“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

雑考

小学生か中学生の頃に、考えていたことがある。

私が育った小樽の街では、市内の一定の区域内に住んでいる子供達が同じ小学校に通い、そこでクラス分けされる。小学校は確か1学年5クラス。1クラスでは男子が女子より少し人数が多い。私の学年だけではなく、兄の学年も5クラス。私の下の学年も5クラスで、どの学年も総生徒数はだいたい同じで、どのクラスも同じような男女比で。

そして中学生になると小学校とは別の区域割りとなり、その地域から集められた学生達が3クラスに振り分けられた。各学年はいつも3クラス。そして各クラスは男子が女子よりも少し人数が多かった。

不妊治療も男女の産み分けの手法もなかった時代のことだ。

いろいろな家族が自由意志で住む場所を決め、子供を産み、兄弟姉妹の数も制限はない。それなのに、ある地域区分で括ってみれば、小学校6年間や中学校3年間のその地域の同い年の子供の数はほぼ同数となり、男女比も大差がない。

これはどういう事なの??と、子供ながらに思っていたのだ。

 

神様とよんでいたかもしれない、大いなる力がそこにあると思った。

人間の手の届かないところに、見えざる秩序があると。

そしてその後に、

生まれ落ちた場所や空間、そして時刻で、その人の人生の全てが決まるというホロスコープというものの存在も知ったのだった。

 

こんなことを思い出したのは、今の私がゆるりゆるりと生活しているからだと思う。

今、コロナウイルスが拡大する中で、

密から疎へ

都会から地方へ

拡大から縮小へとどのように向かうのだろうかとボンヤリ思い続けている。

 

またスカイプでカウンセリングセッションを受けたり、zoomでのセミナーやミーティングなどに参加したりしながら、この状況下で初めて使いはじめたツールの便利さにも驚いている。

地方にいながらも繋がりたい人と繋がれる。

地縁で繋がるコミュニティ以外に、趣味や嗜好、あるいは志といった共通する方向性で繋がれるコミュニティもできるのだ。

これはありがたい。

地縁だけでは息苦しくなるような関係性も、方向性で繋がれる世界があれば救われる。

この地縁によるコミュニティと方向性によるコミュニティ、このバランスが取れれば新しい世界になると期待した。

 

ところが、ちょうどその頃に私は、

4月始めに発症して4日で劇的に治ったと思われた帯状疱疹の後遺症と思われる身体のダルさ、神経痛の痛痒さにじわじわと襲われた。

背中の幅広いところで5センチ、長さ細くなりながらも15センチという、見事にも思える帯状疱疹にかかるも、抗ウイルス剤である強アルカリの海洋深層水をph11の濃度にして患部に噴射することにより、アッという間に痛みが7割減。身体を動かす際のぎこちない動きもなくなり、いつも通りの行動ができるようになった。たった4日で皮膚はほとんど元どおりとなった。こんな簡単に治るのだ!私は嬉しかった。あの激烈な痛みの帯状疱疹がこれで治る。今後の治療にも活かすことができると。

私は力を得た。そしていきおい調子に乗った。

早々にいつも通りの生活に戻り、外出したり上述のようにスカイプやzoomでいろいろな人達と話したりした。

 

しかし。。その後に襲われた身体のダルさや重さ、そして虚脱感。寝たり起きたりとボンヤリ過ごしながら、だんだんと自分の間違いに気づきはじめた。

 

そもそも帯状疱疹という病は、疲れすぎて免疫が落ちた時に発症する。

ゆっくりと休養して英気を養うことが、ああ!大事なのに。

病が治りきらずに見切り発車で活動する患者さん達に、私はいつもこう言っていた。

「無理はしないで、ゆっくり休んでください」

「症状が取れることと病が治ることとは別ですよ」

「薬で表面だけ綺麗にしてもそれは対症療法で、根本的治療ではないのですから」

な〜んてね。

ごめんね、みんな!本当に、ごめんなさい!!

 

あれほど、

「1回で治る」とか「これさえあれば大丈夫」とか「奇跡の治療」といった文言も嫌っていたはずなのに。。(注:1回で症状が取れることもあれば、奇跡的なことも起こることもあるし、特効薬みたいなモノもあります。ただそこを目指して自己増長する治療家にだけはなりたくないと思っていたわけです、ハイ・・。)

目に見える症状をアッという間に変化させる力に、 私は足をすくわれた。

反省しつつ、ハリやお灸、あるいはビワエキスの湿布などをしてユルユルと免疫アップを図っていたら、小中学校の頃に考えていたことが思い出されてきたのだ。

 

効率が良くて、速くて、都合が良いものを、無意識に私は求めてしまっていた。

便利なものはあってもいいが、それに溺れてはいけないのだろう。

どこまでも人間様の都合の良いような世界ではなく、

私という我を超えた計らいの中に、新しい世界が見えてくるに違いない。

 

都会との対比としての地方ではなく、

田舎の、まだしも自然に囲まれた生活は、私の自我からくる不自由さや不満足さをも含めて、それだけで完璧な世界なのかもしれないなぁと思いはじめている。

  

(後記)

今、自戒を込めて治療の現場からすっかり離れてゆるゆると生活しています。近場の林を散歩してみると、雪が溶けて姿をあらわした湿った落ち葉たちが一面に広がっており、この落ち葉を足でしっかり踏みこんでみるとジワッと水分が滲み出てきます。落ち葉を通してどれほど大量の水がこの大地に染み込んでいったのでしょう。落ち葉の傍らには、芽吹く春の草や花が凛と天に向かって小さな背を正しています。何があっても循環している自然はすごいなぁといろいろ発見しつつ、この記事となりました。

 

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自宅付近の林にて撮影