“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

勝手に陰陽論13−1 目からウロコが落ちる

時々、ピタッとハマる言葉のすばらしさに驚くことがある。

「目からウロコが落ちる」という表現もそのひとつ。

調べてみると英語にもあった!「The scales fall from the one's eyes」というらしい。

お国を問わずに存在する「目からウロコが落ちる」という経験。皆さんはどんな経験をお持ちだろうか。

 

あれは、茶髪や金髪が珍しくなくなりカラーコンタクトで目の色を変える時代になりはじめた頃の、私がクルーとして船で働いていた時のことだ。イスラム圏への入国審査のために、我らクルーは船内の大きな1室に集められた。何やら書類に記入しなくてはならないという。そしてそこには「the color of eyes」という項目があった。

私がB...と書きはじめた瞬間、欧米のクルー仲間が私が書くのを覗き込みながら、Brown と言った。

えっ??Black でしょうよ??

だって東洋人だよ、私。

すると「何言ってるの!自分の目の色も知らないなんて!」と、軽蔑した笑みを浮かべてBrownと言い放つ。周りにいたクルー達もこぞって「Brown !」 と言うではないか。

皆は私を見ながらBrown というのだから、なんとも分が悪い。しぶしぶフクレながらBrown と書き込んだ後、脱兎の如く自室へ駆け込み鏡を見た。

な、な、なんと!Brownだった。。

この時のボーゼン度は、まさに目から鱗が落ちるというほどの身体感覚を伴っていた。

 

物心ついて以来、顔を洗い、歯を磨き、化粧もする際に、おそらく毎日鏡を見ていた。ああ、それなのに。。

何を見てきたのだ!この私。

しかも自分は「人は見たいものしか見ていない」などと、チョクチョク訳知り顔で仲の良い友人達にのたまっていた。今でいうマウンティング的に!

 

その昔、フリオ・イグレシアスとかいうオジサンが「黒い瞳のナタリー」という歌を歌っていた。私は、ナタリーという名前だけど彼女は東洋人だな!とピンときた。だって黒い瞳なんだもの。。

それほど私は東洋人ってのは黒髪で黒い瞳だと思っていた。

いや、思っていたというよりは思い込んでいたのだ。

 

人は大きくなるにつれて、何かしら思いこみという色眼鏡をかける。枠を作りながらカテゴライズして物事を自分なりに組み立てて世界を把握しようとする。

一旦でき上がった世界に風穴が開けられたならば、

思いこみや先入観、そしていつしか自らがはめていた枠があったことに気づかされる。

驚きを持って思う。

私の世界は違っていた。

新しい世界がそこにある。

 

ひとつの色眼鏡が取れたとしても、また次の色眼鏡をかけているのだから、何度もウロコは落ちるのだ。

こうやっていくつもの思い込みが、何かのきっかけで落とされていく。

その度ごとに、今ある現実が違って見える。

 

私は子供の頃から、人間は何のために生きているのか?とずーっと考えてきた。

目からウロコが落ちる。

これを経験するために生きているのかもしれない、そう思うようにいつしかなった。

 

外の世界に対して開いていく。

今までの自分に新しい風が吹きこまれる。

思い込んでいた世界が違った色に塗り替えられる。

気にも留めてこなかった事柄に心を奪われる。

惰性で過ごしてきた日常が揺さぶられる。

私を取り巻く世界は、何度でも生まれ変わるのだ。

たとえそれがどんなに些細な事柄であったとしても。

 

偉人達による驚異的な発明や発見も、

そのきっかけは、

当たり前だった世界が塗り替えられるような、

そんな小さな気づきや

目からウロコが落ちるような体験だったのではないだろうか。

 

「目からウロコが落ちる」。

覆いかぶさっていたものが落とされる。

内発的に外へと向かって開かれる。 

この現象を陰陽論でいうなら、

外の世界へと導かれる「陽」と言える。

ああ!勝手ですぅ・・。

 

東洋医学のおまけ>

東洋医学には、体質や病態を表す用語として「」と「」があり、

気はその性質により「正気」と「邪気」とに分けられる。

(注:正気:淀みなく正しく流れている気。邪気:ヨコシマな気であり、正気の流れが滞って行き場がなくなると邪気となる。邪気>生気で病気の発症となる。2種類別々の気があるのではなく、正気の流れが停滞し淀んで邪気となる。とは文字通り中身がウツロな状態で生気が衰えている状態を指し、とは抵抗力が充実している状態と邪気が溢れて病気の素を作り出す状態の双方を指す)

 

鍼灸治療の基本概念>

ハリは、行き場が無くなって過剰に詰まった邪気を解放し、身体の風穴を開けて凝り固まった世界を外にむけて開き流す。この方法を(シャと読み、余分なものを除くの意)という。

は力のないの状態の箇所にエネルギーを充填して生気で満たす。この方法を(足りないエネルギーを補うの意)と呼ぶ。

このように鍼灸治療は、ハリと灸を使いながら病状に合わせてを行う治療をする。

(補足:上記ざっくり大まかな説明ですが、ハリの中にも体内の深部に及ぶハリは瀉、浅いハリは補、経絡という気の流れに沿って行うハリが補で、流れに逆らうハリは瀉という具合に、ハリだけでも補と瀉を用います。灸においても、硬くモグサをひねって熱いお灸をするのが瀉、柔らかくひねって適度な熱のお灸は補となるなど、灸のみでも補も瀉もできます。) 

勝手に陰陽論13−2へと続く予定!?

  

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クロアチアドゥブロヴニクの城壁から旧市街を撮影

 

陰と陽についてはこちらも参照に! 

garaando.hatenablog.com