記憶の扉は、ふとした瞬間に開かれる。それは、たとえば沈丁花の香りを嗅いだ時。私の祖母は大学生だった私によくハガキをくれた。春になると決まって、沈丁花が芳しいとそこには書かれていた。そのせいか沈丁花の香りを嗅ぐや否や、私の中の祖母がよみがえる。またナツメロの音楽が聞こえてくると、あの時の風景やら感情やらが一気に私を包みこみ、タイムスリップしたような感覚に襲われる。そう、あの時のあの感じ。。
その一方で人の名前がなかなか出てこない。あの人!顔も声もわかる。でも名前が思い出せない。ああ、わかっているのに。。
頭を経由して思いだす出来事や言葉と比べると、五感から蘇る記憶は、よりダイレクトなシステムが働いているようだ。まるで細胞にしみ込んでいて、何かの拍子に記憶の扉が開くかのように。
先日、腰が固まってぎこちない動きしかできない患者さんがいらした。すっかり固まっているので、足が踏みしめるちょっとしたデコボコに骨盤が柔軟に対応できないという。普段は平らな道だと認識している道路も、雨が流れるように作られたわずかな傾斜が腰にひびく。刺激を吸収する骨盤の微調整ができないため、いちいち腰を左右にふらないと歩けない。
そのぎこちない歩き方をしていたら、ふと幼い頃、駄菓子屋のおばあさんが同じ歩き方をしていたのを思い出したそうだ。今の今まで一度も思い出したこともなく、それほど特別な思い出があったわけでもないのに。いつも奥からぎこちなく左右に腰を振って、のっしのっしと出てきたおばあさん。
驚くのは、その突然襲ってきた記憶だったという。幼い頃、彼の視覚から入った記憶は、自分の身体を通して動きが再現された時に、記憶の扉が開いたということだ。
動きから、身体から、細胞から、記憶の扉が開く。
私はこの話に興味を持って、その後も何度もその話を彼に向けた。すると、とうとう彼は、こう言った。「あの、何度か聞かれて、昔の記憶を思いだそうとするのだけど、あの思いだした瞬間のリアルさは失われて、無理に思いだそうとすると、頭の解釈で記憶が塗り替えられそうだ」と。
すっ、すばらしい!さすが、長年の私の患者さん!と感嘆した一方で、それにひきかえこの私はどうだろう?記憶の塗り替えを迫るほどに聞いたのだ。どうなの?そもそも治療家として。。。
ぐっと落ち込みながらも、臨死体験をした人たちが、生まれてからのすべての記憶を、思い出したことが一度もないような人生のすべてを、走馬灯のように見せられたという話が頭に浮かんだ。肉体に宿る記憶が、細胞に刻まれた記憶が、肉体を去るその時にほどけていくのではないか、そう思えてきた。
(なお、本文は患者さんの了承を得て掲載)
(写真は、ブエノスアイレスの墓地にて撮影)