閉じられた世界が外界へとつながるためには、出入口が必要となる。家でいうなら玄関。その玄関の扉は、世界中で日本だけが外へとひらく。こう教えてくださったのは、イギリスにながらく暮らしていた患者さんだ。内側から外へとひらく "外びらき" の日本。これに対して外側から内へとひらく"内びらき" は、欧米をはじめとする諸外国。これには、いくつかの文化的背景があるという。そしてこの外びらき文化は、日本人の特質にも少なからず影響を与えているにちがいない。自分から扉を外へむけてあけないかぎり世界とつながらないだろう日本人。一方でみずから扉をたたきにいく欧米人。あるいは、自己の領域はまもったまま外に対してひらく日本文化。対して自分の内側へと向かいいれる欧米。日本人は自己のバウンダリが欧米人にくらべて弱いと感じていた私にとって、これは意外にも思えた。日本人こそ外から内へ侵入されやすいのではないだろうかと思っていたのだ。しかし観察をつづけてみると、おもしろいことがわかってきた。
たとえばガンなどの病気を診断される場合を考えてみる。ながらく日本では本人への告知はタブーとされてきた。「本当のことを言ってください!」と自分から医者に懇願して(内から外へとひらく)、やっと教えてもらえる時代が続いていた。いまでは、いとも簡単にステージや余命期間が告げられる(外から内へ向けてのアプローチ)。いきなり、淡々と、アッサリ、ズバッと・・言われた・・。患者さんたちはその時のとまどいや驚きなどを話してくださる。彼らの反応をみるにつけ、マニュアルで決めて一律に告知するのはどうなのだろうと思ってしまう。欧米人の友人たちが語る状況とずいぶん異なっているからだ。彼らも命にかかわる病を告げられたなら、相当にひどいショックを受ける。しかしその後のねばり強さに驚かされる。治療方法を研究し、自分にあったものを積極的にとりいれる。こういった一定のメンタルの強さが彼らの根底にあるように思う。自我の強さなのかもしれない。私の患者さんやまわりの方たちの反応は、まずは精神的ショックが大きすぎて動けなくなる方が多い。期待して落とされるというヌカ喜びはつらいから最悪を想定しておきたいといわれる方もいて、アキラメもはやい感じがする。本当にアキラメるわけではもちろんない。迷いつつも乗ってしまったレールにしたがい、医者におまかせするといったスタンスをとる方が多い。自分から積極的にほかの治療方法を求めていくケースは少ないうえ、病状について担当医に質問することすら遠慮する方もいる。聞いてもよくわからないし・・と。自分から手をのばさず、とりあえずよしとするといった謙虚でもある姿勢がうかがえる。
また高齢者の末期ガンがいつのまにか治ってしまった、あるいは進行がとまってしまったケースもある。高齢ゆえに、なにも治療しないという選択を家族もした。本人は、自分の都合のいいようにその告知内容をぬりかえ、あるいは耳が遠くて聞こえず・・。こうしてすっかり病気のことを忘れてしまう。忘却によるストレスフリーが、いつしかガンの進行をとめることもあるのだ。
これに対して脳ドッグなるもので腫瘍がみつかった高齢者のケースがある。軽い気持ちで検診を受けたのに・・。それまで元気で海外へ旅行したりゴルフに出かけたりしていた方の生活は、ガラリと変わる。知ってしまった以上、もう元にはもどれない。オペをして一命をとりとめる場合もあれば、知らなければよかったと最期まで後悔されるケースもある。検査は命を救うこともあれば、寿命を縮めることもあるのだ。このように時として事実を知ることは運命の大きな分岐点となる。
知らぬが仏。事実を知らないがゆえに心を乱されず仏のようにいられるという意味だ。
閉じられた世界の全き幸せ。外からの雑音が聞こえない、完全無欠の自分の世界。これは最高の救いになるだろう。また自分をとりまく世界は、数えきれない要素が複雑にからみあっている。さらにそれらは刻々と変化しているのだから、どんなに頑張ったとしても、その起こっている事実のすべてを知ることは決してできない。つまり多かれ少なかれ、誰しも "知らぬが仏" の世界で生きていて、その恩恵にあずかっていることになる。
ここで、このことを陰陽論で考えてみたい。
<陰陽論とは、古代中国思想を構成している理論のひとつである。陰と陽という2つの要素が自然界の運動と変化の基軸となり、あらゆる日常の栄枯盛衰といった自然摂理をつかさどっているとされる。陰とは集約され、凝縮される方向(下・内)へと向かうエネルギーをさし、陽とは放出し、拡散される方向(上・外)へと向かうエネルギーをいう>
内へと向かう世界観をあらわす "知らぬが仏" は、"陰" となる。
これに対して "目から鱗がおちる"という諺は、外へとひらかれる "陽" をしめす(勝手なる持論です)。 "知らぬが仏" ときめこんだ、安定した日常のなかで、なにかの拍子に "目から鱗が落ちて” 外の世界へと開かれる。突然にちがった風景がひろがりはじめるのだ。
陰と陽とがおりなす、こういう世界のなかに、私はたぶん生きている。
今日もまた "知らぬが仏" の安寧とも思える暮らしの傍らで、世界の動きは縷々と流れているのだ。
(後記)
今回は、私が感じている人々の傾向を一般論で書かせていただきました。〇〇人といったひとくくりにする言い方は、乱暴すぎると思っていたのですが。
先日解散総選挙が終わり、戦後3番目の低さの投票率と知り、なんだかグッタリしてしまったのです。世界では戦争を終わらせることもできないどころか、ますます混迷をきわめています。 日本においても貧富の格差はひろがり物価もあがる。税金のインボイス制などの従来のシステムについての変更が余儀なくされ、疫病やワクチンの危険にさらされる。人々のあいだにおこる分断は、情報を認知しているか否かによって起こっているように思えますし、情報すらファクトチェックが必要です。このイマにあって、"知らぬが仏" 率、いくらなんでも高すぎでしょう?!と思ってしまったために、この記事となりました。投票率についても、高ければいいというわけでもないと思っていますが・・。まぁこんな今だからこそ、知らぬが仏にならざるをえないのかもしれません。そんなことを思いつつ・・。
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