいてしまった。

なんと「押してもダメなら引いてみな!」は陰陽の法則だということに。

押し(外に向かう陽)てもダメなら引いて(内に向かう陰)みな!

というわけで、どちらか一方だけにリキンで上手くいかない時は、反対側でバランスとりな!と言っているのだ。

陰陽微妙に合わさってうまくいくのさと。

やはり、世渡り上手の金科玉条なるセリフ。

 

ところで、みなさんは  On the Job Training、略してOJT をご存知だろうか。

これは、企業の新人教育の際、職業訓練を行う手法のひとつである。

実際の業務を行い、動きながら身につける。

自分の経験を振り返っても、やりながら学び覚えるという方法は効果が著しいように思う。

子供が言葉を覚える方法も、まさにこれなのだ。

私がこのOJTという言葉をはじめて知った時、我が座右の銘「押してもダメなら引いてみな!」と共通の何ものかを感じた。

 

どちらも、身体を使ってやってみるという手法といえる。

体感も伴って進み、壁に当たると立ち止まって考え、臨機応変に別の動きをとる。

すると、なんとなくわかってくる。

理屈は動きとともに身体に落とし込まれて理解され、我らは実務を身につける。いわゆる体得だ。

 

さて、そもそも「わかる」「理解する」というのは、どういうことなのだろう。

 

わかるとは「分かる」「解る」と表記されるように、分けて分解して、そのエッセンスをあぶり出し、理性的にわかるということでもあるようだ。

西洋医学の力は、この「分析」にあるのだと思う。

分類され画像に映し出されて、

あるいは数値に置き換えられて、

視覚的に客観的にアタマで「ワ・カ・ル」世界。

まさに「百聞は一見にしかず」どおり、視覚に訴える分析は圧倒的な力を持つ。

身体の中を分け入っては細部に焦点を当てて、見えない世界を可視化させ、さらに客観視させる。

 

一方東洋医学において「分かる」というのは、「五臓六腑にしみわたる」あるいは「腑に落ちる」といった個人の身体感覚を伴う主観的なものだ。

<注:五臓とは肝・心・脾・肺・腎といった実質臓器を指し、六腑とは胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦(「さんしょう」といい、東洋医学特有の概念。これについてはまたいつか!)といった中が空気や水分が通ることのできる管腔臓器をいう。>

つまり内臓の隅々にまで行き渡るリアルな体感、それを通じてワカルというわけだ。

また東洋医学には、心(感情・精神)と身体とは分かつことができないものとする、「心身一如」という概念がある。(注:西洋医学では精神と肉体とを切り離す、デカルトが提唱した心身二元論の立場をとる)

心と身体は切り離せないのだから、感情(心)にも身体感覚を伴う。

怒った時は、頭に来て(頭に血がのぼり)、ハラがたち(腹直筋が筋張る)、ハラワタが煮え繰り返る。

嬉しい時は、ハートが開き、胸が高鳴り、脈が速くなる。

驚いた時は腰が抜け、恐ろしい時は身の毛がよだつ。

悲しい時は胸がふさぐのだ。

  

現代は、頭の理解(分析)がいき過ぎてしまい、アタマと身体との繋がりが弱く、

身体の感覚が鈍くなり、繊細な感情の感受も乏しくなってきた感じがする。

 

臨床での私と患者さんとのやり取りを例に挙げてみる。

・運動はしてますか?ーテレビでとにかく歩けと言っていたので、毎日5,000歩は歩いていますが、足りないみたいですね。本当は何歩がいいのですか?

・よく眠れますか?ー睡眠はアプリで測っています。レム睡眠ノンレム睡眠の繰り返しを4回していて時間も6時間。睡眠状態の管理もできているので大丈夫です。

・気になるところはありますか?ー体脂肪率は20%なのですが、体重は今のままで筋肉量を増やしたいんですよね。あ、プロテインは取ってます。

・病気のための減量はどんな感じですか?ーレコーディングダイエット(食べた物を記録するダイエット法)をしていたので、食品のカロリーはわかっています。今は糖質制限をしていますが、血液検査の結果はまぁまぁ良くなりましたね。

 

このように数量で測られる世界に、身体感覚を問う余地はない。

 

また私が民間療法を勧めてみると、

「それってエビデンスは、あるのですか?」と言われることもある。

エビデンス。ああ、悲しい響き、エビデンス

受け継がれる伝統療法ではダメなのだ。数値に置き換えられたデータこそが必要となる。

エビデンスも確かに大事だと思うし、必要性も感じる。しかし、エビデンスを求める人の中には、それこそが唯一の正解であるかのようにとらえる人もいる。One of them なのに。。

 

少し前までは、

「ワタシテキには、〇〇なんですよぉ〜」とか

「ワタシって、そういう人なんですよぉ〜」と言っていたではないか。

それが自分の身体に関することになると、

エビデンスがないことは、あんまり・・」と。

なぜに、ここだけ客観的になる?

なにかと求めてやまない「自分軸」。今ここでそれを発動させないでどうするの??

だって身体こそ、とっても個体差があるのだよ!

とツッコミたい所を、何度自らをグッと抑えたことだろう。

 

そしてエビデンスにこだわっているとこんな事も起こる。

痛みがあって病院へいった患者さん達が医師から言われたという。

「レントゲンで見るとすっかり治っている。おかしいね、痛くないはずだ。」とか、

「気のせいでしょう。心理的なものだと思いますので、心療内科へ行ってみますか?」とか、とか。。

でも本人達は、本当に痛いし、気のせいなんかではないと訴える。

 

敏感な方は、エーテル体(注:人体はその外側に幾つかのエネルギーの層をまとっており、肉体に一番近く、表皮の5mm位外側で感知できる層のエネルギー体をさす)の損傷も痛みとして感知する。私の臨床例でも、当人の訴え通りにエーテル体が傷ついている場合が多い。たとえデータに上がってこなくとも(注:メンタルの影響で痛みがでる場合ももちろんあり)。

また経絡(身体にある気の通り道)の流れも知らない方が、その走行どおりに痛みを感知していることも何度もあった。これは明らかに気のせいではないのだ。

  

治療する側もされる側も身体感覚を開いていくことは大事なのではないだろうか。

身体感覚を開いていくことは、

自己の拠り所としての身体をリアルにワカルようになる唯一の方法であり、

このプロセスをぬきにして真の健康はあり得ない。

 

そして身体感覚を開くためには、

頭で考えてばかりいないで、身体を動かしてみる。

するとエネルギーの流れが変わりはじめ、何かが起こる。

そうやって身体を使いながら、起こってきたことを通して

自らの肉体に、己の感情に、意識を向けるのだ。

まさに On the Job Training !

 

そう、ちょっことだけ押して、ダメなら引けばいい。

 

 

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ブラジル、リオデジャネイロコパカバーナビーチにて撮影 

(なお、本文における患者さんとのやりとりですが、多くの方に共通する例を、まとめて編集した形で記載。特定の方を想定したわけではありません。)

勝手に陰陽論10 内と外

ここ数ヶ月、制服姿の学生で占められる長蛇の列が日に日にのびる店がある。

タピオカドリンクの販売店だ。

タピオカとは、熱帯地方で栽培されるイモの一種であるキャッサバを原料とし、その根茎から作ったデンプンのこと。

流行りに乗っているのは、真珠大であることからタピオカパールと呼ばれる粒々入りのミルクティー(中国語表記:珍珠奶茶)。モチモチ感のあるゼリーのような球状のタピオカがデザート感をかもしだす。

 

先日、このドリンクを飲んでみた。

パール大のタピオカをミルクティーと一緒に吸い上げるためのストローは、なるほど随分と太くて頑丈だ。プラスチック製品が問題とされる昨今で、このストローは今後どういう材質になっていくのかと考えずにはいられない。

ストローのことをぼんやり眺めていたら、ふと人間もストローみたいだなと思った。

人間も筒(ツツ)あるいは管(クダ)であるという意味で。

 

人間は皮膚によって外界との境界を形成し、個体としての自己を保っている。

ストローのような、あるいはトーラス(下図)と呼ばれる位相で人体をとらえてみると、

外界と接しているのは皮膚だけではない。

口から肛門までの筒状の管を形成する呼吸器や消化器も、外から入ってくる空気や水分・食料の通り道なのだから、外界と接していることになる。

 

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          エネルギーの基本形態とされるトーラス図(ネットから拝借)

 

<発生学的ザックリ補足:上の図から受精卵を想像してほしい。卵の外側を占める外胚葉からは皮膚組織が、内胚葉(上記の図では中心がくり抜かれた部分の周辺。空気・水・食物の通過する部分の周り)からは呼吸器と消化器が発生し、そして外胚葉と内胚葉の間にあるツメモノ的役割の中胚葉からは身体を保持するための筋肉や骨格、結合組織が生まれる。>

 

人間を太い筒、あるいは管と見立てた場合、その外側と内側は表裏の関係にあたる。

陰陽論でいうなら、外側(表)は陽であり、内側(裏)は陰となる。

 

陰陽論による人体の見方

陰とは、内や下に向かうエネルギーを有し、重さや静けさを生む。女性は陰。

陽とは、外や上に向かうエネルギーを持ち、軽さや動きを生む。男性は陽。

人体の部位でいうと、動物が四足歩行している姿勢(よつんばい)で太陽が当たる部位、すなわち背側が陽。太陽が当たらない部位である腹側が陰となる。

立位で太陽に近い上半身は陽で、下半身は陰。

闊達に動くことができる四肢は陽で、躯体は陰。

体表は陽で、内側である肌肉・筋肉・骨は陰。

臓腑でいうならば部位においても形態においても、臓は陰で腑は陽となる。

(補足:臓とは肝・心・脾・肺・腎の五臓を指し、実質臓器である。腑とは胃・小腸・大腸・膀胱といった内部が腔となっている管状の器官で空気や水あるいは養分の通り道となる)

さらにその位置でみるならば、五臓の中でも心・肺は陽で、肝・脾・腎は陰に分けられる(『素問』金匱臓真言論による)。

さらにさらに心は心陽・心陰に、腎は腎陽・腎陰に分けられる(補足:このように陰陽のそれぞれがさらに陰陽に分けられることを「陰陽可分」という)。

以上をふまえても、「脚は陰ですか?陽ですか?」という命題は成り立たない。

上半身・下半身の視点で見れば脚は陰であり、

四肢・躯体の区分においては陽になるのだから。

このように視点によって陰陽の属性は変化する。

見方によって世界が変わる、これが陰陽論の本質のひとつなのだ。

 

さて、筒状の管である人間に話を戻す。

人体を個体ならしめている皮膚である外側(表)と 口から肛門までの内側(裏)。

これらはともに外界と接している。

外側の皮膚は自己としてのバウンダリーの役目を持って外界と接しており、内側の呼吸器・消化器は、空気・養分・水分の通り道として外界に開くことができるから。

 

内と外、裏と表の視点で病気を観るなら、喘息(内)とアトピー性皮膚炎(外)との関係があげられる。

喘息が収まっているとアトピーが出て、アトピーが良好である時は喘息を発症するというケースは非常に多い。

どちらもククリとしてはアレルギーの病。

喘息を治すのに皮膚の乾布摩擦が効果的なのは、皮膚(外・表)を鍛えると気管支や肺(内・裏)も強化できるから。

 

人体の内と外、裏と表は繋がっている。

それゆえ人体は、総体として有機的に働く、ひとつの膜(マク)とも言える。

(補足:陰と陽とを内と外といった対立概念として分析することはできるが、総体として分けることができないことを「陰陽可分不離」という)

 

人体の外部を形成する表皮は、汗で体温を下げたり、皮膚呼吸を行って、外部と内部との調整をはかる。

 

人体の内側を構成する部分は、必要に応じ、口や肛門を開いて内部を外界につなげる。

 

外の世界に対して、

時に閉じ(陰)、時に開く(陽)。

閉じつつも開き、開きつつも閉じるのだ。

 

呼(は)いて吸(す)う。

食べて排泄する。

 

受け取っては与える。

インプットしてはアウトプットする。

 

守りつつ変わリ、

取り入れつつ、保つ。

 

外界から個別化された人体は、

内と外とが繋がりあって、

ひとつの膜となり、

新陳代謝という生命体としての機能を果たすのだ。

 

 

 <後記>

人体が筒状の管であり、内側も外界と繋がっている。

このことは私に鍼灸学校時代の病理の授業を思い出させました。うる覚えなので得意のザックリでいいますが、血管は、管ではあるが閉じたり開いたりできる。つまり透過性があるというのです。身体のどこで出血しても血小板が飛んでいって血を固めて止血します。それは、血管内にいる血小板が必要に応じて血管外へ移動することができるから。

血管の壁が開く!  

ど、どこまでフレキシブルで、自由なの?!

これは、私にとって驚きでした。

 

そして思いました。

無意識の世界(陰)の素晴らしさを。

意識や知性というシバリがないところで、淡々と反応する自律性の匠(たくみ)を。

行こうか行くまいか、やるのかやらないのかと迷っては動けない自分の意識の世界(陽)の浅薄さを。

 

いっそ無意識に委ねて、おまかせ上手な人間になれたなら。。

身体と係わる仕事をしていると、意識や知性の限界みたいなものを時折感じます。

ただの膜(マク)になって原初のエネルギーで満たされたなら、それは最高の治療なのではないかとさえ思うのです。

 

身体から学ぶことは、尽きることがありません。

  

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「アドレア海の真珠」といわれる、クロアチアドゥブロヴニクにて撮影

(注:タピオカドリンクについては、身体への危険性も言われていますので、ご用心あれ!)

 

勝手に陰陽論9 黒

わが故郷、小樽。その小樽へ帰る楽しみのひとつに、余市にあるゲストハウス「はれるや 」さんで開かれるバーベキューパーティがある。

はれるやのママさんをはじめ、プロの料理人たちによる選りすぐりの食材の、素材を生かした粋な品々。そして惜しげなくバンバン栓が抜かれる、入手困難と噂高きナチュールワイン。

優しい夜風に吹かれ、バックに流れる音楽に身体を軽く揺らしながら、近場の人たちとポツポツと話しては、バーベキューをつまみワインを少し。。夕暮れ時から終電までの間、そこここで焚かれる火に燻される私は、いつもとは流れ方が違う時を、ちょっぴり酔いながらも堪能する。

 

それにしても、バーベキューが美味しい。ママさんにそういうと「極上の備長炭なのだ!」と。

そうか、炭によってもこんなに味が変わるんだ。。。

 

今回は、炭焼きが美味しいわけを考えつつ、炭の色でもある「黒」の特質について考えてみたい。(注:炭には黒炭と表面に白い灰のつく白炭がありますが、ここでは黒色として扱います。)

 

木を燃やすと白色の灰となり、灰は2度と燃えない。炭は、空気と結合できない状態(蒸し焼きなど)で木を燃やして(黒炭は400℃〜700℃、白炭である備長炭は1000℃以上)作られるという。木の中の水蒸気やガスが抜け落ち 、炭素だけが残って黒色の炭となる。

炭は、ガス火の4倍以上の赤外線を発し、深部へと浸透することができる輻射熱によって安定的に表面を均一に素早く焼き上げ、うま味成分を食材の中にギュッと閉じ込めることができるという。

 

炭は木の持つ雑多な要素を除きさり、炭素というエッセンスのみを内包する。そしてその炭で調理された食材も、その食材の持つうま味を内蔵する。

また炭には不純物を吸引して離さない力があるため、脱臭、浄水、浄化などにも役立つ。

このように凝縮されたエッセンスを内側に封じ込める力を有する物質は、黒い色を呈する。

あらゆる色を混ぜてできる黒色は、あまねく色のエッセンスをその内に納めており、陰陽論でいうところの「陰」を象徴する。

(ちょっとおさらい:陰とは内に向かって集約される力で、凝集して形を作り安定する。陽とは外に向かって拡散する力で、放出して流れや動きを生む。色はあらゆる色を含む白に象徴される)

 

一般的に黒(ブラック)といえば、とかく悪いイメージになりやすい。

最近では「〇〇会社はブラックだって!」とよく聞くようになった。労働条件が悪い会社をさして、ブラック企業という。

勝負の世界では、白星は勝ちを、黒星は負けを意味する。

犯罪においては、白は潔白で無罪を表し、黒は有罪。

白はでビンゴ!  黒は X でブーって感じ。。

黒は闇を象徴的に表すため、「未来は真っ暗」と言ったなら、それは絶望を意味する。

また恐れ、孤独、沈黙などもイメージされる。

 

こういった暗いイメージの一方で、こんな意味もある。

・威厳、神聖

正装の場面で用いられる黒(タキシードや喪服)は、厳(おごそ)かで神聖な意味あいを帯びる。

・高級、派手、上級

私が中華料理を習っていた頃の話であるが、先生に「中国では黒は派手な色とされていて、椎茸や黒キクラゲといった黒の食材はとても大事に扱われる」と教わったことがある。白キクラゲより黒キクラゲの方が高級品になると。ナマコも中国では「黒いダイヤ」と呼ばれ高値で取引されている。

また武道において黒帯は、白帯より上の階級を表す。

・安定、落ち着き、静寂

灯りを消して真っ暗な中で寝る方が、薄明かりの光が灯された部屋で寝るよりも、圧倒的に眠りは深く、身体が休まる。深い闇(黒)が人体に深い安定と落ち着きを与える。

 

このように黒は、恐怖、脅威、敗北、邪悪といった暗いイメージと

威厳、神秘、高級、安寧といった肯定的な側面とをあわせ持つ。

 

エネルギーの視点から黒を捉えると、

ブラックホールのように強烈な吸引力で、

ギュっと内に向かってエッセンスを封じ込める力を持つ。

それゆえ囲碁碁石は、黒のサイズが白より大きく作られているそうだ。同じサイズだと肉眼では黒が小さく見えてしまうから。

またファッションでは、ボトムを黒にした方が白っぽい色よりも脚がスリムに見える。

これらは、黒色の持つ内に向かって閉じ込めるエネルギーが働いているためだ。

 

あらゆる色を混ぜてできる黒。

地味にも派手にもなりうる色。

邪悪にも神聖にも。

恐怖にも安心にも。

 

黒色に象徴される陰陽論における「陰」には、善悪の2元論をはるかに超えて、清濁併せ吞むというような強い力が込められているかのようだ。

 

陰の力。

男女の性別でいうなら、女性を指し、母性はここから生まれる。

天と地でいうなら、大いなる地球の大地であり、

空と海でいうなら、生命が誕生した海。

 

闇が得体の知れない奥深さを感じさせるように、

漠とした深遠さの中で際だつ強さを持った陰の世界は、なんとも果てしがないように思えるのだ。

 

 

<おまけ>

民間療法

日本には、黒炒り玄米茶、梅の黒焼き、ナスのヘタの黒焼きといった黒炒り、黒焼きにする文化がある。ミネラルや成分、エネルギーを含み、その食材のエッセンスを安定した形で収蔵するもの。黒の持つ力に想いを馳せつつ、ぜひ一度お試しあれ。

黒炒り玄米茶ー腸内の有害物質を排泄、腸内環境の改善、免疫力や肝・腎機能アップ

梅の黒焼きー疲労回復、風邪の予防、解毒や抗酸化の作用、冷え性改善など

ナスのヘタの黒焼きー虫歯、歯槽膿漏、歯肉炎、痔

  

<後記>

 ブログを読んでくださる患者さん達のもっとも多い感想は、これです。

「陽が良くて陰が悪いと思っていました。でも、そうではなかったのですね・・」と。

そうなのです。

陰の世界の奥深さと果てしなさの上に、躍動し輝ける陽の世界がある。

陰陽を善悪という2元論ならしめているのは、たぶん解釈の問題。

人間の性格上の欠点が長所にもなりうるように、見方や解釈によって逆転するのです。

そこに陰の世界がある。ただ、それだけ。

そこここで目にする黒色を通して、ちょっとだけでも陰の世界の深みへと堕ちていっていただけたなら嬉しいです。 

 

 

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 メキシコ、トゥルム。満月のもとで瞑想したカリブ海の浜辺にて撮影