“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

番外編  声(前編)

 「飛んでごらん」。それは、黒茶色の長い翼を大きくひろげた鷲のくちばしから聞こえてきた。ここは小高い丘の上にある広場で、UFOがとまっていても不思議ではないほどの広さがある。その広場の端の、さらに一段高いところに戦没者の慰霊塔がそびえたっている。石でできたオベリスクのてっぺんに、その鷲がいる。あんな高い所だったら、小樽の街が、空が、そして遥かの海岸線まで、すっぽりと見わたせるにちがいない。

 夜に声が聞こえるようになったのは、この広場に来た時からだった。それは、ひしめきあって丘をのぼる、数えきれない大勢の軍人さんたちの雄叫び。オォー、オォーという低くて野太い声の大合唱。やむことのない声は、ときに祈りにも聞こえた。さらに丘のふもとの林の間を四方八方から慰霊塔を目ざして黙々と足速に歩く人、人、人の気配が加わった。「大勢の人たちが林をのぼっていくよ」と、小学2年生だった私はよく母に言った。しかしそれは私ひとりの時にしか聞こえなかったので、誰にもわかってもらえなかった。

 発せられたにちがいない声。そこにいたはずの誰か。埋もれてしまっている何か。夜になると私は、このことに心を囚われた。それまで元気に跳びはねて遊んでいた子供から、もう一人の自分へとスイッチするかのごとくに。そして眠れぬ長い夜がやってくる。運よく眠れたとして、行ったことない国の戦場や廃墟での殺戮の夢ばかりを見た。いや見たというより見せられたように思う。

 この時にはまだ、これらの体験がその後の私の人生を左右するとは夢にも思わなかったのだ。

 「飛んでごらん」。私の人生の分岐点で、またこの声が聞こえる。

 

 北京をあとにした寝台車は、西へ向かっていた。ガタンという音と大きな揺れで目を覚ました私は、窓から流れゆく景色を見ることにした。私は、仕事の都合で中国語の語学力が求められ、北京の学校へ職場から送られたのだ。授業の合間にいける所まで旅してみたいと思って私は列車に乗りこんだ。太陽がのぼりはじめ、うっすらと線路脇の土手を照らす。ポツポツと植えられた街路樹の脇で黒い影がゆっくりと動いた。熊だ!車窓から私は何度も同じような影を見た。それが太極拳をする人だとわかったのは、当たり一面に陽の光が差しこんできた頃だった。こんな朝も暗いうちから物好きだな。そういえば留学先の学校でも無料の太極拳の講座があって、クラスメートが寝ている私を起こしにきてくれていた。私は寝たふりをして、ノックの音がやむのを待った。太極拳、あんな酔狂にみえること、興味はないなぁと思いながら・・。

 

 「あなた、分析して幸せになったことある?」と、私の背中に置かれた鍼を動かしながらミツさんは聞いた。鍼の刺激で私の身体は軟体動物のようにボヨボヨとゆるみはじめ、言葉を発することができない。しかしその問いは、私の細胞に尋ねるようにコダマしていた。思えば私は、ずっと分析してきたのだ。なんのために生きているのか。死んだらどうなるのか。どうして戦争はなくならないのか。なぜこんな不条理な世の中なのかと。そして分析して分析して・・結果、私はちっとも幸せにはなっていない。そうだ、分析して幸せになったことはないではないか!薄れゆく意識の中で、決定的な何かが私の細胞に染みわたった。

 そのころの私は、休日も仕事を家に持ち帰り働きづめの日々を送っていた。時はバブルの絶頂期。子供の頃の鮮烈な記憶は幾重にも薄い膜がかかってしまい、すっかり埋もれてしまったかのように思えた。つぎつぎと押しよせるタスクに追われるのは、答えのでない問題を考えつづけるよりずっと楽だったのだ。とうとう私は身体をこわし、鍼治療にたどりついた。20代のミソラで鍼灸治療とは!そう思いつつも、鍼という底なし沼にズブズブとはまっていった。

 うつぶせになり背中に鍼が数本はいって、しばしそのままでいると、左に比べて落ちこんでいたと感じる右側の背中が、呼吸するたびに膨らんでくる。そのうちに左右差がなくなって、背中全体がボワンと大きくなった。腰に鍼が置かれると、力のない方の足に何かが流れていく。まるでクリスマスツリーの電飾に使う、コードのついた沢山の小さな電球が次々に灯り、眠っていた箇所が光で満たされるかのように。今日の身体はまぁまぁいいなと思って治療に行くと、思ってもいない所がおかしいと初めて気づく。今日はダメダメだと思っていても、意外にもバランスが取れていたりする。

 トコトン裏ぎられる頭の理解。ままならぬ私の身体と抗うことのできない体感。私が私と定義しているものの解体。すべてが初めての体験であり、小気味よかった。やがて私は鍼のトリコになった。身体のおもしろさに目覚めていくことで、私は根底から揺さぶられたのだ。もう言葉はいらない。私は、孤独を感じた時に書かざるをえなかった日記や文章を、すべて破り捨てていた。(後編につづく)

 

 

小樽にて、日露戦争後に建てられた戦没者の慰霊塔(現在の名称は顕誠塔)を撮影