“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

東洋医学概論4 身体感覚を開く

あなたの座右の銘は何ですか?

そう聞かれた時を夢みて、わが座右の銘を決めてみた。かけだし鍼灸師時代の25年以上も前のことだ。その後ずっーと今の今に至るまで、ただの一度も誰からも聞かれたことがないです、ハイ。

私の座右の銘は「押してもダメならひいてみな!」なのにね。

 

先日そのことを思い出していたら、気づいてしまった。

なんと「押してもダメなら引いてみな!」は陰陽の法則だということに。

押し(外に向かう陽)てもダメなら引いて(内に向かう陰)みな!

というわけで、どちらか一方だけにリキンで上手くいかない時は、反対側でバランスとりな!と言っているのだ。

陰陽微妙に合わさってうまくいくのさと。

やはり、世渡り上手の金科玉条なるセリフ。

 

ところで、みなさんは  On the Job Training、略してOJT をご存知だろうか。

これは、企業の新人教育の際、職業訓練を行う手法のひとつである。

実際の業務を行い、動きながら身につける。

自分の経験を振り返っても、やりながら学び覚えるという方法は効果が著しいように思う。

子供が言葉を覚える方法も、まさにこれなのだ。

私がこのOJTという言葉をはじめて知った時、我が座右の銘「押してもダメなら引いてみな!」と共通の何ものかを感じた。

 

どちらも、身体を使ってやってみるという手法といえる。

体感も伴って進み、壁に当たると立ち止まって考え、臨機応変に別の動きをとる。

すると、なんとなくわかってくる。

理屈は動きとともに身体に落とし込まれて理解され、我らは実務を身につける。いわゆる体得だ。

 

さて、そもそも「わかる」「理解する」というのは、どういうことなのだろう。

 

わかるとは「分かる」「解る」と表記されるように、分けて分解して、そのエッセンスをあぶり出し、理性的にわかるということでもあるようだ。

西洋医学の力は、この「分析」にあるのだと思う。

分類され画像に映し出されて、

あるいは数値に置き換えられて、

視覚的に客観的にアタマで「ワ・カ・ル」世界。

まさに「百聞は一見にしかず」どおり、視覚に訴える分析は圧倒的な力を持つ。

身体の中を分け入っては細部に焦点を当てて、見えない世界を可視化させ、さらに客観視させる。

 

一方東洋医学において「分かる」というのは、「五臓六腑にしみわたる」あるいは「腑に落ちる」といった個人の身体感覚を伴う主観的なものだ。

<注:五臓とは肝・心・脾・肺・腎といった実質臓器を指し、六腑とは胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦(「さんしょう」といい、東洋医学特有の概念。これについてはまたいつか!)といった中が空気や水分が通ることのできる管腔臓器をいう。>

つまり内臓の隅々にまで行き渡るリアルな体感、それを通じてワカルというわけだ。

また東洋医学には、心(感情・精神)と身体とは分かつことができないものとする、「心身一如」という概念がある。(注:西洋医学では精神と肉体とを切り離す、デカルトが提唱した心身二元論の立場をとる)

心と身体は切り離せないのだから、感情(心)にも身体感覚を伴う。

怒った時は、頭に来て(頭に血がのぼり)、ハラがたち(腹直筋が筋張る)、ハラワタが煮え繰り返る。

嬉しい時は、ハートが開き、胸が高鳴り、脈が速くなる。

驚いた時は腰が抜け、恐ろしい時は身の毛がよだつ。

悲しい時は胸がふさぐのだ。

  

現代は、頭の理解(分析)がいき過ぎてしまい、アタマと身体との繋がりが弱く、

身体の感覚が鈍くなり、繊細な感情の感受も乏しくなってきた感じがする。

 

臨床での私と患者さんとのやり取りを例に挙げてみる。

・運動はしてますか?ーテレビでとにかく歩けと言っていたので、毎日5,000歩は歩いていますが、足りないみたいですね。本当は何歩がいいのですか?

・よく眠れますか?ー睡眠はアプリで測っています。レム睡眠ノンレム睡眠の繰り返しを4回していて時間も6時間。睡眠状態の管理もできているので大丈夫です。

・気になるところはありますか?ー体脂肪率は20%なのですが、体重は今のままで筋肉量を増やしたいんですよね。あ、プロテインは取ってます。

・病気のための減量はどんな感じですか?ーレコーディングダイエット(食べた物を記録するダイエット法)をしていたので、食品のカロリーはわかっています。今は糖質制限をしていますが、血液検査の結果はまぁまぁ良くなりましたね。

 

このように数量で測られる世界に、身体感覚を問う余地はない。

 

また私が民間療法を勧めてみると、

「それってエビデンスは、あるのですか?」と言われることもある。

エビデンス。ああ、悲しい響き、エビデンス

受け継がれる伝統療法ではダメなのだ。数値に置き換えられたデータこそが必要となる。

エビデンスも確かに大事だと思うし、必要性も感じる。しかし、エビデンスを求める人の中には、それこそが唯一の正解であるかのようにとらえる人もいる。One of them なのに。。

 

少し前までは、

「ワタシテキには、〇〇なんですよぉ〜」とか

「ワタシって、そういう人なんですよぉ〜」と言っていたではないか。

それが自分の身体に関することになると、

エビデンスがないことは、あんまり・・」と。

なぜに、ここだけ客観的になる?

なにかと求めてやまない「自分軸」。今ここでそれを発動させないでどうするの??

だって身体こそ、とっても個体差があるのだよ!

とツッコミたい所を、何度自らをグッと抑えたことだろう。

 

そしてエビデンスにこだわっているとこんな事も起こる。

痛みがあって病院へいった患者さん達が医師から言われたという。

「レントゲンで見るとすっかり治っている。おかしいね、痛くないはずだ。」とか、

「気のせいでしょう。心理的なものだと思いますので、心療内科へ行ってみますか?」とか、とか。。

でも本人達は、本当に痛いし、気のせいなんかではないと訴える。

 

敏感な方は、エーテル体(注:人体はその外側に幾つかのエネルギーの層をまとっており、肉体に一番近く、表皮の5mm位外側で感知できる層のエネルギー体をさす)の損傷も痛みとして感知する。私の臨床例でも、当人の訴え通りにエーテル体が傷ついている場合が多い。たとえデータに上がってこなくとも(注:メンタルの影響で痛みがでる場合ももちろんあり)。

また経絡(身体にある気の通り道)の流れも知らない方が、その走行どおりに痛みを感知していることも何度もあった。これは明らかに気のせいではないのだ。

  

治療する側もされる側も身体感覚を開いていくことは大事なのではないだろうか。

身体感覚を開いていくことは、

自己の拠り所としての身体をリアルにワカルようになる唯一の方法であり、

このプロセスをぬきにして真の健康はあり得ない。

 

そして身体感覚を開くためには、

頭で考えてばかりいないで、身体を動かしてみる。

するとエネルギーの流れが変わりはじめ、何かが起こる。

そうやって身体を使いながら、起こってきたことを通して

自らの肉体に、己の感情に、意識を向けるのだ。

まさに On the Job Training !

 

そう、ちょっことだけ押して、ダメなら引けばいい。

 

 

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ブラジル、リオデジャネイロコパカバーナビーチにて撮影 

(なお、本文における患者さんとのやりとりですが、多くの方に共通する例を、まとめて編集した形で記載。特定の方を想定したわけではありません。)