“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

東洋医学各論2 陰陽の本質(男女編、両親からの考察)

彼は、元旦になると決まってこう言う。

「今年こそは、新聞の置き場所を決めて、読んだら必ずそこに置くことにしよう!」と。

彼、わが父。90歳。

 

このセリフを聞いた母と私は、目配せしながら無言の会話をする。

「年頭の決意が、新聞の置き場所とは!小さい!あまりにも小さい!!」。

 

父は「キチンとしていること」をモットーとし、きれい好きだ。趣味で水彩画を描くが、スケッチした線からはみ出して色を塗ることができない。それゆえか、洋服はキチッとしたチェック柄やストライプ、そして無地を好む(エネルギーの視点でみると、無意識に選ぶ洋服は、自分自身のエネルギー体*になじんでいて、 その柄や色、さらに質感などは、その人自身が持っているエネルギーを表現していることが多い)。

<*: エネルギー体とは、肉体の上に層になって重なりあっている高次体をいう。神智学では、肉体の次にエーテル体、アストラル体、メンタル体とよばれる、重なりあうエネルギーの層があるとされる。いわゆるオーラ >

 

一方「生き死に以外は慌てるな!」をモットーとする母は、自由度が高く、文字はどうしても罫線をはみ出してしまう。部屋のドアを開放するのを好む。

わが母、82歳。

趣味の料理は、時に和食だか洋食だかわからない、驚くべき組み合わせの創作料理も多いが、わりと美味しい。洋服は、チェック柄を着ているのを見たことがないが、たぶん全く似合わない。無地か、ペイズリーとかの柄もので、原色から淡い色までこだわりがなく、時々私の服をこっそり着る。

 

今回は、我が父母に登場してもらい、陰陽論を考えてみたい。

(ちょっとおさらい:陰とは、内に向かって凝集する力を持ち、集約されて量を産む。陽とは、外に向かって発散する力を持ち、それゆえ動きを生じる。陰は月に、陽は太陽に代表される)

 

生物学的に、男性は陽、女性は陰とされる。

外(社会)に向かって行動する力である陽 と 内(家庭)に向かい育む力である陰。

(今では女性の社会進出も当たり前ですが、母性としての特質は変わりません。) 

このように陰陽は、相反する性質であり、かつ対等な力で対立し衝突しながら、互いにその性質を抑制しあって統一体として働くのだ。

十分に衝突し、それゆえ制約しあい、互いに折り合って相互作用が生まれる。

(これは自然現象はもとより、移り変わる運気や現象などの万事にあてはまります。)

 

さてわが両親。

性格が、まっこう反対のふたりは、まさに陰陽対立。

たとえば、私がサイフを落としたとする。

父は、「いつ、どこで、どうして?」と原因を追求し、まさに親身になってあらん限りのアドバイスをしてくれる。

一方母は、だいたいの話を聞いたところで

「仕方ないわ」となぐさめ、「厄落としだと思えば良かったんでしょ」と励ましをつけ加える。

困ったことがあれば「仕方ないわ」。嬉しいことがあれば「良かったね」。

そして時々、この2文の混合使用。

いつもこう言われて育った私は、この2つのセリフさえあれば世の中を渡っていけるのではないかと本気で思った時期もある。

どこで覚えたのかは知らないが、母は「私は、あるがまま」と、悟った風にちょっと威張って言うこともある。

 

細部にこだわり、分析という内に向かう陰な父

大雑把で、次のことへ思考を動かせる陽な母。

 

しかしこれが時々入れ替わる。

母が「これから先の老後(もう十分に老後!)について、どうするのか話し合おう」と言うと、

あれほど用意周到な父が、「まぁ考えなくてもいいじゃないか。きっとどうにかなる」とお茶を濁し、一転のんき老人へと姿を変える。

これに対して母は「おめでたい人だ。向き合うことができない。こんなにのんきな人をみたことがない」とあきれ顔。

そう、母にとってこれからの老後は、彼女のモットーである「生き死にに関わること」なのだ。

ここで母は将来の不安に執着して内向する陰に、

父はスルーすることで執着から逃れて動きだす陽になる。

 

このように、どこでどのように見るかによって、両親の性格上の陰と陽は容易に入れ替わる。

またこれは、一方が黒になるともう一方が白になるといった夫婦という動態の平衡感覚であり、お互いの考え方や性質もさることながら、ひとつの生命体の反応とも言えるのかもしれない。

(このようなコインの表裏のように、片方の存在自体がもう片方の存在に依存している場合、陰と陽として分析はできるが、どちらかだけを取り出すことはできません。「陰陽の可分不離」といいます。)

 

また近年は、老いというある種の痛みを共有しているという連帯感が、父母の間で生まれてきてしまった。

たとえば

「テレビの音を小さくしてもいい?」とか

「盛りつけは、あっちのお皿の方がピッタリじゃない?」などと私がいうと、

「まぁまぁ、お父さんが楽しんで見ているのだからいいじゃない」と母から拒まれたり、

「お母さんも大変なんだから、このお皿でも十分だ」と私が父に諭されたりするのだ。

おいおい!こんなことは今までなかったゾ。

どうなっちゃたん??私、悪者??って感じ。。

そうなのだ!

時がたち、陰陽まじりあう総体である夫婦は、その団結力を強くした。

私を外敵とみなすほどに。

 

しかしだ。

私はある時に気づいてしまった。

新聞をきちんと決まった場所に置くという、たったそれだけのルール。

または

夏は暑いからドアは開けっぱなしにするという、いわば当たり前の要求。

結婚60年強を迎えてもなお、わが父母は、お互いに一ミリも歩みよってはいないということに。

 

強行に変わらない核を互いに持ちながら、陰と陽の性質が時に応じていれかわり、そして夫婦という全体でみれば、時を経るにつれ、互いの存在が生活の中で溶け合い、依存度がいやおうなく高まり、キズナが強まるという変化をとげていく。

ただ今なお変化中の二人。

 

この夫婦のありようを陰陽で説明する場合、

男性が陽で、女性が陰という対立要素だけでは到底不十分なのだ。

 

陰陽で物事を論ずる時、◯◯は陰で◯◯は陽という対立要素にまず分けられる。

◯◯は陰だから。。◯◯は陽だから。。

こうして、陰陽のバランスを整え、病気や状況を好転させるのに役立つことも多い。

しかし分析できるのは、切り取られた一側面。

さらに視点を変えると、別の構造が見えてくる。

 

陰陽の本質は、

切り取られた2次元の平面から、円環系*の3次元の空間へ、さらには時間を経て変化するありようをとらえる4次元の世界までの、拡大して偏在できる視点にあるのだと思う。<*トーラスとよばれるリンゴのシンをくりぬいたような形の世界>

このような視点からとらえた時、今まで気づくこともなかった折り重なるエネルギーの世界が見えてくる。

そしてそこでは、見方によっては世界が反転するというオセロな醍醐味を味わうことができるのだ。

 

〈後記〉

前回の陰陽論概論が難しかったとの感想を患者さん達からいただき、なんとかわかりやすい例はないかと挑戦してみました。

概ね陰陽は、対立要素の分析に使われることが多く、この例についてはまた具体的に少しづつ書いていきたいです。

 

しかし、陰と陽に分けて分析するというのは、陰陽論の一部にすぎません。 

私が最も魅せられた陰陽論の本質は、複眼の視点にあります。

 

世界は見方によって変わる。

だからこそ病いのとらえ方も

単に忌むべきものでも、

ただ治すべきものでも、

身体だけの問題でも、

またすべてがメンタルで片づけられるものでも、

ないのです。

 

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 キューバハバナの街角にて撮影

(なお父母の了承を得ずして掲載。お父さん、お母さん、お許しあれ!)

東洋医学概論3 (陰陽論:宮沢賢治の世界から)

机の上に一冊の本がある。

友人が長い年月をかけて制作にかかわり、私に送ってくれたものだ。

表題は「宮沢賢治の元素図鑑」(桜井弘著、豊遥秋写真協力 / (株)化学同人)。

 

賢治は、幼い頃に「石っこ賢さん」とよばれたほどの石好きで、植物や昆虫を採集しながら、農学や化学を通して自然を学ぶサイエンティストとなっていく。

のちに彼が、「私は詩人としては自信がありませんけれども、一個のサイエンティストと認めていただきたいと思います」と述べるほどの。

 

賢治作品に散りばめられた彩りあふれる鉱物と、そのエレメントである元素。これらを解説し、新たな切り口で作品の魅力に迫ることができる1冊である。

 

「石っこ賢さん」かぁ。。そしてサイエンティスト。。

私を魅了し、神秘的な世界へと誘う「よだかの星」「風の又三郎」そして「銀河鉄道の夜」といった作品たち。確かにあれらも、自然科学への造詣なくしては、生まれえなかったのかもしれない。。

そう思って、パラパラとページをめくっていく。

すると。。

童話や詩といった文学作品から浮かび上がる、

ある種幻影的な宮沢賢治の世界観。

その輪郭が、妙にくっきりと際立ってくる感じがした。

 

石、鉱物、元素、化学、自然科学、さらに宇宙や異次元へとつながる連鎖。

そしてこれら理系の分野とは、対極とも思える情感あふれる文学作品たち。

一見相反するような分野が、実は相補的に組み合わさって、さらに完全無欠の世界を創り出しているように感じたのだ。

 

また作品のテーマが善悪や生死といった光と影に象徴されているものの、暗闇をみすえて仄(ほの)かに浮かびあがる光が、私に天への憧憬を呼びおこさせる。

 

私は、“ 石っこ”の中に、彼の作品の中に、そして彼自身の中に、古代中国思想でいうところの陰陽の世界をみたのである。

 

そしてこの本のご縁をかりて、ここに中医学の基礎となる陰陽論について、概要をお伝えすることにした。思いきってザックリと!

(その深淵さゆえに、なかなか書き出せなかった「陰陽論」に、やっと挑戦します!)

 

1 陰陽のはじまり

古代中国思想の重要な構成要素である陰陽論は、「呂氏春秋」、「周易」、「管子」、「素問」、「太極図解」などの文献に記されている。

それらによると、陰陽は太極*から生まれたとされる(*太極とは、混沌たる?あるいは静謐なる?宇宙のはじまりの状態をいう。太一とも呼ばれ、究極の一(イチ)を示すとされる。量子物理学でいうところの物理量の基本単位である1(イチ)であるが、「一(イチ)にして全」という世界観を持つ。ううぅ。。難しいですな。なので説明は、あえなくここまで!)。 

 

2 陰陽の概念

陰陽とは、自然界の運動と変化をつかさどる基本原則である。

つまり、

諸行無常(変化しないものはない。変化しないものはただひとつ、変化しないものはないという法則のみ)のこの世にあって、

生命体の誕生から死へと向かうプロセス、

あらゆる日常の事象や現象の発生・盛衰・消滅といった一連の流れ、

こういった栄枯盛衰の自然摂理であり、総則といえる。

 

3 陰陽の特質

 ① 対立 陰陽は互いに対立した性質をもつ。

  <例:天地、上下、内外、生死、遅速、明暗、雌雄など>

      孤陰・孤陽はなく、完全な中立もない。

  <例:太陽(陽)がのぼって日中となり、沈んで月(陰)が出ると夜になる>

  (注:陰陽は要素として分析することはできるが、取り出すことはできない。     ココ、ポイントです!)

 ② 相対 陰陽は、それぞれがさらに陰陽に分けられる(陰陽可分)

  <例:男性(陽)は精子(極陰)を、女性(陰)は卵子(極陽)を有し、

      陽の中にも陰が、陰の中にも陽がある>

  (注:またどこに視点をおくかによって陰陽がいれかわる。

     ココもまた、ポイントです!また別の記事で!)

 ③ 統一 相反する2つの極が、ある結果をなす(相互依存)。

  <例:精子(極陰 )+ 卵子(極陽)→ 受精卵となり、生命が誕生する>

      陰陽は互いにひきつけあい、はねつけあう。<例:男女関係!>

 ④ 転化 陰極まれば陽、陽極まれば陰。

      一方の極限に達した時や一定の条件下で、もう一方の極に反転する。

  <例:健康を心配しすぎると病気になる。発熱(陽)で悪寒(陰)がする>

 (注:これら①〜④の他の具体例については、おって別の記事で!)

 

上記1〜3をざっと踏まえた上で、もっとも大事な陰陽の本質について押さえていただきたい。

  

陰とは、

集約され、凝縮される方向(下・内)へと向かう、

右まわり(ペットボトルのキャップを閉める)のエネルギーを指し、

「水」に代表される「寒」や「静」の性質で、

色はあらゆる色を混ぜた「黒」に象徴される。 

陽とは、

放出し、拡散される方向(上・外)へと向かう、

左まわり(ペットボトルのキャップを開ける)のエネルギーを指し、

「火」に代表される「熱」や「動」の性質で、

色はあらゆる色を含む「白 」に象徴される。

 

さらに 

陰は、

その内へ向かって凝集するエネルギーから、

物質的で量的な性質を帯び、目に見える。

陽は、

その外へ向かい発散するエネルギーから、

機能的で動的な性質を持ち、目に見えない。

<例:手を握るという現象は、

 手という目にみえる肉体部分(陰)+ 握るという目にみえない運動機能(陽)

 とで説明される>

 

ざっとおわかりいただけただろうか。

 

“ 気 ”と同様、陰陽もまた、不可視の世界を探る視点を与えてくれる。

ひとつに見える事象に、実は相反する方向性を持ったエネルギーが内包されているのだ。

 

そして

それぞれに際立った陰と陽がより深く濃密に融合する時、

その事象に与えられたエネルギーは最大となり、

異次元への扉が開く。

鍵穴に鍵がカチッとはまり、クルっと回転してドアが開くかのように。

 

宮沢賢治が、

美しくも遠い天空の世界だけを見上げていたのではなく、

足下にある石やそれを構成する元素にまで視線を落としていたからこそ、

あるいは

凝縮された小さな石の中に、拡がる宇宙をも見いだしていたからこそ、

彼の作品たちが

いつまでも天に煌めく星のごとく、

または鉱物を燃焼させた時に放つ炎の色のごとく、

輝き、発色しつづけているのではないだろうか。

 

<おまけ> 

宮沢賢治を魅了した石について。

石の目にみえる部分、元素や鉱物といった材料の部分は陰となり、

それら材料を集めて、石の形をキープしつづけるといった動的な力は陽となり、

この陰陽があわさってはじめて石として存在できるのである。

 

 

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アルゼンチン、ブエノスアイレスのパンパにて撮影

間(マ)をつなぐもの 「人生が変わるメガネ」

憧れのメガネをとうとう手に入れた。あの噂の「人生が変わるメガネ」とやらを。

 

事のはじまりはこうだ。

ある時私は、初老の患者さんにこう言った。

「私も目が悪くなった・・。コンタクトをしていたら遠くは見えるけれど、近くを見る時には老眼鏡がいる。裸眼だと本は読めるけれど、遠くは近眼のメガネが必要。足したり引いたりしながら、持ち物ばかり増えて・・。」

 

すると彼女はこう言った。

「まだまだよ。もっと年とると、耳も聞こえなくなって補聴器(両耳なので2つ。替えの電池も含む)も増える。そしてヨダレは垂れるし涙腺はつまって涙もでるから、ティッシュやハンカチも絶対忘れちゃダメ。それなのに唾液が出なくて喉がカラカラになる時もあって飴玉も持たなくちゃ。そしてね、歩く時にはツエも持つのよ」。

確かに!グゥの音もでない・・。

 

チマタの加熱すぎるアンチエイジングやら医学会の加齢制御なるものの流れにどうも乗り切れない私は、妙に納得した。

そしてこの時、きたるべき老いというものを観察する!と心に決めたのだ。誰に頼まれたわけでもないが、老いの実態を探る冒険がはじまる気分だ。

人生は絶え間ない探求の連続であるというのが、真理を追求する者の運命(サダメ)なのである。

 

まずは目の問題。

これから老いていくにせよ、今のスタートラインを決めたい。

そこでコンタクトもメガネも新調し、今ある私の最善の状況をつくることからはじめることにした。

コンタクトを新調する際のことだ。

左右ほとんど変わらない視力なのに、矯正しても左眼だけ視力があがらず、

「これ以上はレンズを変えても視力はあがりません」と医者からキッパリ告げられる。

右の視力はあがるのに、そんなことがあるのだろうか・・。

疑問は湧けど、忙しそうな先生に質問する勇気がない。

「まぁよく見えるからいいや」と真理を追求する者にあるまじき撤退に転じる。

 

次にメガネ。ずっーとずっーと気になっていた噂のメガネ。

このメガネを購入するためには、事前にキチンとセミナーを受けて、さらに別の日に2時間にも及ぶ検眼をする。セミナーも検眼もすぐに満席になるため、ずいぶん先に予約をいれなくてはならず、予定が読めずに日程を決められない。一時はご縁がないものとあきらめかけた。

しかし!やっぱりあのメガネでなくては!またムクムクと真理を追求する者が復活。

我が誕生日に思い立ち、運良くセミナー参加の権利をゲットし、会場へと向かった。

 

少人数に丁寧に教え、簡易検査を行うセミナー。

そこで私は、偶然にも魅力あふれるM先生と再会したのだ。

M先生は1年のうちの半分は海外にいらっしゃるため、

なかなかお会いできないでいたのに。

M先生は、その日の朝に知人からこの噂のメガネの話を聞き、すぐに申し込んでやってきたという(なんと幸運なのでしょう。当日知って→電話→当日予約というあり得ないようなスムーズな、この流れ)。

「ところで、どうやったらこのメガネが買えるのですか?」とM先生が質問なさった時、何もご存知なくここへ飛び込んでらしたのだとカナリ笑えた。

そして私は確信した。M先生も真理を追究する者なのだと。

時に真理を追求する者は、驚くべき軽いフットワークで行動することがあるからだ。

 

そしてセミナーを行う松本康先生。彼もまた真理を追求する者が持つ熱すぎるほどの情熱を、余すところなくメガネに、そして眼の不調を抱えている人々に注ぎこんでいた。

 

松本先生は、子供時代のお辛いご経験から目と脳をつなぐ機能に着目。

眼の機能と脳波は正常であっても、「視機能(右と左の眼の焦点があうように調節する脳の機能)」が弱いと、偏頭痛、眼の疲れ、肩こりといった諸症状がでて、集中力が続かない。

視機能の改善によって、子供達の軽度ADHDなどが治るケースもあるそうだ。

 

一般的にメガネを作る際、右目、左目とそれぞれの検査を行い、それぞれの視力を調整する。しかし実際の生活においては、両目で同時に物を見る。

視力はあれど、右目と左目の焦点の位置がずれていることがあるというのだ。

そこでずれたまま物を見つづけると脳も混乱するため、どちらか一方のシグナルが自動的に遮断される。

つまり、実は片目でしか見ていない。

 

「見る」という動作をシステム全体としてとらえた時、右眼と左眼といった個別に分けられた網膜に映る視力ではなく、脳に伝達されて最終的に物を認識する視力(「脳内視力」とよぶそうです)こそが大切なのだ。

 

私は納得した。矯正すべきは「脳内視力」だと。

そもそも私は目が悪い。

それが視力だけの問題ではないと気づいたのはいつだったのだろう。

左右の視力や状態はほとんど変わらないのに、右目と左目で見えてる世界が違うと感じていた。よく片目を隠して見える世界と、もう一つの目で見えるそれとを比べては、色が違う、景色が違うと遊んでいた。

また両目で見た世界は、片方だけで見た世界の中間ではなく、なぜか右目だけで見た世界に近いのだ。

さらに、何気なく道を歩いていると、それぞれの目に飛び込んでくる映像が別個に感じられて、やたらに頭が疲れる時があった。

 

検眼していただいて何より驚いたのは、度のはいらない、焦点を合わせただけのレンズで、視力があがったかのように物がかなり良く見えたことである。それもあの矯正しても視力はあがらないといわれた左眼が。

 

そして両眼からのシグナルがちゃんと脳に伝わるように設定されたメガネをかけてみた。

するとそこには、遠近感の増した、深みある世界が広がっていたのである。3Dメガネをかけたような濃淡ある世界が。

 

セミナーが終わっても、松本先生はメガネを作るように決して勧めはしない。

なぜここでセールスをしないのか?なぜだ?と思うほどに、しない。

作りたいと考えている方もいるであろうに、検眼の予約を積極的に押し出すことなく、家に帰ってゆっくり考えみてくださいとおっしゃるのだ。

それどころか、「かえってこのメガネをかけて立体的にみえすぎて困るという人もいる」なんて言っちゃう・・。

ただ、眼のトラブルで困っている方達にこの脳内視力という概念を知っていただきたい。また子供達の学習障害に役立つのだったら、ぜひ講演なりを行いないたい、とのことだった。

 

あの日は、なんとステキな方達に出会えたのだろう。

 

もうそれだけで、人生がちょっと変わった感じがしたのだ。

 

<後記>

セミナーで教えていただいたことは、大変面白く、興味深いものでした。

身体のひとつひとつの部位それ自体に異常がなくても、「見る」という行為全体をシステムとしてながめた時、各部分の間(マ)をつなぐものの重要性が見えてきたからです。

ネットワーク(つながり)とか関係性とか互換性とかが、機能を円滑にするのだと。

そしてこの考え方は、とりもなおさず東洋医学の特徴的な視点といえます(これについてはまたいつか別の記事で)。

 

このメガネについても、手に入れるに至るプロセスにおいて出会えた人達とのご縁もまた、間(マ)をつなぐものとして感じられたわけです。

 

最後に

このメガネを使ってから1か月以上が経ちました。

深みのある世界に少しとまどいながらも、新しい世界が嬉しくて楽しい。

それだけではなくて、眼と頭が楽だと実感しています。

新調したコンタクトを使う頻度は、どんどん減ってしまいましたが・・。

 

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 イスタンブールの街角にて撮影。題して「右と左」。

(治療中の患者さんとの会話は、ご本人の了承を得て掲載)

東洋医学各論1(気の作用:波動)

小樽の春は遠い。

そう感じた、今年の2月の極寒の日のことだ。

私は、灯油が入ったポリタンクから携帯ストーブに灯油を入れようとして、手動のポンプを取り出した。そして、にぎりこぶし大の赤色の部分(材質はポリエチレン)をギュッと握りつぶして、空気を押し出す。握りを緩めるごとにポリタンクへと垂直に伸びたノズルをつたって灯油がくみ上げられる。再度赤色部分をギュッと握りしめて、もうひとつの蛇腹のノズルを通って携帯ストーブに灯油が入るという仕組みだ。

 

シュポシュポ、シュポシュポと手で握りしめては放す。

繰り返すこの動作で、手は疲れ腕はだるくなった。

うぅ。。なんてことだ。

心臓よりもちょっとだけ小ぶりなサイズの赤いポンプ部分をぐっと握っては放しながら、私は考えた。

血液のポンプとされている心臓のことを。

 

たったこれだけの作業でこんなに疲れるのに、

血液を全身にめぐらすというポンプの役割を背負った心臓は、

どれほど疲れるのだろうか。

 

さらに思う。

微弱とも思える鼓動で、

トントンという可愛らしいほどの、

とるに足らないような脈拍を打つという動きだけで、

手の先や足の指の先の先まで、

はたまた重力に反して頭頂にまで、

血液を送っていけるものなのだろうか。

 

どうなの?

本当にポンプなの?

何か他に仕組みはないの?

 

今回のお話は、心臓の拍動だけで末端まで血液をくまなく送ることができるという Wonder からはじまる。

 

そういえば。。 

「心臓が足の先まで血液を送るのも、波動なんですよ。怒ったら全身に血が回りそうなのに、一瞬にしてカーッと頭にだけ血がのぼって足は冷える。あれも波動。」と、尊敬する A 医師はおっしゃっていたではないか。

( A 医師は、中医学の神髄を実にわかりやすく私に教えてくださるステキな先生です。脈や舌を診るだけで、病状から性格、果ては生活態度に至るまでのほとんどを言い当てられてしまうため、まるで占い師にみてもらったかのようだと、私の患者さん達の間で評判です。)

 

さて、その波動とやら。

つまり、波の動きということだ。

湖面に投げた石を中心にして、だんだんに水面に広がる同心円の波紋。。。

このようにして、心臓から次々と血液が末端へ波及するのではないだろうか。

 

メトロノームのような規則正しいリズムで、

脈拍という振動で、

はたまたそれを信号にして、

波動が起こり、血液を全身に巡らせる。

 

ひとつの波が次の波に伝わっていき、またさらにその先へと続く波の動き。

この動きをおこさせるエネルギーが、東洋思想でいうところの「気」だとしたら。。

 

そして実際、東洋医学の古典である「難経」、「素問」という文献に波動を起こさせるにピッタリの気の作用が記されているのだ。

 

まずは、気の作用の全体像をみてみよう。

(相変わらず偉そうですが、またまたザックリと言ってのけます!)

 

気の作用は、以下の5つに分けられる。これらは、それぞれ独自の性質を持ちながらも、協力しあって生命活動を行っている。

 

①推動(すいどう)作用:おし動かす

マクロな視点では成長・発育を促し、ミクロな視点では血・気の運行を行い(なんと気を動かすのも気!)、生理・代謝活動を活発にするのだよ!

<例:気虚(気が少ない状態)になると、この作用が後退し、成長・発育が遅れ、血行が悪くなり、体液が停滞し、むくみがでる。>

 

②温煦(おんく)作用:温める

体温調節、体温維持を行うよ!

<例:この作用が減退すると、四肢が冷える。>

 

③防衛作用:防衛する

肌表を保護し、外邪を排除するよ!(注:外邪とは、外部から皮膚を通じてはいる病気の原因となるものを指す。)

<例:この作用が機能しなければ、寒さが身体に入りこみ風邪をひく。>

 

④固摂(こせつ)作用:漏出を防ぐ

体液(汗や尿など)の流出を防ぎ、血液の血管外への漏出を阻止するよ!

<例:この作用が十分でないと、汗がとまらず消耗したり、冷える。また生理が止まらない。尿失禁する。>

 

⑤気化作用:物質を転化させる

消化吸収を促し、気・血・リンパ液などを作るよ!(なんと気を作るのも気!)

<例:この作用が弱くなると、新陳代謝が落ちる。>

 

ソコココにある気は、ただフルフルしているだけではなくて、集まってはこんな仕事もしているのだ。

 

さて、ポンプの役割をはたす心臓に係わる気の作用としては、①の推動作用があげられる。

字の如く、推して動かす。

 

まさにひとつの波が次の波に到達し、さらにその波がその次へと伝播する様が浮かぶ。

 

そして、これは身体の内部に限ったことではない。

 

なかなか踏み出せなかった最初の一歩。一端踏み出してみると、そこから先はトントン拍子に事がはこびだす・・。 

または

そんなに怒っている自覚もなかったのに、なぜだか怒りがどんどん湧いてきて、抑えることができなくなってしまった・・。

他愛ない小さな嘘が発端で、事が大きくなってしまい、当惑している・・。

あるいは

株価が、あれよあれよという間に暴落したり・・。

何気ない商品が大ヒットしだしたり・・。

世の中の流れが、どうにも不吉な方向へと加速されたり・・。

 

予期せぬ連鎖反応の裏には、気の推動作用が働いて、波動をおこしているように思えてくる。

 

“ 雰囲気 ”といわれるようにある種ボンヤリと曖昧で、

“ 移り気 というようにウツロイやすいほどの、

吹けば飛んでいってしまうような、

おぼろげな存在である “ 気 ”

 

しかしそんな気が集まりだし、ウズが生まれ、流れとなる。

流れは力となり、次々にドミノ倒しのようにつながって、

新たな現実を創りだす。

あたかも意志を持っているかのように。

 

そのように考える時、

取るに足らないほどの些細な事柄の重要性がみえてくるはずだ。

そして波動がひとたび起きたなら、境界や限界だと思えた現実の壁を、軽々と飛び越えて、事象がつながれていく・・。

 

もし何か夢をかなえたいのなら、何度も何度も自分の意図を確かめ、毎日の生活の小さな行いからそこに気(エネルギー)を集め、継続させるのだ。

反対にぼんやりフルフルしていると、大きなウズに取り込まれ、なぜこんなことになったのかと立ち上がった現実を前に立ちつくすことになる。

 

ほんの小さなひと押しが、次々に伝播して、思いもよらない処へと導かれるのだから。

 

ポンプで灯油を入れてただけの私も、いつの間にか、こんなことまで考えてしまったのである。

  

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インド、チェンナイにてインド洋を撮影

 

 気について知りたい方は、こちらの記事も!

garaando.hatenablog.com

 

 

 

 

東洋医学概論2(Wonder な世界)

The Sense of Wonder。

(自然の不思議に息をのむ感性)

この言葉を知ったのは、鍼灸師になりたての頃だったと思う。

ふ〜ん。。とやり過ごしていた私だが、

その後の臨床を通して、人体の不思議に驚かされ続けることになる。

 

お医者さん達はいう。

「ここまで骨がずれたら、元には戻りません」

「神経が切れてしまったのだから、治すには繋げるオペしかありません」

「ホルモンがでないのですから、この薬は一生飲み続けなければなりません」

などなど・・。

 

しかし、それがそうでもないのである。

骨は筋肉を緩めれば、動く。

肩にたまったカルシウムが腕の神経を圧迫していても、時間の経過とともに細胞達が繋がる回路を探し出して修復し、運動制限や痛みがなくなる。

声帯の神経をオペで切ってしまい声が全く出なくなっても、1年半後にはカラオケで歌えるようになった。

数年にわたり滲出液がでて皮膚移植しなければ塞がらないと言われた損傷が、1ヶ月間毎日の民間療法で、完全に塞がってしまった。

卵管のつまりのため妊娠は無理だったはずが、懐妊した。

一生飲みなさいと言われた薬が出ていたが、身体の不調が減って薬を飲み忘れることが多くなった。そしていつの間にか飲まなくなってしまったが、検査結果は正常値のままキープできている。

などなど・・。

 

つまりどこかの部分が損傷していたり不具合があっても、他の細胞達が動きはじめたり、あるいは幾つかの機能がつなぎ合わさったりして、またはタイミングという要素が加わって、それを修復する形にまで持っていける場合がどうやらあるらしい。

 

鍼灸治療がいいとか、現代医学がどうこうと言いたいのではない。

身体がすごいのである。

患者さんの誰よりも、さまざまな症状をある程度の期間をかけて診せていただいている私こそ、

そのすごさに驚かされているのだ。

私が弱気になっている症状であっても、みごとな回復をみせてくれた症例も少なくない。

その度に私はどこを観て、何を決めつけていたのかと反省し、

同時に身体のすばらしさに、人間の可能性に驚く。

 

ああ、 Wonder な世界!

 

そしてその wonder の一端を紐解くであろうと思われる思想がここにもある。それが東洋医学の基礎となっている古代中国思想(哲学)だ。

 

森羅万象を観察することから、世界を読み解く古代中国思想には、大きな柱がいくつかある。ここでは東洋医学に関連するものをあげてみることにする。

(たいそう偉そうですが、思い切ってまたまたザックリいっちゃいます!)

①天人相応説

宇宙・自然界(天)にあるものは、人間(人)の身体にも同じようにあるよ(だから人間は小宇宙といわれているよ)!そしてそれらはミクロとマクロで繋がっているのだよ!

②気一元論(元気論)

有形(生命体や物質など)・無形(場や想念など)を問わず、万物は気(エネルギー)でできているのだよ!

そして世界は、気というエネルギーの変化で創られていて、変わり続けていくのだよ!

陰陽五行論

陰陽・五行という気(エネルギー)の法則に従って、世界は動いているのだよ!

<陰陽論 : 陰(ー)と陽(+)という相反する方向を示す二つの力が、ひとつの事象に内包されているーこの視点から、状態や状況を観察し、その本質を観る手法>

<五行論 : 木・火・土・金・水に象徴される固有の性質を持つ5つの要素が、互いに影響しあっており、その関係性から様々な現象をとらえる手法>

 

お気づきだろうか。

つまり、古代中国思想は、自然現象を観察することから、みえない世界とみえている世界の関係性や法則を説いているのだ(それゆえ、易・八卦四柱推命、印相や家相、風水などもここから生まれているのです)。

 

みえている現実の裏にある不可視の世界を知ることは、

事柄を奥行きのあるものにする。

 

大自然

生命体としての人体も

身体のみならず人間そのものも

我らがうごめくこの世の中も

多重的要素の集合体なのだ。

 

東洋思想は、

単に健康という分野にとどまらず、

より深い洞察を私に与えてくれる。

まずは自分の体質や性格を知る道しるべとして。

そして自己の特質を生かす生き方を探る道しるべとして。

 

すべては

矛盾だらけの自分をさらに知るために。

 

<後記>

この記事を書きながら、思いました。

知識や理性のみならず、the Sense of Wonder と言われるような感覚を持ち合わせてはじめて、東洋医学の真髄が腑に落ちるのだと。

そしてこの感覚は、生命への畏敬の念や人智を超えた世界があるという喜びにつながっているのだと。

 

あらためて思います。

the Sense of Wonder

なんとロマンに満ちたステキな響きなのでしょう!

 

 

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エジプト、ギザのピラミッドにて撮影

(なお、本文での臨床の記述については、各人の承諾を得て掲載)

東洋医学概論1(気の世界)

そこは、思わずセスジが凛となる、そんな肌寒い大学病院の一室だった。

私たち鍼灸学校の学生達は、献体してくださった方の身体を実際にみて学ぶという解剖の授業で、ここを訪れたのだ。

 

先生の説明を聞きながら、永眠された方のお身体をみせていただく。

3D画像やネットであらゆる情報が入ってくる今とは違う、30年ほど前の時代のことだ。

それゆえ初めて見る人体の内部は、教科書で学んだ2次元のものとは、かなり違っていた。

 

幾重にも皮や膜があって、

それらに守られるように、それぞれの臓器があって、

折り重なるように筋肉があって、

手足には白い腱がぎっしりあって、

そして心臓があって・・。

 

心臓を見た時、私は不思議な気持ちになった。

この方は、心臓が止まっているから亡くなっているのだろうか。

この心臓が鼓動をうちさえすれば、

大きな柱時計にある大小の歯車が、カチカチと噛み合って回りはじめるように、

人体は動きだし、生命の息吹をふき返すのだろうか。

 

この心臓を動かす力は、いったいどこから来るのだろう。

 

愛する人や家族に先立たれ、その亡骸(なきがら)を前に、

肉体はここにあるのにどうして動いてくれないのか

と思った方も多いのではないかと思う。

 

そしてなぜ私たちの心臓は、止まることなく動くのか。

電池もないのに。。。

充電することもなく。。。

この時感じた私の疑問は、とても素朴なものだったと思う。

 

 

「 気 ってあるのですか?」

「 気 って何ですか?」と、

今更ながら患者さん達から質問されることがある。

そんな時は、まずこの話をして、

どうしてバッテリーなしで私たちは動くのだろうかと言うことにしている。

 

答えになっていないであろう私の返答におつきあいいただく我が患者さん達よ。

皆様の長年にわたる忍耐力に感謝しつつ、

簡単には言いつくせない回答を、ここにお伝えしたいと思う。

 

その前に、なぜ簡単ではないのか。

それは、宇宙の始まりに遡る壮大極まりない中国思想や哲学を説明しなくてはならないからだ(素粒子とかユラギとか、ほとんど量子物理学の世界)。しかも「気」ってヤツは、その壮大さに比してあまりに何気なく、そこここにフルフルしているのに、目にはみえず、手でもつかめない。(だから無邪気に「気って何ですか?」と聞かれても、内容も難解の上、言葉での表現も難しいのです。)

 

さて本題。気はあるのか?という質問について

「ある」とか「ない」とかを科学的に証明できたところで(何であれ「ない」ことの証明はとても難しいと思いますが)、腑に落ちはしないと思う。  

そしてまた聞かれるかもしれない、「それって本当?」と。

つまり、気は説明してわかるとか、理解するとかいうものではなく、感じてナンボのものだと思うのだ。(あ、これまた禅問答のようで・・。「感じてナンボの気」については、いつか別の記事で!)

 

次に、気とは何か?という質問について

難しい中国の古典の数々(「老子」、「荘子」、「管子」、「論衡」、「素問」他古代の多書籍に記される東洋思想や哲学)を、とってもザックリ平たくすると、以下のとおり。(こんな風に自分が言うのは、スッゴク恐れ多いです。関係各位のご存命の皆様、あの世の皆様、ごめんなさい!でもザックリいっちゃいます!)

 

「気とは、宇宙のはじまりに空間全体に充満していた無形の極めて微細な物質であり、自然界のエネルギーである。波動や振動といったふるまいで、あらゆる事象にかかわり、その動きは止むことがない。空間的距離、過去から未来へと向かう直線的時間、そして物質の物理的障害ーこういった諸々の制約も受けず、集まったり(形や物質をつくる、生命となる)、散ったり(無形となる、生命を失う)、昇ったり、下がったりと変幻自在の動きをし、有形(あらゆる可視の生命体や物質)・無形(いわゆる「場」や感情、思考、想念など)の世界を満たし、万物との感応現象を生じせしめる。」

 

もっとザックリ言うと、

「物質を成り立たせている根源であるとともに、触媒の役割をし、天地万物をつなぎ、変化を起こさせるエネルギーである。」

 

おわかりいただけただろうか。

うう、怪しい!?と思うなかれ。

 

バイオリンの弦が響くのも

磁石が砂鉄をひきよせるのも

月の満ち欠けが満潮や引き潮をひきおこすのも

季節の変わり目に体調を崩しやすいのも

台風が発生すれば頭痛が起こるのも

鶏が明け方に鳴くのも

フクロウが夜行性なのも

本当はこう言いたいのにああ言ってしまうのも

わけもなく悲しみがとまらないのも

フェルメールの絵画に魅了されるのも
Slavaのアヴェ・マリアに泣けるほど心打たれるのも

ヒーリングや気功で遠隔治療ができるのも

風水によって運気が上がるも下がるも 

あの人に会えば、元気になるもグッタリ疲れるも

相性が良いも悪いも

言霊(ことだま)や数霊(かずたま)があるも

幾何学模様や図形に力があるも

偶然やシンクロニシティが起こるも

誰かや何かとご縁があるも

祈りによって奇跡がおこるも

ゼーーンブ、相互間で目に見えないエネルギーが媒介して、

感応しているから!

 

いつからか私は

自然現象を

自分と患者さん達の身体を

様々な病気を

人間関係を

日常のでき事を

世界のでき事を

そうなのだ!

気がつけば、私をとりまく世界のすべてを

気の視点から

みるようになっていた。

 

私にとって

気は、自分の人生観のよって立つ根拠。

つかみようもないものを根拠とする私は、アヤウイのか?

我が人生を賭けて、現在実験中なのである。

 

   

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カリブ海の島バルバドスの海岸にて撮影

 

 

 

部分なあなた (マリモ羊羹編)

マリモ羊羹をご存知だろうか。

北海道の阿寒湖に生息し、緑色の藻でできた天然記念物のマリモ。そのマリモを模した球状の羊羹で、楊枝でつつくと覆っている膜がはがれて、中身がツルンとあらわれる。

 

いとも簡単に外殻をぬぎすてるーその様は、多くの患者さん達が、病いの最中にあって大きく変化する時の現象に似ていると思う。

  

たとえば、前回の記事 ( 部分な私 その2「場の力」)に登場したジンマシンの彼女。

彼女は1年半飲み続けた薬を、ある日突然断った。

私には、このように何年もの間のみ続けた大量の薬(導眠剤、安定剤、抗不安剤、鎮痛剤など)をゴミ箱へ捨てて、いきなり断薬をした方達の症例が数件ある(そのように突然やめることを推奨しているわけではありません。決断は本人の意志であり、報告をうけてその都度、私がひどく驚きます)。

彼女(彼)らに共通している言葉は、

「もういいと思ったんです。」

「いらなくなりました。」

「どうせやめるので、捨てました。」

そうきっぱり言い放ち、それまで手放そうと試みて何度も何度も失敗してきた過去とは、全く別の、凛とした表情をきまって私に見せる。

 

まとっている皮膜を軽々とぬぎすてて歩き出し、回顧だにしない。

新次元へ飛び出す彼ら。

 

また別の症例においては、

閉所恐怖症のため飛行機での旅が大変辛い方がいた。

海外への所用も多く、もう20年以上も苦しみ続け、出発の直前でキャンセルなさることが何度もあった。

その彼女が先日こう言った。

「まだ恐怖がなくなったわけではないけれど、あの頃の本当に怖かった感覚を思い出そうとしても、どうしてもあの感じにはなれない。いつのまにか変わってしまった」と。

10年以上にわたり、私は彼女を診させていただいているのだが、

少しづつ、薄紙がはがれるように彼女の肉体は変わり続けた。

身体が弱かった時代からは考えられない程、今や相当に体力のある方になられたように思う。

そして精神的にもどんどん変化をとげたようにみえるのだ。

肉体かメンタルか、どちらが先に変化したのかはわからないし、知る必要もないと思う。

ただ確かなのは、ご自身が変化していく過程を見守るといった、ご自分にむけられたマナザシが、いつも彼女にはあったということだ。

そして小さな脱皮を繰り返し、気がつけばいつのまにか大きく変わっていた。

 

それはまるで、瓶(カメ)の中に水が溜まりはじめ、そしてカメの容量を超えて、水があふれだすかのように。

水が溢れ出した時にはじめて、満杯になったと気づくのだ。

おさまりきらなくなってしまったカメは、いきおい不要となる。

そうして、さらなる世界へと飛び出す彼女。

 

 

その一方で、

何度も禁煙に失敗している患者さん達がいる。

禁煙パッチを貼ってみても、

禁煙パイポを試してみても、

電子タバコを吸ってみても、

さらには相当の金額を払って禁煙外来へ通ってみても、

一旦はやめても、また同じように愛煙家となる(注:上記の手段によって禁煙なさった方もいらっしゃいます)。

彼らは病気があって、本当に禁煙したいと望んでいるにもかかわらずだ。

また嗜癖や依存には複雑な背景もある。

肉体的な中毒症状から脱せられたとしても、

たとえばどこかで自分を罰する必要を感じている人は、自分をおとしめる行為がなくてはならない。

やっぱり自分はダメ。

どうせできるわけがない。

こういった処にもどってちょっとホッとしたりもする。

(注:喫煙は個人の嗜好の問題であって病いではありません。嗜癖、依存、中毒といった見地から、身近な例としてとりあげてみました。)

(注:エネルギーレベルで喫煙をみた場合、ハートの感受性が強い人が愛煙家になりやすいとの説があります。喫煙をすることでハートチャクラをわざとつまらせて、ダイレクトに様々な感情を感じることから身を守っているケースです。)

 

 

また「病い」というものの一つの側面に、個人の存在や命をかけた表現であり、作品であるとする見方がある。

そう考えた時、治すとか、正すといった方向性だけが良いわけではないし、画一的に症状や中毒がなくなればよいというものでもない。

ただ、ある中毒的な症状から立ち直りたいと思っていて、

いろいろな手段を試みてもなお、効果があがらない時に、

必要なことは何なのだろうか。

 

 最初にあげたジンマシンの彼女は、その後の経過をこう語る。

 「薬をやめて、夜になるとジンマシンがでる時がたまにある。

痒みはあるけれど、

ああ、疲れているのだなぁと思って、

なるべく休むようにして、我慢していると、

次の日にはおさまってくる。

だからもう薬は要らない。

だって、薬をやめられないとあきらめていたけれど

本当は自分はやめたかったことに気がついたのだから」

 

私には、断薬できたかどうかという結果よりも、

彼女が自分に対して自信を持つことができたという事の方がはるかに大事だと思える。

病いの症状に対して、恐れすぎることなく、まっとうに身体をいたわり、いずれ治ると思えること。

自分の身体を信頼できるという経験をしたこと。

これこそが大事だと思うのだ。

 

もし今、中毒的な症状に苦しんでいる方がいたら、

(痩せたいのに食べちゃうとか、朝活をしたいのに夜更かしが止まらないとかも)

まずその行為だけに執着するのはやめて、

できない自分を責めることをやめてみてはどうかと提案したい。

その変わりに日常の中で、自分を裏切らない小さな選択をしてみる。

たとえば、

本当は行きたくない誘いなら、断ってみる。

3回に1回断るのでもいい。

自分の着たい洋服を着る。

ちょっと冒険であっても、着てみたい色に身を包む。

なんでもいいと言わずに、食べたいものを考え、味わって食べる。

そうやって今まで外に、他人に、そして回りに向けていたエネルギーを自分の内側にとり戻す。

 

これは自我を肥大させることとは違う。

自分は何を本当に望んでいるのか?

と自己の内奥に問い続けながら、

自分の深淵に錨をおろす。

 

自分自身にエネルギーを充填させていったなら、

いつしか自己の器は大きくなり、

あきらめは自信に

逃避が発見に変わる。

 

いつの日か、

あなたもマリモ羊羹のように、

軽々と外殻を脱ぎすてるだろう。

そしてその時、

気になっていた症状に囚われない新しい自分が現れるに違いない。

 

<後記>

私がエネルギーワークを習った学校の校長であるバーバラ・ブレナンは、授業でこう言いました。

「The healing comes automatically.(癒しは自動的にやってくる)」

えっ? automatically??

さらに、「あなたは、何も努力する必要はない。ただ自己の内面をみつめなさい。あなたが霊的に進化していくにつれ、起こるべき癒しは自然にやってくる・・・」といった内容だったように記憶しています。

私は、このフレーズに衝撃を受けました。

努力しなくていいんだ・・。

それまで、さんざん努力?してきた自分にとって、この内容は本当なの??ですか?

本当だったら、もっとはやく教えてくださいよ!とも思いましたね。

 

そして、この視点から見てみると、

自分の臨床での患者さん達の変化が、よくわかりはじめたのです。

 

自己の内面が変わり、

結果として、

表れていた症状が自動的に消失する。

 

人が癒えていく道筋は、いっぱいあると思いますが、

病いというものの意味を考える時、

このように自己の内面の変化に従って、

癒えていくもののような気がします。

 

そしてまた

内面に目を向けるといっても

 

何か方程式やメソッドがあるといったものでもないと思います。

頭の理解による分析や判断でもなく、

無意識の領域にもかかわることなので、

やはり道なき道を歩むことに違いありません。

 

私も

自分をも含み、

人が変化する様を見守りつつも、

その流れがどこから来たのか、

問い続けていきたいと思っています。

 

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アフリカ大陸ウォルビスベイ(ナミビア)のムーンランドスケープというエリア(「猿の惑星」の撮影地)にて撮影

(なお、この文中に登場する主な患者さん達の承諾を得て掲載)