“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

雑考4 養生について

東洋医学の時代は来るのだろうか?

前回のブログを書いていたら、東洋医学って本当にすばらしいなぁと思えてきた。そしてその真髄は一般のみなさまに浸透しているのだろうかと考えこんでしまった。

 

私が鍼灸学校へ通っていた頃はバブルの絶頂期。「これからは東洋医学の時代だよ」と、ブランド物のスーツに身を包んだ友人たちは、こぞって私を励ましてくれた。「へぇ〜、そうなの?」と私は特別の思いれもなく聞いていたが、あれから時が流れること、ユウに30年。雑誌などにエネルギー治療とか量子力学といった新しい医療の形が紹介されているものの、東洋医学の時代ってのは、はたしてやってきたのだろうか。いや、やってくるのだろうか。

どうなの?来たの?来るの?来ているの?

というわけで今回は、

東洋医学の特筆すべき方法論である「養生」をとりあげて、

なぜに東洋医学の時代は、やってこないのか?!という視点にたって、私は考えてみることにした。(注:来ているのかもしれません。)

 

東洋医学は、病気の予防から治療までを網羅する統合されたシステム体系を提案している。

予防法としては、気功や太極拳といった気を練る鍛錬や按摩などの、体感型の健康増進法や生活習慣に関しての教えがあり、一般には「養生」といわれる。

これからの医療において、この養生なるものは重要な位置をしめるはずだ。なぜなら、あまりに病気の種類が増え、さらに難治のものも多い。ならば病にならないようにするというアプローチこそ、もっとも効果的になるだろう。<注:東洋医学では「未病(みびょう:いまだ病として発症していないが進行する可能性があるもの)」を防ぐという考え方がある>

未病を防ぐのなら、やっぱり養生でしょ!

種々の養生法に脚光があたれば、東洋医学の時代はやってくる?のかもしれない。

 

ところが!この養生なるもの、現代において実はとても難しい。

なぜなら養生は、時を纏(まと)いながら熟成させていくものだから。

時短を求める現代の生活とは相入れないことが多い。

結果はすぐに欲しい。スローライフとやらが叫ばれているものの、やっぱりクイック!クイック!

またコスパと呼ばれる費用対効果を重要視する時代だ。

成果があがるのかどうかわからないものに、エネルギーを注ぐことはマッコト難しくなってしまった。

 

その上、養生の基本軸は「中庸」。

「過剰であり続ける」がごとくの時代の中での中庸とは、これいかに?!

心臓病や糖尿病、ガンといった病いは、過剰であり続けた結果とも言える。体力があることが是とされ、それをセーブすることの方が難しいのだ。

 

さらに極めつけがある。

養生は、食事や運動や嗜好といった生活習慣に関わっている。

トドのつまり養生とは、その人の人生観や世界観の表れなのだ。

他人がそこに踏み込むことは、いってみれば余計なお世話。

「そこまで健康になることに興味がないから放っておいて」という気持ちもわからなくもない。

「養生のヒント」の著者で自らの健康法を提唱している五木寛之氏からは、独自の哲学を感じるし、江戸時代に「養生訓」を記した貝原益見も哲学者であった。

普段からの問題意識の高さが、自己への洞察となって生活を見直す力となる。

つまり、生き方イコール養生なのだ。

しかし、痛みが取れないと訴える患者さんに、あなたは人生をどうとらえているのかと聞いたなら、彼は2度と私の治療所にはやってはこないだろう。

困っている症状と生活習慣とがどれほど密接に繋がっているかを理解できる人は、そう多くない。

 

このように考えてみれば、

養生というものが、手を伸ばせばすぐに届きそうでいて、実は大変むずかしいのだと理解できる。

 

養生ということ自体、時代にもまったく合っていないでしょ。

ダメだわ!東洋医学が誇る教え、養生・・。

 

がっくりしながらも、さらに掘り下げて考えてみる。

私は人々が待つことができないほどに忍耐力が低下したのかと思った。

ところが私の患者さんたちを観察していると、TVなどで1日8000歩ほど歩くのが健康の秘訣との情報をキャッチしたなら、

雨の日も風の日も、病める時も健やかなる時も実行していらっしゃる。忍耐力や持続力がないわけでもない。

運動ということに関していえば、スクワットなどの筋トレや水泳などを、生活のルーティンに組み込むことができた方は、それらを永久運動のように続けることができる。それどころか、一時的であっても中断させることの方が難しくなる。

 

では何が養生を続けるうえで足りないのだろうか。

それは自信かもしれない。

ほおっておけば自分の身体は、自然に快方へ向かってくれるという信頼。

頭痛がしても、足が冷えていれば足を温める。すると上部へと集中していた 気 が下がって頭痛が取れるという経験があれば、すぐに薬に頼らない。

下痢をしても、下痢自体が悪いものを出すという治療なのだから、出つくすのを待つことができる。

咳が止まらない場合にも思いつくケアができるはずだ。薬が効かないと嘆く前に。

水分のとりすぎではないか?(湿があって気道が浮腫んでいる場合)

腕や肩が凝っていないか?(凝りがあると咳を出して解消しようとする身体の反応があり、慢性的に腕を酷使する人は咳が止まらないことが多い。凝りを緩めたり汗をかいたりすることによって改善できる)

食べ過ぎではないだろうか?(食べ過ぎによって胃に熱がある場合で、さらにアルコールなどの飲み過ぎによって湿も発生し、食道や気道が浮腫む。そこに胃からの熱が上がってきて咳となる場合)

こういう個別の原因を無視して咳止めの薬を使っても、効果は思うようにはあがらないのだ。そして不安になる。何か悪い病気なのではないか。薬を使ってもこんなに治らないのは、なぜ?と。

 

このように自分の身体を信頼することができなくなったのには、紙オムツが関係しているとする説がある。

紙オムツがなかった時代、

赤ちゃんは、気持ちが悪い→泣いて訴える→誰かがオムツ交換をしてくれる→心地よし!といった流れを体感する。不快から快へと向かうプロセスを。これは、たとえ気持ち悪くても、そのうちに心地良くなるということを味わうのだ。こうして不快への耐性は強くなる。

この経験がないと、不快イコールすぐに取り除くべきものとなってしまう。

 

では体感をともなって身体への信頼を築いていくためにはどうしたら良いのだろうか。

友人の鍼灸師は、「小学校の保健室のおばさんを鍼灸師やマッサージ師にするといい」と言った。

お腹を温めるお灸やマッサージ、あるいは精油の香りを使った療術などを通して、具合が悪い子供に、自らの身体の変化を感じてもらいながら安心させることができる。こうして子供は、身体は治っていくんだという信頼を獲得できる。

 

どうだろう?

こういうところから改革しないと、

東洋医学の時代はやってはこないし、

養生の真髄を伝えていくのは難しいのではないだろうか。

 

(後記)

東洋医学の時代は、来ても来なくてもいいじゃん。流行りモノでもないしね・・。などと思っていました。

今も同じ気持ちなのですが、やっぱりこの素晴らしすぎる医療が埋もれている、あるいは正しく理解されないことは、もったいないなぁと感じはじめています。

 

そして私が治療をしていてぶつかる大きな壁は、この養生に関するものなのだと気がついたのです。この件については、また別記事で書きたいと思います。

 

それにしても、とっても大事な養生。

この養生って言葉は、なんだか時流にのってないのではないの?!

マインドフルネスなんちゃらとか・・、

グレートリセットとかいった言葉のような、そんなイマドキの言葉がないでしょうか?

 

ライフフルフィルメソッドとかに呼び名を変えて、

「ああ、フルフィルね、フルフィル!」とかってコンセンサスを得るのはどうか?などと考えてしまいました。

何かオススメ用語あったら、お知らせくださいね。

 

世界最高水準の医療体制を誇るキューバハバナの街角にて撮影。

キューバの医療は、最先端の西洋医学と薬草やエネルギー医療などの代替医療とのマッチングで世界最高峰の医療として認められている。予防医学の知識に精通したファミリードクターが国土全域の地域医療を担当し、理想の医療体制を備えている。)