“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

勝手に陰陽論3 ウルシ塗り

日本を代表する工芸品の漆器、ウルシ塗り。それゆえ、英語の「japan」には「ウルシ」の意味があるという。

ウルシの木から採れる樹液を、加工した木や紙に塗り重ね、30から40の工程を経て漆器に仕上げていく。

何度も何度も塗り重ねて作られる漆塗りの技法の中には、「馬鹿丁寧」の馬鹿をとって馬鹿塗りと呼ばれる津軽塗もあるほどだ。

 

同じ動作を何度も何度も繰り返すこと。

今回はウルシ塗りの「繰り返す」という工程に焦点に当てて、陰陽論を展開してみたい。(ああ、また勝手極まりないです!)

 

繰り返すという行動様式を陰陽に分類すると、「陰」に属する。

その反対に軽やかに次々と移りゆく様は、「陽」となる。

<ちょっとおさらい:陰とは内にむかって集中する力で、凝集して形を作り重さとなる。速度は遅く、時間がかかる。陽とは外に向かって発散する力で動きを生み、軽やかさとなる。速度が速く、時間がかからない。>

 

たとえば音楽。

同じ曲を飽きることなく、時を忘れて聴き続けた経験はないだろうか。

他の曲じゃダメなんだ。

あの曲のあのサビを身体の中に染み込ませるのだ。

そうだ。

音を食べよう。リズムへ分け入れ。歌詞を吞みこめ。もっと大音量で!

細胞の奥深いところへと音の持つ振動が到達するように。

そしてそこから何かが発動するような、そんな衝動を味わうように。

食べるように聞いた、あの音楽。

リピートスイッチがない時代、目当ての曲が終わる頃になるとステレオに近づいてレコード盤に針を何度も何度も落とした。

 

一方で

BGMとして邪魔にならずに聞き流す場合がある。

イージーリスニングと言われるような軽やかさを感じさせながら

スキー場やカフェなどで

次々と心地よく流れゆくメロディを味わい

雰囲気を楽しむのだ。

 

では本はどうだろう。

子供の頃、私は漫画を何度も何度も飽きることなく読んだ。

筋書きも絵もすべて知りつくしているのに

ウキウキ読んだのだ。

子供に本を読み聞かせる場合だってそうだ。

同じ内容の話を何度も何度も

時には毎日繰り返す。

同じくだりで大笑いをし、

その都度本気で驚く。

こうして何度も何度も骨身にしみるほどに繰り返す。

 

大人になって、好きな本を再度読むこともある。

ただ子供の時とは違う。

感動したはずの内容はすっかり忘れており、

感動したという事実のみが記憶に残っている。

ある時は、以前読んだことすら忘れていて

終わり頃に、あれ?この話知ってる気がする??

などと思ったりするのだ。

またある時は、本棚に同じ本を見つけては、自分に愕然とする。

 

音楽と本。

繰り返して聞いたり、読んだりするのは、陰陽論においては「陰」に属する。

一方で、聞き流したり、速読したり、情報を検索したりするのは「陽」となる。

 

思うに、このような繰り返す音楽の聴き方や本の読み方をしたのは、

子供時代から青春時代の陽気溢れる時代に圧倒的に多かった。

 

 

生まれたての赤ちゃんの時から幼少期、

そして青春時代までを人の一生というレンジで眺めてみれば、

「陽」の気がまさる時であり、

そこから徐々に徐々に「陰」へと移行する。

老年は陰気旺盛となり、

身体は硬くなり、

あらゆる機能は遅くなり、

どんどん閉じて

生命体の終焉となる。

(注:ずいぶんザックリ言いましたが、人間の一生は、生・長・壮・老・死という過程をたどり、人間の陽気と陰精の共同作業。陰精については、またいつか機会があれば。)

 

その「陽気」溢れる幼少期。

この時期の行動の仕方は、「陰の力」が強い気がする。

身体の芯に届くようにと

奥へ奥へと染み込ませるように

繰り返す。

身体まるごとで

感情全開で

感覚総動員で

理解というより体得し、味わいつくすまで

繰り返すのだ。

 

中年以降の私は、

すでに陰気マサる時代となっている。

何を見ても、何を聞いても、

じきに忘れる。

わかった気になるのも速ければ、

何をしたのかわからなくなるのも速い。

泥棒に見つけられないようにと

何かを隠したりしたら

自分こそ見つけられない。

その上、苦しめられるパスワードや暗証番号の神経衰弱ゲーム。

そしてヤミクモにキーを叩いてのフリーズ地獄。

落ち着いて行動するというより

手当たり次第やってみるという「陽」の行動パターンだ。

 

子供時代は、

集中して(陰)遊んでいたせいか、時を忘れて行動しており、1日が短い。

そして1年は、随分と濃い中身で、とても長い時間がたった気がした。

1日が短く、1年が長い。

 

大人になると

時間やこなすべき仕事に追われて、忙しく動き回り(陽)、1日は長い。

これは自転車操業(ペダルをこいでいないと倒れる)に似ていて、疲れ果てるからだ。

しかし1年というまとまった期間になると、アッという間に感じられる。

そう、今年ももう12月。。

1日が長く、1年が短い。

(注:1日も速いという場合は、時間に追われれる生活をしていないことが多い。たとえば休日はアッという間に終わってしまうように。)

 

陽気溢れる肉体を持つ子供時代には、繰り返すという「陰」の行動習慣をとり、

陰気まさってくる肉体へと進む大人には、どんどんこなすという「陽」の行動習慣が

みてとれる。

 

この両者の違いが

それぞれの時代の時間感覚を作っているようにも思えるのだ。

 

そして多くの天才たちは、

子供時代に「繰り返す」という行動様式を格別にとっていたように思う。

虫の図鑑を暗記しつくしていたり

SL少年だったり

天体望遠鏡から星座をのぞいたり

無我夢中の世界があるように思う。

完全無欠の閉じた内向する陰の世界。

 

子供に次々と情報を外から与え

どんどんと行動できるように教えるよりも

ひとつのことを何度も繰り返して

内的世界をじっくり味わう時間を与える方が

豊かになれるのではないかと思える。

つまり、子供時代(肉体が陽)の繰り返す行動様式(陰)で、陰陽バランスがとれるのではないだろうか。

陰が深ければ深いほど、陽の伸びしろが増すのだから、全体として大きく育つと言えないだろうか。

  

子供時代から今までの自分の行動様式は、無意識ではあったが、陰陽の法則どおりだったのだと思い返している。

あの夢中で繰り返して聞いた音楽や漫画が、そしてあの行為自体が、時々ひどく懐かしい。

 

<おまけ>

ウルシ塗りといった伝統工芸の伝統というものは「陰」となる。長い年月を重ねて培われ、形となって受け継がれるという意味で。これに対して、流行、トレンド、ブームといったものは「陽」。ちょっと伝統から派生して、規則や規範は「陰」で、自由は「陽」。

  

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メキシコ、トゥルムのカフェにて撮影

 

 


 



勝手に陰陽論2 Doing と Being

時折思い出すのは、あのセリフ。

鍼灸師になりたての頃、研修先の先生がおっしゃっていた言葉だ。

「体の弱い患者さんに元気になってもらうのは割と簡単だが、次々に行動する人を休ませることは実に難しい」と。

 

本当に、そう思う。

 

比較的体力のある方が不調になると、更なる行動に出る。

「運動不足が原因ですね。最低5000歩は歩いているのですが、8000歩にしました」。

「足が弱るのも不安なので、パーソナルトレーナーをつけて筋トレを始めました」。

「もっと身体と向き合うためにヨガとピラティスもやってみます」。

陰陽でいうなら、あっという間に外へ動きだすことができる「陽」。

 

一方、身体の弱い方や持病のある方は、体力がついてくるのをジッと待つ。

「私の外出は週に2回だけ。出かけた次の日は必ず自宅にこもって養生をしなければ身体が持たないのです」。

「1日に大きなことはひとつしかしません。それで精一杯。友人とランチして、夜はまた別の友人とコンサートなんて信じられない」。

陰陽でいうなら、身体と向き合って待つことができる「陰」。

 

 <ちょっとおさらい:陽とは、前や外に向かって拡散し、動的な力を持ち、軽快で前のめりの歩みとなる。思考は未来へと向かう。陰とは、後ろや内に向かって凝集して量を生み、足取りは後づさる。思考は過去へと向かう>

 

現代という消費文化の中にあっては、モノも情報も刺激も過剰であり、過剰でありつづける世界に慣れきってしまった。それゆえ、ひとつひとつの事柄にかけるエネルギー量も少なく、移り変わりの展開も速い。そういった影響もあってなのか、待つことができない人も増えている感じだ。待つ代わりに、行動することで何かを埋め合わせているような印象すら受けることもある。そして時々、この過剰なナニモノかをリセットする行動がさらに必要となる。

 

Do Do Do、断捨離をしてGo 、断食もしてGo Go。環境も身体も風通しが良くなったなら、内面をのぞくマインドフルな瞑想もDo Do Do。さぁリセットできたからまたDo ! Do してGo !!Go Go Go !!!

 

このように陽タイプは、ドンドン外に向かって活動することができ、きっかけを作って大きく変化することもあるが、活動をやめ、立ち止まって内省することがむずかしい。

 

反対に待つことのできるタイプというのは、

否応なく幼少期から身体の不調と向き合わされてきた過去がある。

他の人達は難なくこなせているようにみえる事が、自分にはできない。

みんなにおいていかれるけど、仕方ない。

やりたいけど、動けない。

こうして独自のペースを作って自己を守ってくるしかなかった。

その結果、自分にできることを見極めた上でしか動かない。

 

陰タイプは、自己の内面に向きあい、充電完了までジッとそこにいることができる。動きだせば着実に進むが、行動しはじめることが難しい。

 

 今回は、このそれぞれのタイプを比べながら、最近よく目にする Doing と Being の本質を陰陽論で迫ってみたい。題して、勝手に陰陽論2。(またしても恐るべしカナ!)

 

Doing:行動すること。行動の仕方。

Being:ただあること。存在のあり方。

<注:このDoing Being という言葉は、心理学、医療(特にメンタルケア)、コーチングといった分野において近年よく使われるようになり、自己認識のツールにもなっている。私がエネルギーワークを習った学校では、「 Who are you?(あなたは誰ですか?)」という問いに答える中で、このDo とBe の概念を説明していたように思う。つまり、私は◯◯する者です(Do)。私は、◯◯である者です(Be)といった感じで。。ナンノコトだかさっぱり???という方は読み飛ばしてくださいね!>

 

この Do と Be は、一見相反する方向に見える。Do は もっぱら外に向かい発散して行動する「陽」で、Be は 自己の内面にも向かい対峙することができる「陰」をも含んでいるからだ。

 

前述した患者さんのタイプをとって、外向きの Do と 内向きにも目を向けられる Be とは、並列で対極の方向性を持っているようにもとらえられる。

しかし、ここではもう少し別の視点から探ってみたい。

 

並列で考えてみると、実はどうもしっくりこないのだ。

実際、病気が治っていく過程において、Do タイプ(陽)の人は、変わっているように見えて、似たようなことを繰り返すケースが多い。

これに対してBe タイプ(陰)の人は、着実に変化をとげて、もとには戻らない。

この差は何なのだろう。

 

この Do と Be の両者を「時」の観点から比べてみる。

Doは未来へ向く。つまり「陽」。

Beは過去に向くのではなく(つまり「陰」ではなく)、いわゆる「イマココ」に在ることを意味するのだ。それゆえ、Be は陰という分類には当てはまらない。

 

何をしても(Doing)、どれだけ行動しても、たどりつけない境地がある。

何もしなくても (Being)、自ずから次々に立ちのぼってくる世界がある。

 

どうやら Do と Be は同列の事柄ではないと思えてきた。

つまり、Being > Doing 。 Being とDoingとでは、次元が違うのだ。

 

治療でいうなら、どれほどスバラシイ技術で何をしようとも治らなかった痛みが、

器の大きな治療家と会っただけで癒されてしまうことがある。

(怪しいと思われるでしょうが、ホントこういうことあるのですよ!)

この治療家の人間としての「あり方」が、

痛みを取るための「行い」を凌駕してしまう。

 

また私は、ある先生から陰陽論の本質を次のように習ったことがある。

3次元の空間的器(一定の構造を持つ場所)を陰とし、

4次元の時間(流れ動くエネルギー)を陽として、

この2つが合わさって回転すると、

過去でも未来でもない、

瞬間としての「今」を連続して次々にうみ出している。

イマ、イマ、イマ、イマと生まれ続けているのだと。

(注:これを読んでいるあなたの今も、実は陰陽あわさって「イマ」がくりひろげられているのですよ!) 

 

ガチャポン*のように(*くるっと回して、ポンと出てくるオモチャの機械)

溢れでてくるイマを想像した時、

Being の謎が解けた気がした。

生まれでるイマの只中にいることこそが、Beingの状態となると。 

 

世界は対でできている。

陰と陽。

月と太陽

男と女。

満ち潮と引き潮。

光と影。

ネガとポジ。

プラスとマイナス。

陽子と電子。

DNAの二重になった螺旋もそれぞれの向きが反対であるという。

対とは、それぞれの特質が反対のベクトルを持っており、一本の線に左右に伸びる矢印がついていると想像してみて欲しい。

つまり、←→  こんな感じだ。

この2つの極の真ん中を貫き、この平面に対して垂直に走る方向性があるとしたら??

  

陰陽が地(陰)と天(陽)をあらわし、

その真ん中に人間が入って、

つまり、天・地・人がそろって、

さらなる生命エネルギーの渦が廻りはじめるように

 陰(空間または過去)と陽(時または未来)が合わさって、

その真ん中に「イマ」を生む。

そしてこのイマにいるためには、

私の身体と心と頭(意識)が一体となり

人間まるごとの存在として統合されていなくてならない気がする。

 

もしくはイマという

決して止めることも、

つかむこともできない、

流れゆく瞬間(マタタクのマ)に入ることができたなら、

人はまるごとの自分を味わうのだ。 

 

鍵穴(空間:陰)に鍵(時:陽、Doing )がはまり、

くるっと回転して、

異次元への扉が開く(イマ: Being)。

Being であり続ければ、次々と扉が開いていく。

Doing だけでは、開けられなかった扉が。

 

行動(Do)するならば、

Doing を行う我執(目的、こだわり、思惑)を解きはなち、

忘我の中に埋没せよ!

その時はじめて、

Being の状態を味わえるのだ。

 

もしあなたが

なかなか治らない病気を治したいのなら

今までの行動パターンや思い癖をいったん手放して

 Being の状態へと進めるように

イマココにある自分を感じてみるといい。

 

平面で足ぶみしていた状態から

生命を生みだすオオモトの流れの中へ

その大いなる螺旋のウズの中へと

還っていける方法に違いないのだから。

 

そして陰陽論の学びは、このBeingの状態を経験して実践となる。

 

<おまけ>

瞑想は、瞑想すること(Doing)で、Being の状態に導けるもの。

肉体という器(陰)+ 瞑想する(陽:Doing)→  統合された丸ごとの自分(Being)

 

〈後記〉

この記事を書きながら、ずっと縄跳びの遊びが浮かんでいました。

最後の結びに。

 

思い浮かぶは、「 ♪ お入りなさい ♫」という2人でヒモの端をそれぞれ持って、ぐるぐる回して、その中に次々に人が入っては出て行く縄跳びの遊び。

大地(陰)と空・天(陽)との間にあって、

あの縄が作る空間は、

生まれでるイマの世界。

その世界の中で縄跳びをしている時の無我の自分。

縄を踏まないようにと、

ただそれだけに集中して。。

 

そう、Being は遊びの中に。 

 

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 スリランカコロンボのガンガラーマ寺院にて撮影

 (なお、文中の会話は患者さん達の了承を得て掲載)

 

 よかったらこの記事も。陰陽の世界、体験版です!

garaando.hatenablog.com

 

勝手に陰陽論1 グラウンディング

 あの時は、何もわかっていなかった。

 

あの時。そう、鍼灸学校の初老の先生が、治療院を開く心得を卒業間近の私達学生に話した時のことだ。

「とにかく3年だ。患者さんが来なくても、3年間毎日ジッと治療院を開きつづけ、待つことさえできれば、食べていけるようになる。石の上にも3年だ」。

 

はぁ?3年開きつづけて待っていれば、それだけで食べていけるって?

技術は?人間性は?適性は?

どーなの??どーなの??

 

卒業してすぐに治療院を開くなんて、ヘタクソがばれちゃう!と思っていた私には、そもそも縁のない話だった。

ましてや、患者さんが来なくても3年治療院を持ち続ける財力は、からっきしない。

半年、いや3か月でも無理。ご冗談でしょ!って感じだ。

しかも、常識的社会におさまることのできない世捨て人的な風来坊人間に与えられた、鍼灸師というせっかくの職業!(30年ほど前のバブル絶頂期だった時代の全くの私見です!傷つく同業者の方がいらしたら謝ります。ごめんなさい。)

その憧れの根なし草生活には、治療院という枠組みはいらないね!なんて思っていたのだ。

 

いつかはハリ箱ひとつを持って世界を旅してまわりたい。

望むことは、ずっとハリを好きでいつづけられること。

 

こうして私は、鍼灸学校卒業後も、研修させていただいている治療院で働きながら、様々なアルバイトや出張治療をしながら、風来坊生活をお気楽に5年以上も満喫していた。

 

貧乏ではあったが、今を生きてる感じがした。

 

しかし、その後にエネルギーワークを学びはじめ、この風来坊的な、あるいは根無し草の生活に警鐘が鳴らされたのである。

 

私が行った学校(Barbara Brennan School of Healing。現在の米国フロリダ州単科大学)では、1年目にその年間を通して、グラウンディングというものを習う。姿勢を正し呼吸を深め、エネルギーを下半身へ落とし、さらに地球の核へとつながるというグラウンディングの基本をだ。

 

グラウンディング創始者はクリント・オーバー氏)とは、いわゆる「地に足をつける」という、根なし草とは対極の概念である。

アーシングとも言われ、素足で大地に立って地球とつながり、アースすることをいう。アースすることによって電子の移動があり、肉体に起こっている炎症を沈める効果をはじめ、抗酸化作用などもあるとされる(かなりの効果が期待される治療法です。場所さえあればタダでできるので、ダマサレタと思ってお試しください。土をみつけ裸足で立てば、とりあえずそれでよし!)。

 

またグラウンディングは、西洋的な概念というよりも、東洋思想に端を発している。

太極拳などの武術では、下実上虚(カジツジョウキョ)の状態が理想とされる。下実上虚とは、ヘソ下5cm、さらに腹筋内奥5cmくらいの場所にある丹田(女性ならば子宮近くの位置)に「気」が充実しており、上半身は下半身の上に軽く乗っているような状態をいう。

なお、現代人は、PCや携帯やストレスなどで上半身に緊張を強いられ、上実下虚(ジョウジツカキョ:上半身にエネルギーが集中し、下半身まで回らない)の状態でいることが圧倒的に多く、不眠、頭痛、めまい、肩こり、耳鳴りなどの原因にもなるとされる。

立禅(リツゼン:立った状態で行う気を練る手法)などは、まさにグラウンディングを鍛える方法だ。エネルギー(気)が十分に下半身、足、足裏へとさがって充実し、地面と接して、さらに地中深くに根をはる状態を目指すのだから。

 

そして肉体でグラウンディングが十分にできていけば、

つまり「地に足がつく」と、

現実世界が充足してくるという。

(注:肉体がグラウンディングしているというのは、地に足がつく以前に、自らの肉体に意識を向け、身体感覚を磨いてケアをし、身体を創る。つまり自らの身体と繋がりなおすことからはじまります。)

 

物質的、現実的側面(肉体も含む)を忌み嫌うことなく、

十分に受け入れて真の豊かさを味わうというのが、

広義のグラウンディングだ。

 

グラウンディングされてはじめて、精神性や理想といった高みへと向かうのだ。

深く深く地中に根をはり、高みをめざす。

より深く、より高く。。

 

今回は、このグラウンディングを陰陽論で読みといてみたい。(ああ、これすべて私見です!恐れ多いですね。。)

 

根なし草生活をやめ、場所を構えて治療院をはじめることは、グラウンディングするということだ。

<ちょっとおさらい:陰とは、下や内に向かって凝集する力を持ち、集約されて物質的な構造を生み、形を作る。陽とは、上や外に向かって拡散する力を有し、動的な力を生む。>

 

グラウンディングして下に向かう現実的な力(陰) と 精神性や理想をめざす上へ伸びる力(陽)。

治療院という物理的な器(陰)と 患者さん達や治療家のエネルギーを含めた動的な力(陽)。

 

大地に根をおろす治療院としての器(陰)を持てば、

その器にあった動的エネルギー(陽)である患者さんが入りこむ。

この動的エネルギーが大きくなれば、それに拮抗する力である器のエネルギーも大きくなり、安定する。

その結果、自然に患者さんが多くいらしてくださり、はれて繁盛治療院の誕生となる(なるはずである)。

 

こうして治療を目的とした「場」ができあがるのだ。

 

さらに先生は言った。「3年治療院を開きつづけ、待つことができれば・・」と。

3年治療院を持ちつづけ、待つということにも意味があった。

<ちょっとおさらい:陰はさらに陰陽にわけられる(陰陽可分)。治療院は物質ととらえると「陰」に分類できるが、その陰の中にも、治療院を創るという動的なエネルギーである「陽」がある。>

 

治療院という器(陰:目にみえる実態)を作り、そこに時間(陽:目にみえないエネルギー)をかけて、とにかく居つづけて待つ。自分の理想とする治療が行われていると想像し、なるべく勉強し、いつ患者さんがいらしてもいいように準備をし、治療するための気を練りつづける。

これらすべては、器(陰)を作るための動的エネルギー(陽)だ。

物質的な器だけあっても、場はできない。

 

動的エネルギーを入れるための器(陰)をつくり、

時間とエネルギー(陽)をかけて

陰陽一体となって

場が生まれる。

 

場という器(陰)ができたなら、

患者さんをはじめとする人々(流動的エネルギーである陽)が集まってくる。

これがあの時、先生が経験から教えてくれたことだったのだ。

 

私は治療所を構えて、今年で18年になる。

繁盛治療院とは言いがたいが、身の丈に合っていると満足している。

だからこそ、ハリを好きでいつづけられている。

そして時々ハリ箱を持って、世界を旅する。

 

かくて足かせだと思っていた治療所は、一番長い時間を過ごす私の人生の居場所となった。 

 

陰陽が合わさった世界の可能性は、深くて大きい。

 

さぁ、大地に深く深く根ざしなさい!

グラウンディングを教えてくれた恩師達に感謝したい。

 

(なお、治療院を持たなければグラウンディングできないというものでもありません。根無し草に憧れた私の場合の話であり、流し?の治療家でグラウンディングなさっている場合もあります。どの視点でどう見るかが陰陽論の面白いところです。)

 

 

  <後記>

大地が揺れる。大地が崩れる。大地が沈む。

人間がよってたつ大地の崩壊は、どれほど安心感を失わせることなのでしょう。

今年は頻発する自然災害に見まわれ、

私はずっとエネルギーについて考えていました。

 

エネルギー。

そもそも豪雨、山崩れ、地震、台風といった災害の中心になっているものは自然エネルギーと言えます。

災害の被害を大きくしてしまったのも、ダムの放流、山を削っての太陽光パネルの設置、ブラックアウトといったエネルギーにまつわるものであったかと。

そして停電になって、ほとんどの生活システムがストップし、町の機能はいきなりマヒ状態に。電気はどれほどの恩恵を与えてくれているのかと今更ながら思います。

 

よくよく考えてみれば、

いつの世もこのエネルギーをめぐって、人類は戦争をしてきました。

複雑に入り乱れたパワーゲーム的な覇権争い。パワーもまさにエネルギー。

その裏にある石油エネルギーの利権、お金というエネルギーをめぐっての経済的な対立(注:エネルギーは高きから低きへ流れるものですが、お金だけは低きから高きに流れていないか?という疑問がありますが)などなど。

 

ああ、なんとエネルギーをめぐる問題は果てしなく巨大なものなのでしょうか。

自然エネルギーであれ、人工的なエネルギーであれ、そして人間関係における感情エネルギーであれ、我らはエネルギーの海の中で暮らしているのだとしみじみ感じます。

 

このエネルギー問題を陰陽で考えるとどういうことなのでしょう。。

 

ある朝目ざめると、言葉が浮かびました。

「不当にパワーを失うな」と。

どうにも歯が立たない自然災害や不透明な社会構造や状況を目の当たりにして、

どんどん力を失う感じがしていたのです。

 

地球規模でおかしいらしい。

どうせ、何が起こるかわからない。

もうそうなったら、お手上げだ。

ガラスのような割れるものは処分してしまおう。

最小限の物だけでいい。

形あるものは壊れるのだから。

 

これはこれでその通りなのですが、それと同時に自分のパワーまで失い、そのパワーをどこかに明け渡してはならないのではないかと思ったのです。

エネルギー保存の法則(昔ならったはずのうる覚えの法則)があるとしたら、

明け渡してしまったエネルギーは、さらにフワフワと動的なエネルギーへ吸収される気がするのです。

荒れ狂う動的なエネルギーを入れるに、ふさわしい確固たる器を作ることができれば。

つまり、陰の力を強められれば、陽の力と少しは拮抗できるのではないでしょうか。

 

まずは自分がパワーレスにならずに、

しっかりと自己の肉体を感じ、

その肉体を通して、

地球の核にむかって錨をおろし、

グラウンディングすること。

こうして少しでも陰の力を強めることができたなら。。

 

家族、仲間、学校、町内会、会社、コミュニティ。。そして地球。。

いろいろな器(陰)があると思いますが、

まずは自分の肉体にグラウンディングすることから。

 

私は、今一度、自分の肉体を充実させ、大地をしっかり踏みしめることを考えさせられています。

  

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 イースター島の(立禅する?)モアイ像を撮影

 

 

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近年、実はグラウンディングしていたことがわかったモアイ像 (なお、写真はネットから拝借)

 

緊急告知 セルフケア2 ヒエトリ道

こんな夏は、はじめてだ。

多くの患者さん達が、こう語る今年の猛暑(2018年@東京)。

 

皆様のお身体を診せていただいている私は、日ごと危機感がつのる。

この夏の患者さん達の身体の固まり具合は、ハンパないから。

まるで石像のよう。。

そして今の期間をどう過ごしたかの結果が、秋にやってくる。

(身体は数ヶ月遅れて症状が表面化します。大病をなさった方の多くは、「発病する半年前くらいからモーレツに疲れていた」とおっしゃいます。)

 

そこで緊急告知。

いま一度 “冷えは万病のもと” と冷えの怖さを知り、“ 何はなくとも冷えとり(以下、「ヒエトリ」と表記する)” を合言葉に対策をねっていただきたい。

 

まず冷えはなぜ悪いのか。

東洋医学において、「人体の健康とは、よどみなく 気 が流れていること」と定義される。

つまり、「流れ」こそ生命体の真髄。

その流れを阻むもの、それが冷えなのだ。

冷えると生命活動が縮こまって固まりだし、流れがなくなる。

また固まった箇所ができることで、スムーズだった大きな流れをさらに阻む。

こうして全体の生命活動が停滞へと向かう。

それゆえ低体温が

あらゆるガンを

アトピーなどのアレルギーやリウマチ等の膠原病といった免疫不全を

婦人科系の病気を

糖尿病といった代謝系の病いを

ギックリ腰や膝痛、五十肩といった外科的な痛みを

躁鬱病

不眠症や体調不良といった自律神経失調症

そして認知症をも

誘発するのである。

この状態を打開し、流れをつくりだすために必要なもの、それこそが熱なのだ。

よって、体温が高く頭寒足熱の状態が、ヒエトリのめざすべき理想形といえる。

  

そして現状のチェック!

冷房のきいた場所で冷たい物(スムージーやアイスコーヒーなど)を飲み、内側からも外側からも身体を冷やすと

→ 感覚が鈍って冷えてると感じない

→ 身体がすっかり固まっているのも気がつかない

→ さらに冷たい物を飲み、シャワーで汗を流し、冷房をつけて睡眠をとる

→ 足がだるい、身体全体が重い、頭が痛い、寝ると足が熱くて、ほてる*

→ 自律神経がダメ(例:睡眠が浅く疲れがとれない、食欲がなく胃腸の働きが悪い)

→ 暑いのか寒いのかわからないながらも、裸足ですごす

→ ますます身体が冷えて、固まる

→ ますます無感覚になる

 (*:ほてりは冷えの極まった状態。陰極まりて陽となったもの)

 

あなたは、この無限ループにはまっていないだろうか。

このような流れを断ち切るのに最も効果的な方法が、ヒエトリなのだ。

 

ここに効果的なヒエトリ方法のいくつかを紹介させていただくことにした。

 

〈お風呂〉

まずはなんといってもお風呂。

シャワーですませていないだろうか。

シャワーだと汗を流して爽快感はあるのだが、冷えは全くとれていない。

朝風呂の人も多いが、その日の冷えはその日のうちにとるべきで、夜の入浴がオススメ。1日の疲れもとれ、睡眠の質もグッと向上する。

 

暑いと身体を冷やすために汗が出るが、お風呂に入って出る汗は、毛穴が開いて身体の中にある毒素(重金属、放射能、ストレスなどのメンタルからくる気の滞り)を排出してくれる。

 

入浴のポイントは、身体の中まで、芯まで温まること。

ただし入浴前の水分補給は忘れずに!

 

大根を強火で煮ると、外側はすきとおった色になるのに、中は白色のままで硬い芯がのこる。

 

弱火でコトコト煮込むと、全体がすきとおった色に変わり、中まで火がはいり、ほっこりする。

 

温度の高いお風呂(40度以上)に浸かると、肺に熱がはいり熱く感じて温まった気になるが、実は身体の中心まで熱がいきわたっていない。

 

弱火でコトコトをイメージして、ぬるめのお風呂(約37〜38℃、適温は個人差があるので調整を!)に入り、温まって透きとおったダイコンのような身体をめざしていただきたい。

半身浴が好ましく、時々肩や首までドップリつかる。

入浴後はくつ下をはいて、足先の温かさをなるべくキープする。

 

またお風呂は入りたいけど、その後の掃除がね。。と渋るあなたには、銭湯がオススメ(大人460円。10枚綴り回数券だと1回430円@東京)。

週に1回でも大きなお風呂で、たまった冷えをぬぐいさり、浮き世の疲れも一掃できたら、なおよし!

 

〈サウナ〉

この時期のサウナは、かなり消耗するのでオススメできない。

ま、ひとたび玄関ドアを開けたなら、そこは無料のサウナ。

わざわざ有料サウナに行くこともないと思うのだが、それでもどうしても入りたいというサウナラブ族は、サウナ後に程よい温度の場所で十分な休息とエネルギー充填(塩分やビタミン、ミネラルなどの補給)が必須だ。

水風呂とサウナのループを楽しむ方は、長く水風呂に入ると身体が冷えきるので、十分にご注意を!

(補足 : もともと温冷浴は、西式医学の祖、西勝造氏が提唱したもので、基本は1分ずつ4セットの交互浴+最後の冷浴。これは自律神経の切り替えスイッチを強化し、皮膚の働きを活性化させるのをめざしたもの。)

 

〈足湯〉

お風呂も銭湯もダメなら、足湯。

お風呂場に足首、できればふくらはぎまでお湯を入れて、足をつける。上質のラベンダーオイルを数滴たらせば、深い眠りが待っている。

ながらスマホ(オススメしたくはないが!)でもできる、あなたを健康へと導く20分。

お湯が冷めてきたらさし湯をして、上半身も汗ばむくらいが目安。

これも弱火でコトコトと。

 

〈入浴・足湯後の水分の取り方〉

身体が温まり、お風呂あがりに冷えたビールをグイッといきたいところだが、ここはグッとガマンして、氷をひとかけら口に含む。

舌の上でトロケル氷は、ほどよいノドゴシをあなたに与え、喉の乾きを潤してくれるはず。

せっかく身体を温めたのに、冷えた飲み物をグイグイ飲むと、ああ!悲しいかな、またも無限ループに逆戻り!

 

〈冷房の中での睡眠〉

長ズボン、長袖の薄手のパジャマなどが理想的。

なぜなら、冷えは関節から入り込むから。

(スーパーなどの冷凍食品などの売り場に行くと、肘が痛くなる経験はないでしょうか。あれは、短時間でも冷えが関節に入りこむからです。)

よって肘・肩・膝は、薄手でもいいので1枚の布で保護するのがよい。

東洋医学の見方:起きて活動している間は、身体の表面に“ 衛気 [えき] ”とよばれる気をまとっています。これは、寒さやウイルスといった外からの侵入者に対して、防衛する働きがあります。ただし、寝てしまうとこの衛気は身体の内側にはいってしまい、外敵からの攻撃に弱くなるのです。寝る時に布団をかけて寝るのは、このためです。)

また昨今は首を冷やすのを奨励するCMなどもあるが、あまりオススメできない。

(首を冷やしすぎて自律神経がおかしくなった症例が、私にも数多くあります。自律神経が通る首から背骨に冷えがはいると内蔵の機能低下を招きます。)

冷房の風が首まわりに直接当たるときは、日本てぬぐいやガーゼ等の薄手のてぬぐいを巻いて防御すると、夏風邪の予防となる。

洗った髪は、乾くのを待ってから寝る。

 

〈日中の冷房下での注意〉

ミュールやサンダルなど素足で外出するときは、靴下を持ち歩き、喫茶店など長時間冷房下で過ごす時は、はく。

慢性的に頭痛に悩んでいる方のほとんどは足が冷えているので、このケアを忘れずに!

スカーフやショールなども常に携帯し、首、肩、肘、膝に冷えが入らないように注意する。

飲み物は、温かいものをとり、氷入りのキンキンに冷えたものは控える。せめて常温の飲み物を。

 

上記のような対策をはじめられたなら、ご自分の身体感覚が蘇り、新しい気づきも生まれるのかもしれない。

 

これほどの酷暑。

対処法をとおして自己の冷えに気づき、身体を見直すチャンスに是非ともかえていただきたい。

相手に不足はないはずだから。

 

《後記》

 5本指靴下、足湯はとうに衆知となり、最近ではシルクソックスの重ねはきや腹巻きもトレンドとなりつつあります。

コンビニでは常温の水も販売されるようになりました。

ヒエトリに対する意識は、高まりつつあるといえます。

しかしその一方で、ローフードやスムージーもはやり、夏になると若い女性達は、圧倒的にサンダルやミュールを履いています。

 

身体の健康を保つ上でもっとも大事なことは、冷やさないこと。

冷えを取り除いてはじめて、食事療法といったさまざまな療法が功を奏すのです。

大病を患って私の処へいらした患者さん達の多くは、お風呂に滅多にはいらずシャワーだけだったとおっしゃいます。

コマメにヒエトリができていたなら、大病にならなかったかもしれない。

そう思う度、徹底してヒエトリの大事さを皆様にお伝えしたいと思っていました。

いつか「ヒエトリ道」として、お伝えしたいと。

 

この自然環境の厳しくなる一方の昨今、今一度ヒエトリの重要性を考え、是非とも実践してみてください。  

 

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パタゴニアフィヨルドにて約200万年前の氷河を撮影

 

 

 よかったら、この記事も。

garaando.hatenablog.com

 

 

東洋医学各論 陰陽の本質(男女編、両親からの考察)

彼は、元旦になると決まってこう言う。

「今年こそは、新聞の置き場所を決めて、読んだら必ずそこに置くことにしよう!」と。

彼、わが父。90歳。

 

このセリフを聞いた母と私は、目配せしながら無言の会話をする。

「年頭の決意が、新聞の置き場所とは!小さい!あまりにも小さい!!」。

 

父は「キチンとしていること」をモットーとし、きれい好きだ。趣味で水彩画を描くが、スケッチした線からはみ出して色を塗ることができない。それゆえか、洋服はキチッとしたチェック柄やストライプ、そして無地を好む(エネルギーの視点でみると、無意識に選ぶ洋服は、自分自身のエネルギー体*になじんでいて、 その柄や色、さらに質感などは、その人自身が持っているエネルギーを表現していることが多い)。

<*: エネルギー体とは、肉体の上に層になって重なりあっている高次体をいう。神智学では、肉体の次にエーテル体、アストラル体、メンタル体とよばれる、重なりあうエネルギーの層があるとされる。いわゆるオーラ >

 

一方「生き死に以外は慌てるな!」をモットーとする母は、自由度が高く、文字はどうしても罫線をはみ出してしまう。部屋のドアを開放するのを好む。

わが母、82歳。

趣味の料理は、時に和食だか洋食だかわからない、驚くべき組み合わせの創作料理も多いが、わりと美味しい。洋服は、チェック柄を着ているのを見たことがないが、たぶん全く似合わない。無地か、ペイズリーとかの柄もので、原色から淡い色までこだわりがなく、時々私の服をこっそり着る。

 

今回は、我が父母に登場してもらい、陰陽論を考えてみたい。

(ちょっとおさらい:陰とは、内に向かって凝集する力を持ち、集約されて量を産む。陽とは、外に向かって発散する力を持ち、それゆえ動きを生じる。陰は月に、陽は太陽に代表される)

 

生物学的に、男性は陽、女性は陰とされる。

外(社会)に向かって行動する力である陽 と 内(家庭)に向かい育む力である陰。

(今では女性の社会進出も当たり前ですが、母性としての特質は変わりません。) 

このように陰陽は、相反する性質であり、かつ対等な力で対立し衝突しながら、互いにその性質を抑制しあって統一体として働くのだ。

十分に衝突し、それゆえ制約しあい、互いに折り合って相互作用が生まれる。

(これは自然現象はもとより、移り変わる運気や現象などの万事にあてはまります。)

 

さてわが両親。

性格が、まっこう反対のふたりは、まさに陰陽対立。

たとえば、私がサイフを落としたとする。

父は、「いつ、どこで、どうして?」と原因を追求し、まさに親身になってあらん限りのアドバイスをしてくれる。

一方母は、だいたいの話を聞いたところで

「仕方ないわ」となぐさめ、「厄落としだと思えば良かったんでしょ」と励ましをつけ加える。

困ったことがあれば「仕方ないわ」。嬉しいことがあれば「良かったね」。

そして時々、この2文の混合使用。

いつもこう言われて育った私は、この2つのセリフさえあれば世の中を渡っていけるのではないかと本気で思った時期もある。

どこで覚えたのかは知らないが、母は「私は、あるがまま」と、悟った風にちょっと威張って言うこともある。

 

細部にこだわり、分析という内に向かう陰な父

大雑把で、次のことへ思考を動かせる陽な母。

 

しかしこれが時々入れ替わる。

母が「これから先の老後(もう十分に老後!)について、どうするのか話し合おう」と言うと、

あれほど用意周到な父が、「まぁ考えなくてもいいじゃないか。きっとどうにかなる」とお茶を濁し、一転のんき老人へと姿を変える。

これに対して母は「おめでたい人だ。向き合うことができない。こんなにのんきな人をみたことがない」とあきれ顔。

そう、母にとってこれからの老後は、彼女のモットーである「生き死にに関わること」なのだ。

ここで母は将来の不安に執着して内向する陰に、

父はスルーすることで執着から逃れて動きだす陽になる。

 

このように、どこでどのように見るかによって、両親の性格上の陰と陽は容易に入れ替わる。

またこれは、一方が黒になるともう一方が白になるといった夫婦という動態の平衡感覚であり、お互いの考え方や性質もさることながら、ひとつの生命体の反応とも言えるのかもしれない。

(このようなコインの表裏のように、片方の存在自体がもう片方の存在に依存している場合、陰と陽として分析はできるが、どちらかだけを取り出すことはできません。「陰陽の可分不離」といいます。)

 

また近年は、老いというある種の痛みを共有しているという連帯感が、父母の間で生まれてきてしまった。

たとえば

「テレビの音を小さくしてもいい?」とか

「盛りつけは、あっちのお皿の方がピッタリじゃない?」などと私がいうと、

「まぁまぁ、お父さんが楽しんで見ているのだからいいじゃない」と母から拒まれたり、

「お母さんも大変なんだから、このお皿でも十分だ」と私が父に諭されたりするのだ。

おいおい!こんなことは今までなかったゾ。

どうなっちゃたん??私、悪者??って感じ。。

そうなのだ!

時がたち、陰陽まじりあう総体である夫婦は、その団結力を強くした。

私を外敵とみなすほどに。

 

しかしだ。

私はある時に気づいてしまった。

新聞をきちんと決まった場所に置くという、たったそれだけのルール。

または

夏は暑いからドアは開けっぱなしにするという、いわば当たり前の要求。

結婚60年強を迎えてもなお、わが父母は、お互いに一ミリも歩みよってはいないということに。

 

強行に変わらない核を互いに持ちながら、陰と陽の性質が時に応じていれかわり、そして夫婦という全体でみれば、時を経るにつれ、互いの存在が生活の中で溶け合い、依存度がいやおうなく高まり、キズナが強まるという変化をとげていく。

ただ今なお変化中の二人。

 

この夫婦のありようを陰陽で説明する場合、

男性が陽で、女性が陰という対立要素だけでは到底不十分なのだ。

 

陰陽で物事を論ずる時、◯◯は陰で◯◯は陽という対立要素にまず分けられる。

◯◯は陰だから。。◯◯は陽だから。。

こうして、陰陽のバランスを整え、病気や状況を好転させるのに役立つことも多い。

しかし分析できるのは、切り取られた一側面。

さらに視点を変えると、別の構造が見えてくる。

 

陰陽の本質は、

切り取られた2次元の平面から、円環系*の3次元の空間へ、さらには時間を経て変化するありようをとらえる4次元の世界までの、拡大して偏在できる視点にあるのだと思う。<*トーラスとよばれるリンゴのシンをくりぬいたような形の世界>

このような視点からとらえた時、今まで気づくこともなかった折り重なるエネルギーの世界が見えてくる。

そしてそこでは、見方によっては世界が反転するというオセロな醍醐味を味わうことができるのだ。

 

〈後記〉

前回の陰陽論概論が難しかったとの感想を患者さん達からいただき、なんとかわかりやすい例はないかと挑戦してみました。

概ね陰陽は、対立要素の分析に使われることが多く、この例についてはまた具体的に少しづつ書いていきたいです。

 

しかし、陰と陽に分けて分析するというのは、陰陽論の一部にすぎません。 

私が最も魅せられた陰陽論の本質は、複眼の視点にあります。

 

世界は見方によって変わる。

だからこそ病いのとらえ方も

単に忌むべきものでも、

ただ治すべきものでも、

身体だけの問題でも、

またすべてがメンタルで片づけられるものでも、

ないのです。

 

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 キューバハバナの街角にて撮影

(なお父母の了承を得ずして掲載。お父さん、お母さん、お許しあれ!)

東洋医学概論3 (陰陽論:宮沢賢治の世界から)

机の上に一冊の本がある。

友人が長い年月をかけて制作にかかわり、私に送ってくれたものだ。

表題は「宮沢賢治の元素図鑑」(桜井弘著、豊遥秋写真協力 / (株)化学同人)。

 

賢治は、幼い頃に「石っこ賢さん」とよばれたほどの石好きで、植物や昆虫を採集しながら、農学や化学を通して自然を学ぶサイエンティストとなっていく。

のちに彼が、「私は詩人としては自信がありませんけれども、一個のサイエンティストと認めていただきたいと思います」と述べるほどの。

 

賢治作品に散りばめられた彩りあふれる鉱物と、そのエレメントである元素。これらを解説し、新たな切り口で作品の魅力に迫ることができる1冊である。

 

「石っこ賢さん」かぁ。。そしてサイエンティスト。。

私を魅了し、神秘的な世界へと誘う「よだかの星」「風の又三郎」そして「銀河鉄道の夜」といった作品たち。確かにあれらも、自然科学への造詣なくしては、生まれえなかったのかもしれない。。

そう思って、パラパラとページをめくっていく。

すると。。

童話や詩といった文学作品から浮かび上がる、

ある種幻影的な宮沢賢治の世界観。

その輪郭が、妙にくっきりと際立ってくる感じがした。

 

石、鉱物、元素、化学、自然科学、さらに宇宙や異次元へとつながる連鎖。

そしてこれら理系の分野とは、対極とも思える情感あふれる文学作品たち。

一見相反するような分野が、実は相補的に組み合わさって、さらに完全無欠の世界を創り出しているように感じたのだ。

 

また作品のテーマが善悪や生死といった光と影に象徴されているものの、暗闇をみすえて仄(ほの)かに浮かびあがる光が、私に天への憧憬を呼びおこさせる。

 

私は、“ 石っこ”の中に、彼の作品の中に、そして彼自身の中に、古代中国思想でいうところの陰陽の世界をみたのである。

 

そしてこの本のご縁をかりて、ここに中医学の基礎となる陰陽論について、概要をお伝えすることにした。思いきってザックリと!

(その深淵さゆえに、なかなか書き出せなかった「陰陽論」に、やっと挑戦します!)

 

1 陰陽のはじまり

古代中国思想の重要な構成要素である陰陽論は、「呂氏春秋」、「周易」、「管子」、「素問」、「太極図解」などの文献に記されている。

それらによると、陰陽は太極*から生まれたとされる(*太極とは、混沌たる?あるいは静謐なる?宇宙のはじまりの状態をいう。太一とも呼ばれ、究極の一(イチ)を示すとされる。量子物理学でいうところの物理量の基本単位である1(イチ)であるが、「一(イチ)にして全」という世界観を持つ。ううぅ。。難しいですな。なので説明は、あえなくここまで!)。 

 

2 陰陽の概念

陰陽とは、自然界の運動と変化をつかさどる基本原則である。

つまり、

諸行無常(変化しないものはない。変化しないものはただひとつ、変化しないものはないという法則のみ)のこの世にあって、

生命体の誕生から死へと向かうプロセス、

あらゆる日常の事象や現象の発生・盛衰・消滅といった一連の流れ、

こういった栄枯盛衰の自然摂理であり、総則といえる。

 

3 陰陽の特質

 ① 対立 陰陽は互いに対立した性質をもつ。

  <例:天地、上下、内外、生死、遅速、明暗、雌雄など>

      孤陰・孤陽はなく、完全な中立もない。

  <例:太陽(陽)がのぼって日中となり、沈んで月(陰)が出ると夜になる>

  (注:陰陽は要素として分析することはできるが、取り出すことはできない。     ココ、ポイントです!)

 ② 相対 陰陽は、それぞれがさらに陰陽に分けられる(陰陽可分)

  <例:男性(陽)は精子(極陰)を、女性(陰)は卵子(極陽)を有し、

      陽の中にも陰が、陰の中にも陽がある>

  (注:またどこに視点をおくかによって陰陽がいれかわる。

     ココもまた、ポイントです!また別の記事で!)

 ③ 統一 相反する2つの極が、ある結果をなす(相互依存)。

  <例:精子(極陰 )+ 卵子(極陽)→ 受精卵となり、生命が誕生する>

      陰陽は互いにひきつけあい、はねつけあう。<例:男女関係!>

 ④ 転化 陰極まれば陽、陽極まれば陰。

      一方の極限に達した時や一定の条件下で、もう一方の極に反転する。

  <例:健康を心配しすぎると病気になる。発熱(陽)で悪寒(陰)がする>

 (注:これら①〜④の他の具体例については、おって別の記事で!)

 

上記1〜3をざっと踏まえた上で、もっとも大事な陰陽の本質について押さえていただきたい。

  

陰とは、

集約され、凝縮される方向(下・内)へと向かう、

右まわり(ペットボトルのキャップを閉める)のエネルギーを指し、

「水」に代表される「寒」や「静」の性質で、

色はあらゆる色を混ぜた「黒」に象徴される。 

陽とは、

放出し、拡散される方向(上・外)へと向かう、

左まわり(ペットボトルのキャップを開ける)のエネルギーを指し、

「火」に代表される「熱」や「動」の性質で、

色はあらゆる色を含む「白 」に象徴される。

 

さらに 

陰は、

その内へ向かって凝集するエネルギーから、

物質的で量的な性質を帯び、目に見える。

陽は、

その外へ向かい発散するエネルギーから、

機能的で動的な性質を持ち、目に見えない。

<例:手を握るという現象は、

 手という目にみえる肉体部分(陰)+ 握るという目にみえない運動機能(陽)

 とで説明される>

 

ざっとおわかりいただけただろうか。

 

“ 気 ”と同様、陰陽もまた、不可視の世界を探る視点を与えてくれる。

ひとつに見える事象に、実は相反する方向性を持ったエネルギーが内包されているのだ。

 

そして

それぞれに際立った陰と陽がより深く濃密に融合する時、

その事象に与えられたエネルギーは最大となり、

異次元への扉が開く。

鍵穴に鍵がカチッとはまり、クルっと回転してドアが開くかのように。

 

宮沢賢治が、

美しくも遠い天空の世界だけを見上げていたのではなく、

足下にある石やそれを構成する元素にまで視線を落としていたからこそ、

あるいは

凝縮された小さな石の中に、拡がる宇宙をも見いだしていたからこそ、

彼の作品たちが

いつまでも天に煌めく星のごとく、

または鉱物を燃焼させた時に放つ炎の色のごとく、

輝き、発色しつづけているのではないだろうか。

 

<おまけ> 

宮沢賢治を魅了した石について。

石の目にみえる部分、元素や鉱物といった材料の部分は陰となり、

それら材料を集めて、石の形をキープしつづけるといった動的な力は陽となり、

この陰陽があわさってはじめて石として存在できるのである。

 

 

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アルゼンチン、ブエノスアイレスのパンパにて撮影

間(マ)をつなぐもの 「人生が変わるメガネ」

憧れのメガネをとうとう手に入れた。あの噂の「人生が変わるメガネ」とやらを。

 

事のはじまりはこうだ。

ある時私は、初老の患者さんにこう言った。

「私も目が悪くなった・・。コンタクトをしていたら遠くは見えるけれど、近くを見る時には老眼鏡がいる。裸眼だと本は読めるけれど、遠くは近眼のメガネが必要。足したり引いたりしながら、持ち物ばかり増えて・・。」

 

すると彼女はこう言った。

「まだまだよ。もっと年とると、耳も聞こえなくなって補聴器(両耳なので2つ。替えの電池も含む)も増える。そしてヨダレは垂れるし涙腺はつまって涙もでるから、ティッシュやハンカチも絶対忘れちゃダメ。そしてね、歩く時にはツエも持つのよ」。

確かに!グゥの音もでない・・。

 

チマタの加熱すぎるアンチエイジングやら医学会の加齢制御なるものの流れにどうも乗り切れない私は、妙に納得した。

そしてこの時、きたるべき老いというものを観察する!と心に決めたのだ。誰に頼まれたわけでもないが、老いの実態を探る冒険がはじまる気分だ。

人生は絶え間ない探求の連続であるというのが、真理を追求する者の運命(サダメ)なのである。

 

まずは目の問題。

これから老いていくにせよ、今のスタートラインを決めたい。

そこでコンタクトもメガネも新調し、今ある私の最善の状況をつくることからはじめることにした。

コンタクトを新調する際のことだ。

左右ほとんど変わらない視力なのに、矯正しても左眼だけ視力があがらず、

「これ以上はレンズを変えても視力はあがりません」と医者からキッパリ告げられる。

右の視力はあがるのに、そんなことがあるのだろうか・・。

疑問は湧けど、忙しそうな先生に質問する勇気がない。

「まぁよく見えるからいいや」と真理を追求する者にあるまじき撤退に転じる。

 

次にメガネ。ずっーとずっーと気になっていた噂のメガネ。

このメガネを購入するためには、事前にキチンとセミナーを受けて、さらに別の日に2時間にも及ぶ検眼をする。セミナーも検眼もすぐに満席になるため、ずいぶん先に予約をいれなくてはならず、予定が読めずに日程を決められない。一時はご縁がないものとあきらめかけた。

しかし!やっぱりあのメガネでなくては!またムクムクと真理を追求する者が復活。

我が誕生日に思い立ち、運良くセミナー参加の権利をゲットし、会場へと向かった。

 

少人数に丁寧に教え、簡易検査を行うセミナー。

そこで私は、偶然にも魅力あふれるM先生と再会したのだ。

M先生は1年のうちの半分は海外にいらっしゃるため、

なかなかお会いできないでいたのに。

M先生は、その日の朝に知人からこの噂のメガネの話を聞き、すぐに申し込んでやってきたという(なんと幸運なのでしょう。当日知って→電話→当日予約というあり得ないようなスムーズな、この流れ)。

「ところで、どうやったらこのメガネが買えるのですか?」とM先生が質問なさった時、何もご存知なくここへ飛び込んでらしたのだとカナリ笑えた。

そして私は確信した。M先生も真理を追究する者なのだと。

時に真理を追求する者は、驚くべき軽いフットワークで行動することがあるからだ。

 

そしてセミナーを行う松本康先生。彼もまた真理を追求する者が持つ熱すぎるほどの情熱を、余すところなくメガネに、そして眼の不調を抱えている人々に注ぎこんでいた。

 

松本先生は、子供時代のお辛いご経験から目と脳をつなぐ機能に着目。

眼の機能と脳波は正常であっても、「視機能(右と左の眼の焦点があうように調節する脳の機能)」が弱いと、偏頭痛、眼の疲れ、肩こりといった諸症状がでて、集中力が続かない。

視機能の改善によって、子供達の軽度ADHDなどが治るケースもあるそうだ。

 

一般的にメガネを作る際、右目、左目とそれぞれの検査を行い、それぞれの視力を調整する。しかし実際の生活においては、両目で同時に物を見る。

視力はあれど、右目と左目の焦点の位置がずれていることがあるというのだ。

そこでずれたまま物を見つづけると脳も混乱するため、どちらか一方のシグナルが自動的に遮断される。

つまり、実は片目でしか見ていない。

 

「見る」という動作をシステム全体としてとらえた時、右眼と左眼といった個別に分けられた網膜に映る視力ではなく、脳に伝達されて最終的に物を認識する視力(「脳内視力」とよぶそうです)こそが大切なのだ。

 

私は納得した。矯正すべきは「脳内視力」だと。

そもそも私は目が悪い。

それが視力だけの問題ではないと気づいたのはいつだったのだろう。

左右の視力や状態はほとんど変わらないのに、右目と左目で見えてる世界が違うと感じていた。よく片目を隠して見える世界と、もう一つの目で見えるそれとを比べては、色が違う、景色が違うと遊んでいた。

また両目で見た世界は、片方だけで見た世界の中間ではなく、なぜか右目だけで見た世界に近いのだ。

さらに、何気なく道を歩いていると、それぞれの目に飛び込んでくる映像が別個に感じられて、やたらに頭が疲れる時があった。

 

検眼していただいて何より驚いたのは、度のはいらない、焦点を合わせただけのレンズで、視力があがったかのように物がかなり良く見えたことである。それもあの矯正しても視力はあがらないといわれた左眼が。

 

そして両眼からのシグナルがちゃんと脳に伝わるように設定されたメガネをかけてみた。

するとそこには、遠近感の増した、深みある世界が広がっていたのである。3Dメガネをかけたような濃淡ある世界が。

 

セミナーが終わっても、松本先生はメガネを作るように決して勧めはしない。

なぜここでセールスをしないのか?なぜだ?と思うほどに、しない。

作りたいと考えている方もいるであろうに、検眼の予約を積極的に押し出すことなく、家に帰ってゆっくり考えみてくださいとおっしゃるのだ。

それどころか、「かえってこのメガネをかけて立体的にみえすぎて困るという人もいる」なんて言っちゃう・・。

ただ、眼のトラブルで困っている方達にこの脳内視力という概念を知っていただきたい。また子供達の学習障害に役立つのだったら、ぜひ講演なりを行いないたい、とのことだった。

 

あの日は、なんとステキな方達に出会えたのだろう。

 

もうそれだけで、人生がちょっと変わった感じがしたのだ。

 

<後記>

セミナーで教えていただいたことは、大変面白く、興味深いものでした。

身体のひとつひとつの部位それ自体に異常がなくても、「見る」という行為全体をシステムとしてながめた時、各部分の間(マ)をつなぐものの重要性が見えてきたからです。

ネットワーク(つながり)とか関係性とか互換性とかが、機能を円滑にするのだと。

そしてこの考え方は、とりもなおさず東洋医学の特徴的な視点といえます(これについてはまたいつか別の記事で)。

 

このメガネについても、手に入れるに至るプロセスにおいて出会えた人達とのご縁もまた、間(マ)をつなぐものとして感じられたわけです。

 

最後に

このメガネを使ってから1か月以上が経ちました。

深みのある世界に少しとまどいながらも、新しい世界が嬉しくて楽しい。

それだけではなくて、眼と頭が楽だと実感しています。

新調したコンタクトを使う頻度は、どんどん減ってしまいましたが・・。

 

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 イスタンブールの街角にて撮影。題して「右と左」。

(治療中の患者さんとの会話は、ご本人の了承を得て掲載)