「ベランダに転がっていた球根を植えてみたの」と友人は、2つの小さな鉢を見せてくれた。その友人を訪ねる度に、それぞれの鉢からは芽が出て背丈が少しづつ伸びていった。とうとう1つはヒヤシンスの可憐な白い花が咲いた。もう1つは背丈も小さくいまだ花が咲かない。それを見て私は、こっちの方は時が満ちていないのだなぁと思った。
ギリシャ神話では、時を司る神様にはクロノスとカイロスがいるという。
クロノスとは、メトロノームのように均一に過去から未来へと刻まれる物理的で客観的な直線的時間、この時間を司る。クロックの語源でもある。
一方カイロスは、今でいう「ゾーンに入る」とか「フローに入る」といった言葉で表現されるところの、直線的時間とは異質な、内的で主観的な時間(トキ)、これを司るとされる。
私は時々、このクロノスとカイロスの事を考えることがある。それは余命宣告をされた方に関わる時だ。
宣告どおりに命が尽きることもあれば、余命宣告を過ぎても命果てることもなく、そのうちに病気の進行がそのまま止まってしまう、あるいはあったはずの病巣がなくなってしまったケースにも幾つか出会った。
何がどうしてこのような違いが起こるのか、さんざん検証してみたし、今もそれをわからないながらも続けている。
ただいつも思う。まだ生命果てるその時ではなかったのだと。
生・長・盛・老・病・死といった生命体のオオモトをなす時の流れ方は、カイロスが仕切っているのではないだろうか。
日常で刻まれる時間のうち、特に誕生や死といった瞬間は神聖で特別な気持ちを味わう。
無機質に刻まれる時間に、一陣の生(ナマ)の風を伴ってカイロス神が舞い降りるのだ。
人が生まれるも 死ぬも
赤ちゃんが歩きだすも 言葉を話しはじめるも
子供の歯が生え変わるも
木の実がみのるも
花が咲くも
種が落ちるも
人間が決めた善悪や図りごとを超えて
カイロス神が降りたもう。
原因と結果が短絡的に結びつけられ、
何事も管理できると、ともすれば思いあがる人間に、
カイロス神の存在は私には救いに映る。
クロノス神が与えた時間を我らは生きるしかない。
するとある時、カイロス神が我らの頭上に舞い降りるのだ。
単調にも思えるかもしれない日常の中で、
1日24時間と決まった一定量の時の中に、
流れ方の異なる時が訪れる。
私の今いる空間が、いつもとは別の流れと交叉している。そう、感じられる時でもある。
(後記)
時や時間について、いつもボンヤリながら考えてきました。私の仕事では、患者さんとのお付き合いが長い年月に渡ることが多いので、その方達の人生の断片を見せていただくことになります。自分にも当てはまるのですが、時(トキ)との関わり方によって、人生の変化の速度が変わっていくように感じています。
カイロス神は、チャンス(好機)や偶然を司るとも言われています。
「チャンスの神様には前髪しかない」という言葉は、ギリシャ神話のカイロス像がモデルだそうです。この意味は、チャンスは後から捉えることはできないというもの。
チャンス、タイミング、シンクロニシティといった時の妙技を逃さぬためにも、
日々大事に時を過ごしたいなぁと思うこの頃です。
それにしても神話って、面白いです。
それこそ時を超えていますしね。
インド、チェンナイにて撮影
同じ空間に重なりあう世界がある。ちょうど5年前の記事です。もし良かったら!garaando.hatenablog.com