巷で話題の酵素作りに、昨年からどっぷりとハマってしまった。何十種類もの果物や野菜、ハーブを白砂糖につけこみ、朝晩2回、自分の手でソッと混ぜる。私オリジナルの常在菌を含み、柔らかく湿った砂糖漬けの果物と野菜たちは、ほどよい温度で発酵しはじめ、3日〜1週間くらいでポツポツと小さな泡を放つ。上白糖は、そのツンとくる尖った甘さからまろやかな味へと変わりつづけ、ついにはトロミのある濃厚な液体となる。
砂糖が溶けてできた液体の中に浮かぶ、3センチ角の大きさの青パパイヤとパイナップル、リンゴやオレンジ、パプリカや薬効あるハーブ、キャベツやカボチャといった色鮮やかな個体たち。そこからは息をしているかのように大小の泡がいっぱい放たれている。この個体と液体とがまざりあった全てを網やザルで濾して、はれて液体のみの上質酵素が産声をあげるのだ。
この濾過する作業は、真夜中に、しめやかに、儀式めいて行われることが多い。無心になれるからだ(こういうの、私の趣味です。仰々しくてごめんなさい)。先日も、この作業をしていてふと思った。
はたしてこの濾過する網は、何と何を分けているのか。
果物・野菜などの個体と酵素となるべき液体、どっちが本体なのだろう。
さらに、ぬか床にも想像がおよぶ。ぬか床とぬか漬け、どっちが大事なの?
さて、私は仕事柄、患者さんの人生の総括や断片を聞かせていただく貴重な機会に恵まれている。
恋愛や結婚、出産、そして仕事の成功などの喜びあふれる思い出。また離婚や別離、事故、仕事の失敗や借金、そして愛する者の病気や死といった悲しく、辛い出来事。
子育てが終わった時、退職された時、病気になった時、そして死が近づく時など、「私の人生は何だったのか?」とつぶやく方も少なくない。たとえそれが、他人の目には順風満帆で恵まれた人生のように映っていたとしても。
こうして振り返りつつ、大きな節目での出来事で語られる過去。
もしこれを文字で綴ったのならば、たったの2、3行で書きつくされてしまうかもしれない。それぞれの方の生の重さに比して、あまりに簡単すぎるような割り切れなさが、時々私に残る。
印象的な出来事で語られる過去。
過去の鮮明な記憶。
これに対して、記憶には残らない、それ以外の無尽にあるであろう日常の小さな小さな出来事は、いったいどこにいってしまったのだろう。
時間枠にとらわれない、ささいで、とるにたらない事象。
時間枠をすりぬけてしまった、記憶にすらのぼらない、忘却の彼方へと流れでた膨大な事柄たち。
酵素を濾過させる網は、人の記憶と忘却の境目なのかもしれない。
記憶とは、この網の上に残った果物や野菜たち。
時間という網の上に引っかかってしまった出来事たち。
未だに記憶という制限に囚われて、時間枠から自由になれない様々な事柄。
人生の本体は、実は記憶ではない、この忘却の彼方の方にある。
忘却の彼方・・・。
たぶんそれは、
朝露に濡れた草が、朝日を浴びて一層の輝きをます、眩いばかりの緑色だったり。
激しく降り続ける雨が、屋根からつたって地面を叩きつける音だったり。
真冬の晴れた朝に吐く息が白くなる、そんなピリリとした寒さだったり。
異国の大聖堂の中で味わう、自分がひろがるような空気感だったり。
あるいは、
通りすぎていった幾千、幾万もの風景。
もわっと拡がった排ガスの、息がつまるような臭い。
かすかにそよいだ風。
ただうるさいだけの、あるいはうるさいとも感じないほど当たり前の、猥雑な街の喧噪。
そしてまたあるいは、
意味すら、感覚すら見いだせぬ
単なる心臓の律動。
私の中で起こった小さな振動、微震。
生物としてのかすかな蠢き、揺らぎ。
忘却の彼方へと流れた膨大な事柄の中に、私の人生の本体がある。
その昔、このことを教えてくれた私の師は、こう言った。
「荷造りをする時、送るべきいくつかの品物ではなく、その間につめるプチプチやらクシャクシャと丸めた新聞紙こそが、あなたの人生なのだ」と。
間(マ)をツメるモノ、それこそが本体なのだ。
ツメモノこそ、我が人生。
そう思って、できあがったばかりの酵素を飲んでみる。
果物や野菜のエキスがぎっしりつまったツメモノの酵素。
その酵素の生きたエネルギーが、私を成り立たせている身体というツメモノの中に、いつにも増して一層しみこんでいく感じがした。
<後記>
これを書いていたら、忘れていた昔の記憶が、ぼんやり蘇りました。
とても面白かったはずの本(なんと内容はすっかり忘れてしまった!)のことを。やっと思い出した、その表題は「日々の泡」(ボリス・ビィアン)。
(酵素材料の一部を撮影)