「あなたを花にたとえて、その絵を書きなさい。」
これは、私が入学したいと思った学校の申請書に書かれていた一文である。エネルギーワークを学ぶため、日本で8年ほど通った学校の。
困った。。好きな花はいろいろあれど、自分がどんな花かなんて考えたこともなかったから。しかも絵なんてね。
彼女はヒマワリ🌻のように明るい人だとか、あの人の抜きんでた存在感はまるで大輪の牡丹の花のようだとか思っていたのに、自分のことはサッパリわからん!と気づいた時でもあった。
あれ以来道端で花を見つけると、人間だったらどんな人に例えられるのだろうと時々思うようになった。
東京の冬から春に咲く椿には、ハッとさせられる美しさがある。まだ新芽も膨らまず、裸ん坊の木々の枝だけが伸びている。そんなモノトーンに近い色彩の有栖川公園で、椿が放つ、力ある赤色はひときわ目立った。多少肉厚ながらも小ぶりな深緑色の葉っぱ。その茂る葉の合間から飛び出すように輝く赤色。そして突然、首からポトンとそのままに落ちて散る花、椿。
ああ、これは実(ジツ)の花だと思った。東洋医学における虚実(キョジツ)という概念でいうならば。。
今回は、東洋医学の基本概念の一つである「虚実」を取り上げてみたい。
実とはエネルギーであるところの「気」が充実している状態をいい、
虚とはそれがウツロで虚しいことを指す。
それならば実の方が虚より優れていると皆さんは思うかもしれない。
しかし事はそう単純ではないのだ。
気には「正気(正しい気)」と「邪気(ヨコシマな気)」の2種類があるのだから。
中国最古の医学書である『素問』の通評虚実論に「邪気盛んなればすなわち実し、精気奪わればすなわち虚す」とあるように、実とは邪気が旺盛な状態を指し、虚とは精気(正気)が衰弱した状態をいう。ただし、実には邪気もあるが正気も衰退していないため、邪気と闘う力も備えている。対して虚は正気が不足しているものの邪気も少ない。
鍼灸治療では、邪気が旺盛である実の病状に対しては瀉し(シャ:風穴を開けて流す。主に鍼を使う)、正気が不足している虚の状態に対しては補す(ホ:足りないものを与えて補う。主に灸をすえる)。
実には、良かれ悪しかれスピードとパワーがあり、虚がパワーを持つには時間がかかる。
実が現実に対応する具体的な力を持つ世界だとすると、虚は虚飾や虚構も含めウワベの世界となる。また実が現実を表すなら、虚は夢や理想といった不可視の世界とも言える。
そして世の中には虚業と実業と呼ばれる職種がある。
虚業とは堅実性に欠け実を伴わない事業をいい、実業とは生産性を伴って経済に寄与する事業をいう。虚業は、実業と比べて揶揄されることも多いが、私はどちらも同じように必要だと思っている。
例えば宝飾や芸能関係、自己啓発セミナーなどは虚業にあたるのかもしれない。一方実業は、物づくり、農業、工業といった汗水流す実態が伴ったものだ。
実質生活を支える実業とメンタル面を支えている虚業という括り方をしてみれば、
どちらも重要であり、善悪もない。
人はパンのみにて生くるにあらず!と、預言者モーゼが言っていたように。
話を花に戻す。
チューリップは赤やオレンジ、黄色といった暖色系が多い。暖色は周りに熱を与えるエネルギーを持つ。美しい形のチューリップは時の経過とともに花弁はどんどん開く。イナバウアー的姿をとりヒトデのような形を経ては散ってゆく。熱量と力強さを備えた実の花だ。
またシルクのようにキメ細かく艶やかな花弁が幾重にも重なり、ずっしりとした存在感を感じさせる牡丹は、豪華そのもの。その気品あふれる芳香は、周りに存在を知らしめる強さを持っている。そして華麗に咲き誇ったら、途端に花弁が崩れはじめボトッと頭からまるごと落ちる。宮崎アニメ、風の谷のナウシカの巨神兵が崩れ落ちるかのように。これは実の散り際に思える。人間においても実の体質の人が心筋梗塞などである日突然倒れるのにも似て。。
このような実の性質の強い花と比べて、わすれな草の散り際は対照的だ。微動だにせず佇んでいるかのようで、花の先が微かに茶色に変色し始めていて、ゆっくりと目立たなく枯れていく。気がつくとドライフラワー化しているのだ。花の色も寒色系のブルー。寒色は静寂と落ち着きを与える。わすれな草や桔梗といった寒色系の花は、楚々とした儚げな美しさがあって、虚の世界を表現している感じがする。虚の体質の人の病気としては肺結核のように長患いするようなものが多い。
こんな風に観察してみると、虚と実とはどちらが優位というものではないことがご理解いただけるかと思う。
(お断り:この花の虚実の分類は、私の独断であり、ザックリと勝手に虚実論を展開しています。)
また人体における虚実で、ヒョロっと長身というのは虚に分類される。
痩せていて身長が高く虚の体質だった場合、体型は年齢を経てもあまり変化しないことが多い。
それゆえ強い肉体を誇るプロレスラーであってもジャイアント馬場はどこか虚の感じがする。(ジャイアント馬場って知っていますか?ついでにアンドレ・ザ・ジャイアントは?古くてすみません)
実とは、小粒であったとしてもピリリとパンチがきいていて、マリが跳ねる感じなのだ。
正しい気が満ちて邪気のない理想的な実の状態というのを人体で示すならば、それは赤ちゃんのお尻。
柔らかくも、押せば跳ね返す力を持つ弾力を備えたお尻を想像して欲しい。
一方老人のお尻は、ほっぺのあたり(大臀筋や梨状筋)がペシャンとしてハリも力もなくなる。今まではいていたズボンの丈が長くなるのは、これらの筋肉が萎えてきたためだ。このお尻の状態が虚の典型といえる。
このように今の肉体の状態、病の種類、人間のタイプや各人の人生そのものも、虚実の視点で捉えることができる。
植物は、多様な種類がすぐに見分けられる。
胡蝶蘭 と スズランは一目見て違いがわかる。
バラ と スミレも。
タンポポ と かすみ草も。
人間もきっと植物ほどの種類や個性があるのだと、臨床していて思う。なのに身体的な形態が似通っているし、肌の色も植物ほどのバリエーションはない。このため、多少の身長や体重の違いがあるくらいでは、そのタイプの違いの見分け方がずいぶんと難しい。
自分は虚か?実か?
典型的なタイプを除けば、虚と実とが混ざりあっているケースが多いから、簡単には判断できかねるのだ。
単に分析して枠にはめるのではなく、自分や世界を虚実という視点で見てみると面白いのだと思う。
さて、あなたを花にたとえるなら、どんな花なのだろう?
(後記)
ひと昔前までの銀行マンは、堅い職業とみなされていたと思います。お金という現実的なものを扱う実業のように思われていたのではないでしょうか。巷で実業家と呼ばれる人は、イコールお金を稼げる人で、現実的な力が強いと私が思っていたからかもしれません。しかし、今や金融界は実質経済との乖離もみられキャッシュレスの時代になってきました。お金という現実的側面は薄れ、仮想通貨なるものも出現!こうなってくると、銀行業務って実業なの?虚業なの? 私はサッパリわからなくなっています。時代によって虚実も変化するのかもしれません。
今回は、東洋医学の基本概念である虚実を、思いつくままに取り上げてみました。ここでは体質や病勢といった厳密な違いには触れず、ザックリこんな概念があるよ!という風に考えてもらえたらと思っています。
小樽公園にて撮影。