“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

身体感覚を開く7 「ふつう」「いつも」を問う

 時は、いつも と同じように流れてめぐる。変わりばえしないように思われる日だったとしても、やぶられた日めくりカレンダーの1枚には、昨日とはほんのちょっとだけズレた記憶が刻まれる。気づかぬほどに少しだけ・・。

 

 街をみわたせば、いつも あったはずの喫茶店がポツポツと姿をけしている。 かわりにチェーン店のコーヒー屋さんがふえた。スタバ、タリーズドトール、星野、コメダ・・。そのスタバでの、こんな話を聞いたことがある。高齢の婦人たちが列にならび、注文の順番がきた。「コーヒー」と注文すると、若い細身のお姉さんが「ブレンドですか?カフェラテ?ですか?」とスッとメニューをさしだした。白髪頭の女性たちはメニューをのぞきつつ相談しあって「コーヒーよ、コーヒー」と皆が言う。先頭にたった方が再度「コーヒー!」というと、「ブレンドですね」と細身女子。豪をにやしたお婆さんは大きめの声で言った「コーヒーよ、コーヒー。 ふつう のコーヒー! フツー の!!」。

 いつしかコーヒーという聞きなれた単語は、専門店では通用しなくなってしまったのだろう。昨日までの いつも や ふつう はヒタヒタと姿をかえつづけ、ある時忽然と消えてしまう。

 

 さて、この私は患者さんたちの ”ふつう" や ”いつも” を問いつづけるのが仕事だ。治療の際に、私が患者さんに「このところどうですか?どんな感じですか?」と聞く。すると「別に いつも と同じです」とか「ちょっと疲れたけれど、 ふつう です」とか・・。そう聞いて治療していくと、「あれ、そこ変です」とか「かなり疲れていたのですね」とか「何で気づかなかったのだろう」「そういえば・・」などと変化していくことが多い。

 

  "ふつう" や "いつも" は、無意識の世界だ。

 そしてこれらは驚くほど個人差が大きい。誰かにとっての "ふつう" は、別の誰かにとってはとんでもないことだったりする。 "いつも" とは、習慣となって繰りかえされる日々の総称。病の多くは生活習慣病なのだから、病の芽は "いつも" という自分の習慣のなかにチョコンと埋もれている。たとえば牛乳を良いものと思って "いつも" 飲んでいる人もいれば、毒のようにとらえて一切の乳製品をこばむ人もいる。あるいは "いつも" 果物のスムージーを飲む人もいれば、冷えるものをさけて常温の飲み物しかとらない人も。こういった疑いもしない "ふつう" の習慣のなかに、しのびよる病の兆しが隠されている。裏をかえせば "ふつう" "いつも" の中にこそ、その人だけの健康への道しるべがあるのだ。

 

 自分はなにを ”ふつう” ととらえているのか、私にとっての ”いつも” とはなんだろう。この問題意識をもって暮らすことは、身体感覚を開くためのはじめの一歩となる。まずは自分の いつも の生活をみつめ、ふつう に繰りかえしている習慣にたどりつく。こうしてはじめて、 "いつも" や "ふつう" のなかに埋もれている何かの種を、意識的に身体の反応に結びつけることができる。

 

 もしも 業(ゴウ)とか カルマ と呼ばれるものがあるとしたら、それは習慣のなかに見だされるのだと私は思う。外部のおどろおどろしい得体のしれないものの影響ではなくて。ちょっとしたことなのに変えられないもの。とるに足らないことだから疑うことすらしない癖。こういうものから作りあげられた自分の無意識の世界。ひどく身近だけれど、実はその中に分け入っていくいことが滅多にないような世界の中に・・。

  ”ふつう”  ”いつも”の中に数えきれない種がある。かけがえのない幸せの種も、病へといたるかもしれない種も。

  ”ふつう” に生活を送っている我らをとりまく社会も、今や大きく変わってきている。

 高齢の患者さんはため息をついた。「駅の切符を買うときのタッチパネルにやっと慣れたと思ったら、今度はお店の自動会計。そこに店員さんがいるのに、お金は機械へ入れろという。あわてつつも小銭とお札を迷いながらチャンと入れて、やっと支払えてホッとした。あんまりホッとして買ったはずのパンを忘れたのよ」と。このように、ある日突然、お金の支払いのやり方も "いつも" と同じようにはいかなくなるのだ。

 突然、目の前にあらわれてしまった自動会計。そしていったんシステムとして動きだしたなら、それに従わざるをえない流れに私たちは組みこまれてしまう。これは生活上の変化に限らない。我らの身体の細胞たちも長い年月をかけて少しづつかわり、ある時新たにシステム自体がたちあがる。そしてこれに病名がつけられるのだ。

 

 今の社会はAI(Artificial Intelligence : 人工知能)の出現によって、産業革命の時代ほどに変化しているのではないかと私は思う。AIにかぎらず至るところで変化の兆しを感じる。たとえば引越しの手続きで役所へいき書類を書いたときのこと。氏名の欄の次に性別があった。その分類は、「男」「女」「その他」の3択。数年前まではなかった「その他」。お堅いイメージの役所ですら多様性を認める時代へと移っているのだなぁと思った。急速に変わってきている社会に呼応してなのか、病にも変化がある。突然に亡くなる方も増えているし、重病をいきなり発症する方が多くなってきている実感がある。

 

 今までの "ふつう" や   "いつも" が急速に変わりはじめている。私たちは、さらに"ふつう"  "いつも" を問いつづけ、身体感覚を開く必要にせまられている気がする。

 

(後記)

 引越ししてみると、今までとは違うことばかりに出くわします。新鮮な目でまわりを見つめられる嬉しさがあるのですが、これがいつか慣れていってしまうのだなぁとの危惧もあり。そんなことを思っていたためか、今回の記事となりました。

 ”ふつう” "いつも” を問いつづける。こんなこと、いっつもは無理でしょ!とも・・。そこで、ちょっと視点を変えて「旅人のように暮らす」という遊びにしたらどうでしょうか。あ、自分が北の地小樽で楽しく暮らすために思いついただけですね。はい、小樽で旅人のように暮らしたいと思っています。

 

旅人気分にさせてくれる喫茶店@小樽にて撮影。飲みほしてしまったのは、自家焙煎ブレンド25gの絶品コーヒー。