“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

身体感覚を開く8  手

 築96年となるわが家のドアノブは、あたりまえだが古い。回してドアを開けて回して閉める。しかし多くの人たちは閉める時にノブを回さない。ドアについているラッチは自動的に縮むような優れたタイプではないので、ドアは閉まらずドアノブは衝撃をうける。壊れてしまったら、同じようなドアノブはないらしい。人を迎えいれるたびにドアノブが気になってしまう。いまやドアは自動か、推すか引くか、ちょっと手をかざすとスーッと開くかといった感じで、手でノブをにぎって回すタイプは、チマタにはほとんど見あたらなくなってしまった。もし私の家がこれほど古くなかったなら、ドアは勢いでバタンと閉まるものだと、私だって思っていたにちがいない。

 テレビのチャンネルもダイヤルを回してかえていた時代があった。今となってはリモコンでピッと押せばすむ。チャンネルをかえたいと思ったら、イチイチTVのそばまでいってガチャガチャとダイヤルをにぎって回さなければならなかった。こんな時代があったことすら、若者たちは知らないだろう。電話だって、ダイヤル(回転式円盤)を指で回していたのだ。ジージーという音をたてながら・・。

 ドアの取手を推したり引いたりする、あるいはひとさし指でリモコンを軽くタッチする。こういった手の使い方を現代仕様だとすると、ドアノブをにぎって回す、ダイヤルをつまんで回す、1本の指でダイヤルを回すといった様式は旧式仕様といえるだろうか。このちがいは、とても大きい。まず道具との接触面が現代仕様はきわめて小さい。反対に旧式仕様は、道具との接触面がしっかりあり、さらにそこに持続的な力を加えなくてはならない。この場合、手の動きは肘から肩、肩甲骨、ひいては腰や下半身まで巻きこんだ動きになる。しかも回すという行為は、推すや引くといった一軸のベクトルで示される単純な運動とはちがって、多軸にわたって連動する力を必要とする。

 

 こんな事を考えていたら、保育園で働く患者さんが教えてくれた。「3歳〜5歳くらいの小さい子たちは、iPadの画面をスッースッーといとも簡単に動かすの。画面上で動く指の速さには驚いたわ!私はそのスピードにとてもついていけない」。彼女はつづけた。「なのに折り紙を教えたら、あれほどスムーズに動いていた指が全然動かない。手が使えないの。これにもビックリ!」。

 また小学校で図書室の先生をしている患者さんも言う。「私が展示物を作っていると小学4、5年生がよってきて手伝ってくれるというので、ハサミを渡したの。ここをこう切って!とお願いしたのだけど、ハサミが使えない。まっすぐ切れない・・。しかも雑!なんか不器用な子が多くなっている気がする」。

 

 一般に日本人は器用だとされていた。

 ある時期、歌手のマドンナが話題になったことがある。専属のマッサージ師が日本人でゴッドハンドと噂された。そんな風に形容されるマッサージってどんなのだろう・・。チョット気になっていた私に、海外の事情にくわしい患者さんが言った。「ゴッドハンドなんていわれて喜んでいる人をチラホラ見かけるけどね。海外では日本人はみ〜んなゴッドハンド!本当だよ。それだけ日本人の手の感覚って、ちょっと特別だからね・・」。

 また日本人は、ヒヨコのオス・メスを見分ける特殊な能力があるらしい。手の上にヒヨコをのせる。その感触の微妙な違いで性別をみわける職人技だそうだ。この鑑定法は欧米人には向いておらず、手先が器用な日本人の特殊技能といわれていた。

 

 器用なはずの私たちの手。

 生活が便利になるにしたがって、複雑な手の動きを必要とする機会がいつしか減ってしまった。

 幼い子供たちの、自分の洋服のボタンをはめる、あるいはチャックをするという動作。これらはマジックテープの出現によって、単純な動作ですむようになった。おかげでボタンをはめられない子供がふえたそうだ。くり返しおこなわれることで、自然に開発されるであろう手の潜在力。これが、便利で簡単な動作を求めすぎたために、十分に育たなくなってはいないだろうか。そしてこのことは、私たちにどんな影響があるのだろう。

 

 手は道具を使うことができる。道具をもつ、にぎるといった動作は、道具と手の接触面で自己とモノとの境界線が引かれる。接触面に意識があるうちは、道具を道具として使えない。たとえば包丁。包丁をにぎる手の平が意識されていたとしたら、料理はうまくできない。弦楽器にしても、弦をにぎる手と弦はすっかりなじんでいることが求められる。彫刻刀を使う人は、それをにぎる指との接触面よりも、その刀の先に意識がいくのではないだろうか。私も仕事で鍼(ハリ)を使うが、鍼を持っている指よりも鍼先に意識がいく。数えきれないほど反復して鍼を使っているうちに、いつの間にか鍼が私の体になじんだ。

 武術で使う刀や剣も、ダンサーが持つ扇子といった小道具も。バイオリンやチェロの弓も、ペンキ職人の刷毛も、書道家の筆も、スキーヤーのストックも。これらの道具が自己の手になじんだ時、それは手や指といった局所だけではない身体全体に影響を与える。外づけのデバイスをもふくめ自らの身体となる。こうして身体感覚は拡張し、意識を自分の枠の外に飛ばせるようになる。もっと遠くへ、さらに深くへ。

 

 この道具を使いこなすための条件として、まずは自らの手が自分の身体に十分になじんでいることが重要となる。左右の手の動きをくらべてみれば、身体になじむということがどういう感じかがわかると思う。なんなく歯磨きができる右手が使えなくなった時、仕方なく左手でやってみる。なんともうまくいかない。しかしくりかえすならば、いずれ動きが少しづつスムーズになる。反復して練習する中で左手の機能は開発されて、より身体になじんでいくのだ。

 思うように指が動く。複雑な動きができる。ひねる、まわす、つかむ、つぶす、にぎる、さする、ねじる・・。そしてこれらを組み合わせた動きは、子供の頃からの反復される動作によって培われるにちがいない。

 

 複雑な動きができる手。この手を育てていく機会が少なくなるならば、身体感覚を育むことができない。こうして身体感覚が鈍くなっていくならば、現実の世界を体感することがむずかしくなる。自らの身体を尺度としてはじめて、私たちはリアリティを感じられるのだから。やがてリアルな世界と自己との間に生じた溝(ミゾ)が、我らが本能的に持っているはずのカンをも弱らせてしまうのだ。

 

 手のもつ潜在力と、それを育てていく方法を問いなおしたい。

 

(後記) 阿佐ヶ谷の老舗、和菓子の「うさぎや」さんが5月20日で閉店するというニュースを聞きました。とっても残念です。店主の高齢化と職人不足のためとの理由で。いたるところで聞かれるようになった高齢化、そして職人や人材の不足。昔は、モノヅクリの国だったはずの日本。リアリティあふれる職人の世界をひきつぐ若者を強く求めたい、そんな気持ちから今回の記事となりました。

 

 

メキシコ、トゥルムにてサトウキビをしぼる青年を撮影