“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

東洋医学各論9  病気の原因と身体感覚

北国では、一夜にしてその景色が変わる朝が来る。

吐く息がほのかな煙のように拡がる朝。カーテンを開けてみると、葉っぱを落としきった裸ん坊の木々がおりなす、昨日までの乾いた土気色の風景が、発光するような雪色に染められる。

とうとう冬だ。また冬の到来だ。はっきり言葉にならないまでも、踏み出した季節のはじまりを、ある種の覚悟をもって全身で感じるのだ。私は、雪の持つ美しさや温かさを喜びつつも、生活の大変さに身も引き締まる、ひどく複雑な感覚をいつも味わう。

 

自然はある時、ハッキリと五感に訴えるほどの変化を示す。

人体は小宇宙なのだから、私たちの身体にもこのように際立った兆しが現れる時がある。

病(ヤマイ)こそ突然発現するのではなく、徐々に進む変化の中で極まるのである。

 

例えばある日、

くしゃみをした途端にギックリ腰になった。

突然膝関節が痛み出して、歩けなくなった。

関節のひどい痛みでリウマチと診断された。

胃潰瘍から胃穿孔となって救急車で運ばれた。

難病の指定を受けた。

突発性難聴になった。

命に関わる病名を告げられた、などなど。。

 

ある日突然、災難に襲われたように感じる病気だが、これは何が起こっているのだろう。

 

東洋医学では、病気の原因を外因内因不内外因の3つに分けている。(以下、東洋医学の専門用語は太字で!)。

 

外因とは、自然界の気候の変化が原因となるものをいい、風・寒・暑・湿・燥・火といった6つの自然界にもある気(六気という)の過不足によって生まれる、風邪寒邪暑邪湿邪燥邪火邪といった病邪をさす。これらは外部から身体にダメージを与える。

猛暑の夏は暑の過剰により、冷夏は暑の不足により、それぞれ不調をもたらす。

外部からやってくる病邪は、我らの身体の口や鼻さらに体表から入りこみ、免疫力が弱っている場合に病気となる。

またこういった邪気は、単独ではなく複合的にやってくることが多い。冬であれば、寒邪燥邪の双方にみまわれて風邪をひく。

 

内因とは、持って生まれた体質(虚弱、風邪をひきやすいなど)に加えて、喜・怒・思・憂・悲・恐・驚の7つの感情(七情という)をいう。これら七情の行き過ぎがストレスとなって内臓を傷め、疾病に至らせるとされる(例:喜びすぎは不眠を、怒りすぎは脳溢血を招くこともある)。

 

不内外因とは、外因や内因にあてはまらない生活習慣をさし、働きすぎ、運動の過剰および不足、偏食・過食・少食、ケガ、性生活の乱れなどをさす。

 

このように病気の原因は、常に身近な、見すごすことができるほどの小さなコト。

これら小さきコト達が集まって、ある閾値(いきち)を超えた時に人は発病する。

例えばギックリ腰といった急激な腰痛。

このウラには必ず、寝不足・疲労・冷えがある。

反対に言うなら、寝不足・疲労・冷えがあっても、閾値を超えない範囲で気づいて改善することができれば、酷い痛みや症状を避けられるのだ。

極まらせない。

極めない。

 

さてどうしたら、極まってきた身体に気づけるのだろう。

(極まった時にのみ気づくこともあるが、これについてはまたいつか!)

これは、自らの身体を感じる能力を磨くしかない。

「身体の声を聴く」、あるいは「身体感覚を開く」と言われるように。

 

参照記事

garaando.hatenablog.com

 

最近になって私は、このように身体と向き合うためには知るべきことがあるのだと気づいた。

それは、身体の細部へと視線を落とせば落とすほど、実は複雑であるということだ。

外邪である気候の変化に直接さらされるのは、外界との境界をなす皮膚であり、自己の末端である。

夏の猛烈な暑さも、秋に起こる口や鼻の乾燥も、冬に感じる震えるような寒さも、直接さらされるのは末端や細部なのだ。冷たいビールで冷えわたる胃の粘膜も細部。。

この身体の末端や細部こそ、生命活動を絶え間なく動かしている現場なのだ。

 

その現場に向かって、私はハリを打つ。

表皮から体内へ侵入したハリは身体にとっては異物なのだから、細胞たちはこの異物に対処するために動き出す。細胞たちが締まってくる時もあれば、波紋のように拡がって緩む時もある。ハリ先から感じられる細胞たちの動きは、とても微妙だ。

人により、季節により、環境により、病気の深さにより、メンタル的要因により、細胞たちの反応は、いちいちまるで違う。

そう、現場はいつだって複雑なのだ。

 

例えば会社で上司の機嫌が悪いだけでも、緊張が増し仕事の効率は落ちる。

天気がいいだけで、サクサクと仕事がはかどる。

そんな思ってもいないような様々な条件によっても、現場は影響をうけている。

 

身体の最前線で働く細胞達は、微細なことに影響されながら、互いに複雑に絡み合って働いている。

冬の寒さに備えて精一杯準備していたとしよう。

ああ!それなのにご主人様は、突然沖縄のビーチへと旅に出たりするのだ。

まさに現場を無視したトップダウンの決定!

このような決定を私たちは幾度となく無意識に繰り返しているのではないか。

 

生命体の細部や末端は、繊細で複雑である。

このことをもっと意識したとしたら、自らの身体にもう少し感謝できるのだと思う。

こうして自己の身体を労われた時、身体感覚も開いていくのではないだろうか。

 

 

(後記)

「真理とは何なのでしょう」

8年以上にわたり教えを受けた私の師は、この命題にこう答えました。

「真理とは、流れる川のようなもの」

 

私は「真理はシンプル」という言葉にずっと疑問を持っていました。

どうなの? 本当にシンプル? なの??

 

一瞬たりとも止まることのない現場における、様々な要素が絡み合う複雑さ と

トップダウンで全ての枠組みを変えてしまう思いつきのようなシンプルさ。

この対立的構造が今の社会の随所に見えてくる感じがしています。患者さん達から話を聞く度に。。

現場と行政、労働者と組織。

そしてさらに広がるであろう社会的弱者と上級国民といった格差社会

 

こういった社会現象は、どのように自分の身体に反映されているのだろうかと探ってみたところ、末端や細部の複雑さが見えてきました。

我らの身体の中にも、生命体細部の複雑さ VS 頭による支配的短絡さ の構造があるなっと。

 

今回は、病気の原因を示し、細部の複雑さに目線を落とすことについて書いてみました。

自力で免疫力を高めることが求められる今、何かのお役にたてたら嬉しいです。

そして細部は複雑であるからこそ、ちょっとしたケアで身体はどんどん変わります。

今まで散々不摂生してきた方、アルコールやタバコをやめられない方、自らの内に恐れを秘めて健康について諦めている方、そんな皆様は、まずは身体を温めることから始めてみてくださいね。結構楽しいと思います。

 

私が治療家としてずっとモットーにしてきたのは、現場主義です。

私にとっては、臨床ですね。

この繊細で複雑な現場で働けることがありがたいなぁ〜と、特に今年は思いました。

これからも私の現場である、臨床を大事にしていきたいです。

 

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メキシコ、シアン・カアン生物圏保護区にて撮影。川がカリブ海に合流する地点。

garaando.hatenablog.com

東洋医学各論8 肺

憂いあふれる和風美人画の作者、竹下夢二。

彼の描く女性像は、色白の瓜実顔で髪の毛が多めの痩せ型。そして独特の情感に溢れている。

背丈はスラッとしているから声帯も長いはず。それゆえ声は低くたぶん小さい。このようなタイプの女性がもし病いを患うとしたら、肺結核かなと勝手に想像してしまうのだ。

 

今回は、外見に表れる特徴から体質を読み取って病と結びつける東洋医学的な解釈を、肺という臓器を取り上げて探ってみたい(以下、東洋医学の専門用語や注目すべきは太字で記載)。

 

<注:中医学には臓象学説といわれる考え方がある。これは器という身体の内側(陰)の活動異常は、必ず外側(陽)の現に表れるとし、その関係性に着目するもの。具体的には実質臓腑である肝・心・脾・肺・腎(五臓)は、それぞれ胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦(六腑:)と経絡が通るルート)を通じて関係しあってシステムが作られている。肺は大腸と、それぞれ経絡のルートで通じ合い、表裏の関係となる。さらに肺は呼吸器であるからと繋がっており、皮膚呼吸という視点で見れば皮膚および皮膚上に生えるうぶ毛(あわせて皮毛と呼ぶ)ともシステムを形成している。中医学で肺という場合、肺という実質臓器の他に生理や病理といった働きを含むシステム全体をさす。これは、肺という解剖学的な臓器のみを示す西洋医学とは異なる点である。>

 

肺の主な役目は、気をつかさどること。これには①呼吸の気と②全身の気があり、両者2つの気をつかさどるとされている。

 

清気を吸って不要な濁気を吐く。この動作を行うと横隔膜が上下し、胸腔と腹腔とで「昇降(しょうこう)」と呼ばれる活動が始まり、身体全体へ気を巡らせることができる。

このことは、肺が単に酸素と二酸化炭素の交換だけをしているのではなく、呼吸のリズムによって全身へを巡らす循環も担っていることになる。

 

心(シン)が血液のポンプであるなら、肺は呼吸というリズムを生み出すことによって気のポンプを作ると考えてもいい。

 

気が全身へと巡れば、心(シン)の血液運搬を助け、さらに津液(シンエキ:血液を含む体内の水分の総称)の運搬や排泄と関わり、尿や汗もコントロールする。このように肺は、呼吸によって大気から気の材料になる清らかなる気を取り入れ、さらに呼吸のリズムによって昇降という物理的運動を起こし、気を全身に巡らせて全身の新陳代謝を促し、その結果として水分代謝を促進させる。それゆえ、肺には水分の巡りをよくする働きが含まれる。肺が機能低下になると、呼吸不全や咳の他、痰やむくみ、鼻水が出てくるのも、水分代謝と関わっているからなのだ。

 

呼吸についてもう一度考えてみる。

呼気(吐く)の動作は、上と外に向かい(これを中医では、宣発:センパツという)、吸気(吸う)のそれは、下と内に向かう(粛降:シュッコウという)。

この上にあがり外へと向かう力である宣発が起これば、体表にある津液という水分をめぐらし、栄養を運んで皮膚に湿いを与えることができる。

身体の表面である皮膚が正常である場合には、外界と接する境界線(バウンダリ)を形成する。これにより外界からの攻撃に対して自己の内的世界を守り、排泄すべきものは汗となって発散しながらバリアを作り、防衛機能をアップさせる。したがって肺がきちんと働いていると風邪をひきにくくなるのだ。

このように肺と皮膚は呼吸という共通の役割を果たしている。

また下と内に向かう粛降は、気や津液および栄養を体内の下方へと運び、諸器官を滋養する。つまり呼吸により気を取り入れ、津液を体内の下(腎や膀胱)へと運び、津液の巡りを潤滑にする。

このように水分代謝のプロセスをみてみると、肺が汗や尿の出かたにも実は関わっているのである。

 

<臨床からの考察>

喘息(肺)とアトピー性皮膚炎(表皮)とは密接な関係が認められる。ともにアレルギーの病であり、喘息が発症している間はアトピーは起こらず、アトピーが酷い時は喘息は収まっているケースはよく見られる。これは排泄のパターンの現れ方の違いである。アトピーが良好になっていくには、汗がかけるような体質になることが大事だと臨床例を通して思う。津液の代謝を促進させ(ケツ)の不足を補うことが、喘息とアトピーどちらの治療にも必要なのだ。

 

 また肺は、大腸と表裏の関係にあるという。

これを経絡の流れで見てみる。

下2図は、肺と関連する経絡図。肺経 と 肺と表裏の関係にある大腸経

 は体表ルート、は体内ルート

矢印はそれぞれの経絡の流れる方向

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肺経のルート

上腹部から始まり大腸と肺を通り喉を巡り、腕のつけ根から体表に表れる。

肩の内側から腕の内側を下り親指先で終わる。手首で分岐して人差指から大腸経へと繋がる。 

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大腸経のルート

肺経の流れを受けて人差指から始まり合谷というツボを通り腕の外側を上って肩へ。

鎖骨下で体表と体内に分岐。

体内ルートは肺を通って大腸へ向かう。体表ルートは喉を上り反対側の小鼻の傍のツボで終わる。ここから胃経へと繋がる。

注:一般的には緑色の経絡の流れは顔面の対側の鼻の横へ。この図では同側の鼻の横になっている


このように、肺経と大腸経とは、経絡が通るルートの位置も腕の外側と内側で表裏をなしている。また肺の機能が低下すると津液の流れも悪くなり、大腸は乾燥して便秘になる。大腸に熱がこもれば、胸が苦しくなったり、咳が出たりという症状にもなる。大腸の汚れが肺とシステムをなす表皮に現れることも多い。

 

東洋医学でいう肺と関係ある病いには、西洋医学でいう呼吸器としての病いに加え、鼻の病いや嗅覚の異常、皮膚疾患、むくみ・排尿・発汗のトラブル、大腸にまつわる病気、免疫に関する感染症やアレルギーなどがあげられる。

 

気の医学であるとされる東洋医学において、

気をつかさどるとされる肺は、

実に幅広くその役割を担っている。

 

(おまけ)

肺と関連あるもの:

自然界においては 秋・燥・西・白

人体においては 大腸・鼻・息・皮毛・悲しみ(憂い)

 

(鼻呼吸のススメ)

この時期、良質の睡眠が免疫アップには欠かせない。

オススメは、睡眠時の鼻呼吸。

いびき・睡眠時無呼吸症候群の改善、風邪や感染症の予防、高血圧の予防にもなり、疲れやすさも改善される。

口にテープを貼って寝るだけ。縦ばりでも横ばりでも。慣れるのに数日かかる方も多い。続けているうちに慣れてきて、呼吸器のトラブルが軽減される。

市販のテープはいろいろあれど、ランニングコストもやすく接着剤の匂いもなく、アレルギーにも大丈夫なのは、このテープ。ぜひお試しあれ!

 

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秋の小樽。早朝に撮影

 

 

繋がりあう世界 腰痛

テレワークの推奨により、在宅で仕事をする人が増えた。

ある患者さんは、会社での自在に動く座り心地の良いイスではなく、自宅の小さなダイニングテーブルとイスで仕事をしなければならなくなった。

彼女はかなりのハードワークをこなしていて、慢性的に腰痛や肩・首の凝りがあり、それが高じて時々頭痛も発症していた。10年以上のおつき合いがあるのだが、そのハードワークぶりに私の治療はせいぜいお疲れをとる程度のものだったと思う。

ところがここ数ヶ月、彼女の身体は腰椎のねじれが改善され、肩こりも減ってきた。これは通勤や会社での、気づかぬうちに強いられる緊張がなくなったせいではないかと私は思っていた。しかし・・。

彼女は出社日に会社に行って、座り心地の良い大きなイスに座ったそうだ。自由に動けて快適であるが、足は床につかず忙しくなるとつい足を組んでいたことに気づいたという。一方自宅の小さなイスでは、スペースが狭すぎて足を組むにも組めず、足裏はしっかり床についたままで身動きできない。

 

彼女は腰痛が減った理由をこの小さなイスのせいではないかと話してくれた。

まさに!と私。なぜなら、他にもこういう症例が幾つもあったから。

例えば会社で席替えがあり、コックピット?のような狭くて身動きままならぬ場所に配置されたSさん。足を組むこともできず、電話にでるのも身体ごと向きを変えなければならない。恨めしく思いながら仕事していくうちに、腰痛が改善されてしまったのだ。

私達はこれをコックピットの恩恵と名づけた(注:コックピットに座ったことがないため、すべて想像です)。

 

なぜ足を動かせない狭いスペースだと腰痛が軽減されるのか?

これは、腰痛は腰だけの問題ではないからだ。

歩くという動作ひとつを取り上げてみると、

地面に足裏がついて、歩くために土を蹴り上げる。

その蹴り上げるための足裏の筋肉は、足首、ふくらはぎ、前脛骨筋、膝関節、大腿四頭筋、ハムストリング、股関節、腸腰筋、腰椎へとずっと連なって動くのだ。

合わない靴を履いて20分歩くだけで、腰痛はやってくる。

このように身体のひとつひとつの部分は、面々と連なり合って全体としてはじめて機能する。

 

膝に不具合がある場合、膝→股関節→腸腰筋→腰椎へと歪みは伝わって股関節痛や腰痛にもなる。ひいては身体全体の左右のバランスが崩れ、肩が凝ったり頭痛になったりもする。また逆も同様に腰が悪くて膝に痛みが出ることもある。

特定のある部分に痛みが出現したとして、根本の原因は他のところにある場合も多い。

和紙を綴じるコヨリを考えてみて欲しい。

ネジレをキツくするほど、まっすぐになる。

身体のある部分に小さなネジレがあると、身体は更にどこかをネジル。どこかをネジルと更にまた別のどこかをネジリながら、身体全体としてのまっすぐを目指すのだ。

身体は、部分と部分とが繋がりあいながら、それでも高みを目指す。作り出された歪みは、それがさらに極まるように時間をかけて進む。しかしそれは、生命体がバランスを保つための反応でもあるのだ。

 

足裏が床にぴったり着いていると、足裏から繋がる部分の筋肉の動きは最小限となる。

固定された下肢は、股関節の歪みを少なくし、腰椎に連なる筋肉の左右差をも軽減する。

こうして腰痛という症状が治まっていくケースも多い。

 

さて、ここで磯谷療法という治療法をご紹介したい。

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圧倒的臨床データが魅力!

これは、足首と膝下と膝上の3カ所を、それぞれ左右の足を揃えてギューとヒモで縛って下肢を固定して眠るというもの。この結果、膝や股関節、腰椎をはじめとする様々な不調が治っていく。

私がこの治療法を知ったのは、ずいぶん昔に数人の患者さん達がこの治療法で腰痛が治ったと教えてくださったから。その後に私は、小学校低学年の患者さんを紹介するため、先生のもとを何度か訪ねた。

それ以来私は、映画を観る時や飛行機に乗る時はマジックバンドを携帯し、こっそり両足首を束ねて縛っている。腰痛になりそうな時も、足首だけを簡単に縛って寝ている。

こうして自分の股関節の左右差を少なくするべく固定していると、腰痛が軽減するのだ。

  

さらに、ここで考えてみてほしい。

私達の何気ない癖や習慣というものがどれほど身体に影響を与えているかということを。

そして、そういった習慣や行動パターンを変えることがいかに難しいかということを。ほんのちょっとしたことであるにもかかわらずだ!

外的な強制的変化は、それがいかなるものであれ、身体の変化を余儀なく起こす。そしてそれは、それまでの自分の世界観をうち破るきっかけにもなる。

こんなことで長年の痛みが変わるんだ!という発見を伴って。。

 

また身体は絶えず動き続ける。

何かの症状は、様々に繋がりあう関係性の結果であって、微細な動きの連続の果てに表現されたもの。

外部環境がちょっと変化しただけでも、細胞達は、それまでとは違う有機的な繋がりを選んでいく。どんどん、選び続けていく。その結果、頑固だったはずの症状は変化する。

実は、いつでも選択している。無意識のままに。。

惰性に任せた選択をひとつ変えるだけで、そこから先は別の流れが待っている。

本当は、いくらでも変われるのだ。

 

こうして時折、

身体感覚を伴って、自分の身体の成り立ちを意識的に発見することができるのである。

 
 (後記) 

先日、中学・高校の仲良しだった友人と3、40年ぶりに再会して、ゆっくりと話す機会がありました。彼女は、中学時代の私の印象をこう言いました。

「不思議ちゃんだった。。今で言うスピリチュアルというか・・」と。

この言葉は、カウンターパンチのように私に響きました。

不思議ちゃん。。私が誰かを不思議ちゃんと思うことはあっても、自分が不思議ちゃんだと思ったことはなかった。。しかも私は、スピリチュアルにだけは見られたくないと、実は思い続けてきたのです。

だって、マッチ棒が何本も乗るほどの、まつ毛が長〜い綺麗なお姉さんに「ありのままでいいの」と言われても、なんだかなぁ〜って思っていたし。

あなたと私は過去世からの繋がりですとか言われても、どうなんでしょうか??と。

シンクロという言葉も、不用意には使わぬように極力注意してきました。

そして何より怪しい治療家と思われては、ハリの神様に申し訳ない!という想いがありました。

昨今のスピリチュアルに対する私の抵抗は、かなりのものがあったのです、ハイ。

 

でもね、ま、バレてたわけですね。

 

幼い頃からずっと私は、現実よりも見えない世界に興味があった。

興味なんてものじゃない、確信があった。

私がいるココは幻世で、真実は見えやしないと思っていたのですよ。

治療家になってからというもの、大手を振ってさらに不可視の世界にのめり込みました。気とかエネルギーとかを仕事で扱うのですからね。そうしていると、さらに面白い体験がいろいろ起こり続けて止まらない。

ま、いいですね。不思議ちゃんでも、スピでも。古い友人の言葉でスッキリしました。

きっと私の見えない世界への確信は、身体を扱わせていただいている今の私の仕事に役立っているのだと思います。たぶん。。

何かの症状をみても、その奥にあるナニモノカに目がいくのだと思うのです。

 

長年私を支えてくださっていた患者さん達も、こんな私を優しく見つめてくださっていたに違いありません。ありがとうございます。

自分についても発見した日々でありました。

毎日は、なんと発見に満ちていることでしょう。

 

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2020年3月6日、苫小牧市上空で飛行機の中から撮影したUFO

(なお、文中に登場する患者さん達の承諾を得て掲載)

 

 こちらの記事も参照

garaando.hatenablog.com

 

garaando.hatenablog.com

 

 

東洋医学各論7 心(シン)

眠れぬ夜。時計の針は、その速度を異様に落として刻みこむ。

しかも自殺は明け方に多い。

自分の痛みとは係りなく、陽がまた昇り、現実世界が再び立ちあがってくる頃に。

街並を一斉に照らしはじめた太陽の光が、身動きできずに暗闇に浸っている心を打ち砕く。

この世を支配するリズムに乗りきれない。こんな痛みを伴い、冴えた頭が世界からはみ出てしまった孤独を浮き彫りにする。

人間は群れの中で生きる哺乳類なのだと思う。たとえどんなに孤独を愛していようとも。

それゆえ群れのリズムに乗れない時は、苦しさや生きづらさを感じることが多いのではないだろうか。

 

寝るべき時刻に眠れない。

なぜかドンドン頭が冴えわたる。

 

私は小学校低学年から数年にわたり不眠症だったので、寝れない夜との付き合いは相当長い。

それゆえ不眠についての苦しさを患者さんが私に訴える時、その気持ちがわかるような気がするのだ。

 

狂ってしまったリズム。

生物としての機能が失調してしまった身体。

突きつけられた底抜けの、漠とした不安。

心と身体との崩れたバランス。

 

生死をかけるほどの苦悩ではないにしろ、この不眠という症状を誰しも一度や二度は経験したことがあるのではないか。

 不眠の症状が現れた時、一体自分に何が起きているのだろう。

 

今回は、このことを踏まえながら、不眠と関わりの深い臓器である「心(シン)」について、中医学の見地から掘りさげてみたい(以下、文中の太字は中医学の用語や注目すべき単語を示す)。

<注:中医学には臓象学説といわれる考え方がある。これは器という身体の内側(陰)の活動異常は、必ず外側(陽)の現に表れるとし、その関係性に着目するもの。具体的には実質臓腑である肝・心・脾・肺・腎(五臓:陰)は、それぞれ胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦(六腑:陽)と経絡が通るルート)を通じて関係しあってシステムが作られている。肝は胆と、心(シン)は小腸と、脾は胃と、肺は大腸と、腎は膀胱と、それぞれ経絡のルートで通じ合い、表裏の関係(五臓六腑の表裏の関係については、またいつか!)となる。さらにそれぞれ目・舌・口・鼻・耳(五官)とも繋がってシステムを形成している。つまり、心(シン)は小腸とも、舌やその他の器官とも関連している。中医学で「心(シン)」という場合、心臓という実質臓器の他に生理や病理といった働きを含むシステム全体をさす。これは、心臓という解剖学的な臓器のみを示す西洋医学とは異なる点である。>

 

古典には、「心(シン)は(シン)を蔵し、五臓六腑を統括する」と書かれてある。

とは神志ともいい、精神・意識・知覚・記憶・思考などをさし、生命の要となるものである。つまり脳の活動全般にあたる。それゆえ心(シン)は「君主の官」と呼ばれて身体の最高責任を担っているのだ。

 

心(シン)の重要な働きは2つ。

1つめは、心(シン)から連なる脈管を通して血液を全身へ巡らせ、血中の栄養を臓腑や組織へと運ぶ働き。これは西洋医学でいう心臓と同じ役割である。

2つめは、「心(シン)は神志を主(つかさど)る」という役割を果たす。精神・意識・知覚・記憶・思考などを意味する神志をコントロールする機能を心(シン)が担うのである。意識障害や知覚障害も心(シン)との関わりが深い。不眠や健忘、うわ言や幻覚、昏睡といった認知症に見られる症状も、神志の異常と言えるのだ。

この2つの役割は密接に関連している。精神活動が活発に行われるためには、血液が潤滑でなくてはならない。また過度なダイエットでの栄養不良により心血(シンケツ:心臓そのものを養う血および全身へ栄養を巡らす血。加えて精神活動の基礎物質となる血)が不足すると、集中力が散漫になったり、イライラしたり、動悸やふらつきがおこる。過労や心労もまた心血を消耗しが不安定となり、不眠に至る(心血不足の不眠)。

 

さて、心(シン)を陰陽五行(万物は陰陽と木・火・土・金・水の5要素からなるとする中国哲学の思想)で見てみると、その性質はであり、心(シン)が活発になる季節はとなる。本来心(シン)は、熱気があふれ、炎上しやすい陽気盛んなの性質を持つ。意識活動の中枢である心(シン)が過度に刺激され熱を帯びて心火(シンカ)となり、目が冴えて不眠を招く(心火亢進の不眠)。同様に(シンキ:心を動かす気)が亢進すると、血液循環も亢進するため、鼻血が出やすくなる。さらに血中の津液(シンエキ:血液成分を除く水分の総称)は、火が有する熱によって水分が飛ばされるため、比重の重い血液となり血栓の原因にもなる。

 

真っな太陽のような火()の力を持つ心(シン)の亢進を沈めるためには、水()の力を持つ腎の働きが必要である。不摂生や過労、加齢により腎の持つ水の力が衰えてくると、心(シン)が持つ火の力を抑えきれず、相対的に心火(シンカ)が生じて不眠となる(陰虚火旺の不眠:陰である腎の働きが弱り、相対的に陽である心火が盛んになるために起こる不眠)

 

また心(シン)の液はである(注:津液代謝物は涙・汗・ヨダレ・ツバ・鼻水となり、それぞれは肝・心・脾・肺・腎の五臓と関連している)。発汗は、体内の熱を排出し体温を調節する役目があるが、夏の暑さにより津液(シンエキ)が発汗により失われると、血液の材料となる津液が不足し、血液も不足。その結果、動悸(心悸ともいう)やめまいがおこる。熱中症での痙攣も津液が損傷され、血液がドロドロとなって筋肉にいきわたらないために起こる。さらに意識障害にもなる。

 

津液については、こちらを参照 

garaando.hatenablog.com

 

また暑くてをかくのではなく、寒いのに発汗する場合、心気(シンキ)が弱っていて漏れやすくなっている場合がある。臨床においても、夜中に3度もパジャマを着替えるほどの大汗をかくという方達がいる。このような汗の異常は、心疾患と関係している場合がある。普段に比べて異常に発汗するようになった場合は、心筋梗塞といった心疾患への注意も必要( ただし風邪を引いて汗がでなくなったり、反対に大汗をかく場合には、呼吸器である肺の問題)。

 

心気については、こちらを参照

garaando.hatenablog.com

 

さらに心(シン)はと関係が深い。ストレスや神志に異常があると、味覚がわからなくなったり、舌の運動機能が低下して言語障害が起こることがある。脳血管障害の後遺症で言語障害がある場合、心経(心の経絡:気が流れるルート)にまつわる経絡の流れを良くする治療が良い。

 

下3図は、心(シン)に関係する経絡図。  は体表ルート━ は体内ルート

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心包とは、心(シン)を包む膜とされていて心(シン)の調整を行う

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心(シン)と小腸は表裏・陰陽の関係にあり、経絡で繋がっている

このように心(シン)に関連する経絡の流れは、いずれも腕を巡っている。よって腕の凝りをとること、無意識に入る腕の力を抜いて気の巡りをよくすることは、心(シン)の健康に重要となる。また経絡の流れが顔面にも巡っているため、心(シン)の状態はにも表れる。心気(シンキ)が不足した時は淡白に、心血(シンケツ)不足は蒼白となる。顔の血色がよく、ツヤがあるのが理想である。

 

ここで、心(ココロ)というものを取り上げてみたい。ココロには、感情や精神活動が含まれる。上記の説明どおり、精神活動は神志と呼ばれ、臓器としての心(シン)が担っている。それでは感情は肉体のどこと関連しているのか。中医学においては、五臓それぞれに固有の感情が宿るとされている。肝には怒りが、心にはびが、脾には思いが、肺には悲しみ(憂)が、腎には恐れが宿ると。。

喜びが宿るという心(シン)。笑いによって心の機能は亢進され、身体全体へ円滑に血液を運ぶ。こうして免疫があがるのだ。しかし喜びすぎると気が緩み、必要な緊張が維持できなくなる。

また精神に異常をきたした場合の狂喜やニヤニヤし続ける笑み、こういった過度の喜びが表現された場合に、心(シン)に問題があるとされる。

 

心(ココロ)と身体は分かつことができず、

あらゆるものが繋がりあっているとする中国思想。

図らずもココロと同じ漢字である心(シン)という臓器に注目するだけでも、

生命体としての人間の、その奥深さを思ってしまうのだ。

 

 (おまけ)

心(シン)と関連あるもの:

自然界においては火・夏・熱・赤

人体においては小腸・血脈・汗・舌・顔・喜

 

 (後記)

私の友人は、寝つけぬ夜にはケーキを焼くと教えてくれました。私も何度か試しましたが、これはなかなかいいですね。部屋に広がるバニラエッセンスの甘い香りと焼き上がったケーキ。心和む雰囲気の中、真夜中に焼きたてのケーキを食べてみる。するとその後はなんだか眠れるのです。なかなか真夜中にケーキを食べることを勧める治療家は少ないと思いますが、そこはまぁ、なんでもアリで!

よかったらお試しください。眠れぬ夜はケーキを焼いて。。

 

 

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 アルゼンチン、ブエノスアイレスにて撮影

勝手に陰陽論15 陰極まりて陽、陽極まりて陰

街を移動していると気がつく事がある。

「足先がドアに挟まれないように注意」。電車内でドアに張られていた標語が目に止まった。

その上には「戸袋に注意」という表示がある。実際に子供が腕を挟まれているのを見たことがあるので、危険なのだなぁと思うようになった。駅構内では「電車とホームの間が空いています」というアナウンスが聞こえる。私の身近で3人ほど電車とホームの間に落ちた人達がいて、中には大怪我をした人もいるのだから、私も特別に注意を払うようになった。

他にも「電車が来るから白線の内側へ下がれ」だの「こちら側のドアが開きます」といったアナウンスや表示による至れり尽せりの危険警告があるが、これはそもそもどうなのだろう?ずっと以前から疑問に思っていた。

そして先日見かけた「ドアに挟まれないように足先に注意」との文言。

自分の足がドアに挟まれることすら、言われないとダメなのか。

ああ!身体感覚よ、ナゼにここまで弱まれり?!

 

「昭和がだんだんおかしくなってきている」。こう、良き日の昭和に想いを馳せながら、憂いを込めて語ってくださった恩人がいる。

「安全・清潔・効率」、この3つの徹底によっておかしくなったと。

 

安全については、冒頭にあげたように、電車内や駅構内での注意喚起の文言がどんどん目につくようになった。昭和における高度成長のスピードとともに。

また食の安全においては、賞味期限やら消費期限の日付に、いつしか私も注意を払うようになってしまった。この背景には、昔よりも加工食品が驚くほど増えたということもあるだろう。日本の食品添加物や農薬の使用量は世界で群を抜いて驚くほど多い。しかしこういった食品の背景には目をつぶる一方で、とりあえず賞味期限にだけは妙に敏感な人々が多い気がする(添加物や農薬を気にする人も私の周りには多いですが、一般的にはまだまだ少数だと思います)。

 

清潔という視点で見てみると、日本が他国と比べて飛び抜けていると思えるのはトイレだ。私が訪れたことがある国々と比べて、日本ほどトイレが綺麗なところはない。各国のトイレ事情については、文化や風土の違いをまざまざと感じるのだが、日本のトイレにはウオッシュレットや便座シートもある。清潔さにかけては世界一だ、間違いない。

そのうえ除菌剤や消臭剤、さらには芳香剤が次々と市場に出回り、より清潔であることが求められてきた。たとえそれがケミカルで作られた過度な防衛であったとしても、清潔とは、まごうことなきヨキコトのように。

チマタではデオドラントな汗ふきシートやスプレーなるものも随分と店頭に並ぶようになった。口臭予防もリステ○ンやモンダ○ンといった殺菌系から舌苔除去サプリなど多様である。ついでにチョッコっと歯もホワイトニング。

潔癖なまでに徹底され続ける清潔志向。

 

そして効率について考えてみる。

そもそも効率とは、達成されるべき仕事量 と 要したエネルギー量 との比率であり、

エネルギーの消耗が少なく目的を達成することが、効率良いとされる。

最近よく聞かれる「コスパ」という言葉は、経済効率がイイということで、お得感比べに用いられる。損得勘定ベースのモノサシは、どんどん増えている気がする。あげく「忖度する社会」の土壌ができてしまったのではないだろうか。

経済効率のみならず、仕事や勉強などにおいても効率は求められる。

「結果よければ全てよし!」「勝てば官軍!」とでも言われるかの如く、プロセスよりも結果が重要となる。

こうした時代背景の中で、時短に特化した電子レンジは家庭で欠かせないものとなり、今やレンチン料理のレパートリーの多さには驚くばかり。時短であってなお引けを取らない料理を目指して。

さらに効率という名のもとに、人間の育まれるべき能力や営みも切り捨てられた。

例えば、効率よく目的地へ迷わず到着できるために開発されたカーナビ。事前の道調べもいらず、どこをどう走っているのかわからなくても、目的地にたどり着ける。しかし人間の空間認知能力やら土地鑑、迷いながらも到着できた喜びといった感情や不測の事態に対する耐性、こういった様々な感覚は鈍磨するのだ。

スーパーのレジにバーコードが導入される以前、私はレジうち名人とも思われる人を発見した。見事なまでの指さばき。商品をみるや否やキーの上の手は踊り、目と右手と左手、これらが全く別々に動きながら、あっという間に合計金額を叩き出す。あまりの凄さに「お見事!」と声をかけるようになった。すると彼女は満足そうにいつも笑っていた。自分の職業における誇りだったのだと思う。その彼女の技をもう見ることもなくなった。

 

経済発展とともに長い時間をかけて、重要視されてきた安全と清潔と効率。

終戦直後の社会は、危険がそこここに溢れ、不衛生で、効率があまりにも悪かったのだろう。

目指したのは、安全で清潔で効率のイイ社会。

世界最貧国であった敗戦時の日本から、JAPAN  AS  NO.1と言われるまでに経済成長した昭和の時代に、安全・清潔・効率へと向かうベクトルは一向に速度を緩めなかった。ある程度それが達成されたにもかかわらず。

 

安全を求めて予防線を張られると、危険が迫っていることが感知できなくなる。

清潔を目指して潔癖なまでに消毒し尽くすと、かえって感染症にかかりやすい身体になってしまう。また清潔という側面にだけ囚われると、不安が増大し何度も手洗いをしたり消毒をくりかえす脅迫性障害といった心の病を発症することもある。

効率を上げることだけに懸命になると、速ければ、安ければ、成果が上がれば・・と手段を選ばず、プロセスを楽しめない。また効率を求めるあまり、ミスが許されず人間関係もギスギスとしてきて、かえって事がうまく回らなくなり生産性が落ちる。

 

このように突出した一方向だけを追い求めて極に達すると、その特質は反転してしまう。

陰極まりて陽となり、陽極まりて陰となるのだ。

しかも画一化された一方向へ振り切ることによって安心を求めるが、実は不安が増大する。これさえやれば大丈夫!徹底すれば大丈夫!と自らに言い聞かせて、偏執的になってしまう。

 

安全を求めていたのに、危機管理能力はかえって育たない。

清潔を目指していたのに、抗生物質が効かない菌が出現してしまった。

効率を上げるために完璧で間違えないコンピュータに置き換えられ、自分の居場所がなくなった。

 

人間が自分の感覚を疑うことのなかった時代が遠のいていく。

危険を察知しながらも、自らの足で歩く。

腐ったものは、匂いを嗅いでわかる。口に含んでおかしい時はすぐに吐き出せる。

効率が悪くても、無駄と思えることにも楽しんで没頭できる。

 

野性への希求。

自然へ帰れ。

こんな言葉が頭に浮かぶ。

 

「昭和の良き時代というのは、少なくとも人間が主役であった」と私の恩人はいう。

人間が主役だった時代。。

我らは人間性をどこまで明け渡して、どこへと向かっているのだろう。

 

今、まさにコロナウイルスが流行している時に、

安全であること

清潔を求めること

効率を図ること

これらはどういうことなのかと、改めて問われている気がしている。

   

(後記) 

終戦記念日に、今までとこれからをコソコソ考えていました。

現在の私は、いまだかつてない程、手をきれいに洗って毎日を過ごしています。

その一方で、あまりにも行き過ぎの除菌や消毒・滅菌対策を危惧し、ワクチンさえできれば大丈夫という報道にも大いに疑問を持っています。またコロナは大したことはないとする風潮にも、自分のみたくないものは見ないとする「正常化バイアス」が働いている危険性も感じます(本当にそうであるなら嬉しい限りなのですが)。

あらゆることにそうかもしれないと思いつつ、でもはっきりとはわからない。このわからないという感覚をゆるゆると持ちこたえつつ、自分の感覚がある一方向へ行き過ぎないようにと注意しながらも、いろいろな資料を見たり、意見を聞いたりしています。

 

ほぼほぼでいい。

これは私が東洋思想から学んだことです。

ともすれば極端に走りがちな今の社会状況にあって、様々な問題がある中で揺れ動きながらも考え続けて、また楽しみも見つけて、ほぼほぼで暮らしていきたいなぁと思っています。

 

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野性味溢れる文豪パパ・ヘミングウェイの小説「老人と海」の舞台となった港町、キューバのコヒマルにて撮影

 

陰陽論についてはこちらも参照

garaando.hatenablog.com

 

東洋医学各論6 津液(しんえき)

至福の時といえば、みな様にはどんな経験がおありだろうか。

私にとってのそれは、メキシコへ旅した時でのこと。

マングローブの林が生い茂る水面。ひとたび何かを浸してみれば、どんな物でも中身まで透き通ってしまいそうな、そんな限りなく透明な薄いグリーン色の世界。そこでは優しい風が水面を揺らす度に、太陽の光がビーズのような微細な粒となってキラキラと輝いていた。

私はそこに両手両足を伸ばして、仰向けに浮いた。身体の力を抜いて、抵抗をできる限り手放した。ただ風の流れだけに身を任せられるようにと。コゥーッというような大気の、あるいは風の、たちこめるように響いている低い音。木々の擦れ合う音。耳元で聞こえる波の音。水に耳が浸かった時には一瞬にしてモワ〜ンとコモってしまい、スローモーションで聞こえる重い音。天空に響く野鳥たちの鳴き声。これらが混ざり合った様々な音は、耳でキャッチするのと同時に振動となって身体にも響いた。

自然がかもしだす音は、気づいてみれば相当にうるさい。それなのに随分と心地がいいのだ。太陽の熱がじんわりと身体を包みこむ。すり抜ける風の涼しさと水の柔らかさがありがたい。目を閉じてみればマブタの裏が太陽の光で赤く見える。全身で感じることができる陽気に満ちた世界。

重力の楔(クサビ)を解きながら、大自然の中で浮かんでは流され、流されては浮かんでいた。自分がひとつの細胞であり、大きな流れの一滴(ひとしずく)になったような、まさに忘我の体験だった。

 

「身体は水袋なんですよ」ずいぶん昔に太極拳のO先生から教えていただいた。

水が詰まった皮袋が我らの身体。骨はそこに浮いているのだそうだ。

確かに人体は、胎児で体重の約90パーセント、新生児で約75パーセント、子どもで約70パーセント、成人では約60〜65パーセント、老人では50〜55パーセントが水で満たされているという(どんどん少なくなることにガックリしますぅ。。)。

 

この身体の大部分を占める水分は、東洋医学の重要な基本概念をなし、津液(シンエキ)と呼ばれる。今回は、この津液についてお伝えしたい。

 

西洋医学においては細胞が変性することによって病気になるという細胞病理説をとるのに対して、東洋医学では体液病理説をとり、病気の原因は体液の不足・偏り・滞りにより、その流れが阻害されたことによるとされる。

体液とは、血(東洋医学ではケツと呼び、血液を指す。母乳も血に含まれる)と津液(シンエキといい、血以外の全ての体液をいうが、血を構成する原料にもなる)からなる。

つまり津液は、体表においては髪や肌を、顔では口・鼻・目を、体内においては五臓六腑を潤す。また関節内に巡っては動きを円滑にし、骨髄・脳髄をも満たすのだ。

(補足:津液には西洋医学でいうリンパも含まれるため、リンパドレナージュといったマッサージの技法や脳脊髄液を扱うクレニオセイクラルの手技は、津液を扱う療法といえる。)

さらに津液は(ヨダレ)、(鼻水)、(ツバ)(注:五液という)といった代謝物を生む。これらの五液はそれぞれ内臓の働きと対応しており、涙はの液とされる。汗は、涎(ヨダレ)は、涕(鼻水)は、唾(ツバ)はに対応している。

そして体内での仕事を終えて余った津液は、腎で処理され最終的に尿として排出される。

<五液の例:「汗はの液」とは?津液の漏出である汗のかきすぎは、津液の一部から生成される血にも影響を与え、その血に関連する臓器は心となる(心臓は「血脈・血を主る」とされている。心ついてはまたいつか!)。よって汗のかきすぎは心臓にも負担をかける>

  

さて体内の水分であり、飲食物の栄養分から生成される津液。これが、どうなると病気になるのだろうか。

①津液の不足

栄養が不足すると、また不摂生な飲食により消化能力が低下すると、あるいは炎天下での作業や運動により過剰な水分が消耗すると、はたまた大汗によって水分が体外へ排出されると、津液は不足する。症状としては、口や喉、目や鼻が乾き、顔や髪の毛のツヤがなくなり、肌のシワが増え、たるむ。便秘にも。熱中症のように命の危険に晒されることもある。

②津液の滞り

胃や脾、肺といった津液を運搬する臓器が弱ると、あるいは腎などの水分代謝の働きをする臓器が機能低下したなら、行き場のない津液が余ってしまう。これは「湿(シツ)」となり、この湿は周囲の熱を奪って身体を冷やし、その湿は固まって「痰(タン)」となる。これを「痰湿(タンシツ)」といい、湿の邪気が様々な病気を発症させる。湿邪と関連する病には、むくみ、リウマチ、気管支喘息、関節炎、アレルギー性鼻炎、五十肩、コムラカエリ、湿疹や帯状疱疹といった水泡を伴うものなどもある。湿の性質は重濁であるため、病状も重くてだるい、疲れやすく眠い、痛だるいといった長引いてなかなかスッキリしない症状となる。治療としては、温めて湿をさばいていく方法をとる。

( 注:東洋医学では、気の種類として正気と邪気があり、邪気が正気に勝ると病気を引き起こすとされる。邪気には、風邪、寒邪、暑邪、湿邪、乾邪、火邪、陽邪、陰邪などがある。)

  

全身を潤す力を持つ津液

目指すべきは津液の巡りが良くて、水ハケの良い身体なのだ。

このためには、生命活動のオオモトであり血を作ったり巡らせることができるが必要となる。

気によって作られたは、血の流れに乗ってさらに気を全身へと運ぶ。

こうした気の力を借りて、飲食物の栄養分から津液は生成され全身を巡り排出へと導かれる。

つまり水ハケの良い身体は、気・血・津液の相互の協力が不可欠となる。

 

気については、以下の記事を参照。 

garaando.hatenablog.com

 

garaando.hatenablog.com

  

夏の酷暑に見舞われる近年、熱中症には水と塩分を取るようにと注意喚起されるようになった。

高齢者の認知症には、とにかく水を飲むようにと言われ、1日2ℓを測って勧められるケースもある。膝から下が浮腫んだ高齢者の方は、「水を飲め、飲めと言われるから頑張って飲んでいたら足の浮腫がひどくなった。心臓の先生からはあんまり飲みすぎるなと言われる。1日どの位飲んだらいいのか?」と聞かれることがある。

これは答えが難しい。

脱水症状は確かに怖いし、水分は必要だ。

しかし水が脳に溜まって水頭症になってしまい、よく転ぶようになる高齢者もいれば、

飲んだ水分がうまく巡らずに、足や手、顔といった部分が浮腫んでしまい、なんとも身体が重だるくなったり、関節が痛むこともある。

私たちの身体は、時、場所、天候、性格、体質、そして遺伝。。あらゆるものが関係した中で成り立っているのだから、その時の体調や内臓の状態などにより、水分の必要量は変化する。

また適切な水分量を取ったとしても、巡りが悪ければ湿邪となって新たな不調を生んでしまうのだ。

従って、ただ水分を補給するだけではなく、津液の巡りがよく水ハケが良い身体が求められる。

 

さて水ハケの良い身体になるには、どうしたらいいのだろう。

 

もちろん鍼灸治療や各種ボディワークも有効ではあるが、今回は私の勝手なオススメを紹介したい。

変幻自在に形を変え、流れながらも万物の中で最強の力を有するという水。

この水に丸ごと浸ってしまえという戦略で、 題して「朱に交われば赤くなる作戦!」。

 

作戦1 WATSU(ワッツ)

究極のアクアセラピーと言われるWATSU(ワッツ)。

これは、1980年にハロルド・ダール氏が生み出した水中ボディワークで、経絡の概念を盛り込んだもの。”Water Shiatsu"を略してWATSUと名付けられた。セラピストの誘導に従って行う水中の瞑想ともヨガとも言われる。

作戦2 フローティング・タンク

潜在能力の開発にも効果ありと言われるフローティング・タンク。アイソレーション・タンクとも言われ、アメリカの脳生理学者ジョン・C・リリー博士によって1950年代に発明された。光や音が遮られたタンクと呼ばれる空間に、皮膚温設定の高濃度エプソムソルト水が浅く張られている。強い浮力のある水に1時間以上浮かぶことで重力から解放され、無意識の世界を漂うような経験ができる。心理療法代替療法としても注目されている。

作戦3 入浴

最後にWATSU も 何とかタンクも行けないわ〜という方には、毎日簡単にできる入浴で。

身体を芯から温める目的のお風呂ではあるが、入浴には温熱作用だけではなく、水圧効果と浮力の効用があることを忘れてはならない。水圧が加わることで、体内の血液やリンパ液の流れが良くなり、浮力があるため脱力が簡単にできる。ただお風呂に浸かるだけではなく、ちょっと浮いてみる。

 

生命の根源である水。

その無限の力の波動の中で、

余分な筋肉の緊張を捨て去り、

不要な防衛の鎧を脱いで、

胎児の頃の遠い記憶をたどるように、

水袋であったはずの身体になってみる。

その時、きっと体内にも水のスムーズな流れができるに違いない。

 

流れる水の波動を身体に転写して、流体としての身体を呼び覚ます。

このことに憧れるのは、私の、あの至福の体験が忘れられないからなのかもしれない。

 

(後記)

先日お世話になっている中医学のお医者さんにお会いしてきました。日本のコロナ感染者は他国と比べて重傷者がまだ少ない。それは、お風呂の習慣のおかげとのこと。

お風呂で汗をかくと、肺の熱を出すことができる。肺に熱をためているとコロナが重症化するリスクが上がるそうです。汗をかく、熱を逃す。その意味で便秘もしないことが大事です。

また私が調べたところによると、 COVID-19は「湿邪」が特徴的な疫病です。その後の変異もあるでしょうが。。

感染が拡がっているコロナウイルスですが、どうぞシャワーだけの習慣の方、予防もかねてゆっくりお風呂に入って水の恩恵を受け取り、汗を出して湿邪を一掃してくださいね。

水分代謝がどれほど病気と深く関わっているのか、改めて考えていただけたらと思います。

 

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メキシコ、シアン・カアン生物圏保護区にて撮影

シアン・カアンとはマヤ語で「天空の生まれた場所」

東洋医学概論5 虚実

「あなたを花にたとえて、その絵を書きなさい。」

これは、私が入学したいと思った学校の申請書に書かれていた一文である。エネルギーワークを学ぶため、日本で8年ほど通った学校の。

困った。。好きな花はいろいろあれど、自分がどんな花かなんて考えたこともなかったから。しかも絵なんてね。

彼女はヒマワリ🌻のように明るい人だとか、あの人の抜きんでた存在感はまるで大輪の牡丹の花のようだとか思っていたのに、自分のことはサッパリわからん!と気づいた時でもあった。 

あれ以来道端で花を見つけると、人間だったらどんな人に例えられるのだろうと時々思うようになった。

 

東京の冬から春に咲く椿には、ハッとさせられる美しさがある。まだ新芽も膨らまず、裸ん坊の木々の枝だけが伸びている。そんなモノトーンに近い色彩の有栖川公園で、椿が放つ、力ある赤色はひときわ目立った。多少肉厚ながらも小ぶりな深緑色の葉っぱ。その茂る葉の合間から飛び出すように輝く赤色。そして突然、首からポトンとそのままに落ちて散る花、椿。

ああ、これは(ジツ)の花だと思った。東洋医学における虚実(キョジツ)という概念でいうならば。。

 

今回は、東洋医学の基本概念の一つである「虚実」を取り上げてみたい。

とはエネルギーであるところの「気」が充実している状態をいい、

とはそれがウツロで虚しいことを指す。

それならばの方がより優れていると皆さんは思うかもしれない。

しかし事はそう単純ではないのだ。

気には「正気(正しい気)」と「邪気(ヨコシマな気)」の2種類があるのだから。

中国最古の医学書である『素問』の通評虚実論に「邪気盛んなればすなわちし、精気奪わればすなわちす」とあるように、とは邪気が旺盛な状態を指し、とは精気(正気)が衰弱した状態をいう。ただし、には邪気もあるが正気も衰退していないため、邪気と闘う力も備えている。対しては正気が不足しているものの邪気も少ない。

鍼灸治療では、邪気が旺盛であるの病状に対してはし(シャ:風穴を開けて流す。主に鍼を使う)、正気が不足しているの状態に対してはす(ホ:足りないものを与えて補う。主に灸をすえる)。

 

には、良かれ悪しかれスピードとパワーがあり、がパワーを持つには時間がかかる。

が現実に対応する具体的な力を持つ世界だとすると、は虚飾や虚構も含めウワベの世界となる。またが現実を表すなら、は夢や理想といった不可視の世界とも言える。

そして世の中には虚業実業と呼ばれる職種がある。

虚業とは堅実性に欠けを伴わない事業をいい、実業とは生産性を伴って経済に寄与する事業をいう。虚業は、実業と比べて揶揄されることも多いが、私はどちらも同じように必要だと思っている。

例えば宝飾や芸能関係、自己啓発セミナーなどは虚業にあたるのかもしれない。一方実業は、物づくり、農業、工業といった汗水流す実態が伴ったものだ。

実質生活を支える実業とメンタル面を支えている虚業という括り方をしてみれば、

どちらも重要であり、善悪もない。

人はパンのみにて生くるにあらず!と、預言者モーゼが言っていたように。

 

話を花に戻す。

 

チューリップは赤やオレンジ、黄色といった暖色系が多い。暖色は周りに熱を与えるエネルギーを持つ。美しい形のチューリップは時の経過とともに花弁はどんどん開く。イナバウアー的姿をとりヒトデのような形を経ては散ってゆく。熱量と力強さを備えたの花だ。

 

またシルクのようにキメ細かく艶やかな花弁が幾重にも重なり、ずっしりとした存在感を感じさせる牡丹は、豪華そのもの。その気品あふれる芳香は、周りに存在を知らしめる強さを持っている。そして華麗に咲き誇ったら、途端に花弁が崩れはじめボトッと頭からまるごと落ちる。宮崎アニメ、風の谷のナウシカ巨神兵が崩れ落ちるかのように。これはの散り際に思える。人間においてもの体質の人が心筋梗塞などである日突然倒れるのにも似て。。

 

このようなの性質の強い花と比べて、わすれな草の散り際は対照的だ。微動だにせず佇んでいるかのようで、花の先が微かに茶色に変色し始めていて、ゆっくりと目立たなく枯れていく。気がつくとドライフラワー化しているのだ。花の色も寒色系のブルー。寒色は静寂と落ち着きを与える。わすれな草や桔梗といった寒色系の花は、楚々とした儚げな美しさがあって、の世界を表現している感じがする。の体質の人の病気としては肺結核のように長患いするようなものが多い。

こんな風に観察してみると、とはどちらが優位というものではないことがご理解いただけるかと思う。

(お断り:この花の虚実の分類は、私の独断であり、ザックリと勝手に虚実論を展開しています。)

 

また人体における虚実で、ヒョロっと長身というのはに分類される。

痩せていて身長が高くの体質だった場合、体型は年齢を経てもあまり変化しないことが多い。

それゆえ強い肉体を誇るプロレスラーであってもジャイアント馬場はどこかの感じがする。(ジャイアント馬場って知っていますか?ついでにアンドレ・ザ・ジャイアントは?古くてすみません)

とは、小粒であったとしてもピリリとパンチがきいていて、マリが跳ねる感じなのだ。

正しい気が満ちて邪気のない理想的なの状態というのを人体で示すならば、それは赤ちゃんのお尻。

柔らかくも、押せば跳ね返す力を持つ弾力を備えたお尻を想像して欲しい。

一方老人のお尻は、ほっぺのあたり(大臀筋や梨状筋)がペシャンとしてハリも力もなくなる。今まではいていたズボンの丈が長くなるのは、これらの筋肉が萎えてきたためだ。このお尻の状態がの典型といえる。

 

このように今の肉体の状態、病の種類、人間のタイプや各人の人生そのものも、虚実の視点で捉えることができる。

 

植物は、多様な種類がすぐに見分けられる。

胡蝶蘭 と スズランは一目見て違いがわかる。

バラ と スミレも。

タンポポ と かすみ草も。

人間もきっと植物ほどの種類や個性があるのだと、臨床していて思う。なのに身体的な形態が似通っているし、肌の色も植物ほどのバリエーションはない。このため、多少の身長や体重の違いがあるくらいでは、そのタイプの違いの見分け方がずいぶんと難しい。

自分は虚か?実か?

典型的なタイプを除けば、虚と実とが混ざりあっているケースが多いから、簡単には判断できかねるのだ。

単に分析して枠にはめるのではなく、自分や世界を虚実という視点で見てみると面白いのだと思う。

 

さて、あなたを花にたとえるなら、どんな花なのだろう? 

 

(後記)

ひと昔前までの銀行マンは、堅い職業とみなされていたと思います。お金という現実的なものを扱う実業のように思われていたのではないでしょうか。巷で実業家と呼ばれる人は、イコールお金を稼げる人で、現実的な力が強いと私が思っていたからかもしれません。しかし、今や金融界は実質経済との乖離もみられキャッシュレスの時代になってきました。お金という現実的側面は薄れ、仮想通貨なるものも出現!こうなってくると、銀行業務って実業なの?虚業なの? 私はサッパリわからなくなっています。時代によって虚実も変化するのかもしれません。

 

今回は、東洋医学の基本概念である虚実を、思いつくままに取り上げてみました。ここでは体質や病勢といった厳密な違いには触れず、ザックリこんな概念があるよ!という風に考えてもらえたらと思っています。

 

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小樽公園にて撮影。