“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

東洋医学各論2 陰陽の本質(男女編、両親からの考察)

彼は、元旦になると決まってこう言う。

「今年こそは、新聞の置き場所を決めて、読んだら必ずそこに置くことにしよう!」と。

彼、わが父。90歳。

 

このセリフを聞いた母と私は、目配せしながら無言の会話をする。

「年頭の決意が、新聞の置き場所とは!小さい!あまりにも小さい!!」。

 

父は「キチンとしていること」をモットーとし、きれい好きだ。趣味で水彩画を描くが、スケッチした線からはみ出して色を塗ることができない。それゆえか、洋服はキチッとしたチェック柄やストライプ、そして無地を好む(エネルギーの視点でみると、無意識に選ぶ洋服は、自分自身のエネルギー体*になじんでいて、 その柄や色、さらに質感などは、その人自身が持っているエネルギーを表現していることが多い)。

<*: エネルギー体とは、肉体の上に層になって重なりあっている高次体をいう。神智学では、肉体の次にエーテル体、アストラル体、メンタル体とよばれる、重なりあうエネルギーの層があるとされる。いわゆるオーラ >

 

一方「生き死に以外は慌てるな!」をモットーとする母は、自由度が高く、文字はどうしても罫線をはみ出してしまう。部屋のドアを開放するのを好む。

わが母、82歳。

趣味の料理は、時に和食だか洋食だかわからない、驚くべき組み合わせの創作料理も多いが、わりと美味しい。洋服は、チェック柄を着ているのを見たことがないが、たぶん全く似合わない。無地か、ペイズリーとかの柄もので、原色から淡い色までこだわりがなく、時々私の服をこっそり着る。

 

今回は、我が父母に登場してもらい、陰陽論を考えてみたい。

(ちょっとおさらい:陰とは、内に向かって凝集する力を持ち、集約されて量を産む。陽とは、外に向かって発散する力を持ち、それゆえ動きを生じる。陰は月に、陽は太陽に代表される)

 

生物学的に、男性は陽、女性は陰とされる。

外(社会)に向かって行動する力である陽 と 内(家庭)に向かい育む力である陰。

(今では女性の社会進出も当たり前ですが、母性としての特質は変わりません。) 

このように陰陽は、相反する性質であり、かつ対等な力で対立し衝突しながら、互いにその性質を抑制しあって統一体として働くのだ。

十分に衝突し、それゆえ制約しあい、互いに折り合って相互作用が生まれる。

(これは自然現象はもとより、移り変わる運気や現象などの万事にあてはまります。)

 

さてわが両親。

性格が、まっこう反対のふたりは、まさに陰陽対立。

たとえば、私がサイフを落としたとする。

父は、「いつ、どこで、どうして?」と原因を追求し、まさに親身になってあらん限りのアドバイスをしてくれる。

一方母は、だいたいの話を聞いたところで

「仕方ないわ」となぐさめ、「厄落としだと思えば良かったんでしょ」と励ましをつけ加える。

困ったことがあれば「仕方ないわ」。嬉しいことがあれば「良かったね」。

そして時々、この2文の混合使用。

いつもこう言われて育った私は、この2つのセリフさえあれば世の中を渡っていけるのではないかと本気で思った時期もある。

どこで覚えたのかは知らないが、母は「私は、あるがまま」と、悟った風にちょっと威張って言うこともある。

 

細部にこだわり、分析という内に向かう陰な父

大雑把で、次のことへ思考を動かせる陽な母。

 

しかしこれが時々入れ替わる。

母が「これから先の老後(もう十分に老後!)について、どうするのか話し合おう」と言うと、

あれほど用意周到な父が、「まぁ考えなくてもいいじゃないか。きっとどうにかなる」とお茶を濁し、一転のんき老人へと姿を変える。

これに対して母は「おめでたい人だ。向き合うことができない。こんなにのんきな人をみたことがない」とあきれ顔。

そう、母にとってこれからの老後は、彼女のモットーである「生き死にに関わること」なのだ。

ここで母は将来の不安に執着して内向する陰に、

父はスルーすることで執着から逃れて動きだす陽になる。

 

このように、どこでどのように見るかによって、両親の性格上の陰と陽は容易に入れ替わる。

またこれは、一方が黒になるともう一方が白になるといった夫婦という動態の平衡感覚であり、お互いの考え方や性質もさることながら、ひとつの生命体の反応とも言えるのかもしれない。

(このようなコインの表裏のように、片方の存在自体がもう片方の存在に依存している場合、陰と陽として分析はできるが、どちらかだけを取り出すことはできません。「陰陽の可分不離」といいます。)

 

また近年は、老いというある種の痛みを共有しているという連帯感が、父母の間で生まれてきてしまった。

たとえば

「テレビの音を小さくしてもいい?」とか

「盛りつけは、あっちのお皿の方がピッタリじゃない?」などと私がいうと、

「まぁまぁ、お父さんが楽しんで見ているのだからいいじゃない」と母から拒まれたり、

「お母さんも大変なんだから、このお皿でも十分だ」と私が父に諭されたりするのだ。

おいおい!こんなことは今までなかったゾ。

どうなっちゃたん??私、悪者??って感じ。。

そうなのだ!

時がたち、陰陽まじりあう総体である夫婦は、その団結力を強くした。

私を外敵とみなすほどに。

 

しかしだ。

私はある時に気づいてしまった。

新聞をきちんと決まった場所に置くという、たったそれだけのルール。

または

夏は暑いからドアは開けっぱなしにするという、いわば当たり前の要求。

結婚60年強を迎えてもなお、わが父母は、お互いに一ミリも歩みよってはいないということに。

 

強行に変わらない核を互いに持ちながら、陰と陽の性質が時に応じていれかわり、そして夫婦という全体でみれば、時を経るにつれ、互いの存在が生活の中で溶け合い、依存度がいやおうなく高まり、キズナが強まるという変化をとげていく。

ただ今なお変化中の二人。

 

この夫婦のありようを陰陽で説明する場合、

男性が陽で、女性が陰という対立要素だけでは到底不十分なのだ。

 

陰陽で物事を論ずる時、◯◯は陰で◯◯は陽という対立要素にまず分けられる。

◯◯は陰だから。。◯◯は陽だから。。

こうして、陰陽のバランスを整え、病気や状況を好転させるのに役立つことも多い。

しかし分析できるのは、切り取られた一側面。

さらに視点を変えると、別の構造が見えてくる。

 

陰陽の本質は、

切り取られた2次元の平面から、円環系*の3次元の空間へ、さらには時間を経て変化するありようをとらえる4次元の世界までの、拡大して偏在できる視点にあるのだと思う。<*トーラスとよばれるリンゴのシンをくりぬいたような形の世界>

このような視点からとらえた時、今まで気づくこともなかった折り重なるエネルギーの世界が見えてくる。

そしてそこでは、見方によっては世界が反転するというオセロな醍醐味を味わうことができるのだ。

 

〈後記〉

前回の陰陽論概論が難しかったとの感想を患者さん達からいただき、なんとかわかりやすい例はないかと挑戦してみました。

概ね陰陽は、対立要素の分析に使われることが多く、この例についてはまた具体的に少しづつ書いていきたいです。

 

しかし、陰と陽に分けて分析するというのは、陰陽論の一部にすぎません。 

私が最も魅せられた陰陽論の本質は、複眼の視点にあります。

 

世界は見方によって変わる。

だからこそ病いのとらえ方も

単に忌むべきものでも、

ただ治すべきものでも、

身体だけの問題でも、

またすべてがメンタルで片づけられるものでも、

ないのです。

 

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 キューバハバナの街角にて撮影

(なお父母の了承を得ずして掲載。お父さん、お母さん、お許しあれ!)