“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

勝手に陰陽論15 陰極まりて陽、陽極まりて陰

街を移動していると気がつく事がある。

「足先がドアに挟まれないように注意」。電車内でドアに張られていた標語が目に止まった。

その上には「戸袋に注意」という表示がある。実際に子供が腕を挟まれているのを見たことがあるので、危険なのだなぁと思うようになった。駅構内では「電車とホームの間が空いています」というアナウンスが聞こえる。私の身近で3人ほど電車とホームの間に落ちた人達がいて、中には大怪我をした人もいるのだから、私も特別に注意を払うようになった。

他にも「電車が来るから白線の内側へ下がれ」だの「こちら側のドアが開きます」といったアナウンスや表示による至れり尽せりの危険警告があるが、これはそもそもどうなのだろう?ずっと以前から疑問に思っていた。

そして先日見かけた「ドアに挟まれないように足先に注意」との文言。

自分の足がドアに挟まれることすら、言われないとダメなのか。

ああ!身体感覚よ、ナゼにここまで弱まれり?!

 

「昭和がだんだんおかしくなってきている」。こう、良き日の昭和に想いを馳せながら、憂いを込めて語ってくださった恩人がいる。

「安全・清潔・効率」、この3つの徹底によっておかしくなったと。

 

安全については、冒頭にあげたように、電車内や駅構内での注意喚起の文言がどんどん目につくようになった。昭和における高度成長のスピードとともに。

また食の安全においては、賞味期限やら消費期限の日付に、いつしか私も注意を払うようになってしまった。この背景には、昔よりも加工食品が驚くほど増えたということもあるだろう。日本の食品添加物や農薬の使用量は世界で群を抜いて驚くほど多い。しかしこういった食品の背景には目をつぶる一方で、とりあえず賞味期限にだけは妙に敏感な人々が多い気がする(添加物や農薬を気にする人も私の周りには多いですが、一般的にはまだまだ少数だと思います)。

 

清潔という視点で見てみると、日本が他国と比べて飛び抜けていると思えるのはトイレだ。私が訪れたことがある国々と比べて、日本ほどトイレが綺麗なところはない。各国のトイレ事情については、文化や風土の違いをまざまざと感じるのだが、日本のトイレにはウオッシュレットや便座シートもある。清潔さにかけては世界一だ、間違いない。

そのうえ除菌剤や消臭剤、さらには芳香剤が次々と市場に出回り、より清潔であることが求められてきた。たとえそれがケミカルで作られた過度な防衛であったとしても、清潔とは、まごうことなきヨキコトのように。

チマタではデオドラントな汗ふきシートやスプレーなるものも随分と店頭に並ぶようになった。口臭予防もリステ○ンやモンダ○ンといった殺菌系から舌苔除去サプリなど多様である。ついでにチョッコっと歯もホワイトニング。

潔癖なまでに徹底され続ける清潔志向。

 

そして効率について考えてみる。

そもそも効率とは、達成されるべき仕事量 と 要したエネルギー量 との比率であり、

エネルギーの消耗が少なく目的を達成することが、効率良いとされる。

最近よく聞かれる「コスパ」という言葉は、経済効率がイイということで、お得感比べに用いられる。損得勘定ベースのモノサシは、どんどん増えている気がする。あげく「忖度する社会」の土壌ができてしまったのではないだろうか。

経済効率のみならず、仕事や勉強などにおいても効率は求められる。

「結果よければ全てよし!」「勝てば官軍!」とでも言われるかの如く、プロセスよりも結果が重要となる。

こうした時代背景の中で、時短に特化した電子レンジは家庭で欠かせないものとなり、今やレンチン料理のレパートリーの多さには驚くばかり。時短であってなお引けを取らない料理を目指して。

さらに効率という名のもとに、人間の育まれるべき能力や営みも切り捨てられた。

例えば、効率よく目的地へ迷わず到着できるために開発されたカーナビ。事前の道調べもいらず、どこをどう走っているのかわからなくても、目的地にたどり着ける。しかし人間の空間認知能力やら土地鑑、迷いながらも到着できた喜びといった感情や不測の事態に対する耐性、こういった様々な感覚は鈍磨するのだ。

スーパーのレジにバーコードが導入される以前、私はレジうち名人とも思われる人を発見した。見事なまでの指さばき。商品をみるや否やキーの上の手は踊り、目と右手と左手、これらが全く別々に動きながら、あっという間に合計金額を叩き出す。あまりの凄さに「お見事!」と声をかけるようになった。すると彼女は満足そうにいつも笑っていた。自分の職業における誇りだったのだと思う。その彼女の技をもう見ることもなくなった。

 

経済発展とともに長い時間をかけて、重要視されてきた安全と清潔と効率。

終戦直後の社会は、危険がそこここに溢れ、不衛生で、効率があまりにも悪かったのだろう。

目指したのは、安全で清潔で効率のイイ社会。

世界最貧国であった敗戦時の日本から、JAPAN  AS  NO.1と言われるまでに経済成長した昭和の時代に、安全・清潔・効率へと向かうベクトルは一向に速度を緩めなかった。ある程度それが達成されたにもかかわらず。

 

安全を求めて予防線を張られると、危険が迫っていることが感知できなくなる。

清潔を目指して潔癖なまでに消毒し尽くすと、かえって感染症にかかりやすい身体になってしまう。また清潔という側面にだけ囚われると、不安が増大し何度も手洗いをしたり消毒をくりかえす脅迫性障害といった心の病を発症することもある。

効率を上げることだけに懸命になると、速ければ、安ければ、成果が上がれば・・と手段を選ばず、プロセスを楽しめない。また効率を求めるあまり、ミスが許されず人間関係もギスギスとしてきて、かえって事がうまく回らなくなり生産性が落ちる。

 

このように突出した一方向だけを追い求めて極に達すると、その特質は反転してしまう。

陰極まりて陽となり、陽極まりて陰となるのだ。

しかも画一化された一方向へ振り切ることによって安心を求めるが、実は不安が増大する。これさえやれば大丈夫!徹底すれば大丈夫!と自らに言い聞かせて、偏執的になってしまう。

 

安全を求めていたのに、危機管理能力はかえって育たない。

清潔を目指していたのに、抗生物質が効かない菌が出現してしまった。

効率を上げるために完璧で間違えないコンピュータに置き換えられ、自分の居場所がなくなった。

 

人間が自分の感覚を疑うことのなかった時代が遠のいていく。

危険を察知しながらも、自らの足で歩く。

腐ったものは、匂いを嗅いでわかる。口に含んでおかしい時はすぐに吐き出せる。

効率が悪くても、無駄と思えることにも楽しんで没頭できる。

 

野性への希求。

自然へ帰れ。

こんな言葉が頭に浮かぶ。

 

「昭和の良き時代というのは、少なくとも人間が主役であった」と私の恩人はいう。

人間が主役だった時代。。

我らは人間性をどこまで明け渡して、どこへと向かっているのだろう。

 

今、まさにコロナウイルスが流行している時に、

安全であること

清潔を求めること

効率を図ること

これらはどういうことなのかと、改めて問われている気がしている。

   

(後記) 

終戦記念日に、今までとこれからをコソコソ考えていました。

現在の私は、いまだかつてない程、手をきれいに洗って毎日を過ごしています。

その一方で、あまりにも行き過ぎの除菌や消毒・滅菌対策を危惧し、ワクチンさえできれば大丈夫という報道にも大いに疑問を持っています。またコロナは大したことはないとする風潮にも、自分のみたくないものは見ないとする「正常化バイアス」が働いている危険性も感じます(本当にそうであるなら嬉しい限りなのですが)。

あらゆることにそうかもしれないと思いつつ、でもはっきりとはわからない。このわからないという感覚をゆるゆると持ちこたえつつ、自分の感覚がある一方向へ行き過ぎないようにと注意しながらも、いろいろな資料を見たり、意見を聞いたりしています。

 

ほぼほぼでいい。

これは私が東洋思想から学んだことです。

ともすれば極端に走りがちな今の社会状況にあって、様々な問題がある中で揺れ動きながらも考え続けて、また楽しみも見つけて、ほぼほぼで暮らしていきたいなぁと思っています。

 

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野性味溢れる文豪パパ・ヘミングウェイの小説「老人と海」の舞台となった港町、キューバのコヒマルにて撮影

 

陰陽論についてはこちらも参照

garaando.hatenablog.com