時折思い出すのは、あのセリフ。
鍼灸師になりたての頃、研修先の先生がおっしゃっていた言葉だ。
「体の弱い患者さんに元気になってもらうのは割と簡単だが、次々に行動する人を休ませることは実に難しい」と。
本当に、そう思う。
比較的体力のある方が不調になると、更なる行動に出る。
「運動不足が原因ですね。最低5000歩は歩いているのですが、8000歩にしました」。
「足が弱るのも不安なので、パーソナルトレーナーをつけて筋トレを始めました」。
「もっと身体と向き合うためにヨガとピラティスもやってみます」。
陰陽でいうなら、あっという間に外へ動きだすことができる「陽」。
一方、身体の弱い方や持病のある方は、体力がついてくるのをジッと待つ。
「私の外出は週に2回だけ。出かけた次の日は必ず自宅にこもって養生をしなければ身体が持たないのです」。
「1日に大きなことはひとつしかしません。それで精一杯。友人とランチして、夜はまた別の友人とコンサートなんて信じられない」。
陰陽でいうなら、身体と向き合って待つことができる「陰」。
<ちょっとおさらい:陽とは、前や外に向かって拡散し、動的な力を持ち、軽快で前のめりの歩みとなる。思考は未来へと向かう。陰とは、後ろや内に向かって凝集して量を生み、足取りは後づさる。思考は過去へと向かう>
現代という消費文化の中にあっては、モノも情報も刺激も過剰であり、過剰でありつづける世界に慣れきってしまった。それゆえ、ひとつひとつの事柄にかけるエネルギー量も少なく、移り変わりの展開も速い。そういった影響もあってなのか、待つことができない人も増えている感じだ。待つ代わりに、行動することで何かを埋め合わせているような印象すら受けることもある。そして時々、この過剰なナニモノかをリセットする行動がさらに必要となる。
Do Do Do、断捨離をしてGo 、断食もしてGo Go。環境も身体も風通しが良くなったなら、内面をのぞくマインドフルな瞑想もDo Do Do。さぁリセットできたからまたDo ! Do してGo !!Go Go Go !!!
このように陽タイプは、ドンドン外に向かって活動することができ、きっかけを作って大きく変化することもあるが、活動をやめ、立ち止まって内省することがむずかしい。
反対に待つことのできるタイプというのは、
否応なく幼少期から身体の不調と向き合わされてきた過去がある。
他の人達は難なくこなせているようにみえる事が、自分にはできない。
みんなにおいていかれるけど、仕方ない。
やりたいけど、動けない。
こうして独自のペースを作って自己を守ってくるしかなかった。
その結果、自分にできることを見極めた上でしか動かない。
陰タイプは、自己の内面に向きあい、充電完了までジッとそこにいることができる。動きだせば着実に進むが、行動しはじめることが難しい。
今回は、このそれぞれのタイプを比べながら、最近よく目にする Doing と Being の本質を陰陽論で迫ってみたい。題して、勝手に陰陽論2。(またしても恐るべしカナ!)
Doing:行動すること。行動の仕方。
Being:ただあること。存在のあり方。
<注:このDoing Being という言葉は、心理学、医療(特にメンタルケア)、コーチングといった分野において近年よく使われるようになり、自己認識のツールにもなっている。私がエネルギーワークを習った学校では、「 Who are you?(あなたは誰ですか?)」という問いに答える中で、このDo とBe の概念を説明していたように思う。つまり、私は◯◯する者です(Do)。私は、◯◯である者です(Be)といった感じで。。ナンノコトだかさっぱり???という方は読み飛ばしてくださいね!>
この Do と Be は、一見相反する方向に見える。Do は もっぱら外に向かい発散して行動する「陽」で、Be は 自己の内面にも向かい対峙することができる「陰」をも含んでいるからだ。
前述した患者さんのタイプをとって、外向きの Do と 内向きにも目を向けられる Be とは、並列で対極の方向性を持っているようにもとらえられる。
しかし、ここではもう少し別の視点から探ってみたい。
並列で考えてみると、実はどうもしっくりこないのだ。
実際、病気が治っていく過程において、Do タイプ(陽)の人は、変わっているように見えて、似たようなことを繰り返すケースが多い。
これに対してBe タイプ(陰)の人は、着実に変化をとげて、もとには戻らない。
この差は何なのだろう。
この Do と Be の両者を「時」の観点から比べてみる。
Doは未来へ向く。つまり「陽」。
Beは過去に向くのではなく(つまり「陰」ではなく)、いわゆる「イマココ」に在ることを意味するのだ。それゆえ、Be は陰という分類には当てはまらない。
何をしても(Doing)、どれだけ行動しても、たどりつけない境地がある。
何もしなくても (Being)、自ずから次々に立ちのぼってくる世界がある。
どうやら Do と Be は同列の事柄ではないと思えてきた。
つまり、Being > Doing 。 Being とDoingとでは、次元が違うのだ。
治療でいうなら、どれほどスバラシイ技術で何をしようとも治らなかった痛みが、
器の大きな治療家と会っただけで癒されてしまうことがある。
(怪しいと思われるでしょうが、ホントこういうことあるのですよ!)
この治療家の人間としての「あり方」が、
痛みを取るための「行い」を凌駕してしまう。
また私は、ある先生から陰陽論の本質を次のように習ったことがある。
3次元の空間的器(一定の構造を持つ場所)を陰とし、
4次元の時間(流れ動くエネルギー)を陽として、
この2つが合わさって回転すると、
過去でも未来でもない、
瞬間としての「今」を連続して次々にうみ出している。
イマ、イマ、イマ、イマと生まれ続けているのだと。
(注:これを読んでいるあなたの今も、実は陰陽あわさって「イマ」がくりひろげられているのですよ!)
ガチャポン*のように(*くるっと回して、ポンと出てくるオモチャの機械)
溢れでてくるイマを想像した時、
Being の謎が解けた気がした。
生まれでるイマの只中にいることこそが、Beingの状態となると。
世界は対でできている。
陰と陽。
月と太陽。
男と女。
満ち潮と引き潮。
光と影。
ネガとポジ。
プラスとマイナス。
陽子と電子。
DNAの二重になった螺旋もそれぞれの向きが反対であるという。
対とは、それぞれの特質が反対のベクトルを持っており、一本の線に左右に伸びる矢印がついていると想像してみて欲しい。
つまり、←→ こんな感じだ。
この2つの極の真ん中を貫き、この平面に対して垂直に走る方向性があるとしたら??
陰陽が地(陰)と天(陽)をあらわし、
その真ん中に人間が入って、
つまり、天・地・人がそろって、
さらなる生命エネルギーの渦が廻りはじめるように
陰(空間または過去)と陽(時または未来)が合わさって、
その真ん中に「イマ」を生む。
そしてこのイマにいるためには、
私の身体と心と頭(意識)が一体となり
人間まるごとの存在として統合されていなくてならない気がする。
もしくはイマという
決して止めることも、
つかむこともできない、
流れゆく瞬間(マタタクのマ)に入ることができたなら、
人はまるごとの自分を味わうのだ。
鍵穴(空間:陰)に鍵(時:陽、Doing )がはまり、
くるっと回転して、
異次元への扉が開く(イマ: Being)。
Being であり続ければ、次々と扉が開いていく。
Doing だけでは、開けられなかった扉が。
行動(Do)するならば、
Doing を行う我執(目的、こだわり、思惑)を解きはなち、
忘我の中に埋没せよ!
その時はじめて、
Being の状態を味わえるのだ。
もしあなたが
なかなか治らない病気を治したいのなら
今までの行動パターンや思い癖をいったん手放して
Being の状態へと進めるように
イマココにある自分を感じてみるといい。
平面で足ぶみしていた状態から
生命を生みだすオオモトの流れの中へ
その大いなる螺旋のウズの中へと
還っていける方法に違いないのだから。
そして陰陽論の学びは、このBeingの状態を経験して実践となる。
<おまけ>
瞑想は、瞑想すること(Doing)で、Being の状態に導けるもの。
肉体という器(陰)+ 瞑想する(陽:Doing)→ 統合された丸ごとの自分(Being)
〈後記〉
この記事を書きながら、ずっと縄跳びの遊びが浮かんでいました。
最後の結びに。
思い浮かぶは、「 ♪ お入りなさい ♫」という2人でヒモの端をそれぞれ持って、ぐるぐる回して、その中に次々に人が入っては出て行く縄跳びの遊び。
大地(陰)と空・天(陽)との間にあって、
あの縄が作る空間は、
生まれでるイマの世界。
その世界の中で縄跳びをしている時の無我の自分。
縄を踏まないようにと、
ただそれだけに集中して。。
そう、Being は遊びの中に。
(なお、文中の会話は患者さん達の了承を得て掲載)
よかったらこの記事も。陰陽の世界、体験版です!