“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

繋がりあう世界3 間(マ)

人生は出会いに満ちている。

昨年私は1冊の本と出会った。タイトルは「紛争地の看護師」、作者は白川優子さん。

彼女は7歳の頃に見たテレビ番組で「国境なき医師団」の存在を知り、その医師達に憧れのような気持ちを抱いたという。中学・高校時代の彼女は、なりたい職業を意識することなく過ごした。就職活動の際に進路を決めかねていたが、友人が発した言葉ー「看護師になりたい」ーによって、自分の求めていた職業がやっとわかったそうだ。「私も!私も看護師になりたい!」と。この本は、紆余曲折を経て、ついに国境なき医師団で働くこととなった彼女の活動記録である。

 

一気に読み終わって、私はふうぅと脱力した。

降り立つことを想像しただけで竦(すく)みあがるような、そんな紛争地が地球上に点々とある。つき動かされる衝動で働いている人たちが世界中にいる。娘の夢を知った上で、その背中を押す母がいる。何より白川優子さんという、輝く玉のようなエネルギーを持った若い女性がいる。

この本を読み終えてしばらくの間、私は圧倒されていた。

圧巻の内容もさることながら、その後も私はこの本の中に記された何かについても考えさせられていた。

 

私が気になっていたこと、それは彼女が国境なき医師団に入るまでの道のりだった。

高校を卒業して看護師を目指すには、準備不足だったそうだ。しかし自宅の近くに新設の看護学校ができていると知る。そこは、半日を指定の医療機関で勤務するのが条件の、4年間の定時制学校だった。彼女はここに入学することができ、卒業と同時に看護師資格を得る。その後、近所の医療施設に就職し「手術室看護師」の経験を積む。これは緊急事態を冷静かつ臨機応変に判断しつつ、チームプレーが求められる職人仕事だという。

こうして看護師としての経験をつんだのちに、国境なき医師団へ入るためには英語が必須だという難問にぶち当たる。「英語力ゼロの26歳の日本人が英語で医療活動を行うことなどできるわけがない」と。その時、母が留学を勧めて、こう言ったー「しっかり準備して人生のピークを40歳あたりに見なさい」。彼女は、留学資金を貯めるために近所で最も給料の高い産婦人科で3年働く。こうしてオーストラリアの大学の看護科へ。大学卒業後にはオーストラリアの病院に3年半勤務した。そしてついに36歳で国境なき医師団のメンバーとなった。

 

この彼女の歩んだ道のりをどう捉(とら)えたらいいのだろう。

意志あるところに道は開けるということもできる。求めよさらば与えられんと。

またこういう特別な人には、必要なモノが準備されていると思うこともできる。

さまざまな幸運を彼女が引き寄せたとも言えるかもしれない。

ただ私は、彼女が子供の頃からずっと看護師を目指し続けていたわけではなかったこと、国境なき医師団に入るために必須の英語を勉強していなかったこと、看護学校や勤めた病院もたまたま近所だったことなどが気になった。

明確な目標をたてて、そこから用意周到に計画を立てたわけではない。

ひとつの課題をクリアする毎に立ち上がってくる問題を、今ある手持ちの手段を使ってコツコツと積みあげて努力していく。

努力するごとに、自分の夢の輪郭がハッキリしていったのではないだろうか。

白川さんの行動様式は、回り道に見えるかもしれないとも思う。しかし、一見遠回りに思えるようなことはすべて、彼女の夢を実現する際に必要なことだった。オペ室の看護経験も産婦人科での勤務も、命に関わる根本の医療行為である。

歩いてきた道を振り返って初めて、必要な経験を経てきたことに気づく。

手近にあったものをつかみながら前進するうちに、偶然性や幸運も舞いこんで、必要なモノやコトが準備されていく。

さらにその流れに乗って、ますます自分の意図は明確になっていく。

状況が自分をも巻き込みながら、道なき道が自然に現れてくる。

自分をとりまく状況が自らの進むべき道を示す。

このありようは、生命体の営みの基本となっているようにも感じる。

自分をとりまく状況とは、自分とその周りとの関係性だ。つまり、あらゆるモノやコトあるいはヒトそして自然ーそれらと自分とを結ぶ関係性であり、その両者を繋ぐ間(マ)のことである。

実は自分が主体なのではない、関係性こそ、間(マ)こそ主体。 

 

目的を達成するために逆算して計画を練る。この縦軸に沿ったエレベーター型の手法は、生命体においてあまり意味がないのではないかと、私はこっそり思ってきた。

水面に投げた石がつくる、同心円で水平軸に広がる輪のように、ひとつの些細な行為であったとしても、その影響は波紋となって広がる。水平軸のみならず全方位に渡って、隣接する細胞たちに放射線状に影響が及ぶのだ。細胞同士が出会っては互いに干渉しあい影響を受け合って、さらに大きさの違う円心の波紋が広がる。このように多重的に変化を遂げる中で、ひとつの細胞の動きが定められていくのだとしたら、数値目標を決めて計画を立てるという行為には、どれほどの成果があるのだろう。

たとえばダイエット。〇〇kg減だけを目標にして計画を立てる。その目的は達成されたとしても、リバウンドしやすい。一方、自分にあった食事療法などをして体調も改善され、いつの間にか体重が落ちてしまい、適正体重が結果としてダイエットとなった場合のリバンドは、極めて少ない。

また便秘を治したいという相談もよく受ける。便秘というのは結果であって、取り組むべきは消化機能の改善なのだ。便秘薬が手軽に用いられるが、ただ便秘しないのと消化に係る臓器が正常に働いた結果、便秘という症状があらわれないというのには違いがある。

さらにオペによって切除され再生されることがないと思われた器官が、隣あった細胞たちのふるまいによって、結果として機能が修復されていく。これはジグゾーパズルの1ピースが欠けた場合にも、周りのピースに型どられることによって再生されていくようなイメージがある。周りとの関係性によって失われたはずの1ピースは復元するのだ。

 

生命体を貫く自然法則は、自分たちの人生の流れ方にも共通するのだと思う。

 

新たな出来事と出会う。

それが人であれ、モノであれ、本や映画であれ、風景であれ、食べ物であれ、誰かの一言であったとしても、

これが一石となって、何の変哲もないように思える日常の中に波紋を呼ぶ。

こうして眠っていたであろう可能性が呼び起こされるのだ。

 

自分をとりまくさまざまな事象との関係性。その関係性を結びあう間(マ)の世界を考えてみると、出会いというものの持つ力の大きさが理解できる。

 

私たちは、

そして私たちの身体は、

さまざまな関係性が繋がりあった世界の中で、生かされている。

 

(注:白川さんが綿密に計画をたてて行動なさったことも多いと想像します。私の勝手な解釈をもとに、一部だけを取り上げてブログ記事を書きました。ご当人への確認も許可もなく。どうかご容赦ください。)

 

(後記)

今回のテーマは、私が治療家になってから気になりだした、フランスの哲学者メルロ=ポンティが提唱していることに関係しています。主観と客観という二項対立を超えた概念として間主観(カンシュカン)性があると彼は言います。

この間主観性とは具体的にどういうことを指すのだろうかと思いつつ、皆様のお身体を診せていただいてきました。身体が根本的に癒えていくということについてのヒントがあるように思えたのです。とりわけ難治の病いが回復していく過程には、この間(マ)の力学が働いているように思えてなりません。

これは何も東洋医学だけの話ではありません。

病院に行くと、いつからかお薬手帳なるものが渡されるようになりました。それぞれ別個の部門で出された薬どうしが全体として悪影響を与えないだろうかと検討するために。

これもそれぞれの関係性を考慮する医療の形かと思います。

関係性をぬきに何事も進まないのだと思っています。そしてここからコミュニケーションの重要性が見えてくるのだと。

現象学の流れをくむメルロ=ポンティ。彼のいう何だか難しい様々な事を、私の経験と引き寄せて、噛み砕いて自分自身が理解できるように、これからも学んでいきたいと思っています。

 

 

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カリブ海の島バルバドス、ブリッジタウンにて撮影 

間(マ)についてはこちらも!

garaando.hatenablog.com