“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

雑考3 死に至る5つの段階(エリザベス・キューブラー・ロス) 

こんな世界になろうとは、夢にも思わなかった。

コロナウイルス、戦争、原発占拠、地震。。

次々に押しよせる現実が強烈すぎて、私の想像力が追いつかない。まるでディストピア小説のただ中に投げ込まれてしまった感じだ。悪い冗談であってほしい。

そのうえ、さまざまな情報(しかも真っ向反対の!)が飛びかう。ある情報だけを拠り所にできる人たちを羨ましくさえ思いつつ、彼らの心理も知りたいと思うから、ついつい追ってしまう。たぶん今ネット上で起こっていることは、人間の最も深い部分に触れることなのだ。情報を追えば追うほどに私はリアリティを失って、行き場のない諦めに似た空気に包まれる。漠然とした恐怖に煽られつつも、自分のどこかが麻痺したままで日々が過ぎている。

 

ふと先日、死に至るであろう病や難病を宣告された人たちは、この感じを味わっていたのだろうと思った。突然災難のような病(この表現に語弊があるけれども)が降りそそぎ、実感のないままに生活の変化を強いられるのだから。さらに治療法についての様々な情報を前に、何を信じ、どんな手段を選ぶべきかと途方にくれる場合も多い。

 

それまで意識すらしていなかった自分の土台。それが根底から覆されるような出来事が起こった時、人はどんな心理になるのだろうか。

 

今回は、ホスピス医療の草分けでもある精神科医エリザベス・キューブラー・ロスが「死ぬ瞬間」という著書の中で唱えた「死に至る5つの段階」を取りあげて、

死にゆく者の心理を、

さらには災害や事故などで経験する「喪失(最愛の人や故郷などの)」の際の心理を、

考えてみたい。

 

エリザベス・キューブラー・ロス女史。彼女の人生はホトホト壮絶だった(ご興味ある方は、彼女の自伝「人生は廻る輪のように」<角川書店、文庫もあり>を参照)。その彼女が、波乱に満ちた人生を送るなかで、200人もの末期患者のカウンセリングをしながら「死に至るまでの5段階」という心理プロセスを説いた。

 

その5つの段階とは、以下の通り。

 

第1段階:否認  何かの間違いだ。そんなはずはない。

初めて重い病名を告げられた時、あるいは余命を宣告された時などに代表される反応。ショックに対する防衛本能でもある。

また衝撃的なニュースを聞いた場合にも最初に起こる反応だ。

社会心理学災害心理学でも使われる用語の「正常性バイアス」。これが働くのもこの段階。

(注:正常性バイアスとは、どんな危険な状況であっても自分だけは大丈夫と思い込む脳の反応のこと。例えば「コロナが流行っていても自分はかからない」、「コロナは本当は存在しない」と思い込んで現実逃避をする。または「ワクチンを打ったからコロナには感染しない」という間違った情報にすりかえたり、都合の悪い情報はシャットアウトする。生きていく上でのストレスをある程度減らすために正常性バイアスは必要でもあるが、かえって命を危険にさらすことにもなる。)

 

第2段階:怒り  どうして自分だけがこんな目にあうのだ。ほっといてくれ。

現実が本当かもしれないと思いはじめた時からはじまる反応。

こみあげる怒りが外(他者や社会)へと向かい、孤立しはじめる。

 

第3段階:取引  どうか神様・仏様、いい子にするから私を助けて。

否認や怒りの段階を経て、どうにか救われたいと願い、改善に向けて努力する段階。

生活習慣を改めつつ、神や仏に奇跡を求める。

 

第4段階:抑鬱  もうどんなに頑張っても無駄。

神や仏との取引にも敗れ、絶望に支配される段階。自分自身の無力を痛感する。

 

第5段階:受容  死は誰にでも訪れる自然なもの。すべては流れのままに。

苦しみながらも現実や現状を見つめて、死を受け入れはじめる段階。

混乱したり孤立感をつのらせたりしながらも、今までの価値観とは異なる次元で世界を見つめはじめる。奇跡的な治癒は、この段階で起こるとされている。

 

上記は本人の場合であるが、家族の場合も同じ。

例:否認(母がそんな病気になるなんて嘘だ)

  怒り(あんな優しい母なのに何故?)

  取引(私のすべてを捧げるから、母を救って)

  抑鬱(八方塞がり。もうだめだ)

  受容(より深いレベルで母への感謝が溢れでる)

 

この5つのプロセスは、順を追って進むのではなく、いきつ戻りつとなる。

つまり怒りから否認へ、否認から取引へ、取引から怒りへといったプロセスにもなる。

また受容の段階のようでありながら、実は取引していることもある。

最後の受容に至るためには、すべての段階を経験しなくてはならないと著者はいう。どこかの段階をスルーすることはできない。

 

また、それぞれの段階をどれだけ深く経験するかが重要となる。

この深さに応じて、最終的に至るであろう受容の大きさが決まるのだから。

それは反抗期にさんざん暴れた青年が真っ当な大人になる。こういった場合に似ているのかもしれない。

 

さてこの深い経験ということを、否認の段階を例にとって具体的に考えてみたい。

ひとつの病院での診断が信じられずにセカンドオピニオンを求める場合がある。最初の診断を早々に受け入れる人(否認と抑鬱が一緒になって行動力がなくなり、はやく現実が変わることを望む)もいれば、セカンドやサードのオピニオンを取りに行く人もいる(否認しながらも、現実をみきわめようとする)。

同じ否認の段階であっても、受けとめる程度に応じて、反応の仕方は人によって違う。

 

そして自分の無力を骨の髄まで痛感した時に、さまざまな執着を手放すことができるのだと思う。

「手放す」ーいや、この言葉には、まだ自我がある。

自分丸ごと差し出すことができるほどの無我の状態へと移行し、自然の法則に身を委ねることができる、こう表現するのが適当かもしれない。

「手放す」のではなく「委ねる」。

 

こうして人は自分の死を受け入れていくのだろう。

 

さて、この5段階モデルは病気のみならず、災害や事故などで経験する「喪失(最愛の人や故郷などの)」についての心理状態にも当てはまる。

その衝撃の度合いに応じて、このプロセスを経るには何十年もの時間がかかることもあるし、どこかの段階で止まっていることもある。

 

また奇跡や受容を求めてこの5段階を理解するのではない。

観察の結果、人は自然にこれらの段階を経るとわかったのだ。

ただこういう心理プロセスの知識があれば、衝撃的なニュースに直面した時に自分の反応を俯瞰して眺められる。また援助職であればクライアントの心理を理解する助けにもなる。

 

今、疫病や戦争が始まってしまった我らの、この世界。ここには、いろいろな立ち位置の人たちがいて、思惑もそれぞれにあって、おのおのに心理段階があって、フェイクニュースも散りばめられている。

この状況の中で、最後に至るという心理プロセスの受容とは、私にとって何なのだろう。

 

そう漠然と思っていた時だった。

難民になった大勢の人々が集まる駅で、ピアノを弾く男性の映像を見たのは。

また戦地に残った男性たちが楽器を持ち出して道端で演奏している映像も。

流れてきた音の方へ周りの人々がふりかえり、話をやめ手をとめて聞きいりはじめる。

ざわついた空気が静謐へと変わりだし、人々の表情にも深さと落ち着きが増す。

その場のフェーズが、すっかり変わった。

誰しもが持っているであろう痛みのようなものが、神聖さに満たされるごとくに。

そして私の中で、何かが解けた。

 

傷ついた人々のために、生きとし生けるもののために、祈ることしかできない。

 

 

(後記)

最近は、あまりに無残な社会情勢の中でブログなんて書けないなぁってずっと思っていました。

原爆がどこかに落ちたら、東洋医学も何もあったもんじゃないでしょって。

なんか人間が残念すぎる・・って。

 

一人になるとボヤいていました。

(いつだって酷い紛争はあるのだけれども・・)

こんな形の戦争が今の時代に起こるなんてウソでしょ!って。

私たちは過去から何ひとつ学んでいなかったんだ!という怒りもあり。

人間のサガとかゴウとか、カルマとか言われるように、人間はホトホトどうしようもないという諦めにぐったりし、

コロナだけで手一杯ですから、どうか戦争を終わらせてくださいって取引もして。。

あれ、これ5段階の流れをふんでるって気づいてしまったのです。

 

そして「祈り」について、改めて思うことがありました。

 

今回は、めげつつも自分の中のリアリティーを大事にして、頑張って書いてみました。

 

 

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南米、チリのチロエ島にある世界遺産の教会にて撮影