“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

身体感覚を開く3  身体と街づくり

治療家の私は、患者さん達の気づきにハッとさせられることがある。

今回は、ずっと心に残っている会話のひとつを取りあげてみたい。

彼女は、建物の保存や街づくりといった多岐にわたる活動の先駆的なリーダーで、私の治療を受けていただいてから、かれこれ5年が経つ。超多忙な彼女が必ず予約してくれるので、どうしてこんなに通ってくれるのか?と尋ねたことがある。

彼女は答えた。

「私にとって身体づくりは街づくりなんだよね」と。

「身体を知ると街が見えてくる。ここに中心部があって、広場があって、風が通って、人々はこっちに流れて・・。身体で実感したことを街に見たてて、なるほどなるほどと思う」。

また私は、施術における彼女の反応の仕方を面白く感じていた。

鍼の刺激を感じて、「おっと、そうきたか!」と嬉しそうに笑う。

そこには「なんでそこが痛いのか?」といった分析もなければ、「そんなハズはない」という否定をはさむ余地がない。

「おお!そうなのか!そこを酷使していたのか!」とか「そこに通じていたのか!」といった気づきはあったとしても。

自分の認識が裏切られ、予想外の反応を楽しんでいるかのように見える。

そこにあるのは、「なるほど、なるほど」「そうか、そうか」としか表わしようのない体感の、徹底的に肯定する受け入れ体制だ。

「自らの身体の声を聴く」あるいは「身体との対話」というのは、体感というリアリティを伴って初めてなされるのだと、私は改めて思った。

 

「身体づくりは街づくり!」という彼女の言葉から、私も身体を街に見たててみる。

臓器にあたる部分は、さしずめ役所や行政といった街のメインとなる建物かと思う。そこは大通りに面していて人々の往来は多い。臓器と臓器との間の空間には、公園や脇道がある。そこで人々は集ったり、歩いたり・・。さらに郊外へいくには、手足の末端方向へと向かう。私は、ザックリこんなイメージを抱いた。

ところが彼女の体感では、街のメインとなるのは、臓器ではなく、腸か膀胱か子宮といった下腹部にあるという。

たぶん彼女は感覚で丹田(たんでん)をとらえているのだと、私は思った。

臍(ヘソ)下3寸にあり、人体のエネルギーの中心とされている丹田を。

きっと彼女は、ここから街づくりをはじめるのだろう。

(注:このように彼女の感覚を「丹田」という概念で表現してしまうことに抵抗があります。概念が身体感覚を規制してしまう。もっと言えば、せっかくの感覚を頭に繋げて別物にしてしまう。このことは避けたいです。ただ今回は説明する必要に迫られて、「丹田」という文字を使うことにしました。ご理解ください。)

 

さてここで、東洋医学経絡ツボというものを思い出してほしい。気の通り道とされる経絡は線路に、気の出入り口とされるツボは駅に例えて説明されることが多い。

ここでは線路をさらに道路に、駅をバス停に置きかえてみれば、身体の中に“ 街 ”の地図ができてくる。人体を流れるエネルギーである気。街においては、その気の役目を多くの人間達が担う。あたかも経絡というルートに気が通るように、道の上に人々の流れができるのだ。道路を行き交いながら、あるいは広場にタムロしつつ・・。こうして多くの人々が街のインフラに息吹きを与え、生命体としての街が生まれていく。

 

さらに街を眺めてみると、住宅街もあれば繁華街もあり、公園や観光名所もある。どこであっても昼間と夜とでは、その佇まいはずいぶんと違っている。街には実に多様な顔があるのだ。

また旅をしてみて気づいたのだが、お国が違えど街には共通点が多い。

山の手の住宅街は安全だが、港湾部は何やら危険な香りがする。

街中であっても1本通りを隔てただけで突然危険な地域になることも多い。

「あそこへは近づくな、こっからこっちは安全だ」と教えられたことは何度もある。

大きな都市には必ず中華街はあるし、コリアンタウンやアジアンタウンは密集している。

どうやら、かなり棲み分けができている。

もし身体と街がリンクしているとすれば、身体も適度に棲み分けをしていると考えてもいいのではないだろうか。

 

グレイゾーンをグレイゾーンとして容認する緩さが、かえって街の安全を高めることもある。

多少悪さしていたとしても、わざわざヤクザ屋さんの土地に飛びこんで大事に至ることこそ避けたい。

この視点を身体に当てはめてみるなら、徹底的に検査して病気の芽があれば早いうちに摘んでおくということも、よいとばかりはいえないだろう。多少気になる所があってもそっとしておく。これが身体に平和をもたらすことも多いのかもしれない。

 

身体から街を連想できる彼女のように、

自らの身体感覚を日頃から磨いておくと、

そこからしか見えてこない世界の広がりに気づくことができる。

 

人体の中心は心臓でも、ましてや頭脳でもない。

丹田をとらえた彼女の言ったこの言葉が、あらためて響いてくるのだ。

 

もしあなたが自らの身体をモチーフに街をつくるとしたら、

あるいはあなたの身体に内包された街があるとしたら、

それはどんな街なのだろうか。

 

(後記)

今回は、身体感覚について書きました。

以前に患者さんから、治療で感じた感覚について聞かれました。「このように感じたのですが、正しいですか?」と。

残念ながら、正解はないです。そしてなんと!なんでもアリです。

ぜひ、自分の感覚を自由に解き放ってみてくださいね。あ、無理にすることもありませんが。

 

身体は、

自分を入れる鞄であり、家であり、街であり、故郷であり、自然であり、宇宙であり、

自らの内に無限に広がる空間であり、しかも唯一無二のもの。

私は、これを知りたくて、そして体験してほしくて、治療しているのかもしれません。

 

いまだ終わらぬ戦争で、街が壊され、故郷が瓦礫に埋もれる映像からは、自らの身体が、心が、存在が傷つけられるような、強烈な痛みや絶望が伝わってきます。

こういう状況に対して、なすすべがないことが残念でたまりません。

この事が頭から離れぬまま、書いてみました。

 

 

トルコ、イスタンブールにてブルーモスクとバザールを撮影
(文中に登場する患者さんの了承を得て掲載)