25歳の春を迎えた私は、気づいていた。中学時代からの親友Mさんの変化を。
彼女はハングリー精神が旺盛で個性的な人だった。それゆえ現状への不満も多かったが、オープンで正直でもあったので、なんだか面白かった。その彼女が、半年前から人格が変わったように優しくなった。文句はすっかりなりをひそめて・・。
「私ね、ハリをしてもらっているよ。今まで自分は性格が悪いと思ってきたけど、そうじゃなかった。身体が悪かったの。だってね、身体が楽になったら性格もすごく良くなった。私、本当は性格も良かったのだわ」と、彼女はその変化の秘密を明かした。そしてつけ加えた。「サカウシもね、ハリに行きな。ハリにいったら性格も良くなるし、人生が明るくなるよ」
こうして私は、彼女の紹介により、カリスマ性あふれる魅力的なハリ師のT先生と出会うことになる。T先生の流派は、江戸幕府御用達の石坂流。まだ西洋医学が日本に入っていない時代の幕府ご推奨の流派。五寸釘とまではいかないものの、かなり太く長いハリ(美容鍼として顔に施術するハリは0番や1番という単位で、指ではじくと簡単にしなる程度の細さ。石坂流は30番、32番位の銀製のハリで、クリップや針金の太さは充分にある)を使用する。
はじめてハリを受ける私には、何の知識もなかった。ただ一点、性格が良くなって人生が明るくなるのだったら・・。そして無性に怖かったのを覚えている。その恐怖に震える私にT先生は言ってくれた。「大丈夫。生きて帰れます!」とキッパリ。この言葉に安堵したのか、さらに震えたのかは忘れてしまったが、とにかく私はT先生が気にいった。
うつぶせで寝て、背中にハリをしてもらう。「ハリの事を考えずに、今晩何食べる?とか考えてね」と言われる。バリウムを飲む時に「ゲップはしないでください」と言われると、それまで全く意識していなかったゲップをなんだかしたくなったり、写真をとるときに「マバタキはしないでください」と言われると、息までとめてこらえているのに肝心のシャッターが押される瞬間にマバタキをしてしまうのに似て、「これはしないで」と言われると、ついついしてはならないことを選んでしまう。こんなヒネクレタ私の性格を、このハリで変えるのだ!そう思いつつ、私は頑張った。
初回は緊張で、あまり記憶がない。安心して施術が受けられるようになった頃から、徐々にハリの面白さにひきこまれていった。
うつぶせになって背中にハリが数本入って、しばしそのままでいると、左に比べて落ちこんでいたと感じる右側の背中が、だんだんと盛りかえしてくる。呼吸する毎に身体が勝手に調整して左右差をなくしてしまう。そして背中全体がボワンと大きくなってくるのだ。
腰にハリが置かれると、力のない方の足に何かが流れて、通っていく感覚がある。まるでクリスマスツリーの電飾に使う、コードのついた沢山の小さな電球達に電気が流れだして、そのひとつひとつが順番に灯るように。
今日の身体はまぁまぁいいだろうと思って施術に臨むと、思ってもいない所がおかしいことに、はじめて気づく。今日はダメダメだと思って行くと、意外にバランスがとれていたりする。
トコトン裏切られる頭の理解。
ままならぬ私の身体と抗うことのできない体感。
私が私と定義しているものの解体。
すべてが初めての体験であり、小気味よかった。
なんだかわからないけど、どうでもいいけど、ボヨ〜ンと気持ちいい。
このままダンゴになってしまいたい。
もしくは、どうぞこのまま無境界に拡がっていたい。
そして面白いことが次々と起こった。
心地よさに身をまかせていると、額の裏に色が見える。
発色する濃いコバルトブルーだったり、光輝くエメラルドグリーンだったり。
白色の玉が見える時は、次から次から現れてきて、無限の世界を垣間みる。
ある時は、背中のハリを中心に自分がクルクル回る。自分の現実の肉体とは別の身体が明らかにあって、回りはじめる。このような時に壮大な音楽(宇宙をイメージさせる曲など)がかかっていると、なお良い。ま、オペラでもクラシックでもラテンでもいい。自然の波の音でもさえずる鳥の鳴き声から森林を感じるような音でもいい。音楽と一体となって、たゆとう身体(肉体を含む高次エネルギー体として)を存分に味わうのだ。
またある時は、ハリが終わると、片方の足に湿疹でもない、内出血でもない、赤い小さな玉が線状になって点々とうかびあがる。草間彌生さんがデザインしたストッキングをはいたような・・。
(まだまだあるけど、もういい加減にします。ああ、私の患者さん達よ!この私の初めての告白に願わくばドン引きしないでと切に願います。)
私にとってハリに行くことは、ポパイがほうれん草を食べるようなもの。
施術前と後の自分が、自分の身体感覚が面白い程違う。
すっきり元気に力がみなぎる時もあれば、頑張っていた偽りの自分が強制終了させられ、ムダなヤル気を喪失してしまう時もある。それでもなお不思議な幸福感に包まれるのだ。コレデイイノダ。。
治療というと、病気を治すために辛抱するというイメージがあるけど、
身体って、気持ちいいことをしていくと治っていくものではないの?
ねえねえ、そもそもこの身体の中を通る不思議な感覚は何なの?
どうして、こっちにハリをしたのに、あっちに響くわけ?
これは、感覚の世界、つまりアートなのではないの?
そしてそしてね!ハリは、究極のエンターテイメントなのではないの?
実際、ハリの治療を受けることは、内的な冒険旅行に行く感覚だった。
こんなステキなものがあるなんて・・。
つまり、私はハリなしの人生はもう考えられないってこと?に、どうやらなってしまったのだ。そしてその頃から、ハリをハリと呼び捨てにするとは何事だと思い、自分の中では「ハリ様」と「様」をつけて呼ぶことにしたのだった。
さて、思い出していただけるだろうか。
このブログのサブタイトルは「さかうしけいこが語る東洋医学の世界」(前回の記事にいたっては、すっかり忘れていました!)。
ちょっとはハリの効用の機序について話さなくてはならない。
ハリが効くのは「気」を身体に巡らせることができるからだという。
そもそも東洋医学は、東洋哲学を土台に成り立っている。東洋哲学の概念をザックリいうと、①天人相応説②気の思想③陰陽五行説などがあげられる。それゆえ不可視の「気」は、その存在が科学的に証明されようがされなかろうが、東洋哲学においては根源的な唯一の構成要素とみなされているのである。
「・・人の生は気の聚(あつまり)なり。聚まれば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る。・・天下を通じて一気のみ・・」(『荘子』知北遊編)
そして気の通り道として、経絡(けいらく)と呼ばれるルートがある。これは身体の深部をめぐる経脈(けいみゃく)とスパイダーマンの網の目のように広がる絡脈(らくみゃく)が、互いに連結し絡みあって作る、全身をめぐるネットワークのことだ。
この経絡を電車が通る線路と考えてみるとわかりやすい。
簡単にいうならば、身体の縦方向に12本の線路がある。加えて身体の中心に2本(体幹の中心前面を流れる任脈〈にんみゃく〉と体幹の中心後面を流れる督脈〈とくみゃく〉)。この合計14本の線路が正経14経脈とよばれ、基本的な経絡とされている。
そして気の出入り口である穴(ツボ)は、その線路の上にある駅にたとえられる。駅で人が列車から降りたり、乗ったりするように、ツボにおいては気の出入りがおこなわれる。
ハリは、ツボを刺激して生命エネルギーである気の量を調節(足りない所は補って増やし、詰まっている所は流して出す)し、経絡の流れをスムーズにして、ネットワークの機能性をより高めるといえる(注:気は量よりも流れの方が大事。気の量が少なくても流れがよければよし。ココ、ポイントです!つまり全体のエネルギー量が多いとか少ないとか誰かと比べるのではなく、自分の中で滞りなく流れていることこそが、その人にとっての健康となり、最大限に自分を生かすことができるのです)。
経絡というネットワークに気という生命エネルギーを滞りなく循環させる。
これこそが鍼灸治療の目的となる。
想像してみて欲しい。
頭のてっぺんから足のつま先までの両手・両足を含む全身に、14本の縦にのびる線が走っていて、その上にポツポツとツボが365個以上くまなく点在していることを。そして生命エネルギーである気が、その線の上を汗がしたたり流れるような速度で、光を放ちながら走る様を。全身に点在するツボが発光したり消えたりと、濃淡をつけながら点滅を繰り返す様を。
流体としての身体。
それを感じられれば、
生きることは流れることと実感できるのかもしれない。
〈後記〉
私にハリを紹介してくれた親友のMさんは、今年4月に他界しました。彼女の49日を過ぎても、新盆を過ぎても、どこかで気持ちが晴れずにいます。ただ旧友がいなくなるのは、こういうものだとアキラめはじめてきました。
彼女がいなかったら、私はハリに出会うことがなかったかもしれない。そしてカリスマ性のあるT先生を紹介してもらわなければ、ハリ師までめざしたかどうか、はなはだ疑問です。改めて、私にハリと出会わせてくれた旧友に心から感謝しつつ、私は自分の原点であるハリに精進していきたいと思っています。
最後に、私がハリとの出会いから5年の歳月を経た時、Mさんが私に言った言葉を紹介させていただき、彼女の面白さをお伝えしたいと思います。
「私ね、わかったの。すごくイライラして怒りっぽくなるのはホルモンのせいだったの。性格が悪いわけではなかったのだよ。ホルモンってやつは、まったく!」
親友Mさんとよく歩いた故郷の林にて撮影