“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

恩寵 その1(モーレア島編)

太平洋に浮かぶ島、タヒチ。そこから30分ほどフェリーに乗ると、モーレア島という島に着く。当時私は、95日間世界一周の船(ピースボート)に乗り、治療クルーとして働いていた。

 

船で不調な方を治療するのが仕事なのだが、たぶん私が誰よりも船酔いをしていて、いつもフラフラしていた。ずっと船で揺れているせいで、寄港地について陸地を歩いても、今度は陸酔い(オカヨイ。揺れていないのに揺れている感じ)に見舞われる。この際だ!と思って、それほど好きでもないお酒も飲んでみて、酔いの2乗でシラフにならないかと何度も試しているうちに、世界のビールやカクテルの種類をいつのまにか覚えてしまった。そして更にフラフラしていた。

 

こうしてフラフラの私は、ただただ揺れない大地での睡眠を夢見て、誘われるままに、このモーレア島にたどり着いたのだ。

 

島に着くと、仲間の外国語の先生達(欧米人)7、8名が、コンガやジャンベをはじめ、なにやら身体で抱えるほどの大きな太鼓を持って、ジリジリと音が聞こえそうな炎天下の中を鼻歌まじりに歩いていった。ひどく暑そうだった。

 

そんな彼らを眺めつつ、私はリュックひとつを軽々と背負い、木陰のバス停で涼しげにバスを待つ。しかしバスは全く来ない。40分待っても。誰かに聞きたくても人もいない。私達が予約したコテージはどこなのかと思い、住所が書かれた小さな紙のきれはしを探した。そこには、通り過ぎていった先生達の誰かが書いてくれたアルファベットの住所らしき文字が書かれていた。しかし。。その文字は全く解読不能だったのだ!

 

このままバスも来ず、日が暮れたらどうするのだ?異国の地での不安は、一気に膨れあがり底なしとなる。祈るような気持ちで待っていると、やっとバスが来た。なんでも島を1周するという。拉致のあかないこの場所を離れるために、とにかくバスに乗り込んだ。

 

バスの窓から汗だくで太鼓を抱えつつも、楽しげに歩く欧米人の先生達の、かげろうに揺れる後ろ姿を見つけた時は、心底ホッとした。そこでバスを降ろしてもらい、彼らの後を歩くことにした。

 

やっとたどり着いたそのコテージは、コンクリートでできた8畳1間位の質素な平屋だった。回りに商店はほとんど見あたらず、たった一軒ある小さな店は閉まっていた。道には裸電球が2個ぶら下がっていたが、ひとつは割れており、もうひとつだけが心もとなげにうっすら灯っていた。まだ夜の6時というのに、あたりはほとんど真っ暗だった。

 

何もすることがない。

うす暗い部屋の中でリュックをおろしながら、私はそう思った。一緒に部屋をシェアする友人達も「もう寝るしかないね」と言った。

 

横になっても時間が早すぎて、オナカもすいていて、全然眠れない。

 

それでもジッと辛抱していたら、どこかから太鼓の音が聞こえはじめた。

ひとつのリズムに更なるリズムが加わって、次々に響きわたる様々な音。

そのリズムに更に加わる声。

 

彼らだ。

私達は飛び起きて、野外へくり出した。

真っ暗で足下すらもまったく見えない。

少しずつ、少しずつ、手探り足探りで、音だけをたよりに歩いた。

10メートル位歩いただろうか。平地はとぎれ、どうやら段差がある。その段差の淵に腰をかけて、おそるおそる足をのばす。そっと地面についた足裏からは、暖かくサラサラとした砂の感触が伝わってきた。

そこは砂浜だった。

真っ暗ではあったが、海の匂いと優しい水の音がした。

そして少し遠くの砂浜に、小さな炎を灯しながら太鼓を叩き、歌いながら踊る彼らがいた。

 

私は砂浜に大の字に身体を横たえ、目を閉じて太鼓のリズムと声を聞いていた。

真っ暗な中に響き渡る音、歓声や拍手。

闇の中で聞く音は、音の持つ迫力をさらに際立たせる。

身体の細胞のすみずみにまで届く響き。

 

彼らはこのために、わざわざ重い太鼓を運んでいたのだ。

楽しむために惜しみなく注がれるエネルギー。

ただ楽しむためだけに。

私はといえば、楽な方ばかりを選ぶクセがついていて、喜びが少ないことにもマヒしていた。

太鼓の音は、私にすっかり忘れてしまっていた感覚を思いおこさせた。

そして、とめどなく湧きあがる感情。

 

どの位たったのだろうかと我にかえって、目をあけてみる。 

そこにあったのは、深い闇夜の天空。

その天空をバックに無尽の星たちが大小の光を放つ。

そしてどんどん見える星の数が増え続ける。

真っ暗だと思っていたことが不思議に思えてきた。 

こんなにも明るい空だったとは。

ちりばめられた無数の星が、毛布のように私を包んでくれる感じがした。

ベルベットの生地のような、奥行きのある深いブラックの優しさ。

その深い闇が際立たせる光の世界。

 

それは、

闇と光が織りなす、

この世をあまねく包み込む、

途方もなく壮大な大伽藍だった。

 

そう感じた時、すべてが振動し、回りはじめた。 

私の身体の細胞が。

あふれでる感情も。

そして大伽藍の天空までもが泰然と回る。

 

回りながら堕ちていく自分。 

死とは、こんな感じ。

深い安心の中で、大いなる世界へと還っていく。

 

私を含むすべての世界が回りはじめるのと同時に、

直線的時間はとまった。

 

大伽藍は、時(トキ)すらもその中に折り込んでしまい、今(イマ)だけを生む。

 

同じ空間でありながら、昼間とは全く違う世界に私はいた。 

こんな近くに、これほどの世界がある感動に酔いつづけた。

  

夜明けとともに、

太陽がのぼりはじめる。

目を閉じていても光を感じる。

身体の細胞も明るさを感じる。

 

そして目をあけてみると、

そこは楽園だった。 

 

f:id:garaando:20170517234606j:plain早朝のモーレア島にて撮影

 

<後記>

この後、気がついてみると私の身体の不調(腰痛、腕の痛み、フラツキなど)は、すっかり治っていました。

生まれ変わったかのような身体と心。

 

これまで何か病気になると、自分の中の自然治癒力を発揮しようと思ってきたのです。しかし。。

自分の中にある何かをなんとか頑張って発動させるよりも、自分自身が大自然の部分(パーツ)になってみる。

すると大いなる源の力(ソース)が自分に流れはじめる。

このことを、この体験で実感しました。

 

癒える(be healed)の heal の語源は、ギリシャ語のholos(whole)に由来しているといいます。

つまり、癒えるとは全体になること。

そして持論ですが、その時の鍵は、感情(ハート)を開くことにあるのだと思っています(この事については、またいつか)。

 

大いなるものの慈愛の中に、

置き去りにした感情を感じながら、

時を忘れるほどに、

浸ってみる。

 

こんな体験を時々できたなら、

私は、

そして私をとりまく世界は、

もっと優しくなれるに違いありません。