“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

繋がりあう世界12 三方よし

 先日思いがけない来客があった。物理学者であるその方は、”三方よし”という基準で行動してきたと話してくださった。  ”三方よし” とは、近江商人たちの間で受けつがれてきた商売の哲学であり、「売り手よし、買い手よし、世間よし」を指すそうだ。この方の祖先も近江商人だという。正直なところ、私の近江商人というイメージはあまり良くなかった。商売上手という言葉は、イコール損得勘定にたけているというように思えたし、経済というものがもっとも優先されてしまいがちな、この世の中にも辟易としていたからだ。さらにわが母ヒサコもまた近江商人の血をひく。誰とでもすぐに親しくなれる母ヒサコの現実味の強さに私は子供時代から気遅れしていたせいもある。しかし、この”三方よし”という言葉をはじめて聞いて、自分の中にある硬く錆びついていた、細いしめ縄の繊維がちぎれてほどけはじめた感じがしたのだ。あたかも体内にある、生気を失って滞ってしまった硬結(こうけつ)とよばれるコリが鍼の刺激によって緩みはじめたかのように。そうか、基本哲学が "三方よし" かぁ・・。そしてこれは、何も商売にかぎったことではないように思えてきた。

 それからの私は、”三方よし” について考えている。東洋医学では、万物の源となる”太極”から”陰陽”という2つの概念が生まれたではないか。三方という立場に立ってみれば、いろいろな関係性に新しい光があたるように思えた。生と死、善と悪、○とX 、形至上(抽象世界)と形至下(物質世界)といった2項対立は概念でしかない。実際の生命体の営みにとっては、生か死かといった極だけではなくて、これらを繋ぐ ”間” のようなものが占める割合は大きい。両極である2項を両端にした1本の糸が横軸で伸び、さらに縦方向にはなだらかな山の形で "面" が立ちあがる。こうしてできあがった "間"  に沿って平面の紙の上の概念が立体的に膨らんでくるように感じられた。バランスとは、これら相対する2項とは少し違う次元に生まれる"間" 、これを舞台に計られるのだろう。

 

 さらに私は思った。身体の養生法として ”三方よし” が当てはまる訓練はないだろうかと。薬を飲めば必ず副作用があるように、身体においての "三方よし" が成り立つのかどうかと考えたのだ。こうして思いついたのは、呼吸。そう、誰でもいつでもしているはずの呼吸だ。あまりに身近すぎて取り立てて訓練することが少ないために、見過ごされることが多い。しかし呼吸が十分にその役割を果たした時にはじめて、呼吸の "三方よし" が生まれるのではないか。

 また呼吸法は実に多岐にわたるため、ここではざっくりみなさんができる形でお伝えしたい。注意点は、舌の位置だ。口の中の天井部分(口蓋)に舌をベタッとつけて鼻から息を吸って口からゆっくり吐いて吐ききる。さらに横隔膜に注目しよう。息を吸うと肺が広がり横隔膜は下がる。吐く時には弛緩して横隔膜は上がる。この上下運動をすることによって、肋骨は広がる。横隔膜を意識できなくとも脇腹に両手の平を当てて肋骨が膨らむかどうかをチェックしてみよう。また今回は、腰痛や尿漏れといった尿トラブルの治療や予防、ポッコリお腹の改善も目指したいので、重力の負荷のある立位でおこなっていただきたい。

 まず呼吸は、①酸素と二酸化炭素とのガス交換をする。次に②体内の自分の意思ではコントロールできないとされる自律神経にアクセスすることができる唯一の方法となる。アクセル役の交感神経とブレーキ役の副交感神経とのバランスを調整できる手段だ。さらに肺自体には筋肉がないため横隔膜が下がり肋骨が膨らんで胸郭が広がり、陰圧(空気が引っ張られる力)を作ることによって、肺に空気が入る。この動きは③インナーユニットの形成にもつながる。インナーユニットとは、体幹の深部筋である横隔膜・腹横筋・背骨についている多裂筋・骨盤底筋といった4つの筋から構成される部分を指す。季肋部(上腹部のみぞおち)から下腹部までの腹腔をすっぽり筒のように覆い、天然のコルセットとも言われているのだ。

 このように呼吸は、①ガス交換②自律神経の調節③インナーユニットの形成を可能にする。①よし②よし③よし。

 こうして呼吸の "三方よし" ができたなら、身体は変わりはじめ、さまざまな恩恵を受けることになる。深く、強く呼吸することで腰痛は改善されるだろう。一時流行した美木良介氏のロングブレスも、同じ原理だ。インナーユニットの中でも腰痛に深く関わる腹横筋は筋トレで鍛えることがむずかしく、呼吸で強く吐くことによってのみ強化される。私の経験だとウエストの厚みが薄い方は腰痛になりやすく、ズン胴の体型の方は比較的腰は強い傾向がある。慢性腰痛の人たちは、腹横筋を強くしてズン胴をめざそう。さらにこれはポッコリお腹にも効果がある。ペタ腹をめざすなら、ぜひ試してみるとよい。さらに中高年の悩みである尿や便のトラブルは、骨盤底筋との関わりが深い。この小さな筋肉を鍛えるためには、肛門を閉めるとか排尿時に一時的にとめてみるという方法が推奨されている。しかし、それよりも立位で腹圧をかけて鍛える方がはるかに強力だ。小さな筋肉だけを部分的に強化するよりは、一つのユニットとして関係する筋肉がこぞって強くなる方がいい。お年頃の方たちにはトライしていただいて損はないだろう。

 このように単体の筋肉だけではなく、つながり合った形で複合的に動かすことでwin-winの関係を超えて、win-win-winの関係を作ることができる。

 

 結局三方よしを実現するためには、視野を三方にまで広げることが必要となる。確かに "三方よし" は、何事にも当てはまる考え方にちがいない。

 

(後記)前回の記事で、おのずから深い呼吸になることを書きました。今回は、意識的に呼吸するという内容です。身体を良くするためにどうしたらいいのかといった相談をよく受けます。まずは冷えをとって次にしっかり呼吸するというのでどうでしょうか。

 三方よし。この哲学は、関係性を大事にするものです。切り離されたパーツだけを見つめるのではなくて、繋がりをつくる関係性に重きを置く。分断がいたる所でみられる社会にあって、このような見方を随所に取り入れて行動できたなら、今私が見ている世界は、もう少し輝きをとりもどすような気がします。ちょうど杉並区長選挙で、対話を重んじる現職の岸本さとこさんが再選しました。久々、希望の光を見た気がしています。

 

台北の龍山寺にて撮影。ここには仏教や道教をはじめ民間信仰など多くの神々が祀られている。

繋がりあう世界11 空間と時間

 いつからだろう。築98年の木造家屋にもう一度、生命の息吹をこめてみたいと思ったのは。ちょっと強めの風が吹いたなら、窓からのスキマ風が屋内にはいり込み、キコキコ、ギコギコ、キイキイと生き物のような鳴き声を発する、そんな家だ。冬であれば木窓の骨子に雪がふきだまり、やがてはシミになって木目に新たな模様を重ねる。使われなくなってしまった部屋では、壁がところどころ剥がれおち畳が焼けてしまっている。ジリジリと容赦なく斜めに差しこむ西陽の光の帯は、あたかも映写機を使っているかのように普段は見えないはずの空中に舞っているホコリを映しだす。そうだ、5年前のある日だ。私は、この部屋を生き返らせてみたいと強く思った。それは、身体の仕事に携わっている私の、かなり酔狂な実験なのかもしれない。身体に息吹を宿らせるように、家にも。すると家はどのように変わるのだろう。そしてそこに暮らす私たちはどんな影響を受けるのか。とりわけ身体はどうなるのだろう。私はそれをただ見てみたい。

 ありがたいことに私の意図を汲んでくれる職人さんたちに恵まれた。ところどころ無惨に剥がれ落ちてボロボロになっている壁をはがし、下地を作りなおしてもらう。剥がされた土壁は左官職人の野田肇介氏が回収してもちかえり、新たな土を混ぜて生地を作ってくれるという。今までこの家を支えてきた土壁、その歴史を無碍にはできないそうだ。「過去の時間と記憶とを含んだ土をまぜた漆喰で壁を作るのがいいでしょう」と。タダモノではない、この左官の野田氏は、さらにお茶室の技法をも使って部屋をしあげてくださった。こうして、凛としているのに丸く包まれるような柔らかさのある優しい空間ができあがったのだ。同じ漆喰で壁を塗っているのに、陽がはいる時間によってそれぞれの壁の色味が変わる。畳の上に大の字になって寝てみると、当たり前のように深い深い呼吸になった。身体の細胞たちが微細にふるえはじめる。小さな小さなダンスのように。吸っては吐くという動作のリズムが、周期のちがう微細なダンスに重なるように感じられた。無数の小さな円が大きな円の中で遊んでいるかのように。そうか、呼吸とは外界と身体内部の細胞とが同期することなんだ。

 さてここで畳という日本家屋にみる空間について考えてみたい。

 「畳は時間の舞台である」と友人の建築家が言った。畳とは非常に不思議な存在だという。彼は続けた。現代の空間では機能は明確だと。ベッドは寝るため、ソファーは座るためにと目的が決められている。しかし畳は、昼は居間になり夜は寝室になる。客を迎える場でもあり、祭事の場にもなりうる。子供が遊び、家族が食事をし、誰かが眠る。つまり特定の機能を備えていないのだ。だからこそ、さまざまな機能や意味が、その都度たちあがることができる。畳という舞台は、静かで平らである故に主張しすぎず、場面におうじた用途をもち未来へと時をつないでいく。

 これは日本家屋に共通しているらしい。障子は完全には空間を遮断しない。茶室は意味を説明しつくせない。回游式庭園は一度に全体を見せない。縁側は家の境界を明確にしない。このように日本の空間においては、世界は固定された物体としてではなく、時間の中で立ちあがるものとして扱われているのだ。畳もしかり。さらに興味深いのは、畳は交換されることを前提としていることである。日焼けし、擦り切れ、い草や染土のもつ香りも変わる。時の流れとともに変化し、更新されながら必要に応じて1枚ずつ交換され、生活の時間を持続させていく。これは庭園にも通じる時間感覚だ。苔がむし石が湿り樹木が育ちながら存在している。できあがった瞬間よりも、生きつづけることの方に目線を向ける。この意味で畳は単なる床材をこえて、人間の身体と時間とが、毎日ちがった世界を立ちあがらせるための舞台といえるのだ。

 制限が少なく静けさがある。余白のようなもの。こうした空間の中で、人体は自由となり自然な時の流れを感じられるのだろう。これらの条件がそろってはじめて人体は、おのずから呼吸し外界と同期できるのだ。

 

 自然界と自己の身体とが同期する。はたしてこれ以上の治療があるのだろうか。

 

(補足)同期には3つの意味がある。どれも「同じ時の流れの中にいる」ということ。

1デジタル用語で複数の端末やクラウド間で、ファイルやデータを同じ状態に保つ

2学校や会社において同じ時期に入学、または入社した同僚をさす

3物理の用語で、複数の機械やシステム、波長などの作動や時間のタイミングを合わせる(シンクロさせる)

 

 

(後記)

 ある時ネイティブアメリカンの儀式であるスウェットロッジについての話を聞きました。生理中(ムーンタイム)の女性は参加できないというルールがあるそうですが、ネイティブアメリカンの女性たちは、全員満月の時に生理になるのだそうです。これを聞いた時、人々が完全に自然のリズムと一体となっているのだなぁと感心した記憶があります。自然のリズムが守られている土地での時間の流れ方は、私たちの日常とは違っているのでしょう。

 自然に近い空間が時の流れ方も変えるのかもしれません。人が癒るのは、3次元の空間にさらに時間が加わった4次元の世界なのかもしれないと書きながら思った次第です。

 

小樽公園にて撮影

 

  

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東洋医学各論24  便秘

 昨今のホルムズ海峡封鎖の影響について、わが国の総理大臣が「原油の総量は足りています。目づまりを起こしているだけなので、心配することはありません」といった趣旨の答弁をしていた。もし人体だったら目づまりは大問題になるだろう。生命体にとっては目づまりこそが、あらゆる病気の発端になっているからだ。また最近私が受けた認知症のセミナーでも、目づまりの代表ともいえる便秘がどれほど認知症と関わっているかについて取りあげていた。特に認知症と重なることが多いパーキンソン病は、便秘で発症リスクが高まることもわかっている。最近では " 脳腸相関 " と注目をあつめ、” 腸活 " という言葉もチマタにひろがっている。腸は第2の脳と言われはじめているが、脳は小宇宙であり腸は大宇宙という見方もある。つまり腸は言語化される、あるいは意識化される以前に、原初の反応を起こしている器官なのだ。これらの反応が自律神経や免疫機能を高めて脳内の反応へ影響をあたえ、それが情緒を動かし意識化されて人は新たな行動をしはじめる。そしてこの動きが腸への刺激となり更なるループを作る。この絶えまざるフィードバックは、あますところなく人体の細部にまで影響をおよぼす。

 今回は、体内で最もわかりやすい目づまりであるところの便秘を、東洋医学的立場からほりさげてみたい。

 

 ひとくちに便秘といっても、虚と実のタイプ、あるいはその両者が混ざった虚実挟雑(きょじつきょうざつ)タイプなどに分けられる。

① ” 実 ” のタイプの代表は、体内に熱がこもって水分が少なくなり便が乾燥するため排出できないもの。これは暑がりで喉がよく乾き、尿の色が濃いタイプの人にみられる。味つけの濃い食事を好み、脂っこいものや刺激物を好んで食べ、アルコールを飲む人に多い。このタイプには酸化マグネシウムの下剤が効く。薬にたよらずに改善するためには、食生活を見直し体内の熱を冷ますことが必要となる。

② ” 虚実挟雑 ” のタイプの便秘は、 ストレスで気のめぐりが悪くなり腸の蠕動運動が低下して腸が動かなくなる。このタイプは、ストレスによって便通が出たり出なかったりと安定せず、お腹には膨満感があってゲップやガスが多い。イライラし怒りっぽく、あるいは鬱っぽくなる(中医では"肝鬱気滞”という)。この場合、下剤は効かない。ストレスを軽減し自律神経を整えるとよい。肝臓の気を動かすには、軽い運動も必要となる。

③ ” 虚 ” のタイプの便秘は、気の不足により便を動かすパワーが低下し、いきんでも便が出にくく排便に時間がかかる。このタイプは顔色が悪く、排便後に疲労感が残る。気を補う補中益気湯といった漢方薬がオススメ。

④  " 虚 " のタイプで特に" 寒 "の強い便秘は、冷えの強い人に多い。大腸が冷えているために蠕動運動がおこらなくなる。出はじめが固く腹痛をともなうこともあるが、排便することで治る。尿は、色が薄く量が多いタイプの人にみられる。下剤で排便することによりエネルギーも失われ、さらに冷えがはいり腸の活動を悪化させる。よって下剤は不可。身体を温めて体力をアップさせて改善をはかるのが望ましい。

 このように自分がどのタイプであるのかをよく観察して正しい対処をしてもらいたい。またすべてのタイプにおいても食生活の見直しは大事だ。発酵食品をとり、電子レンジの調理をさけ、食品添加物だらけの加工食品をできるだけやめる。これだけで大きく変わる。取り組める小さなことからはじめつつ観察してみてほしい。

 

 また便秘について私が臨床で感じていることがある。老人性鬱の症状は便秘が解消すると良くなることが多い。また乳がんの患者さんに、ひどい便秘症の方が多いように思う。下へ向かう排泄の道すじが阻害された場合、行き場のないエネルギーは身体の上部へと向かう。鬱滞した熱量の多いエネルギーは" 邪気 " となり病気の発症要因となるのだろう。

 このように体内に目づまりが起こった場合、いくつもの流れが滞る。複雑に繋がりあう世界にあって、代替ルートのない目づまりが生命体に与えるダメージは、驚くほど大きいのだ。東洋医学では、揺らぎつつもたゆまなく流れつづける動的な状態を健康ととらえている。自分の体質や症状を見極め、自分なりの流れを滞りなくめぐらせていただきたい。

 

  以前に、ある先生から「大便は天からの大きな便り、小便は小さな便り」と教えていただいた。自分の健康状態を知るのに、天からの便りが頻繁に届いているのだ。せっかくのお知らせを大事にして自分を知る機会にしたい。

 

(後記)

 人体も複雑なら、世界も複雑です。ホルムズ海峡という海道がスタックしただけで、世界中に甚大な被害を与えています。たとえ封鎖がとけて以前のように重油を手にいれることができたとしても、石油に頼りすぎてきた私たちの生活はこのままで大丈夫なのだろうか。こう考えていたら、ふと身体に起こることと同じではないだろうかと思いいたりました。部分でおこる目づまりが身体全体へ悪影響を与える。あるいは薬に頼りすぎてきた医療は、このままでいいのだろうか・・と思えてきたのです。

 願わくば、未だ終わらない、いくつもの戦争や紛争が速やかに停止されますように。

 地震や大雨、森林火災といった天災も多いこの時代に、今までの安定していたように見えていた世界に戻ることはないような気がしています。こういった不安定さからくるストレスが鬱滞して、自然の流れを堰きとめ、人間のエゴを増長させるエネルギーへとならないように、自分も注意したいと思っています。

 ここから一体どこへ向かうのか、見つづけることしかできません。

 

小樽にて、戦没者慰霊塔のある広場へ向かう道を撮影

身体感覚を問う6 足の指

 神は細部に宿る。どうせ死ぬのになぜ生きているのかと考えつづけていた、めんどくさがり屋の私が、ある時この言葉に救われた。それと同じようなイメージで身体でも細部、末端に神が宿っているのではないか。比べるものではないのかもしれないが、内臓のしっかりした役割を担う臓器や身体を支える筋肉のオオモトである体幹にばかり注目されることに、なんとなく違和感があったのだ。もしかして手や足の細部にもっと気をくばってもいいのではないかと。東洋医学ではミクロはマクロの相似形とみなしている。膝下と肘下だけの施術で、さまざまな病気にアプローチしている名人といわれる治療家もいるほどだ。今回は、身体の末端である足の指にスポットライトを当ててみたい。

 

 私は多くの人々の足に関するトラブルを見てきた。とりわけ高齢者に多いのは、足の指先が痺れている。親指のつけ根の感覚が鈍い。足裏に1枚布が入っているようにボワンとして自分の足じゃないみたい。足先の指の色がどんどん黒く変色していき感覚がない。何かの拍子に指や足裏の筋肉が攣る、アーチが崩れて扁平足になってきたなどだ。若者でも外反母趾や内反小趾もある。ウオノメ、タコができる。浮き指やハンマートゥ(屈趾症)などで指がそもそも使えない。小指が寝ていて、腹が地面についていない。かかとが痛い。骨や軟骨の一部が剥がれて関節の隙間にはいり痛みがでる(関節ねずみと言われている)などもある。

 足底の長さは、腕の内側の手首から肘までの長さと同じだといわれている。自分の視点から足を見ると身体の末端にあるため小さく感じるが、実際は思っているよりも大きい。ここに身体全体が乗るのだ。チマタでは、100歳まで歩ける脚を作ろうとか1日8000歩は歩けとかと煽られる。しかし最も大事なのは、足にある小さなトラブルを見直すことだと私は思う。足のトラブルは、その箇所だけではなく膝や股関節、重心の乗せ方など、あらゆる場所とリンクしているからだ。からまりあった数本の糸がダンゴ状になって、ある箇所に症状として現れる。まずは抜本的な改善をめざさなくてならない。やみくもに歩くことで、症状を悪化させてしまうケースは驚くほど多い。

 ここでは足の基本としてやってほしいことを伝えてみたい。これは筋肉を鍛えるというものではなくて、退化しつつある神経をつなぎなおして新しい自己を開いていくというやり方だ。子供時代は足裏を触られるだけでくすぐったかったのに、今では足裏のマッサージは気持ち良くなった。これだけ感覚は鈍くなってしまったのだ。そして加齢とともに無感覚に近くなっていく。特に指先から退化がはじまる。

 そもそも今まで足の指を十分に使えていたのだろうか。まずは足の指先を自分の手でマッサージしてみよう。指の腹、つけ根、脇も1本ずつ丁寧にさわる。これはさわることでマッピング(脳内にある体内の地図と現実の感覚とをすり合わせる)する意味もある。小指が寝ていたら、腹で床を押せる位置にねじって正常だった位置へとうながす。両手を使い足指の隣りあわせの2指をそれぞれ持って水かき部分をたがいちがいに前後に開く。同様に足指の水かき部分を横に伸ばす。これは痛すぎない程度に。それぞれの水かきを前後左右によく伸ばしたら、手の水かき部分を足の水かき部分に1本ずつ合体させるように組みあわせる。ここで足の指の力をグッと入れて手を握ってみる。かなりの刺激で痛みがある人も多いので痛すぎない程度で。これをなん度か繰りかえしたら、足指でグー(全部の指に力を入れて握る)・チョキ(親指だけを立てる)・パー(5指を全部ひらく)をやる。チョキの動きと反対に親指だけを床に向けて下げ、残りの4指は少しでも上向きにする。他の4指はそのままの位置で、親指だけを上げ下げする。最初はむずかしくても、徐々にできるようになるので練習をしよう。つぎに座ったままでできるエクササイズだ。トウシューズを履いて立つ要領で、足の甲を伸ばし足の指5本とも折る。このまま左右に膝を動かしてすべての指にそれぞれ刺激を入れる。今度は反対に指の腹を床につけて爪先だちのようにする。蹲踞(ソンキョ)でも良い。

 このようにうまくできない動作を練習することで、脳内に刺激が送られて神経がつながっていく。手をかりて動かすといった外部からの援助をかりつつも、最後には足の指が自分の力で自由に動かせるようになってもらいたい。外部から温めたりマッサージすることには限界があるのだ。神経がつながりあって回復してこそ、自力で体内を動かす力が体にやどる。特に霜焼けができる人には、この練習は効果的だ。

 

 身体の自由に使えていない部分に、息吹をふきこみ蘇らせる。毎日もっとも酷使している足の機能をみなおそう。いわば現場からの変革を起こしたなら、ヤモリが壁にピタッとはりついているように、足の指が吸盤のように変わっていくのを感じるかもしれない。

 何かしら行きづまったとき、足の指の神経をつなぎなおしてはいかがだろうか。神は細部に宿っているのかもしれないのだから。

 

(後記)

 私の友人にトゥリーディングの達人の先生がいます。これは、足を見ることで、その人の性格から今までの人生までも読みとき、自己の課題を知り、今後の人生に気づきを与える手法です。これは本当に当たるので、私もびっくりしました。つまり自分のすべてが足に表れるのです。 

 世界では、続いている戦争を終えることもできず、さらに多くの国を巻きこむような戦争がまたはじまってしまいました。「世界は子供と大きくなった子供とでできている」と聞いたことがありますが、自分も含めそのとおりかもしれません。あるいは子供たちに失礼だとも思います。人は愚かで不毛な行為をなぜ何度も何度も繰り返すのか、まったく学ばない人間の性につくづくウンザリしながら、1日もはやい停戦への祈りをこめて足の指を鍛えています。

 

小樽、水天宮にて撮影

 

マッピングについての参考記事

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身体感覚を問う5 脳内の身体マップと実在の身体

 この10日間ほど、異星人を見るような驚きのまなざしでオリンピックを見ていた。何をどうしたら、あんなに猛スピードで飛びながらクルクルとあるゆる方角に向かって回れるのだろう。しかも命がけで。彼らの身体能力、とりわけ空間認知能力はずばぬけているにちがいない。私は寝ようと思って、ベッドの上に両足をのばし枕に頭をおろすつもりが、枕をとおりこしてベッドの淵に頭をぶつけてしまった。空間認知能力の低下がすざましい私は、彼らの身体感覚に驚いた。とりわけ身体の位置を把握する体性感覚やバランスを感じる前庭感覚、平衡覚や視覚などは、若いという理由だけでは説明できない秘密があるように思った。

 

 私が楽しむウインタースポーツといえばスキーぐらいだ。年単位のブランクをあけてスキーをした翌日には、筋肉痛で生まれたての子鹿のような足になってしまう。その時に疑問が浮かぶ。そもそも生まれたばかりの子鹿はヨロヨロした後に、なぜすぐに立って歩けるのだろう。子鹿に限らず、馬やキリンも生後すぐに歩いて走れるのだ。ひるがえって人間は、なぜ動けるようになるまでに相当の期間を要するのだろうか。人間だけが目もよく見えず、立つことも歩くことも身体を使うこともままならぬ未熟な状態で生まれてくる。

 またハイハイの期間が長い赤ちゃんは運動神経がよくなると聞いたことがある。これは座位、ずり這い、よつんばい、つかまり立ちによって筋肉が充分に鍛えられていくために運動能力があがるためらしい。しかしこれだけではない理由があるのではないか。

 草食動物である馬や鹿たちは、肉食動物に襲われないために、ある程度完成された状態で生まれてくる。これに対して人間は、未熟な身体モデルで生まれてくる。たぶんわざわざ未熟なのだ。そもそも赤ちゃんは自分の手、足といった感覚も希薄で、自分の境界が明確ではない。自己とつながる曖昧な世界全体に境界線をひく作業を時間をかけて行う。身体をマッピング(下記参照記事を参考)することによって。さらに寝返りで重力を、這うことで2次元との関係を、座ることで3次元とのそれを、立つことで重心の取り方を学びつつ、脳内の身体モデルを世界が広がるにつれて置き換える。より複雑でさらに広がる世界を、順を追って体感をとおして学ぶのだ。下から上へ、内から外へと。

 つまり赤ちゃんが発育する期間は、マッピングを形成する時間となり、上書きされる脳内の身体モデルを世界にすり合わせていく。このプロセスが、現実に歩き、走り、座り、飛び、道具を使い、言語を話すといった肉体を使った活動を可能にしているのだ。もし脳内の身体モデルが何度でも上書きできるのならば、私たちは世界に合わせて書き換えられる身体を持っていることになる。

 

 このように考えるなら、私たちの身体というのは、脳内にあって更新しつづける身体モデルと実在する肉体とが重なりあった生命体ということになる。そして脳は実際の身体ではなく、脳内にある身体モデルに対して機能しているのだ。このようにとらえるならば、イメージトレーニングが効果的であることも、幻肢痛が起こることも説明できるだろう。

  

 オリンピックを見ていて、彼らの身体能力はもとより、彼らの脳内の身体モデルと実身体とのズレのなさを考えさせられてしまった。いったい彼らの脳内の身体モデルは、どのようなものなのだろうかと、ちょっとだけ想像してみた。

 

(後記)

 今回、私の力量では書ききれないイメージがふくらみ、今までどうしても埋まらなかった鍼の定義がパズルのようにわかったのです。これはすごい発見なのではないか(証明のしようがありません!)と思って、とうとう知恵熱まで出てしまいました。今後、追ってできるだけ書いていきたいと思います(書かないかもしれません)が、その前段階になる記事となりました。というわけで、とりあえずのアップです。ここに至る過程で私にブログの感想を送ってくださった方に感謝します。

 

 

小樽にて撮影

 

参照記事

garaando.hatenablog.com

 

脳の働きについての参照記事

garaando.hatenablog.com

 

身体感覚を問う4 痛み3

 目覚めるとガラリと風景が変わっていた。大雪だった。それまでの直線的に雪かきがなされていた道路は、真っ白の厚い羽毛布団をかぶされたように丸みをおび、歩道と車道の区別がつかなくなっていた。目の前に広がる街並みは、ケーキに振りかけるシュガーパウダーに埋もれてしまったかのように輪郭を失って、フワッと丸くなった。どこからが空かがわからないほど空間を埋めている大量の粉雪が、さまざまな境界を包みこんでしまったのだ。目にうつる自然界には、いつだって直線は存在せず境界すら曖昧なのだろう。まっすぐにみえる地平線だって、よくよく見れば曲線だ。とその時、私がずっと感じていた、数値に還元され、かつ原因と結果が直線的に結ばれる世界への抵抗がうきぼりになった気がした。丸いのだ、間(マ)がつまっているのだ、人体は。

 

 さて今回は、臨床をとおして私が疑問に思っていた、痛みにまつわることを整理してみたいと思う。どんなふうに私は疑問を抱いたのか。たとえば腰椎ヘルニアに起因する坐骨神経痛。ある人はレントゲンによって原因を特定され、椎間板の髄核のとび出しが治ると痛みは消失する。しかしある人はMRIによってすっかり異常なしと診断されても痛みは続く。つまり病院での検査結果と痛みの消失とが一致しないことが結構あるのだ。あるいは、レントゲンではまだ神経を明らかに圧迫しているのに、すっかり痛みが取れてしまう場合まである。物理的に治っていると診断されるのに痛みがある場合、それがお年寄りだと「お年ですから」と、若年層だと「心因性ですね」という言葉で片づけられてしまう。人は痛みがでて病院へいき検査をうける。しかし痛みがない人をも調べたなら、痛みがでてもおかしくないケースも相当数あるのではないだろうか。また急性的に痛みがでた場合と長年にわたる慢性的疼痛とでは明らかに身体の中で起こっている反応が異なっているのだと感じていた。何年にもおよぶ痛みにずっと痛みどめで対処してきたと語る患者さんも数名いた。

 病院では治っているというのに、相変わらず痛い。あるいは治っていないのに、痛みはない。このように原因と結果が結びつかない症例に出会うたび、これは一体どういうことなのだろうと考えてきた。

 

 そもそも痛みとは何か。それは、人体を守るために必要な、脳が作りだす防衛反応である。痛みのみならず、緊張、疲労、頭痛、めまい、あるいは発熱といった反応は、生存を脅かすリスクから身を守るためのサインだ。こういった症状により、休暇をとったり生活を見直すことができる。痛みの感覚は、皮膚や筋肉や骨に与えられた外傷や内臓などにおこる炎症などから生まれる。痛みを起こすキッカケとなった刺激は、抹消の神経から脊髄をとおって脳まで伝えられ、さらに脳内のさまざまな箇所で情報の調整がなされて、"痛み" として認知される。つまり痛みは、脳が認知してはじめて感じられる感覚となるのだ。

 さてこの痛み。これには種類がある。大きく3種類に分けられる。まずは①切り傷、火傷、骨折といった外傷、あるいは内臓に起きた炎症によるもので、侵害受容性疼痛という。次に②神経の損傷にともなう障害や機能不全によるもので、神経障害性疼痛という。帯状疱疹後の神経痛、糖尿病の合併症に伴う痛み、坐骨神経痛、頚椎症にみられる疼痛などがある。そして最後は③以前は心因性疼痛や非器質性疼痛と言われていたもの(いわゆるストレスで片づけられていたもの)で、組織や神経の損傷が治っているにもかかわらず、脳の誤作動によって現れるものだ。これは痛覚変調性疼痛とよばれ、繊維筋痛症、過敏性腸症候群、慢性腰痛などがあげられる。

 さてここでは痛覚変調性疼痛というものを考えてみたい。今まではストレスとか心因性という言葉で片付けられていたものだ。これには慢性疼痛となってしまったものが多い。慢性疼痛とは3か月以上痛みが続く場合をさす。最初は単なる捻挫だったものが腫れも熱感もひき、痛みがなくなっても良さそうなのに3か月経ってもまだ痛みつづける、あるいはある条件のもと痛みがぶり返すといった場合だ。このような器質的損傷は治っているのに痛みが続く場合、あるいは痛みが時と状況によって変わる場合、さらには痛む箇所が変わっていく場合などが痛覚変調性疼痛と分類されるようになった。この原因は、当初の痛みに加え心理的ストレスなどよって、痛みの調節機能に異常がおこることにある。また病気による神経への影響なども組みあわさって、神経的なつながりが誤作動してしまうのだ。ざっくり言ってしまえば、条件反射がおこるような神経のつながりができてしまう。梅干しを見るだけで唾液が出るように、痛みの経験とその記憶により、何かのスイッチがはいると痛みとして反応してしまうようになるのだ。

 ではこういった慢性疼痛や痛覚変調性疼痛を治すには、どうしたらいいのだろう。ちょっと難しくなるが、脳からトップダウン的指令が働く「下行性疼痛調整系」という流れにのって、痛みの情報伝達をブロックするノルアドレナリン系とセロトニン系を発動することが有効となる(詳しくはまた機会があれば!また鍼灸治療はこういった痛みに対して有効な鎮痛作用がある)。

 また痛みを緩和するには、「痛む箇所に手を当てて大丈夫と唱える」という私がよく使う方法がある。そして子供の頃に母親にしてもらった「イタイのイタイの飛んでゆけ」も。これらはゲートコントロール理論というものに基づいている。脊髄の灰白質というところには、末梢神経から痛みや温度などの信号を送る神経細胞 と 脳からの信号を受けとる神経細胞などが集まっている。ここでは神経の回路が条件によって脳へ痛みを伝えたり伝えなかったりしている。まるでゲートを開閉するかのような機能だ。神経繊維にはいくつかの種類があって、刺激の質(痛覚や触覚など)によって伝わる繊維が異なっており、伝達速度にも差がある。ケガをした時の痛み信号は細くて伝達速度が遅い線維だ。これに対して触覚(抑える、さする)は、太くて伝達速度が速い線維となる。ケガをした時に手を当てると、速い速度の神経伝達(触覚)がゲートを閉じて後からくる痛み信号を抑制することができるのだ。怪しげに思われていたであろう、私の方法も実は理にかなっていると告白しておきたい。

 

 人間の痛みに対するメカニズムはまだまだ解明されておらず、その途上にある。国際疼痛学会(IASP)では、2020年に痛みの定義が改訂された。1974年から実に41年ぶりだ。今までは、痛みは「実質的または潜在的な組織損傷に基づく不快な感覚」とされていた。この改訂により「実際の組織損傷もしくは組織損傷が起こりうる状態に付随する、あるいはそれに似た、感覚かつ情動の不快な体験」と定義した。簡単にいうと、痛みは組織損傷がなくとも起こりうると明言し、生物学的、心理的、社会的要因の相互作用による現象とされた。(横浜市立大学附属市民総合医療センター ペインクリニック内科の和訳を参照)

 ここまで長々と難しい理論も交えてみたが、ここで簡潔にまとめてみたい。痛みは、脳の反応であり、個人的体験や心理、性格や環境によって変化しうる現象であるということだ。痛みひとつをとっても、人体のシステムがいかに複雑にさまざまな要素と結びついているか、あるいは軽々と分野の境界をこえて関係を作っているのかがわかる。あげく直線的な解はない。どこまでも自由に結びつく神経やシナプスの動きを見つめることによって、痛みへの理解や対処方法が、今後大きく変わっていくにちがいない。

 

<痛みを理解するための、おすすめの本>

夏樹静子 「腰痛放浪記 椅子が怖い」(新潮文庫)

高野秀行 「腰痛探検家」(集英社文庫)

 

(後記)

 今回は痛みについて、脳の働きという複雑な仕組みをザックリ書きました。そして痛みは、その場所で起こっている反応ではなく脳の反応であるとも。こういった知識がもっと広がるといいなぁと思います。一方で私は、脳が最高機関ですべてを担っていると言いたいわけではありません。末端は末端で多様な鎮痛のメカニズムを持っているのですから。鍼灸の作用とも重なるのでいつか記事にしたいと思っています。損傷箇所があって、ここが悪いから痛みは仕方ないと諦めている方がいらしたならば、また別のアプローチが有効なのかもしれません。

 

小樽にて、シナプスっぽい?枝を撮影

 

身体感覚を問う3 ボディ・マッピング

 身体を自由につかう。はたしてどの程度自分はできているのだろう。

 私は歌を歌うたびに思い知らされる。なぜ悲しいくらいに音程がズレるのか。頭の中ではキレイなメロディが流れているというのに、私という媒体を通したならば残念な音にすり替わってしまう。自分の感覚と現実とが一致せずにズレるのだ。歌が上手い人は、脳からの指令が私のそれとは違うのだと思ってきた。聴覚や視覚からの情報が神経をとおって脳へいき、そこからさらに神経をとおって筋肉へ指令をくだす。歌手の人たちは、この微細なルートが幾重にも精妙につながって、いかようにも対応できるほどのシステムが組まれているに違いない。よく音痴はいないとか治るとか言われるが、このルートを開発すれば矯正できるのかもしれない。

 この自らの感覚と現実とのズレを他人にも見てとれることがある。それは、患者さんたちがうつ伏せでも仰向けでも治療ベッドに寝てもらう時である。弓なりにしなってしまう人もいれば、左右いずれかに傾いている場合も多い。まっすぐ寝るようにと再度うながしてみても、やっぱり曲がっている。まっすぐにうつ伏せや仰向けになれる人は多くはない。私が姿勢を直すと、これだと右(左)に曲がっている気がすると患者さんはいう。ここでも実際の姿と自分の感覚とがズレている。

 ではこうしたズレは、どうしたら改善できるのだろうか。まずは感覚について考えてみたい。人間の感覚は、特殊感覚(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、平衡覚)と内臓感覚(内臓痛覚、臓器感覚)、さらには体性感覚(表在では皮膚感覚、深部では深部感覚や筋感覚の固有感覚)がある。この体性感覚の中の固有感覚は、筋肉や腱、関節や骨膜にある固有受容器というセンサーを使って、身体の部分の大きさ、位置、動きや状態を感知している。そして脳内に「自己の身体の地図」を作るのだ。これはボディマップと呼ばれていて、経験や記憶の蓄積による身体のイメージとも言える。このイメージがあるおかげで、自分の身体の一部分がどこにどのようにあるのかがわかる。こうして私たちは暗闇でも歩くことができるし、電車の吊革にサッと手を伸ばしてつかむこともできる。しかし身体は時の経過とともに変化するのだから、この子供時代から築きあげた脳内のボディマップと現実の身体との間には、どうしてもズレが生まれてしまう。このズレを矯正するためには、身体の構造や使い方を意識的に認識することが必要だ。これをボディ・マッピングと呼ぶ。一般的に肩が痛いといった時、それはどこなのか。肩関節なのか、首から肩関節へ向かう背面の僧帽筋なのか。より精密に部位を特定し手で触れてみて位置を確かめる。こうやって自らの痛む肩の位置をしっかりと身体の感覚に刻みつける。こうすることで、イメージとして描いていたボンヤリとした位置をマップ上で更新できるのだ。

 このように曖昧だった身体の部位が特定されマップが上書きされたなら、身体を動かすのに不必要な力は抜けていく。自分が肩だと思っているピントのズレた場所を動かそうとすると、余分な力が入るからだ。人は脳内にある身体の地図にしたがって身体を動かそうとするのだから、この地図が正確にぬりかえられた場合、最小限の力で無理なく動かすことができることになる。なお、このボディ・マッピングという手法は、身体の使い方を学ぶアレキサンダー・テクニックでも使われている。(注:アレキサンダー・テクニックとは、心身の余分な緊張に気づき、誤った習慣的なパターンをやめていくことで自然で効率的な身体の使い方を習得するもの。楽器の演奏、演技と言った芸術部門や姿勢改善や慢性疼痛の改善などに用いられる教育的なメソッドである)

 マッピングをして脳内のマップと一致させていくならば、結果的に身体は緩み緊張を手放し、さまざまなパフォーマンス力はあがっていく。また意識的に身体を使ったなら、習慣的な動作を変えることができる。こうしていくと慢性的な痛みからも解放されていくことが多い。

 

 さてなぜ今回ボディ・マッピングをとりあげたかというと、私には長年にわたる疑問があったからだ。それは筋トレっていいの?どうなの?ってこと。患者さんの身体をみせていただいていて、明らかに筋トレのおかげで困っているケースに多く出会ってきた。しかし当の本人は良きことだと思ってやっている。また筋トレはちょっとした苦しみが伴うため、やった感が強くルーティンワーカーにとってはメンタルの安定にもつながっている。「私は、やっている!」という想いは自己肯定感を増すのだ。しかし近年、ますます盛んな筋トレ神話に私の疑問は高まるばかりだ。どの筋トレがどうだといった話は長くなるので割愛したい。ただ特定の筋肉といった部分だけを強化するよりも、その筋肉とつながる流れを強化させる方が優先させるべきではないだろうか。優秀な部下がいてもそれを使う上司の力量がなければ能力を活かしきれない。また突出しすぎた能力を持つ部下と周りとが軋轢を生んだとしたら何にもならない。身体は筋肉の個人技ではなく、チームプレーで初めて成り立つのだから。

 元来、身体の取扱説明書なるものは存在しない。それため、私は生まれてから一度も立ち方も歩き方も習ったことはない。体重の乗せ方も歩幅の大きさも足裏の使い方も膝の曲げ方も教わることなく、テキトーにその時の持ち札を出しながら歩きはじめた。たぶん私のように、他の人々も自己流で身体を動かしている。つまり外からは同じ動きに見えたとしても、使っている箇所は大いに異なっているだろう。筋肉には、あるいは脳への神経の伝達の仕方には、相当に個人差があるといっていい。このためスクワットなるものが、ある人にとっては助けになるワークであったとしても、万人に相応しいとは限らない。

 高齢者が衰えてくる身体をおぎなうために、筋トレに励まなければならないのは辛いことのようにも思えてくる。またやれない場合は、自分は怠けていると言った自責の念も生むこともあるだろう。運動が嫌いな人は筋トレ神話を前にたちつくすかもしれない。また運動好きの高齢者がダンベルでの上腕二頭筋のトレーニングをしている場合も私の疑問は高まる。人間は丸まって生まれてきて丸まって旅立つ。高齢者になってくると肘が曲がったまま伸びない人が多くなる。腕をまっすぐにしても肘から曲がっている。指先も伸びずにゆるいグーの形になっていく。肘を曲げる運動よりは肘や指を伸ばすことのほうが大事ではないか。肘が曲がると次に肩が固まり肩甲骨がロックされる。よくハンドバックを肘にかけるクセのある人は、肩全体が固まって肩凝りになりやすい。曲げるより伸びをしよう。力を入れるよりは脱力だ。

 身体を自由に使うためには、あるいは衰えていく身体を守るためには、筋肉量をふやす前に、身体を使う技術を学ぶことが大事に思えてくる。この技術は合気道太極拳といった武術から学べることが多い。語学を勉強する前に勉強の仕方を選ぶように、身体を鍛える前に自由に動かす技術を学ぼう。そのひとつに脳内の今まで使ったことのないルートを開くことをおススメする。例えばウインク。左右同じようにできない場合は、苦手な方の顔の筋肉の使い方を練習する。あるいは左手(利き手は右手の人)で行う歯磨き。必要なのは根気だけで、毎日ちょっとの時間でできるエクササイズに違いない。使っていない、あるいは眠っている神経の伝達ルートを開いていく。こういう新しい刺激がまだ眠っている身体の可能性を開いていくのだ。たぶん難しい漢字を覚えなおすとか計算をするといった脳トレより、身体を使いながら脳の神経ルートをあらたにひらく方が認知症予防に効果がある気がする。

 毎日1万歩は歩くとか、20回腹筋するといった数値や回数にこだわり、こなすためだけに行うエクササイズに私はかねてから疑問を持っていた。どうしてそんな風に短絡的に当てはめることができるのか。それよりもどう歩いているかにこそ気を配ってみてはどうだろう。ルーティンワークで得るものはその日の調子を知ることであって、回数が目的であっては身体を壊すことにもなりかねない。

 

 思うように自由に身体を使う。これは何とむずかしいことだろう。同時に私たちには、まだまだ未知の領域が眠っているのかもしれない。

 まずはボディマッピングをし、今の等身大の自分のボディマップを更新しよう。

 

(後記)

 このブログにおいても身体感覚を開くという記事をずいぶん書いてきました。しかしまずは問うことから始めなければなりません。そしてさらに学ぶ。この問う、学ぶという2段階を踏んだうえで初めて感覚が開けるのだと思いいたりました。

 ボディ・マッピングの方法として、自分で身体を撫でる、さする、触る、軽く叩くというのがありますが、マッサージなどを受けるのもいいと思います。宣伝してるみたいで気が引けますが、他人から触ってもらうことによって自分の身体のことはわかってくると思います。ただ最終的には外からの刺激ではなく、自分の力で内側から動かせるようになると神経と筋肉が強固につながったことになるでしょう。昔モノマネ王のコロッケが耳を動かしているのをみて、私はただ笑っていました。しかし、来年は挑戦してみたいと思っています。新しい活路を拓く、そんな意気込みでのぞみたいです。

 今年もこのブログを読んでいただいた皆様に感謝申しあげます。ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

カナリア諸島ラス・パルマスにて夜景を撮影(ピンボケ)

 

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