“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

雑考5 痛み2

 災難は前ぶれもなくやってくる。お正月気分もぬけかけた頃のある夜、87歳の母がなにも障害物のない畳の上で転んでしまった。手をのばした拍子にバランスをくずし、トコノマと畳との段差のカドに脇腹から背中を打ちつけたという。奥の部屋にいて現場を見ていなかった私が、ほどなくして母の部屋にいった。そこには、自力でベッドの上に這いあがりウンウンと唸っている母の姿があった。

 私はあせった。母は5年前に腰椎を圧迫骨折している。そして、その時のひどい痛みの記憶はいまだ鮮烈に母の脳裏に刻まれているのだ。また圧迫骨折だろうか?!母もそう思ったに違いない。しかも私はその2日後に母をおいて東京へ向かわなくてはならない。

 さっそく私は母に状況を説明してもらい、どこが痛むか背中をさすりながら聞いてみた。

 「ここらへん」と意気消沈した母は、ざっくりすぎる範囲を示す。「痛い!痛い!」というから、どこがどういう風に痛むのかと聞いたら「わからない。とにかく痛いんだ!」と威張り気味で答える。皮膚を見ると打撲している。治療したいという私の誘いに「動けない」と消えいりそうな声で母は言った。これまた不機嫌きわまりない態度で。そして「枇杷エキスをハケで塗ってくれ」とのご命令が。そこで私は枇杷エキスをガーゼにたっぷりつけて患部に湿布した。ハケで塗ることに固執する母に、このほうが継続的に枇杷エキスが染みこむよとなだめながら。しばらくして疲れきった母はウトウトしはじめた。

 漠然とした不安が私を襲う。骨折しているのだろうか。母はどうなるのか。そして私は東京へ帰れるのだろうか。今後こういう不測の事態が多くなるのかなぁ・・。ふとカーテンから外をのぞいてみると、大粒の雪が空間を埋めつくすようにシンシンと舞いおりている。とたんに私は、この雪のごとく祓いきれない何ものかに取りつかれたような、そんな重たい気持ちになった。とその時、つきそう私の横で母はイビキをかきはじめた。ん?イビキかいて寝むれるのか??もしかして大したことではないのかもしれないと私は思いはじめた。

 翌朝、やっとのことで起きあがった母の動作をつぶさに観察して、私は圧迫骨折ではないと判断しホッとした。治療しようと私が言うと、母はヨタヨタと歩きながら別の部屋に行って、なんとハケを持って私に渡した。これで枇杷エキスを再度塗れというお達しだ。こういう根拠のないコダワリに、治療家である私はずいぶんと慣れているのだが、この時ばかりは心底あきれた。まぁ病人のわがままは聞いてあげるとしようと思いなおし、さらに私は打撲部分の数カ所に点灸(米粒の半分くらいの大きさにモグサをひねっておこなう灸)をした。椅子から立ちがる時に激痛が走ると言っていた母に、立ちあがってもらう。すると「あれ、ずいぶん楽だ」と言った。さらに点灸をつづけるうちに、打撲の痛みは激減した。良かった!大したことはないかもしれない・・。お灸をするたびごとに痛みがへって動作がスムーズとなり、それにつれて私たちの希望の灯が大きくなった。

 このまま回復に向かうかと思われたが、夜になって母は「まだ痛い、折れているかもしれない。明日病院へ行く」と言った。やっぱり気分はこの世の終わり・・といった感じで。「最悪折れていても肋骨だよ。肋骨は折れていたとしてもそのまま治るまで待つしかないから、わざわざ病院へ行く必要はないよ。明日は猛吹雪の予報だし・・」と肋骨を折ったことのある私は言った。「でもたぶん肋骨は折れてはいないよ。ヒョイヒョイと向きを変える動作もしてるし・・。肋骨折った患者さんを何人もみてきたけど、たぶん大丈夫」とつけ加えると憮然とした表情で私をにらみつけて「でも痛い!」と言ったのだ。

 そこで私は、テーブルの上のコップを指して言った。「このコップに水が入っているね。まだこんなに入っていると思う人もいれば、もうこれしかないと思う人もいる。物事はポジティブにとらえる方が幸せだと思う」と言った。「ポジティブってなに?」と母。「ポジティブってのは前向きってこと。ずいぶん痛みが減ったと思うか(ポジティブ)、まだある痛みだけを見つめるか(ネガティブ)の違いがあるよ。では、もう一度聞きます。昨日の転んだ時とくらべて今の痛みはずいぶん減ったと思いませんか。まだ痛い方ばかりを見つめますか、さてどちらでしょう?」となぜか丁寧語を使いながら誘導尋問する私。すると母は「かなり痛みは減ったけど、まだまだ痛い!」というマサカの反撃に出たのだ。

 とその時、私は自分の間違いに気づいた。ポジティブを ◯ とし、ネガティブを X とする極端に振り切れた思考法、あるいはその短絡的な世界観。これを私は否定してきたはずだったと。このブログ記事で書いてきた陰陽論の中でも、白か黒かという両端にたったモノの見方にこだわることは無意味であり、その間(マ)にこそ真理があると何度か言ってきたはずだった。母のいうとおりだ。「痛みはかなり減ったが、まだ痛い」ーまさしくこれこそ、痛みを持ったもののナマの声だったのだ。

 自らの間違いに気づいたものの、私に残された時間はあまりない。そこで私は、自分がコソッと試しつづけているケガや事故の時の治療方法を母に伝授することにした。

 母は転んだその瞬間に、やってしまった!と痛烈に思ったと言っている。その後悔の念をふくんだショックが細胞の動きを固まらせ、痛みが患部に封印されている。このショックには、昔の圧迫骨折をした時の痛みの記憶までもが瞬時に埋めこまれてしまう。今回のケガによる単体の痛みのまわりには、いろいろな形で痛みを大きくする要素がまとわりついたままで、細胞は身動きできないでいるのだ。

 私は、衝撃による物理的かつ精神的ショックを解放すれば痛みは減るはずだと母に伝えた。母はめんどくさいことはいいから、治療家ならサッサと痛みをなんとかしてよとでもいいたげな面持ちで応戦してくる。

 私は母に、「痛む患部に自分の手を当てて、深呼吸をしながらその痛みの中にはいれ!」と言った。すると母は間髪いれずに「はいった!」と言うではないか!?ちっとも呼吸も深くなっていないし、どうみても痛みとアクセスしているとは思えなかったが、まぁ仕方ない。「さぁそこで痛みを感じながら、その細胞にコンタクトしてみて」というと、「コンタクトってなに?」と母。言葉も通じない。「まあ、その場所の細胞とつながってみて感じてください」と呆れながら伝えると、これまたいい加減に「つながりました。つながりました」と2回も言う。「ではそこで、細胞たちに大丈夫、大丈夫と伝えてみて」と私。まったく心のこもらない大丈夫、大丈夫の連呼が始まった。言えばいいんでしょ、言えばという感じで。しばらくして痛みはどうなったかと聞いたら、「まったく変わらず痛い!」と訴えた。当たり前だ。何も起きていなかったのだから。私は、母にケガの程度を軽くし、痛みを少なくすることができるセルフヒーリングの方法を教えたかったのだが、相手が悪すぎた。

 しかたなく私は、母の患部に手をあてて細胞たちを感じてみた。患部はやはりショックで硬直していた。母と呼吸を合わせ、ゆっくりとその硬さをゆるめていくと、痛みと思われる核心に触れた。私の手に痺れるような痛みが流れた。そう、どんどん放出せよ。もっと流れよ・・。そう念じていたら、突然母が痛みがなくなったと驚く。そしてオモムロにたちがり、全然違うと嬉しそうに言ったのだ。「まだ痛みはあるけれど、これなら治る。病院へは行かなくても大丈夫」と。この「大丈夫」には、はじめて心がこもっていた。

 その後は多少の痛みはあれど徐々に回復にむかい、私は予定どおりに東京へ戻ることができた。

 

 さて私が伝えたいこと、それは痛みという身体感覚の本質であり、事故やケガの時の対処方法である。またこれは私が治療家だからできるという方法でもない。本気で自らの身体で試してみれば、誰にでも必ずできるのだから、イザという時のために練習しておくのを勧めたい。

 

 ケガによるショックは、肉体にも精神にも思っている以上のダメージをもたらす。

 せめてショックを軽減することができれば、苦痛を減らし回復を速めることができるのだ。

 

(ショックを軽減するセルフヒーリングの方法)

 ケガをして「やってしまった」と思ったら、まずは気を取りなおして、その患部を意識する。呼吸を深くしてゆっくりとその周辺の細胞たちに手を当てる。ビリビリとかドクドクとか痛みを感じるかもしれないが、呼吸を深くして「大丈夫、大丈夫」と細胞たちに念をおくる。「安心・安全」の感覚を細胞に伝えるように。しばらくすると、患部の脈拍が速かったのがゆったりしてくるとか、固まっていた何かが動きだすような感じがあったりとか、熱感が冷めていくといったようなさまざまな手応えがある。こういった反応が落ちついてくるまで、自分の呼吸を深く保ったまま手をあてつづける。手が当てられない場合は、身体を内観する方法(瞑想など)やイメージでおこなう。

 

(後記)

今回は、身近で起きたことを題材に、ふだんから痛みについて考えていることを、また私が実践していて著しく効果のあるケガの対処方法を皆さまへお伝えしたいと思いました。また高齢者の転倒やケガの心理についても、あらためて考えてみました。

 

出版業界が不況にみまわれる中、母の世代へむけた書籍はどうやら売れるらしい。母の本棚から並べて撮影。横尾忠則氏の本は私からのプレゼント。

(なお、本文は母の承諾を得て掲載)