北国では、一夜にしてその景色が変わる朝が来る。
吐く息がほのかな煙のように拡がる朝。カーテンを開けてみると、葉っぱを落としきった裸ん坊の木々がおりなす、昨日までの乾いた土気色の風景が、発光するような雪色に染められる。
とうとう冬だ。また冬の到来だ。はっきり言葉にならないまでも、踏み出した季節のはじまりを、ある種の覚悟をもって全身で感じるのだ。私は、雪の持つ美しさや温かさを喜びつつも、生活の大変さに身も引き締まる、ひどく複雑な感覚をいつも味わう。
自然はある時、ハッキリと五感に訴えるほどの変化を示す。
人体は小宇宙なのだから、私たちの身体にもこのように際立った兆しが現れる時がある。
病(ヤマイ)こそ突然発現するのではなく、徐々に進む変化の中で極まるのである。
例えばある日、
くしゃみをした途端にギックリ腰になった。
突然膝関節が痛み出して、歩けなくなった。
関節のひどい痛みでリウマチと診断された。
胃潰瘍から胃穿孔となって救急車で運ばれた。
難病の指定を受けた。
突発性難聴になった。
命に関わる病名を告げられた、などなど。。
ある日突然、災難に襲われたように感じる病気だが、これは何が起こっているのだろう。
東洋医学では、病気の原因を外因、内因、不内外因の3つに分けている。(以下、東洋医学の専門用語は太字で!)。
外因とは、自然界の気候の変化が原因となるものをいい、風・寒・暑・湿・燥・火といった6つの自然界にもある気(六気という)の過不足によって生まれる、風邪・寒邪・暑邪・湿邪・燥邪・火邪といった病邪をさす。これらは外部から身体にダメージを与える。
猛暑の夏は暑の過剰により、冷夏は暑の不足により、それぞれ不調をもたらす。
外部からやってくる病邪は、我らの身体の口や鼻さらに体表から入りこみ、免疫力が弱っている場合に病気となる。
またこういった邪気は、単独ではなく複合的にやってくることが多い。冬であれば、寒邪と燥邪の双方にみまわれて風邪をひく。
内因とは、持って生まれた体質(虚弱、風邪をひきやすいなど)に加えて、喜・怒・思・憂・悲・恐・驚の7つの感情(七情という)をいう。これら七情の行き過ぎがストレスとなって内臓を傷め、疾病に至らせるとされる(例:喜びすぎは不眠を、怒りすぎは脳溢血を招くこともある)。
不内外因とは、外因や内因にあてはまらない生活習慣をさし、働きすぎ、運動の過剰および不足、偏食・過食・少食、ケガ、性生活の乱れなどをさす。
このように病気の原因は、常に身近な、見すごすことができるほどの小さなコト。
これら小さきコト達が集まって、ある閾値(いきち)を超えた時に人は発病する。
例えばギックリ腰といった急激な腰痛。
このウラには必ず、寝不足・疲労・冷えがある。
反対に言うなら、寝不足・疲労・冷えがあっても、閾値を超えない範囲で気づいて改善することができれば、酷い痛みや症状を避けられるのだ。
極まらせない。
極めない。
さてどうしたら、極まってきた身体に気づけるのだろう。
(極まった時にのみ気づくこともあるが、これについてはまたいつか!)
これは、自らの身体を感じる能力を磨くしかない。
「身体の声を聴く」、あるいは「身体感覚を開く」と言われるように。
参照記事
最近になって私は、このように身体と向き合うためには知るべきことがあるのだと気づいた。
それは、身体の細部へと視線を落とせば落とすほど、実は複雑であるということだ。
外邪である気候の変化に直接さらされるのは、外界との境界をなす皮膚であり、自己の末端である。
夏の猛烈な暑さも、秋に起こる口や鼻の乾燥も、冬に感じる震えるような寒さも、直接さらされるのは末端や細部なのだ。冷たいビールで冷えわたる胃の粘膜も細部。。
この身体の末端や細部こそ、生命活動を絶え間なく動かしている現場なのだ。
その現場に向かって、私はハリを打つ。
表皮から体内へ侵入したハリは身体にとっては異物なのだから、細胞たちはこの異物に対処するために動き出す。細胞たちが締まってくる時もあれば、波紋のように拡がって緩む時もある。ハリ先から感じられる細胞たちの動きは、とても微妙だ。
人により、季節により、環境により、病気の深さにより、メンタル的要因により、細胞たちの反応は、いちいちまるで違う。
そう、現場はいつだって複雑なのだ。
例えば会社で上司の機嫌が悪いだけでも、緊張が増し仕事の効率は落ちる。
天気がいいだけで、サクサクと仕事がはかどる。
そんな思ってもいないような様々な条件によっても、現場は影響をうけている。
身体の最前線で働く細胞達は、微細なことに影響されながら、互いに複雑に絡み合って働いている。
冬の寒さに備えて精一杯準備していたとしよう。
ああ!それなのにご主人様は、突然沖縄のビーチへと旅に出たりするのだ。
まさに現場を無視したトップダウンの決定!
このような決定を私たちは幾度となく無意識に繰り返しているのではないか。
生命体の細部や末端は、繊細で複雑である。
このことをもっと意識したとしたら、自らの身体にもう少し感謝できるのだと思う。
こうして自己の身体を労われた時、身体感覚も開いていくのではないだろうか。
(後記)
「真理とは何なのでしょう」
8年以上にわたり教えを受けた私の師は、この命題にこう答えました。
「真理とは、流れる川のようなもの」
私は「真理はシンプル」という言葉にずっと疑問を持っていました。
どうなの? 本当にシンプル? なの??
一瞬たりとも止まることのない現場における、様々な要素が絡み合う複雑さ と
トップダウンで全ての枠組みを変えてしまう思いつきのようなシンプルさ。
この対立的構造が今の社会の随所に見えてくる感じがしています。患者さん達から話を聞く度に。。
現場と行政、労働者と組織。
そしてさらに広がるであろう社会的弱者と上級国民といった格差社会。
こういった社会現象は、どのように自分の身体に反映されているのだろうかと探ってみたところ、末端や細部の複雑さが見えてきました。
我らの身体の中にも、生命体細部の複雑さ VS 頭による支配的短絡さ の構造があるなっと。
今回は、病気の原因を示し、細部の複雑さに目線を落とすことについて書いてみました。
自力で免疫力を高めることが求められる今、何かのお役にたてたら嬉しいです。
そして細部は複雑であるからこそ、ちょっとしたケアで身体はどんどん変わります。
今まで散々不摂生してきた方、アルコールやタバコをやめられない方、自らの内に恐れを秘めて健康について諦めている方、そんな皆様は、まずは身体を温めることから始めてみてくださいね。結構楽しいと思います。
私が治療家としてずっとモットーにしてきたのは、現場主義です。
私にとっては、臨床ですね。
この繊細で複雑な現場で働けることがありがたいなぁ〜と、特に今年は思いました。
これからも私の現場である、臨床を大事にしていきたいです。
メキシコ、シアン・カアン生物圏保護区にて撮影。川がカリブ海に合流する地点。
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