いまや年中スーパーの陳列棚に並ぶバナナ。
むきながら食べられて、栄養価もあり腹持ちもよい。
そのため子供はもとより、お年寄りや運動選手にも人気の果物といえる。
木にのぼって最初にバナナを食べた人は、偉いと思う。
たぶん猿が食べているのを見て真似したに違いない。
モチっとして、ネトっとしていて、甘いバナナ。
これを初めて口にした時、美味しいと思ったのだろうか。
どうなの?思ったの??
これは欧米人が初めてオハギを食べた時の印象に似てやしないか?
実際に仲良くなった友人達にはオハギを食べてもらい、美味しいか?と聞くことにしている。
最初は一応にう〜ん??との回答。そして私は、ヤッパリね!とこっそり思っているのだ。
幅広い年齢層に支持され、多くの人に好かれる食材のバナナ。
その市民権を獲得できた歴史に思いを馳せながら、私はバナナを食べてきた。
そして今では、なるほど美味しいなと思う自分がいる。
果物なのか野菜なのかと迷わせるアボカドもバナナにちょっと似ていると思い、個人的に注目してきたが、これまたチャッカリ、不動の地位を獲得している感じだ。
先日、様々なことを私に教えてくださる財界の重鎮に向かって、つい口が滑った。
最初にバナナを食べた人は偉い!と。
するとその方は、こう言った。
「いやいや、ナマコを最初に食べた人の方がもっとすごい。それにワカメもだ!」。
(ナマコは黒いダイヤと言われ、驚くべき高値で取引されるそうですよ。<最近ハマった本:「サカナとヤクザ」鈴木智彦、小学館>)
そして彼はつけ加えた。
「私が子供の頃は、トロやイクラなんてのは、食べないものとして捨てていたんだよ。
マグロといったらアカミ。なんてったってアカミだった。脂っぽいトロや大トロなんて見向きもされなかった。イクラもそう。捨てるべきものだった。そして松茸もね、タダ同然の食べ物だった。いまや全て高級食材になったわけだ」と。
つまりだ。
価値は変わるのだ。
価値が変われば、感覚も変わる。
そしてそれが当たり前になる。
その昔、半袖の下から長袖が出るのは妙な感じがした。
スカートの下からズボンが出てるのも。
今や、ちっともおかしいと感じなくなってしまった。
ファッションにまつわる感覚は、大きく変わる。
食事においても
玄米菜食がいいとされた時代もあれば、タンパク質や脂質を重視したローカーボ食が生活習慣病を治すと近年は言われだした。
食餌療法の基礎となる価値観も流転する。
ショルダー式長方形のBOX型電話を持ち歩いている人を見て、公衆電話があるのだし、なぜに電話がそんなに必要か⁈と思っていたら、
公衆電話が減って携帯をほとんどの人が持っている世の中になった。
電話というモノの価値は確実に変わり、そのことにより毎日の生活に与える影響は計りしれない。
そして価値の変化は、時代のせいだけではない。
状況や場合によっても変化する。
たとえば薬。
痛みどめや睡眠導入剤などは、限られた目的での一定期間内は役立つだろう。
しかし根本的な視点に立つと、
切り取られた部分での役割は、身体全体に役立つわけではなく害になる場合すらある。
有益なはずのものが有害にもなる。
もっと言うなら、
痴情のもつれの殺人は犯罪となるのに、
国を挙げての大殺戮は正当化されるのだ。
殺人という罪悪の価値すら変わり、
善悪の判断基準までも変わり得る。
疑うことのないモノやコトの価値は、時を経てうつろい、
我らの意識も感覚も変化する。
あらゆる効能は、一定の条件下での限られたものでしかなく、
善悪の基準すら時に反転するのだ。
人間の解釈は、重層的な世界を無視して、時にずいぶんと都合がいい。
この都合の良さの上に、普段はどっぷりとアグラをかいている。
しかしひとたび気がつけば、
ああ!
我らは、なんと可変的な世界にいるのだろうか。
そして世界はなんと相対的であるのだろうか。
たぶん生命体は、
この可変的で相対的な能力を持って、
小さな変化からはじまり、
状況に応じて亢進と抑制を使い分け、
不断の変化を重ねて、
生き延びてきたのだ。
東洋思想(気の思想、陰陽論、五行論)の根底には、
万物は変化し、流転するという世界観がある。
からみ合いながら変わりつつ、流れゆく世界。
とりわけ陰陽論で、
陰と陽とにカチッと分類するという理性的な側面がいきすぎた時には、
分けても分けても分けきれないような、
もつれあいながら変わりゆく、
そんな東洋思想が持つ感覚的な世界に浸りたくなるのだ。
陰陽論には、
この分析的で理知的な側面と、
それだけでは網羅できない感覚的な側面とが、
陰陽論それ自体の中に混在しているように思える。
そしてそれが陰陽論の更なるダイナミズムを生んでいるように感じるのである。
トルコ、バシリカ・シスタン(地下宮殿)にて逆さになったメデューサの頭を撮影