“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

東洋医学各論15 水は1日2リットル?!

 「日が暮れるのが早くなりましたね」患者さんの言葉に、私は薄暗くなった治療室の時計を見た。まだ5時なのに、そろそろ夜モードだ。熱と光のビームで野蛮なまでにアスファルトを照らしつづけた太陽を時に疎ましくも思えた夏。その夏がゆっくりと終わりを告げる季節となってきた。「異常気象だ地球変動だと言っても、立秋を過ぎたとたん、確実に秋めいてきますね」とも。本当にそうだ。正確に循環している世界のただ中に私はいる。そして森羅万象をつかさどる自然界の掟こそ、あらゆる生命体が還る道にちがいない。

 

 循環するという自然界の法則。今回はこのことを踏まえつつ、私たちが毎日必要とする水分量について考えてみたい。

 

 いつの頃からなのだろう。”水は1日2リットル”ーこれが多くの人たちの意識に植えつけられたのは。患者さんたちの話からも、その浸透ぶりはうかがえる。「1日2リットルの水分を取らなきゃと思っています」とか「水を2リットルなんて、そうそう飲めないですよ。どうしたらいいのでしょう」とか「毎日2リットルは取ってます。まずは目覚めの1杯、日中はペットボトルで、最後は寝る前にまた一杯。こまめに取るのがコツで、これが私の健康法ですね」という方もいる。

 またこんな声も。「腎臓のお医者さんは水分を取れ取れと言うけど、心臓の先生は控えるようにという。困ってしまいます」「母の認知症が進まないように水を測って飲ませることになりました。でも、そんなに飲まない。厳しく監視しているうちに私との関係が悪化して・・」「利尿剤も出すので、なるべく多くの水を飲んでください。こう、お医者さんに言われたけれど、なんだか身体が疲れて疲れて・・」「夜中に4、5回はトイレに起きるので、睡眠が十分に取れません」「足のムクミが取れず身体もモッタリ重くて・・」「胃が浮腫んでボテッとしている感じです」とか。さらにこんな症例も。「父が脳ドッグを受けたら水頭症になっていて・・。頭に水が溜まっていた影響でよく転ぶとわかりました。水を飲むように指導されていたので、頑張って飲んでましたが・・」と、水分に関する質問や訴えは途絶えることがない。

 

 どうなのだろう?老若男女、季節も体質も病歴も問わず、毎日2リットルの水が本当に必要なの?どうなの?

 

 水分は、私たちの身体の6割以上を占めている(胎児で体重の約90%、新生児で約75%、成人では約60〜65%、老人では50〜55%)。東洋医学では、この水分を津液しんえき:栄養分を含む体液の総称)と呼び、重要な基本概念としている。西洋医学では病気の原因を細胞の変性による(細胞病理説)としているのに対し、東洋医学では体液の過不足や滞りによってその流れが阻害されたために起こる(体液病理説)としている。つまり東洋医学において水分量は、あらゆる病気に関わっているとして重要視しているのだ。(注:太字は東洋医学独自の用語を示す)

 

 水分は、具体的にどのように病気と関係しているのだろうか。

 水分の停滞によって起こる浮腫み(ムクミ)は、誰しも感じたことがあると思う。この浮腫みには、ザックリ以下のようなタイプがある。

 ①体内の津液があふれ、代謝されない状態での浮腫み。お酒の飲み過ぎにもみられ、胸がムカムカしたり身体全体がだるく頭もすっきりしない。梅雨時や夏の湿度の高い時期にも多い。

 ②冷え性タイプに多く、の働きが弱くなった場合に見られる浮腫み。全身が冷えて足腰や膝が痛み、下半身やふくらはぎ、足首が浮腫む。

 ③胃腸()が虚弱なタイプに多い浮腫み。冷えた飲食物で下痢しやすく、手足も冷たく疲れやすい。

 ①②③いずれの場合も尿量が減って、体内に余分な水分が停滞して起こる。

 

 こういった浮腫みは老廃物をも含んで、体内のあらゆる場所に溜まりはじめ、さまざまな病気の原因にもなる。しめつけられるような頭痛や石を乗せられたような頭重もそうだ。耳に停留すれば、めまい・難聴・耳鳴りの原因にもなる(注:西洋医学でいうメニエール病も内耳が浮腫む内リンパ浮腫が原因)。また花粉症でタラタラと鼻水ばかりが出る場合も水分過多がみられる。身体の下方へと水分が代謝できずに鼻から出てしまう。

 アトピー性皮膚炎では皮膚の表面が乾燥してしまうことが多い。これは、皮膚の内側で貯留し固まってしまった水分や老廃物などが、表面へと向かう水分の経路を邪魔してしまい、表皮まで水分や血液が行きわたらないから。それゆえ汗がかけない。あるいはその浮腫みと老廃物とによって、熱の発散もできない。そして熱がこもって赤く腫れて痒くなってしまう。表皮の下にある硬めの浮腫みのようなものが代謝され、汗がかける体質に変わっていくと、アトピーは格段と良くなっていくケースが多い。

 また気道の一部が浮腫むことによって空気の摩擦音が発生する喘息。特有のヒューヒューという音が特徴的だ。これも水分量との関わりが深い病いといえる。

 私は、朝起きると痛みが強く出るリウマチの患者さん3人に、夜の水分量を減らす実験をしてもらった。全員から翌日の痛みが楽になるとの回答をもらっている。リウマチも湿シツ)の影響を受ける病気であるので、水分量や冷えに注目することは大事なのだ。同様に朝起きがけに痛む手指の関節痛も夜の水分量を控えることで軽減されることが多い。また手に小さなブツブツができる主婦湿疹とか足裏にできる湿疹などは、きまって春先になると出てくる。これは、体内に溜まって固くなってしまった浮腫みの残骸で、あたたくなりかけの時期に溶けだして表面に浮上し、末端の皮膚を通して老廃物を体外へ排出しようとしている身体の反応といえる。

 この他にも浮腫みは、貧血、心肥大、肺水腫、血行不良、腰痛、頻尿、痛風・・と実にさまざまな病気の誘因となっている。また重篤な病気が進み、腹水や胸水がたまってニッチモサッチモいかない状況を考えれば、水分代謝が生命維持において、とても重大な役目を果たしているとわかるはずだ。

 

 1日に摂取する水分量には、ご飯に含まれる水分も、味噌汁も、果物や野菜から得た液体分も含まれる。となれば1日2リットルという目安(個人的には2リットルは多すぎると思っている)があったとして、実際に水分として取る量は、かなり少なくなると思う。

 適切な水分量は、何よりも体質という個体差が考慮されなければならない。また外界の気候や季節といった条件によっても変化する。汗をいっぱいかいて力仕事をする人、太陽の下で運動する若者、終日を室内でおとなしく過ごす老人によっても、1日に摂取する水分量は異なって当然だ。

 

 では自分はどの程度の水分量でいいのだろうか。

 これをチェックするには、舌を見てほしい。毎朝鏡を見る時に、力を入れずに舌を出す。ポテっとしているか?歯形が舌の縁(フチ)に付いていないだろうか?表面がビチャビチャではないか?もしそうであれば、水分量は多すぎる。舌の状態は日々変わる。自分の舌が浮腫んでいる時は、自分の内臓も浮腫んでいると思ってほしい。毎日チェックしていれば、なるほど歯形がない時はムクミの少ないのだなぁとわかってくる。

 寝起きのマブタは腫れていないか?も、簡単なチェック方法だ。

 また尿の出方にも注目してほしい。気持ちよく尿が出る日は、内臓が緩んでいて十分に働いている。尿量が減ってなんだか身体がすっきりしない時は、水分量を控えて内臓への負担を減らして様子をみるのも大事だ。あるいは利尿作用のあるコーヒーや紅茶、烏龍茶などを飲んでみるのも良い。そして下痢や軟便が続いている場合も水分過多を疑ってみる。このようなチェックを通して自分がとるべき水分量を考えてみてほしい。

 

 自然界は循環するという法則で動いている。

 私たちの身体も開放系ではなく循環系なのだ。

 薬でもサプリメントでもどんなに飲んでも余分なものは尿となって出るから大丈夫とか、エネルギーは高い方から低い方へと流れるからどんどん流せばいいといった、開放系ではない。私たちの身体は、体質という内部環境と季節や風土といった外部環境の影響を受けている。そしてこれらの環境がもたらす変化に細かに呼応しては循環する、そんな自然の道理に導かれているのである。

 

 自分の身体にあった巡りを自ら発見していく。こういったプロセスを通して、私たちは自己の内に自然の叡智を垣間みるのだ。

 

<おまけ:水の代謝を良くする食物と方法>

・玄米、小豆、黒豆、ハトムギ、カカオ、とうもろこし、大根おろし、ナス、スイカ、烏龍茶。あおさ・昆布といった海藻類。小豆、黒豆などの豆類の茹で汁や、とうもろこしのヒゲの煎じ汁もお茶としてオススメ。きゅうり、冬瓜といった瓜類も水の巡りを良くするが、冷え性の方は加熱したり、生姜や胡椒を使った料理を!

・牛乳は噛んで飲め?!と言われていた時代があった。水も噛んで飲むというのがオススメ。噛んで唾液とまぜてみると、内臓の消化力や水分の代謝はあがる。

・喉が渇いている時は、水を一気のみせずに氷をなめてゆっくりと乾きを和らげる。ただし、氷食症の人は不可。

 

(後記)

 夏が終わって熱中症の心配が少なくなったので、やっと水分量についての記事を書くことができました。真夏に「水分量を減らしてみては」と書くのは冒険すぎると思えたので。

 チマタで流行る健康法には、さまざまなものがあります。自分に合うのかどうかといった視点で、これらをイチイチ検証してみることはとても大事です。めぐる季節や体調に合わせつつ、自らの適切な水分量を探ってみて、日々微調整してみようと思ってもらえたら嬉しいです。

 水分がどんどん失われてカサついていく自分の肌を鏡で見ると、ついつい水分を多く摂らなきゃ!と思うこと多し。自分への自戒もこめて書いてみました。ちなみに肌の乾燥も浮腫みによって表皮への水分・血液・栄養が阻害されていることから起こることも多いです。水を飲む前に浮腫みをとった方がいいかもしれません。

 

 

見あげると秋の息づかい。自宅近くの林にて撮影。

 

津液については、こちらを参照

garaando.hatenablog.com

 

身体感覚を開く5  曖昧な感覚

 私たちは、目・耳・鼻・舌・皮膚を通して世界を認識している。視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の、いわゆる五感と呼ばれる感覚器をツールにして。この五感の中で、最も保守的といわれているのが味覚だという。子供の頃の好き嫌いは、そのまま大人になっても続くことが多い。まるで永遠の小学生のように。

 

 ふと私は、以前に聞いた話を思い出した。それは先天性の全盲の方がおっしゃっていたことだ。「目が見える人は、目の前にある食べ物の味を予測できる。この予想と味とが一致する場合は、美味しいと思うのではないか。いきなり思ってもいない味を感じるとマズイと思ってしまう。」このように味覚は視覚とも関連しているのだろう。さらにその視覚は、これはこういう味であったという記憶とも繋がっている。こう考えてみれば人が何かを感じる時、ひとつの感覚器だけが働いているのではなく他の感覚と混じりあって、総合的に感じとっているのだといえる。目隠ししたまま味わって銘柄を当てる“きき酒”という妙技であっても、嗅覚によるところは大きいに違いない。

 

 食べず嫌いも味覚以外のセンサーが働く。歯ごたえや舌触りといった口腔内の皮膚感覚(触覚)が呼び起こされた結果かもしれない。

 また強烈に癖のある食べ物の場合には、何かの拍子に大キライから好物へと変わることも多い。私の患者さんは、フルーツの王様と呼ばれるドリアンの話をしてくださった。彼は、一度も美味しいと感じたことがなかったという。それどころか、なんだこれ ?! とさえ思っていたと。出張でタイを訪れる度に、ドリアンがふるまわれる。何度もシブシブ食べているうちに、美味しいかも?と感じはじめて、今や大好物になってしまった。人間の味覚というのも案外当てにならないものだと思ったそうだ。ドリアンの他にも鮒鮨(ふなずし)、くさや、パクチーといった嗅覚と結びついたクセのある食べ物は、何かの拍子に嫌いから好物へと転換することがある。

 保守的であるはずの味覚も、試してみれば大きく変わる可能性があるのだ。

 

 では視覚についてはどうだろう。

 人は、見ているようで見ていない。今までずっと見てきたはずの建物が壊されサラ地になっても、そこに何があったのか思い出せないことも多い。あるいは馴染みの風景の中で、気づかなかったモノが突然見えてきた時は、自分に驚く。ずっ〜とソコにあったとは!

 我らの視覚をスッポリすり抜けていく世界が、今ココにある。

 

 次に聴覚についてはどうか。

 聞いているようで正確には聞こえていないことも多い。皆様は、ルパン三世のテーマ曲を覚えているだろうか。コーラスのサビ部分で「ルパン・ザ・サード」と歌われる部分を「ルパンだよ〜ん」とずっと思い込んでいたという友人がいる。また学生時代、有頂天をユウチョウテンと言っていた友人もいた。未曾有をミゾユウと言った政治家がいたのを思い出すが、このような経験は誰にでもあるのではないだろうか。何度も音としても聞いていたはずの言葉であっても、何かの思い込みの前にはブロックされてしまうのだ。あるいは声やモノ音がしないのに、聞こえる気がするソラ耳もたまに起こる。

 

 さらに一番本能と直結しているという嗅覚についてはどうだろう。

 私には嬉しいエピソードがある。それは、5歳の頃に治療に通ってくださっていたチビっ子君が大学院生になって再び治療にいらしてくださった時のことだ。私自身もほとんど初対面の感覚で再会を果たした。「もう何も覚えていないでしょ?」と目の前の爽やかな青年に聞くと、「治療所の場所もサカウシさんのこともすっかり忘れていたのだけど、エレベータに乗ったとたんに、お灸の香りがした。ああ、この匂いは懐かしい。ここに来ていたなぁと思い出した」と語ってくれた。嗅覚には、時空を超える力があるのだろう。

 

 このように五感には、精度の高い感覚もあれば、実は曖昧で不確かな感覚もある。これらが入り混じって、確固たる?!今の自分の世界を作っている。つまり、私たちは、結構自分の感覚に騙されているとも言えるのではないか。

 自分の感覚は、ちょっと当てにならない。

 私たちが自由になりたいと望む時、このことを意識するのは大事だ。自由になるということは、自己の外側にある制約を取り除くことばかりではなく、自分の内側の楔(くさび)を外していくことも欠かせない。こうして体験できる世界が広がっていくのだ。

 

 自分の感覚を信頼しきってばかりはいられないとしたなら、どうやって今の自分の感覚を育てていけばよいのだろう。

 そんな問いかけをしながら、私は森を歩いた。自分の感覚を研ぎ澄ますようにして。見えるもの、聞こえるもの、香るもの、まとわりつくものに注意を払って歩いていたら、なんだかグッタリ疲れてきた。もうやめよう!こうやって感覚に任せるはずが、結局頭の解釈になる自分にウンザリした。そして立ち止まって大きく息を吸った。すると体重を乗せた柔らかい土から押し返してくるような感触が足裏に届いた。そうか・・。私はしばらくの間、その土の柔らかい感触を何度も確かめた。

 

 柔らかくあれ!

 こう、自然から言われたような気がした。

 

(後記)

 人間の感覚というのは実に不思議だなぁと、私は仕事をする中で思ってきました。身体が冷えているのに暑いと感じる。自傷行為をしても痛くない。こういった患者さん達は、何も特別ではありません。程度の差こそあれ誰でも、感覚と現実とのズレがあるように思います。こうして私は、自分のよってたつ感覚というものが、どれほどの精度を持っているのだろうかと考えるようになりました。

 また最近は、「身体の声を聴く」という言葉をよく耳にします。しかしこれは、かなり難しいことだなぁと思います。こう思った途端に、思考へとエネルギーがいってしまうことも多いかと。感覚に解釈が加わった時点で、身体の声ではなくなってしまうような・・。

 今回は私が日頃思っている感覚の持つ曖昧さについて、書いてみました。

 

 <味覚のオマケ>

 先日ウニ丼を食べました。 バフンウニは、食べ終わる頃にはご飯に溶けてしまい、まさに卵かけご飯の味。これからウニを食べたくなったら、卵かけご飯(注:アボカドと卵黄を混ぜた卵かけご飯の方が秀逸)で代用できるなと思った次第です。その話を友人にしたら、「ああウニね、プリンに醤油をかけたらウニの味だよ」と教えてくれました。もしこれを実践してみた方がいたら、感想をお聞かせくださいね。

 

積丹半島の美国で食べた海鮮ウニ丼を撮影  

 

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身体感覚を開く4 変化

時代は、そのスピードをあげて進みだした。こう感じている私に、会社を経営している患者さんは、ふとおっしゃった。

「組織は時代の流れについていけない。時代はいつも、思う以上に変化している。」

さらに「大きな組織になればなるほど、それを維持していくためにエネルギーを使う。こうして安定を求めていると、気づいてみたら時代はずっと先に進んでいるんだ。時代にだけは勝てない」と。

この話から2つのことがわかる。

1つは、時代が変わっていくスピードは、実は予想以上に速い。

2つめは、組織は大きくなればなるほど安定・維持に努めなければならず、そのうちに時代から取り残されてしまう。

ありきたりの毎日を積み重ねているうちに、いつの間にかコトが進んでいる。これは、組織に限らず、人体についてもいえるのではないだろうか。

健康な身体とは、外界の変化に臨機応変に対処し、かつ適切な新陳代謝がなされてはじめて維持できるものだと思うから。

 

今回は、身体の変化に焦点を当てて、うつり変わるということについて考えてみたい。

 

万物は絶えまなく変わり、流れつづけている。この東洋思想の基本概念を礎(いしづえ)にして東洋医学がある。

そして我らの日常は、この万物の変化と呼応して成り立っている。しかし、このことを実感できる機会は少ないように思う。

 

私は、痛みや痺れといったハッキリとした症状を突然訴える患者さんに接すると、何か変わったことがありましたか?と聞く。長年にわたりおつき合いしている患者さん達は、思いあたることを話してくださる方も多い。その一方で、「何も変わったこともしていないし、いつもとおんなじ!」と答える方も相当数いらっしゃる。

 

いつもとおんなじ!何も変わっていない。

 

こう聞いて、「あなたの身体の細胞の相当数は昨日すでに死んでしまい、新たにドンドコ生まれ変わっているのですよ」とか、

浮腫んでいる身体を見て、「低気圧になったから身体を圧迫する大気の力が弱くなって、私たちは膨張する。もったりと重くだるいのですよ。それだけ外界の影響が身体に日々反映されるわけだから、天気が毎日違うように、いつもと同じってあり得ないのですよ」といったフレーズが頭に浮かぶが、そこはできる限りグッとこらえる。ググッとね!

 

常に移り変わる世界のただ中にあって、人は自分の意志だけではどうしようもできない影響を受けて、生かされている。

このことを少しでも体感できるようになっていただくことが私の仕事の最も大事なことのひとつだと、私は思っているのだ。

いつもと同じ毎日はない。小さな変化に気づくことが健康へと向かう最初の一歩なのだと伝えたい。

 

では、どうしたらいいのだろう。

まずは徹底的に緩んだ身体を味わっていただき、感覚をバージョンアップさせることができたらと願う。

 

施術後に、なんか楽になったとか、よくわからないけどダラ〜ンとしてると実感してもらえたら嬉しい。

呼吸がいつもと違うとか、なんだこの身体のズドンとしたダルさは!も、なんでもアリで。

これを繰り返していると、知らず知らずに緊張している時に、あれ?いま相当チカラ入っているなと気づきはじめるかもしれない。

こうして自分と身体との親和性を高めるのだ。

 

このように親和性が高まっていくと、どんなことが起こるのか。

最もありがたいのは、断薬や減薬が成功しやすいということだ。

効いているのだか?いないのだか?なんだかわからないけど、出されたから薬を飲む。こういう状態から、「なるほどこの薬を飲むと尿がいっぱい出るなぁ」とか「おや頭がぼんやりするぞ」などと、より意識しやすくなる。

こうして自らの身体を実感しつつ、今までの生活習慣を変えながら、数十名の患者さん達は大量の薬を断つことができた(注:この中には、難病の方達もメンタルの病の方達も含まれる。山ほどの薬を飲み続け、肝臓や腎臓の値が悪くなると、半年間にわたって減薬するということをくり返す。本人達が生活を変えつつ、薬を減らしたいとの希望から数年をかけて断薬や減薬に成功した例である)。

また身体感覚がバージョンアップされた方達の、健康になっていく速度には、かなり目覚ましいものがある。そしてそれは身体の変化のみならず、転職や移住といった人生の大きな決断に至ることもあった。

その一方で薬をやめたいと訴えつつも、その効能や副作用を体感できない方は、薬から離れることがなかなか難しいように思う。

 

彼らを観察していて思う。

根拠とは、実感に他ならないのだ。

数値でも見える化されたデータでもなく。

 

こうして身体感覚が目覚めていくと、自分のまわりとの関係性を改めて意識できるようになる。

こうした関係性を見つめなおすことができれば、予想以上に速いであろう、外界から押しよせる諸々の変化に、少しは迅速に対応できるのかもしれない。

どんなに抗っても時代の大きなウネリには勝てないのだとしても。

 

実感できる能力を高めることができたら、

変わりゆく流れの中で、自ずと自分も変化する。

 

これからの時代を考える時、

変化の波に押しつぶされないために、

実感力をアップする。

そして

フットワークはできるだけ軽い方がいいのだと思う。

 

(後記)

世界中を自分の庭のように旅する添乗員の友人達は、5年以上前から私に言っていました。

「ヨーロッパやアメリカ、そのどこへ行ってもランチにかかる費用は2000円以上。日本だけだよ、探せばワンコインの500円ですませられるのは。何かがおかしいよ、この国」と。

へえ〜っと思って聞いていた私ですが、ランチは安いし、100均もある。結構暮らしやすいのかも?と安住していた気がします。物価高になってはじめて、大変な時代がやっぱり来ていたのだなぁと実感できるようになりました。

 

私自身、顔にできたシワやシミは気になるのに、コリ固まった思い込みには、なかなか気づきません。時は流れているというのに。

この記事を書きながら、いろいろ探ってみる余地ありだなぁと思っています。

 

いつの間にか姿を消したお札たちを撮影。珍しくなってしまったお札を惜しげなく差し出してくださる患者さん達に感謝をこめて。

なお、冒頭の患者さんの言葉は了承を得て掲載。

雑考4 養生について

東洋医学の時代は来るのだろうか?

前回のブログを書いていたら、東洋医学って本当にすばらしいなぁと思えてきた。そしてその真髄は一般のみなさまに浸透しているのだろうかと考えこんでしまった。

 

私が鍼灸学校へ通っていた頃はバブルの絶頂期。「これからは東洋医学の時代だよ」と、ブランド物のスーツに身を包んだ友人たちは、こぞって私を励ましてくれた。「へぇ〜、そうなの?」と私は特別の思いれもなく聞いていたが、あれから時が流れること、ユウに30年。雑誌などにエネルギー治療とか量子力学といった新しい医療の形が紹介されているものの、東洋医学の時代ってのは、はたしてやってきたのだろうか。いや、やってくるのだろうか。

どうなの?来たの?来るの?来ているの?

というわけで今回は、

東洋医学の特筆すべき方法論である「養生」をとりあげて、

なぜに東洋医学の時代は、やってこないのか?!という視点にたって、私は考えてみることにした。(注:来ているのかもしれません。)

 

東洋医学は、病気の予防から治療までを網羅する統合されたシステム体系を提案している。

予防法としては、気功や太極拳といった気を練る鍛錬や按摩などの、体感型の健康増進法や生活習慣に関しての教えがあり、一般には「養生」といわれる。

これからの医療において、この養生なるものは重要な位置をしめるはずだ。なぜなら、あまりに病気の種類が増え、さらに難治のものも多い。ならば病にならないようにするというアプローチこそ、もっとも効果的になるだろう。<注:東洋医学では「未病(みびょう:いまだ病として発症していないが進行する可能性があるもの)」を防ぐという考え方がある>

未病を防ぐのなら、やっぱり養生でしょ!

種々の養生法に脚光があたれば、東洋医学の時代はやってくる?のかもしれない。

 

ところが!この養生なるもの、現代において実はとても難しい。

なぜなら養生は、時を纏(まと)いながら熟成させていくものだから。

時短を求める現代の生活とは相入れないことが多い。

結果はすぐに欲しい。スローライフとやらが叫ばれているものの、やっぱりクイック!クイック!

またコスパと呼ばれる費用対効果を重要視する時代だ。

成果があがるのかどうかわからないものに、エネルギーを注ぐことはマッコト難しくなってしまった。

 

その上、養生の基本軸は「中庸」。

「過剰であり続ける」がごとくの時代の中での中庸とは、これいかに?!

心臓病や糖尿病、ガンといった病いは、過剰であり続けた結果とも言える。体力があることが是とされ、それをセーブすることの方が難しいのだ。

 

さらに極めつけがある。

養生は、食事や運動や嗜好といった生活習慣に関わっている。

トドのつまり養生とは、その人の人生観や世界観の表れなのだ。

他人がそこに踏み込むことは、いってみれば余計なお世話。

「そこまで健康になることに興味がないから放っておいて」という気持ちもわからなくもない。

「養生のヒント」の著者で自らの健康法を提唱している五木寛之氏からは、独自の哲学を感じるし、江戸時代に「養生訓」を記した貝原益見も哲学者であった。

普段からの問題意識の高さが、自己への洞察となって生活を見直す力となる。

つまり、生き方イコール養生なのだ。

しかし、痛みが取れないと訴える患者さんに、あなたは人生をどうとらえているのかと聞いたなら、彼は2度と私の治療所にはやってはこないだろう。

困っている症状と生活習慣とがどれほど密接に繋がっているかを理解できる人は、そう多くない。

 

このように考えてみれば、

養生というものが、手を伸ばせばすぐに届きそうでいて、実は大変むずかしいのだと理解できる。

 

養生ということ自体、時代にもまったく合っていないでしょ。

ダメだわ!東洋医学が誇る教え、養生・・。

 

がっくりしながらも、さらに掘り下げて考えてみる。

私は人々が待つことができないほどに忍耐力が低下したのかと思った。

ところが私の患者さんたちを観察していると、TVなどで1日8000歩ほど歩くのが健康の秘訣との情報をキャッチしたなら、

雨の日も風の日も、病める時も健やかなる時も実行していらっしゃる。忍耐力や持続力がないわけでもない。

運動ということに関していえば、スクワットなどの筋トレや水泳などを、生活のルーティンに組み込むことができた方は、それらを永久運動のように続けることができる。それどころか、一時的であっても中断させることの方が難しくなる。

 

では何が養生を続けるうえで足りないのだろうか。

それは自信かもしれない。

ほおっておけば自分の身体は、自然に快方へ向かってくれるという信頼。

頭痛がしても、足が冷えていれば足を温める。すると上部へと集中していた 気 が下がって頭痛が取れるという経験があれば、すぐに薬に頼らない。

下痢をしても、下痢自体が悪いものを出すという治療なのだから、出つくすのを待つことができる。

咳が止まらない場合にも思いつくケアができるはずだ。薬が効かないと嘆く前に。

水分のとりすぎではないか?(湿があって気道が浮腫んでいる場合)

腕や肩が凝っていないか?(凝りがあると咳を出して解消しようとする身体の反応があり、慢性的に腕を酷使する人は咳が止まらないことが多い。凝りを緩めたり汗をかいたりすることによって改善できる)

食べ過ぎではないだろうか?(食べ過ぎによって胃に熱がある場合で、さらにアルコールなどの飲み過ぎによって湿も発生し、食道や気道が浮腫む。そこに胃からの熱が上がってきて咳となる場合)

こういう個別の原因を無視して咳止めの薬を使っても、効果は思うようにはあがらないのだ。そして不安になる。何か悪い病気なのではないか。薬を使ってもこんなに治らないのは、なぜ?と。

 

このように自分の身体を信頼することができなくなったのには、紙オムツが関係しているとする説がある。

紙オムツがなかった時代、

赤ちゃんは、気持ちが悪い→泣いて訴える→誰かがオムツ交換をしてくれる→心地よし!といった流れを体感する。不快から快へと向かうプロセスを。これは、たとえ気持ち悪くても、そのうちに心地良くなるということを味わうのだ。こうして不快への耐性は強くなる。

この経験がないと、不快イコールすぐに取り除くべきものとなってしまう。

 

では体感をともなって身体への信頼を築いていくためにはどうしたら良いのだろうか。

友人の鍼灸師は、「小学校の保健室のおばさんを鍼灸師やマッサージ師にするといい」と言った。

お腹を温めるお灸やマッサージ、あるいは精油の香りを使った療術などを通して、具合が悪い子供に、自らの身体の変化を感じてもらいながら安心させることができる。こうして子供は、身体は治っていくんだという信頼を獲得できる。

 

どうだろう?

こういうところから改革しないと、

東洋医学の時代はやってはこないし、

養生の真髄を伝えていくのは難しいのではないだろうか。

 

(後記)

東洋医学の時代は、来ても来なくてもいいじゃん。流行りモノでもないしね・・。などと思っていました。

今も同じ気持ちなのですが、やっぱりこの素晴らしすぎる医療が埋もれている、あるいは正しく理解されないことは、もったいないなぁと感じはじめています。

 

そして私が治療をしていてぶつかる大きな壁は、この養生に関するものなのだと気がついたのです。この件については、また別記事で書きたいと思います。

 

それにしても、とっても大事な養生。

この養生って言葉は、なんだか時流にのってないのではないの?!

マインドフルネスなんちゃらとか・・、

グレートリセットとかいった言葉のような、そんなイマドキの言葉がないでしょうか?

 

ライフフルフィルメソッドとかに呼び名を変えて、

「ああ、フルフィルね、フルフィル!」とかってコンセンサスを得るのはどうか?などと考えてしまいました。

何かオススメ用語あったら、お知らせくださいね。

 

世界最高水準の医療体制を誇るキューバハバナの街角にて撮影。

キューバの医療は、最先端の西洋医学と薬草やエネルギー医療などの代替医療とのマッチングで世界最高峰の医療として認められている。予防医学の知識に精通したファミリードクターが国土全域の地域医療を担当し、理想の医療体制を備えている。)

東洋医学概論7 中医学と東洋医学

漢字は、モノの形をまねて作られた象形文字だという。

「中」という文字は、放たれた矢が当たるべき的(マト)をかたどって生まれた。真ん中を射抜くためのマトを表す。訓読みでは「アたる」と発音する。(注:旗竿の吹流しを描いた象形文字という説が主流)

10年ほど前、世界的に有名な鍼の先生が来日し、私はそのセミナーに参加した。頭に鍼をすることによって、脳血管障害や脊髄損傷に伴う麻痺が劇的に改善されるという頭皮鍼を学ぶためだ。このセミナーの冒頭に先生がおっしゃった言葉に、私はビックリした。

中医学」の意味は、「中」という漢字の形からもわかるように、ど真ん中の医学という意味。中国の医学ということではないアルよ・・。

中国が中国という国名になったのは1900年代半ばで、それ以前は清だったりするわけで。。

つまり、中医学の本当の意味は、アタリの医学、医学の王道!ってことだ・・。

このような事をおっしゃった。

今まで中医学といえば、てっきり中国の医学という意味だと思っていた。またどの本を見ても「中国の伝統医学を中医学と呼ぶ」と書いてあったはずだ。ま、諸説あるのだろうと思いつつも私の記憶に残った話だった。

 

そのアタリの医学?!とも言われる中医学。この発展の歴史をふまえつつ、今回は東洋医学の全体像をお伝えしたい。

 

ひとくちに東洋医学といっても、広い意味(広義)と狭い意味(狭義)とがある。

広義には、トルコ以東のアジア諸国で発達した医療システム全般をいい、中国伝統医学(中医学)やインドのアーユルヴェーダパキスタンのユナニ医学など多様な伝統医学が含まれる。

狭義では、中国の自然哲学である陰陽五行論、これを基軸に展開された医療体系をさす。つまり、中医学を筆頭に、中国から伝わって独自に展開された韓国の韓医学、そして日本の漢方といった東アジアの伝統医学をいう。

(注:日本で独自に発展した医学を漢方という。漢方というと薬を連想するが、16世紀半ばにオランダ医学が伝わって、日本の医学を漢方、西洋医学を蘭方と呼んだ。日本では3世紀頃から朝鮮半島の医術が、7世紀頃から中国大陸の医学が伝わっていたとされる。それらが16世紀頃から日本固有の形で発展。この伝承医学が明治時代までは日本の医療の主流であった。)

一般に西洋医学との対比として東洋医学という場合、中国伝統医学である中医学を中心とした狭義の意味合いで使われる。

さて、世界中のさまざまな伝統医学の中でも、理論的な体系が備わっているとされる中医学

それは数千年の歴史の中で、どんな発達をとげたのだろうか。

中国には約2400年前にできた世界最古の医学書がある。中国全土にわたる医術をまとめた「黄帝内経コウテイダイケイ)」と呼ばれるものだ。これには人体の生理、解剖、病理といった基礎医学をはじめ、中国各地に広がっていた医術(養生や鍼灸)についても書かれている。

これらの医術は、その風土や気候、食生活といった固有の環境のもとで発達していった。

東方は、海岸に面しており、海の幸に恵まれた食文化となる。治療は砭石(ヘンセキ)と呼ばれる石の鍼を使う医術が発達した。現在のカッサ療法(牛のツノからできたプレートを用いて人体をマッサージする方法)のルーツでもある。

西方は、漢方の材料が採取しやすい高原や丘陵地域があり、薬物療法が発展した。

高温多湿である南方では、熱や湿度を散らし、痙攣などを鎮める鍼治療が盛んになる。

寒冷地が多い北方では、身体を温めるお灸が発達した。

中央では、大地が広がり人々は粗食で労働しないため、導引按蹻(ドウインアンキョウ)とよばれる養生法が盛んとなる。これは気功や按摩などをいう。

      中国の地域における医術の発達と背景

 

こうして中医学は、鍼や灸を使う物理療法、漢方薬薬物療法、そして養生(運動療法を含む)が組み合わさった体系を作りあげたのだ。

 

鍼灸漢方薬と気功やあん摩といった方法で、

病いが目にみえる形となる前から、全方位で健康を支える。

 

不断に変わりゆく生命体を、

時に応じて種々の術(すべ)を使いわけ、

左右に揺れる振り子が健康の閾値を超えないようにと、収める。

あるいは左右どちらかに振り切れないようにと、中庸を求める。

 

この全体をみすえた骨組みは、確かにアタリなのかもしれない。

 

(後記)

このところ、ウクライナの歴史をちょっと勉強しています。そんな中で、私にも理解しやすい地政学についての本に出会いました。「13歳からの地政学」(田中孝幸著、東洋経済新報社)です。

この本を見ていたら、なんだか頭から地図が離れません。そして私も地図を書いちゃいました。

ああ!それにしても、知らないことだらけです。

そして歴史って、物事を理解するうえで、つくづく大事なんだなぁっと思っています。

このような流れをうけて、中医学の歴史を題材にしました。

 

本来ならばもっと前に説明すべき東洋医学の概説です。

中医学東洋医学

ブログ記事でもこの用語の使い分けの説明ができておらず、いつも気になっていました。

書きおえて、ちょっとだけホッとしています。

 

 

1986年の中国。山西省の九龍壁。名所の真ん中で、お漏らしして泣いてる子を撮影

身体感覚を開く3  身体と街づくり

治療家の私は、患者さん達の気づきにハッとさせられることがある。

今回は、ずっと心に残っている会話のひとつを取りあげてみたい。

彼女は、建物の保存や街づくりといった多岐にわたる活動の先駆的なリーダーで、私の治療を受けていただいてから、かれこれ5年が経つ。超多忙な彼女が必ず予約してくれるので、どうしてこんなに通ってくれるのか?と尋ねたことがある。

彼女は答えた。

「私にとって身体づくりは街づくりなんだよね」と。

「身体を知ると街が見えてくる。ここに中心部があって、広場があって、風が通って、人々はこっちに流れて・・。身体で実感したことを街に見たてて、なるほどなるほどと思う」。

また私は、施術における彼女の反応の仕方を面白く感じていた。

鍼の刺激を感じて、「おっと、そうきたか!」と嬉しそうに笑う。

そこには「なんでそこが痛いのか?」といった分析もなければ、「そんなハズはない」という否定をはさむ余地がない。

「おお!そうなのか!そこを酷使していたのか!」とか「そこに通じていたのか!」といった気づきはあったとしても。

自分の認識が裏切られ、予想外の反応を楽しんでいるかのように見える。

そこにあるのは、「なるほど、なるほど」「そうか、そうか」としか表わしようのない体感の、徹底的に肯定する受け入れ体制だ。

「自らの身体の声を聴く」あるいは「身体との対話」というのは、体感というリアリティを伴って初めてなされるのだと、私は改めて思った。

 

「身体づくりは街づくり!」という彼女の言葉から、私も身体を街に見たててみる。

臓器にあたる部分は、さしずめ役所や行政といった街のメインとなる建物かと思う。そこは大通りに面していて人々の往来は多い。臓器と臓器との間の空間には、公園や脇道がある。そこで人々は集ったり、歩いたり・・。さらに郊外へいくには、手足の末端方向へと向かう。私は、ザックリこんなイメージを抱いた。

ところが彼女の体感では、街のメインとなるのは、臓器ではなく、腸か膀胱か子宮といった下腹部にあるという。

たぶん彼女は感覚で丹田(たんでん)をとらえているのだと、私は思った。

臍(ヘソ)下3寸にあり、人体のエネルギーの中心とされている丹田を。

きっと彼女は、ここから街づくりをはじめるのだろう。

(注:このように彼女の感覚を「丹田」という概念で表現してしまうことに抵抗があります。概念が身体感覚を規制してしまう。もっと言えば、せっかくの感覚を頭に繋げて別物にしてしまう。このことは避けたいです。ただ今回は説明する必要に迫られて、「丹田」という文字を使うことにしました。ご理解ください。)

 

さてここで、東洋医学経絡ツボというものを思い出してほしい。気の通り道とされる経絡は線路に、気の出入り口とされるツボは駅に例えて説明されることが多い。

ここでは線路をさらに道路に、駅をバス停に置きかえてみれば、身体の中に“ 街 ”の地図ができてくる。人体を流れるエネルギーである気。街においては、その気の役目を多くの人間達が担う。あたかも経絡というルートに気が通るように、道の上に人々の流れができるのだ。道路を行き交いながら、あるいは広場にタムロしつつ・・。こうして多くの人々が街のインフラに息吹きを与え、生命体としての街が生まれていく。

 

さらに街を眺めてみると、住宅街もあれば繁華街もあり、公園や観光名所もある。どこであっても昼間と夜とでは、その佇まいはずいぶんと違っている。街には実に多様な顔があるのだ。

また旅をしてみて気づいたのだが、お国が違えど街には共通点が多い。

山の手の住宅街は安全だが、港湾部は何やら危険な香りがする。

街中であっても1本通りを隔てただけで突然危険な地域になることも多い。

「あそこへは近づくな、こっからこっちは安全だ」と教えられたことは何度もある。

大きな都市には必ず中華街はあるし、コリアンタウンやアジアンタウンは密集している。

どうやら、かなり棲み分けができている。

もし身体と街がリンクしているとすれば、身体も適度に棲み分けをしていると考えてもいいのではないだろうか。

 

グレイゾーンをグレイゾーンとして容認する緩さが、かえって街の安全を高めることもある。

多少悪さしていたとしても、わざわざヤクザ屋さんの土地に飛びこんで大事に至ることこそ避けたい。

この視点を身体に当てはめてみるなら、徹底的に検査して病気の芽があれば早いうちに摘んでおくということも、よいとばかりはいえないだろう。多少気になる所があってもそっとしておく。これが身体に平和をもたらすことも多いのかもしれない。

 

身体から街を連想できる彼女のように、

自らの身体感覚を日頃から磨いておくと、

そこからしか見えてこない世界の広がりに気づくことができる。

 

人体の中心は心臓でも、ましてや頭脳でもない。

丹田をとらえた彼女の言ったこの言葉が、あらためて響いてくるのだ。

 

もしあなたが自らの身体をモチーフに街をつくるとしたら、

あるいはあなたの身体に内包された街があるとしたら、

それはどんな街なのだろうか。

 

(後記)

今回は、身体感覚について書きました。

以前に患者さんから、治療で感じた感覚について聞かれました。「このように感じたのですが、正しいですか?」と。

残念ながら、正解はないです。そしてなんと!なんでもアリです。

ぜひ、自分の感覚を自由に解き放ってみてくださいね。あ、無理にすることもありませんが。

 

身体は、

自分を入れる鞄であり、家であり、街であり、故郷であり、自然であり、宇宙であり、

自らの内に無限に広がる空間であり、しかも唯一無二のもの。

私は、これを知りたくて、そして体験してほしくて、治療しているのかもしれません。

 

いまだ終わらぬ戦争で、街が壊され、故郷が瓦礫に埋もれる映像からは、自らの身体が、心が、存在が傷つけられるような、強烈な痛みや絶望が伝わってきます。

こういう状況に対して、なすすべがないことが残念でたまりません。

この事が頭から離れぬまま、書いてみました。

 

 

トルコ、イスタンブールにてブルーモスクとバザールを撮影
(文中に登場する患者さんの了承を得て掲載)

 

雑考3 死に至る5つの段階(エリザベス・キューブラー・ロス) 

こんな世界になろうとは、夢にも思わなかった。

コロナウイルス、戦争、原発占拠、地震。。

次々に押しよせる現実が強烈すぎて、私の想像力が追いつかない。まるでディストピア小説のただ中に投げ込まれてしまった感じだ。悪い冗談であってほしい。

そのうえ、さまざまな情報(しかも真っ向反対の!)が飛びかう。ある情報だけを拠り所にできる人たちを羨ましくさえ思いつつ、彼らの心理も知りたいと思うから、ついつい追ってしまう。たぶん今ネット上で起こっていることは、人間の最も深い部分に触れることなのだ。情報を追えば追うほどに私はリアリティを失って、行き場のない諦めに似た空気に包まれる。漠然とした恐怖に煽られつつも、自分のどこかが麻痺したままで日々が過ぎている。

 

ふと先日、死に至るであろう病や難病を宣告された人たちは、この感じを味わっていたのだろうと思った。突然災難のような病(この表現に語弊があるけれども)が降りそそぎ、実感のないままに生活の変化を強いられるのだから。さらに治療法についての様々な情報を前に、何を信じ、どんな手段を選ぶべきかと途方にくれる場合も多い。

 

それまで意識すらしていなかった自分の土台。それが根底から覆されるような出来事が起こった時、人はどんな心理になるのだろうか。

 

今回は、ホスピス医療の草分けでもある精神科医エリザベス・キューブラー・ロスが「死ぬ瞬間」という著書の中で唱えた「死に至る5つの段階」を取りあげて、

死にゆく者の心理を、

さらには災害や事故などで経験する「喪失(最愛の人や故郷などの)」の際の心理を、

考えてみたい。

 

エリザベス・キューブラー・ロス女史。彼女の人生はホトホト壮絶だった(ご興味ある方は、彼女の自伝「人生は廻る輪のように」<角川書店、文庫もあり>を参照)。その彼女が、波乱に満ちた人生を送るなかで、200人もの末期患者のカウンセリングをしながら「死に至るまでの5段階」という心理プロセスを説いた。

 

その5つの段階とは、以下の通り。

 

第1段階:否認  何かの間違いだ。そんなはずはない。

初めて重い病名を告げられた時、あるいは余命を宣告された時などに代表される反応。ショックに対する防衛本能でもある。

また衝撃的なニュースを聞いた場合にも最初に起こる反応だ。

社会心理学災害心理学でも使われる用語の「正常性バイアス」。これが働くのもこの段階。

(注:正常性バイアスとは、どんな危険な状況であっても自分だけは大丈夫と思い込む脳の反応のこと。例えば「コロナが流行っていても自分はかからない」、「コロナは本当は存在しない」と思い込んで現実逃避をする。または「ワクチンを打ったからコロナには感染しない」という間違った情報にすりかえたり、都合の悪い情報はシャットアウトする。生きていく上でのストレスをある程度減らすために正常性バイアスは必要でもあるが、かえって命を危険にさらすことにもなる。)

 

第2段階:怒り  どうして自分だけがこんな目にあうのだ。ほっといてくれ。

現実が本当かもしれないと思いはじめた時からはじまる反応。

こみあげる怒りが外(他者や社会)へと向かい、孤立しはじめる。

 

第3段階:取引  どうか神様・仏様、いい子にするから私を助けて。

否認や怒りの段階を経て、どうにか救われたいと願い、改善に向けて努力する段階。

生活習慣を改めつつ、神や仏に奇跡を求める。

 

第4段階:抑鬱  もうどんなに頑張っても無駄。

神や仏との取引にも敗れ、絶望に支配される段階。自分自身の無力を痛感する。

 

第5段階:受容  死は誰にでも訪れる自然なもの。すべては流れのままに。

苦しみながらも現実や現状を見つめて、死を受け入れはじめる段階。

混乱したり孤立感をつのらせたりしながらも、今までの価値観とは異なる次元で世界を見つめはじめる。奇跡的な治癒は、この段階で起こるとされている。

 

上記は本人の場合であるが、家族の場合も同じ。

例:否認(母がそんな病気になるなんて嘘だ)

  怒り(あんな優しい母なのに何故?)

  取引(私のすべてを捧げるから、母を救って)

  抑鬱(八方塞がり。もうだめだ)

  受容(より深いレベルで母への感謝が溢れでる)

 

この5つのプロセスは、順を追って進むのではなく、いきつ戻りつとなる。

つまり怒りから否認へ、否認から取引へ、取引から怒りへといったプロセスにもなる。

また受容の段階のようでありながら、実は取引していることもある。

最後の受容に至るためには、すべての段階を経験しなくてはならないと著者はいう。どこかの段階をスルーすることはできない。

 

また、それぞれの段階をどれだけ深く経験するかが重要となる。

この深さに応じて、最終的に至るであろう受容の大きさが決まるのだから。

それは反抗期にさんざん暴れた青年が真っ当な大人になる。こういった場合に似ているのかもしれない。

 

さてこの深い経験ということを、否認の段階を例にとって具体的に考えてみたい。

ひとつの病院での診断が信じられずにセカンドオピニオンを求める場合がある。最初の診断を早々に受け入れる人(否認と抑鬱が一緒になって行動力がなくなり、はやく現実が変わることを望む)もいれば、セカンドやサードのオピニオンを取りに行く人もいる(否認しながらも、現実をみきわめようとする)。

同じ否認の段階であっても、受けとめる程度に応じて、反応の仕方は人によって違う。

 

そして自分の無力を骨の髄まで痛感した時に、さまざまな執着を手放すことができるのだと思う。

「手放す」ーいや、この言葉には、まだ自我がある。

自分丸ごと差し出すことができるほどの無我の状態へと移行し、自然の法則に身を委ねることができる、こう表現するのが適当かもしれない。

「手放す」のではなく「委ねる」。

 

こうして人は自分の死を受け入れていくのだろう。

 

さて、この5段階モデルは病気のみならず、災害や事故などで経験する「喪失(最愛の人や故郷などの)」についての心理状態にも当てはまる。

その衝撃の度合いに応じて、このプロセスを経るには何十年もの時間がかかることもあるし、どこかの段階で止まっていることもある。

 

また奇跡や受容を求めてこの5段階を理解するのではない。

観察の結果、人は自然にこれらの段階を経るとわかったのだ。

ただこういう心理プロセスの知識があれば、衝撃的なニュースに直面した時に自分の反応を俯瞰して眺められる。また援助職であればクライアントの心理を理解する助けにもなる。

 

今、疫病や戦争が始まってしまった我らの、この世界。ここには、いろいろな立ち位置の人たちがいて、思惑もそれぞれにあって、おのおのに心理段階があって、フェイクニュースも散りばめられている。

この状況の中で、最後に至るという心理プロセスの受容とは、私にとって何なのだろう。

 

そう漠然と思っていた時だった。

難民になった大勢の人々が集まる駅で、ピアノを弾く男性の映像を見たのは。

また戦地に残った男性たちが楽器を持ち出して道端で演奏している映像も。

流れてきた音の方へ周りの人々がふりかえり、話をやめ手をとめて聞きいりはじめる。

ざわついた空気が静謐へと変わりだし、人々の表情にも深さと落ち着きが増す。

その場のフェーズが、すっかり変わった。

誰しもが持っているであろう痛みのようなものが、神聖さに満たされるごとくに。

そして私の中で、何かが解けた。

 

傷ついた人々のために、生きとし生けるもののために、祈ることしかできない。

 

 

(後記)

最近は、あまりに無残な社会情勢の中でブログなんて書けないなぁってずっと思っていました。

原爆がどこかに落ちたら、東洋医学も何もあったもんじゃないでしょって。

なんか人間が残念すぎる・・って。

 

一人になるとボヤいていました。

(いつだって酷い紛争はあるのだけれども・・)

こんな形の戦争が今の時代に起こるなんてウソでしょ!って。

私たちは過去から何ひとつ学んでいなかったんだ!という怒りもあり。

人間のサガとかゴウとか、カルマとか言われるように、人間はホトホトどうしようもないという諦めにぐったりし、

コロナだけで手一杯ですから、どうか戦争を終わらせてくださいって取引もして。。

あれ、これ5段階の流れをふんでるって気づいてしまったのです。

 

そして「祈り」について、改めて思うことがありました。

 

今回は、めげつつも自分の中のリアリティーを大事にして、頑張って書いてみました。

 

 

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南米、チリのチロエ島にある世界遺産の教会にて撮影