“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

繋がりあう世界4 マクロの視点

 最近、足首の捻挫や指の骨折といった症状の患者さんたちを診ることが多い。手や足といった身体の末端で起こる不調は、どれほど小さな部分の損傷であるにしても、いずれも身体には重要なのだと思いしらされる。足の小指の骨折は、両足で均等に体重をのせて立つことができなくなるため、身体全体のバランスに多大な影響を与える。松葉杖を使ったことがある方なら、それがどれほど腰や肩、さらには首といった部位に影響を与えるかがわかるだろう。事故や不注意などである部分を怪我したなら、そこを庇うことによって他のさまざまな部分の不調へとつながっていく。部分から全体へと向かうベクトルで。この場合、局所の治療のみならず、身体全体のバランスをとる治療を組み合わせると、患部の治りは格段に速くなる。

 

 では、全体から部分へと向かう流れはあるのだろうか。ある日突然、特定の部位が痛みに襲われるバネ指や腱鞘炎などがそれに当たる。私は、仕事柄、職業とこういった痛みとの関係をみせていただく機会が多い。その職業の特質によって身体の一部が酷使されつづけた結果、何らかの痛みとなる。料理人が重いフライパンを片手で持つことによって発症した手首の腱鞘炎。ドライヤーを一定の高さに片手で持ちあげつづける美容師さんの四十肩。身体全体を使う蕎麦打ち職人の腕や肩の痛み。重い機材を肩にかついで仕事するカメラマンの頸腕症候群や腕の痺れ。楽器を抱えてコードを押さえるギターリストのバネ指や腱鞘炎など。

 また趣味も極まれば同様だ。編み物では肩こりから頚椎ヘルニアになり、指先が痺れることもある。そして年配の女性に多いバネ指へバーデン結節、あるいは手指の変形性関節症などは長年の主婦業の産物ともいえるだろう。

 長い時間をかけて習慣化した姿勢や身体の使い方の結果が、めぐりめぐって末端の症状として現れてくるのだ。

 このような疾患の治療方法として、痛みのある患部への直接的なアプローチは欠かせないのだろう。ロキソニンつきの湿布を貼ったり、患部へブロック注射をしたり。なかには手術をする人も少なくない。しかし、これらの方法でもなかなか治らない場合も多い。とりわけ手や指の故障は、日常生活で使わずにはいられないため安静がむずかしく、簡単には治りにくい。

 そこで患部のみならず、治療範囲を広げてみる。身体全体の、あるいはある程度の範囲にわたる部位の疲労が根本にあるのだから、指の関節や手首の症状といえど、腕を治療することが根治へとつながる。肩甲骨や肩をも含んだマルマル腕一本を。

 また膝の痛みは、股関節の問題に起因することが多いし、四十肩は骨盤のねじれがオオモトにある。身体の構造的な繋がりが分かるほどにアングルをひいて患部を見てみると、ある部分に起こっている痛みの原因があらたに見えることがある。局所だけを見ている時には気づかなかったのに。

 

 私たちの身体は、多くの部分がより集まって集合体となり全体をつくる。そして、その各部分は互いに密接に影響しあって構成されているのだ。それゆえ、ある部分の治療であっても、部分から全体へ、全体から部分へといった双方向の視点が必要になる。

 

 全体は部分の総和であるのだから、全体から部分を眺めることができる。

 しかし部分は全体を見ることができない。

 

 何ごとも細部にだけ分けいっていくならば、本質を見失うことも多いのだ。

 

 身体においてもマクロ的視野の重要性を思わずにはいられない。

 

(後記)

 今月、私が卒業した学校の校長であるバーバラ・アン・ブレナンが肉体を去りました。

そして私の恩師 王由衣 氏の翻訳によるバーバラの言葉を目にし、「全体であること」を考えていたので、この記事となったのだと思います。

 

「ヒーリングは、1人1人の内にある、喜びに満ちた生命の創造的な力の流れから始まる。喜びを選べ、愛を選べ、自らの全体であることを選べ」

 

 

メキシコシティの上空からポポカテペトル山を撮影

 

マクロ的視点の参考記事

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ミクロ的視点の参考記事

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