“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけい子が語る東洋医学の世界 〜

Life(おはぎ編)

春分である。和菓子屋さんには、オハギが並ぶ。きなこ、ゴマ、あんこ。つぶあん、こしあん。。

 

私が子供の頃、お彼岸の入りになると必ず、祖母と母は朝4時頃からモチ米を炊き、前日から煮て裏ごしした小豆で、オハギを作った。私は小学校登校前に、できたてのオハギを親戚の家へ届けなければならない。そして親類が作ったオハギを持って帰ってくる。春分秋分の年2回だけ、オハギを入れる重箱が活躍するのだ。

我が家は、その後も親戚から集まってくるオハギでいっぱいになる。昼も夜も、次の日もその次の日もオハギ。ちょっとカビが出てきたら、カビをとって焼いて食べさせられた。

「ゴマ、きなこ、あんこ、どれが好き?」「ツブアンとコシアン、どっちがいい?」毎年決まって家族間で交わされる会話たち。

 

 

私は、こういう世界にあまりなじめなかった。

つまり、「生活」ということ自体が苦手だったのだと思う。

しかも幸か不幸か、とても行事好きの家庭で育った。ひな人形を飾り、ひなあられを食べる。(ヒナアラレ、あれって美味しいですか?今でも疑問です。)お彼岸にはオハギをつくり、春になるとヨモギをつんではお菓子をつくる。庭の梅ができたら、梅をカメにいれては出して、大きなザルに並べて天日に干す。そしてこれを何日も繰り返して、梅干しにする。土用の丑の日にはウナギをたべ、秋になると大きな大根が縁側に並び、手の感覚がなくなって痒くなるまで水洗いをさせられた。12月になれば、半年以上もラム酒につけたドライフルーツでパウンドケーキを30本は焼いた。そして年が明けると「おめでとう」と言う。

 

小学生の私は、こっそり思っていた。「人はパンのみで生きるにあらず」と。

現実的な会話にもどこか違和感があった。友人といても、「ねえ、もっと大事なことを、せっかくだから話そうよ!」と偉そうに思っていた。人生とは何なのか、どんな夢があるのか、どうせ死ぬのになぜ生きるのか、戦争はなぜなくならないのか、とか、とか。

 

 

Lifeという英語には「生活」という意味の他に「人生」という意味がある。

 

同じ空間を共有していても、ある人は生活について語り、またある人は人生について語る。会話は互いに交わされているようにみえて、重なる部分はあれど、実はそれぞれ違う世界がくりひろげられているように感じていた。

 

時を経て私は治療家になり、身体のことをいろいろ学ぶうちに、食の大切さを改めて知らされた。そして、宇宙のリズムにのって、食文化を含む年間の行事があったのだと実感し、考えや行動を改めていく道にいつしか入ったように思う。

 

 

Lifeには、「生活」と「人生」、そして更にもうひとつ「命」という意味もある。

 

 命の観点から育まれ、ひとつの形式や型となった行事や儀式の意味を、治療家となった私は、やっとはじめて知ることとなる。

頭の理解や感覚がなくとも、型を整えるだけで恩恵を得ることができる、または本質に近づくことができるという、エネルギーのテンプレートで創られた年間の行事と儀式。これこそ、先人たちの知恵だったのだ。

 

日々の生活を楽しんでこそ、大事にしてこそ、人生が豊かになるのだ。そうやって命が育まれる土壌が実る。

 

 

Life、生活と人生と命。

  

この3つの要素は、たがいに交叉し、あるいは包み込み、つながりあっている。この3要素は、個々人により、重きがおかれる割合が違っていて、このバランスはそれぞれの人の個性となる。そしてこの個性を内包した個人もまた、より大きな地球や宇宙のイノチの流れの中の小さな小さな一粒にすぎない。

 

私が思う東洋医学とは、この3要素を時に近視眼的に、また時に、要素間のつながりを多次元的に扱う方法論の中の一つの術(すべ)に他ならない。

   

Lifeの意味を、おはぎを食べながらしみじみと思う、そんな春の幕開けだ。

 

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アフリカ大陸から南米へ向かう大西洋上にて撮影

 

 

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