“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

気!流れる身体1 腕

アンティークな円錐ドーム型の鳥カゴを想像していただけるだろうか。

私は即座に、背骨と胸椎と左右12本ずつあるあばら骨とが接合してできる人体の骨格、すなわち胸郭を思い描く。内臓を納めて保護する、そんな場を作るための胸郭を。

今回は、この骨でできた鳥カゴが作りだす空間、そこに鎮座まします臓器(陰)と 鳥カゴの外で自由に動くことのできる手足(陽)ーこれらの関係について、経絡(けいらく)という気の通り道を踏まえて考えてみたい。

(注:経絡とは東洋医学でいうところの 気 の通り道のこと。気 の出入りする場所であるツボを、人々が電車を乗り降りする「駅」と例えるなら、経絡は気の通り道である「線路」といえる。)

 

たとえばの話。

自分の腕は、身体の中でどんな役割をしているのかと聞かれた場合、

身体運動に関わると答える人が圧倒的に多いと思う。

もし腕が特定の内臓と関係しているといったら、多くの人に笑われるかもしれない。

 東洋医学では、腕は肺や心臓といった胸郭上部にある臓器との関連が深いのだ。

つまりそれぞれの臓器の身体における位置により、気の通り道である経絡(けいらく)の流れ方が決まる。腕に流れるのか、あるいは足と絡むのかが。

 

さてここで経絡の流れを説明する前に、東洋医学独自の臓腑概念である 「三焦(さんしょう)」と言われるものについて説明したい。

この三焦とは、五臓六腑の六腑中で最大の腑とされるものだ。人体の腕と脚を除いた躯体部分を3つに分け、それぞれを上焦・中焦・下焦という。これら3つを合わせた総称を三焦と呼ぶ。つまり、胸郭を頂点とし骨盤を底辺にした鳥カゴ全体を指すことになる。

(注:五臓六腑とは肝・心・脾・肺・腎、胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦をいう。臓は実質臓器で腑は中空の器官。)

ざっくり言うと、三焦は 水分の運行 と 気の昇降 を行い、臓器の腎・胃・肺と特に関係が深く、リンパ管系と解釈される場合もある。「焦」という字から熱量を表すエネルギーを示すという説もあり。躯体全体の場をあらわし、臓腑としての実態というよりは、そこでの機能として捉えた方が分かりやすい(う〜ん、分かりにくね!つまり、器官の形は見えねど、働きはあるという感じ。五臓五腑を納めている場と捉えると分かりやすいかも)。また五臓六腑は経絡を有しているので、三焦にも三焦経と呼ばれる経絡がある。

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上焦は横隔膜から上の空間部分を指し、肺や心臓を内包する(広義では頭顔面部も含む)。

中焦は横隔膜からヘソまでの脾や胃を含む空間となる。

下焦はヘソより下の小腸・大腸・膀胱などを含み骨盤までの空間をいい、肝・腎も含まれるとされる(広義では下半身全体を含む)。

 

上焦に位置する内臓、そこにまつわる気は腕へと流れ、さらに腕から臓器へと戻る循環を作り出す。

つまり、肺や心臓の経絡は腕へと流れている。

中・下焦にある内臓にからむ気は下半身をめぐる循環網を築いている。

ゆえに肝・腎・脾の経絡は足先から躯体へと昇って各々の内臓と繋がりつつ更に枝分かれして流れ、胃の経絡は足へとむかう流れを作る。

<補足:主要な12本の経絡には、それぞれ流れる方向がある。例:肝・腎・脾の経絡は足先から上へ向かう。肺や心の経絡は各臓器を通って手指の末端へと向かう。この方向を含む経絡の流れのことを「流注(るちゅう) 」と言う。>

こうして内臓は実質臓器のみの働きだけではなく、内臓が網羅する流れに生命エネルギーを載せて末端の手足をめぐることになる。

以下の経絡図を参照(岡本一抱の「十四経絡発揮和解」) 

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肺や心臓といった内臓が腕と関連していることをザックリ理解していただいた所で、

実際に腕と内臓がリンクしている臨床例を少し。

 ・職業柄腕を使う美容師さんが、慢性気管支炎の治療にみえた。腕の疲れがひどく、凝りも強い。常態化した腕の疲れを取っていくことで、咳が治っていく。これは、肺の経絡の流れが詰まっているケース。

・高血圧で狭心症の患者さんのケースでは、肩、首、腕がパンパンに張っていることが多い。特に左前腕内側の中央ライン上で、肘と手首の真ん中より2センチ位手首寄りの場所(ゲキモンという名のツボ)が、格段に硬くなっている。心臓疾患がある方には、大体共通してこのゲキモンに反応が出ている。腕全体の凝りと詰まりをとることが大事な治療になる。

・就寝中に気がつけばバンザイの格好をして寝ているらしく、朝起きると腕が痺れているという方の場合、起きてる時の姿勢が猫背気味で肺が圧迫されていたり、肩・首の凝りが強いことが多い。胸郭を開いたり、肩周りの筋肉を緩める姿勢を無意識ににとってしまう。しかしこの姿勢により更に腕が冷える→血液循環も悪くなって凝りを増す→肺や心臓の経絡が詰まる→腕がだるい→バンザイをすると腕の内側ものびて気持ちがいい→悪循環となる。

・肩や首の凝りは自覚しやすいが、腕の凝りは自覚が少ない。腕を十分に緩めることで、実は肩甲骨周りや首の凝りは相当楽になるケースが多い。肩甲骨の動きが良くなると呼吸が楽になり、心臓の働きも良くなって不整脈が改善されるケースもある。

 

このように肺や心臓の負担を減らすためには、まずは腕の凝りを取り、余計な力を抜いて気の流れをよくすることが大切になる。自覚ある一部分を揉んだり緩めたりしても、溜まっていた邪気の流れ処がなければ、また戻ってきてしまうのだから、その部分を含む流れを作らなくてはならない。

 

凝り(凸:陽)がとれて緩んでくると気が流れる。

力のないところ(凹:陰)にもエネルギーが廻りはじめる。 

目指すべきは、

気!流れる身体。

ここに免疫力が宿る。

 

鳥カゴの形をした人体の胸郭。

この場所にある臓器たち。

それらのそれぞれのエネルギーが手や足という外の世界へ飛び出しては、また戻ってくる。

 

ドーム型をした大聖堂では、日曜日ごとに礼拝が行われている。

そこに人々が集い祈っては、また日常へと返ってゆく。

鳥カゴに守られた臓器のエネルギーが巡る様にも似ているように、今の私には思える。

 

我らの身体内部に鳥カゴがあり、

それが大聖堂へと形を変えて、

身体の主要機関である内臓を守ってくれているとしたら。。

 

そんな風に感じてみるだけで、

神聖さに満たされて、

安心できる気がするのだ。

 

(自分でできる腕を緩める方法)

両膝をたて、仰向けに寝る。片方の腕を手の甲がお尻の下にくるように身体の下敷きにし、体重のかけ具合によって、または身体の向きを変えるなどして、圧迫し腕を感じてみる。両膝を伸ばしたり、腕の位置や肘の曲げ具合などを少しずつ変えてみるのも良い。

 

(後記)

三焦という東洋医学独自の概念は、なかなかわかりづらいと思いますし、説明も難しいです。ただ私は、場の概念も網羅した東洋医学の面白さとして、ずっと注目してきました。

身体は、物理的な道具としての側面と

エネルギー体として変容し得る場としての側面とを併せ持っています。

自らの「身体場」の管理者は、この私。

身体に対する信頼を強めていきたいと思っています。

 

どうか腕の凝りを取って、温めて、緩めて、肺や心臓を守り、免疫力を高めていただければ嬉しいです。 

 

新型コロナウイルスの流行が1日も早く収まりますようにと切に祈ります。

 

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トルコ、イスタンブールのブルーモスクにて撮影 。本文中の図はネットから拝借。

 

東洋医学の内容の理解のために、こちらも! 

garaando.hatenablog.com

garaando.hatenablog.com 

勝手に陰陽論14 ダウンサイズ

どこか知らない国へ行ってみたい。

子供の頃から、そう思っていた。

 

最初に訪れたのは中国。トイレットペーパーの芯を抜いて潰しては、ペーパーのカサを小さくしてスーツケースに押し込み持参した。北京の語学学校に通いながら、そこを拠点に時々旅に出る。

1980年代の、100円ライターやシャープペンシルが中国へのお土産として喜ばれた時代で、人民幣と外貨兌換券の2種類のお金が流通していた頃の話だ。

中国で過ごしていた時、中華料理にはパワーが溢れていると何度も思った。

路地裏の屋台で食べる朝ごはん。立ちのぼる白い湯気に巻かれながら、お店の人もアルミの弁当箱を持って買いにくる人達も活気に満ち満ちていた。

昼食も夕食も。ふんだんに色とりどりの野菜や肉を使い、高温に熱した油で豪快に調理する。鍋やオタマなどがまるで楽器のような音を立て、中華鍋の上で食材が踊り、跳ねる。そこに料理人の大きな声も加わる。

このようにして出来あがったエネルギー溢れる食事。これを食べる人達は、いやでもパワーがみなぎるだろう。 

この溢れんばかりのパワーを持って、中国は爆発的な速度で変化したのだと思う。

 

あれから30年以上が経った。

 

90年代以降、中国の一般家庭にもテレビが広く普及しはじめた。多くの家では白黒テレビの時代をスキップしていきなりカラーテレビに。冷蔵庫や炊飯器といった電化製品も最新型が続々と。 カラオケセットまで。

私は鍼灸師を目指す前は中国関係の仕事をしていたから、中国の目覚ましい経済成長に比例して自分達の仕事量が爆発的に増え続けたので、その速度には多少実感がある。

日常においても、あらゆる物が made in China で溢れ、

2008年に開催された北京オリンピックをTVで見た時は、まるで違う国のように感じられた。その発展の速度に驚き、驚いている内に中国の大金持ちの数が日本の人口総数を超えていたのだ。

 

このように急速に物事が進むということ。これは中国の経済成長がずば抜けているとはいえ、日本においても、いや今やどの国であっても程度の差こそあれ、何事も以前より速く変化するようになったのではないか。コンピュータやネット、携帯などの普及によって。 

 

学生時代の試験の時には、友人のノートをコピーさせてもらっていた。コピー機をありがたいと思っていたが、今は写メがある。

講義も、携帯にあるボイスメモで録音できる。

速度が速いだけではなく、急激に外へと開かれていく。

知らない人と、あるいは距離的に絶対会えないような人とでも気軽に、かつアッという間に友達になれる。

世界で起きていることを、動画を通じて知ることができる。それもクリックひとつで。

調べ物をするのも便利になった。辞書も引かずに検索でわかる。引っかかる内容があれば次々に追っていって、しまいには何を調べていたのかを忘れるほどの情報が入る。

 

とにかく速い。その上簡単。

しかも身体感覚が全く追いつかないほど拡大された世界へと繋がれるのだ。

止まらない膨張。

  

あまりにも速く、急激に開かれていく変化は、何をうみ、何をなくしていくのだろうか。

それはある意味気楽で、生きやすさに通じる軽さをうむように思う。

関わりたくない人とは、簡単にブロックできるらしい。

身体感覚がない分、それほど感情をひきずらないのかもしれない。

こうしてさらに速度を増す。

その一方で手続きを大事にしない、いい加減さも生むだろう。

効率だけを求めるというような短絡さも。

 

速度が速いと粗雑になる。取りこぼしていくものに注意を払わずに、さらに進む。

軽快さも伴い、無感覚のままに。

 

人間が等身大の感覚を使っていた時代は、

もっとゆっくりとしたペースで、

丁寧に世界が回っていたのではないかと思う。

 

新型コロナウイルスが、国境という垣根を軽々と越えて世界中へ広がりつつある一件を見ながら、

時空間が30年前とは完全に変わったのだと、今更ながら思った。

 

どうだろう。

今やスピードも速く外へと拡大するといった陽の力が強すぎるのではないか。

この先に待っているものは、もしや爆発?!

規模を小さくし、

身体感覚の及ぶ範囲へとダウンサイズして、

丁寧に生きる。

そんな陰の力が大事に思えてきた。

(注:陽とは、外に向けて拡散するエネルギーを有し、火に象徴される「熱」や「動」の性質を帯び、軽さを生む。陰とは、内に向けて収斂するエネルギーを有し、水に象徴される「寒」や「静」の性質を帯び、重さを生む。)

 

では一体どの程度ダウンサイズしたいのかと考えてみる。

テマ(手間:手の間)とヒマ(すなわち時間)をかけ、空間を作り、かつ守る。

人間(人の間)が心地よく集い、分かち合うことができるようにと。 

この「間(マ)」を感じられる世界、これくらいでいいのではないだろうか。

 

他人へと感染する病いには、あの時あそこでといった「時空間」が問題となる。

何かしら「間」が問われているような気がする。

人との間、つまり関係性によって初めて人間性を保つことができる人間。その土台が、感染力を持つ病いによって揺さぶられている。

 

外に向かって過剰に膨れ上がった世界をダウンサイズして、自分にふさわしい間合いを取り直す。

そんな機会にしたいと感じている。

 

 

陰陽についてはこちらを参照!

garaando.hatenablog.com

 

(後記)

今回は、前回の「勝手に陰陽論13−1 目からウロコが落ちる」の対として、「勝手に陰陽論13−2 知らぬが仏」を書くつもりでいました。しかし、今の新型コロナウイルス流行の最中にあって、「知らぬが仏」の持つ全き幸福感や世界観を書くのはどうにも気が乗らなくなりました。

また鍼灸を生業としている私は、東洋思想をはじめ、中医太極拳などに馴染みがあり、中国には思い入れがあります。

そこで、このところ気になっている中国をおり混ぜて、今感じていることを書くことにしました。

「知らぬが仏」については、またいつか書ける時がきたら!

 

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 中国、北京の胡同(hutong)にて撮影

 

勝手に陰陽論13−1 目からウロコが落ちる

時々、ピタッとハマる言葉のすばらしさに驚くことがある。

「目からウロコが落ちる」という表現もそのひとつ。

調べてみると英語にもあった!「The scales fall from the one's eyes」というらしい。

お国を問わずに存在する「目からウロコが落ちる」という経験。皆さんはどんな経験をお持ちだろうか。

 

あれは、茶髪や金髪が珍しくなくなりカラーコンタクトで目の色を変える時代になりはじめた頃の、私がクルーとして船で働いていた時のことだ。イスラム圏への入国審査のために、我らクルーは船内の大きな1室に集められた。何やら書類に記入しなくてはならないという。そしてそこには「the color of eyes」という項目があった。

私がB...と書きはじめた瞬間、欧米のクルー仲間が私が書くのを覗き込みながら、Brown と言った。

えっ??Black でしょうよ??

だって東洋人だよ、私。

すると「何言ってるの!自分の目の色も知らないなんて!」と、軽蔑した笑みを浮かべてBrownと言い放つ。周りにいたクルー達もこぞって「Brown !」 と言うではないか。

皆は私を見ながらBrown というのだから、なんとも分が悪い。しぶしぶフクレながらBrown と書き込んだ後、脱兎の如く自室へ駆け込み鏡を見た。

な、な、なんと!Brownだった。。

この時のボーゼン度は、まさに目から鱗が落ちるというほどの身体感覚を伴っていた。

 

物心ついて以来、顔を洗い、歯を磨き、化粧もする際に、おそらく毎日鏡を見ていた。ああ、それなのに。。

何を見てきたのだ!この私。

しかも自分は「人は見たいものしか見ていない」などと、チョクチョク訳知り顔で仲の良い友人達にのたまっていた。今でいうマウンティング的に!

 

その昔、フリオ・イグレシアスとかいうオジサンが「黒い瞳のナタリー」という歌を歌っていた。私は、ナタリーという名前だけど彼女は東洋人だな!とピンときた。だって黒い瞳なんだもの。。

それほど私は東洋人ってのは黒髪で黒い瞳だと思っていた。

いや、思っていたというよりは思い込んでいたのだ。

 

人は大きくなるにつれて、何かしら思いこみという色眼鏡をかける。枠を作りながらカテゴライズして物事を自分なりに組み立てて世界を把握しようとする。

一旦でき上がった世界に風穴が開けられたならば、

思いこみや先入観、そしていつしか自らがはめていた枠があったことに気づかされる。

驚きを持って思う。

私の世界は違っていた。

新しい世界がそこにある。

 

ひとつの色眼鏡が取れたとしても、また次の色眼鏡をかけているのだから、何度もウロコは落ちるのだ。

こうやっていくつもの思い込みが、何かのきっかけで落とされていく。

その度ごとに、今ある現実が違って見える。

 

私は子供の頃から、人間は何のために生きているのか?とずーっと考えてきた。

目からウロコが落ちる。

これを経験するために生きているのかもしれない、そう思うようにいつしかなった。

 

外の世界に対して開いていく。

今までの自分に新しい風が吹きこまれる。

思い込んでいた世界が違った色に塗り替えられる。

気にも留めてこなかった事柄に心を奪われる。

惰性で過ごしてきた日常が揺さぶられる。

私を取り巻く世界は、何度でも生まれ変わるのだ。

たとえそれがどんなに些細な事柄であったとしても。

 

偉人達による驚異的な発明や発見も、

そのきっかけは、

当たり前だった世界が塗り替えられるような、

そんな小さな気づきや

目からウロコが落ちるような体験だったのではないだろうか。

 

「目からウロコが落ちる」。

覆いかぶさっていたものが落とされる。

内発的に外へと向かって開かれる。 

この現象を陰陽論でいうなら、

外の世界へと導かれる「陽」と言える。

ああ!勝手ですぅ・・。

 

東洋医学のおまけ>

東洋医学には、体質や病態を表す用語として「」と「」があり、

気はその性質により「正気」と「邪気」とに分けられる。

(注:正気:淀みなく正しく流れている気。邪気:ヨコシマな気であり、正気の流れが滞って行き場がなくなると邪気となる。邪気>生気で病気の発症となる。2種類別々の気があるのではなく、正気の流れが停滞し淀んで邪気となる。とは文字通り中身がウツロな状態で生気が衰えている状態を指し、とは抵抗力が充実している状態と邪気が溢れて病気の素を作り出す状態の双方を指す)

 

鍼灸治療の基本概念>

ハリは、行き場が無くなって過剰に詰まった邪気を解放し、身体の風穴を開けて凝り固まった世界を外にむけて開き流す。この方法を(シャと読み、余分なものを除くの意)という。

は力のないの状態の箇所にエネルギーを充填して生気で満たす。この方法を(足りないエネルギーを補うの意)と呼ぶ。

このように鍼灸治療は、ハリと灸を使いながら病状に合わせてを行う治療をする。

(補足:上記ざっくり大まかな説明ですが、ハリの中にも体内の深部に及ぶハリは瀉、浅いハリは補、経絡という気の流れに沿って行うハリが補で、流れに逆らうハリは瀉という具合に、ハリだけでも補と瀉を用います。灸においても、硬くモグサをひねって熱いお灸をするのが瀉、柔らかくひねって適度な熱のお灸は補となるなど、灸のみでも補も瀉もできます。) 

勝手に陰陽論13−2へと続く予定!?

  

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クロアチアドゥブロヴニクの城壁から旧市街を撮影

 

陰と陽についてはこちらも参照に! 

garaando.hatenablog.com

 

 

勝手に陰陽論12 豆腐と太平洋

冬を迎え鍋料理の美味しい季節がやってきた。

湯豆腐を作るため土鍋に豆腐を入れて煮えるのを待つ時、たまに思い出すことがある。

あれは、私が精神科医であるS医師のもとに足しげく通っていた頃の話だ。フロイトに詳しいS先生が話された内容のいくつかを、私は今も鮮明に覚えている。

その一つに、潜在意識(無意識)についての話があった。

「潜在意識(無意識あるいは本能的なもの)ってのは太平洋みたいに広大で、人間の頭で判断できる顕在意識(表層の意識あるいは理性的なもの)ってのは、そこに浮かぶ豆腐だよ。潜在意識は太平洋、いわゆる意識は豆腐。太平洋に浮かぶトウフ!」

そうなのか!?

ト、トウフでしかないのか・・。

トウフのような個人の表層の意識は、なんと潜在意識という太平洋の海に浮いているのか・・。

 

太平洋に象徴される潜在意識には、いくつかの層がある。まずは個人の無意識の世界があり、その下には家族や社会、民族、国、さらには人類全体に共通する集合的無意識が、好むと好まざるとにかかわらず綿々と繋がって存在しているのだ。

例えばクリスマスに演奏されるベートーヴェンの第九。歓喜の歌を唱い上げる、国籍を問わないあらゆる人々のさまざまな歓び。そのエネルギーが、唱う人や聴く人々の中に眠っている無意識を呼び覚ます。

あるいはガンという病名を聞いた時、個人がその病名に持つイメージそのもの以外に、人間がガンで苦しんできた歴史に刻まれる痛み、悲しみ、苦しみ、怖れといった人類全体に共通する無意識のエネルギーが貼りつけられる。

こうして言葉は、この潜在意識に乗っかって、一人歩きする力である言霊を持ってしまうのだ。

 

さてこのトウフとは意識であり、我らの頭の世界のことである。これに対して無意識とは自分の力を持ってしてもコントロール不能で勝手に自律的に働く神経に支配される身体の世界なのだ。

 

つまり、頭はトウフで身体は太平洋なのである。

陰陽論でいえば、軽々と流されるトウフは陽で、泰然として下ざさえをする太平洋は陰といえないだろうか。

 

さて、皆さんは自律神経失調症と診断された場合、どんな風に思うのだろう。

私の臨床では

「心臓が苦しくて調べましたが異常はありません。自律神経失調と言われました。」

「手の震えは問題ないそうです。緊張すると起こるので、自律神経の問題みたいです。」

こうして器質的疾患にまで及んでいないので、ちょっと安心する。あるいは自律神経がちょっと狂ってるけどどうすることもできないし、繊細で体質が敏感なのだから仕方ない。。と思われるケースが多い。

不眠症

胃酸過多も

めまいも

不整脈

ダルさも

痺れも

高血圧も低血圧も。。

原因不明で体質に起因し機序が説明できない病は、自律神経の失調となるのだ。

 

ただし、外界へ向けて行動することができなくなる鬱も、

自分の細胞を間違って攻撃してしまう様々なアレルギーをはじめとする膠原病も、

取り除くべきガン細胞を増幅させてしまうのも、

トウフである意識の力ではどうにもコントロールできない自律神経の活動といえるのだから、

自律神経失調というのは、実は全くもって油断ならないのだ。

 

では、この無意識の領域で働く自律神経とはどんなものなのだろうか。

 

ざっくり言うと、脳から仙骨を結ぶ背骨に沿って走り、背側と腹側から身体の内臓の全てに、また眼球、涙腺などの各部位に繋がる神経である。知覚や運動の神経とは異なって、自らの意志とは無関係に自律して働く。ゆえに我らは、心臓の鼓動を止めることも血管を収縮させたり拡張させたりすることも、内臓の動きやホルモンをコントロールすることもできない。

そして自律神経は交感神経と副交感神経という2種類の神経からできている。

交感神経は、外敵に出会った時のサバイバルモードを作り出す神経で、起きている時や緊張・興奮している時に活発になる。

副交感神経は、身体内部の環境を整える神経で、寝ている時などに働きリラックスモードを作る。

 

陰陽論で言うなら、外へとエネルギーがむく交感神経が陽であり、身体内部の活動へエネルギーが注がれる副交感神経が陰となる。

人体は、この交感神経(陽)と副交感神経(陰)とで、全体として一つの目的を果たす。(この互いに対立し合うものどおしが、ある目的のために統一して働くというのも、陰陽の特徴でもある)

 

 陰陽論については、こちらを参照

garaando.hatenablog.com

 

さて、交感神経と副交感神経とが対立しながらも、ある目的のために一体となって働く、その目的とは?

それは生命体の基本、自らの命を守りながら育むこと。

外敵に襲われている時に、お腹がすいたり、眠くなってはヤラレル!危険が去れば、自分の内部環境へとエネルギーが向かう。いつもハイではいられない。

<注:注目のポリヴェーガル(複数を意味するポリとその大部分が副交感神経である迷走神経を意味するヴェーガル)理論によると、副交感神経(迷走神経)には原始的な背側のネットワークと進化型の腹側の2種類のネットワークがあり、副交感神経であってもリラックス状態へ導かず、危機に接して心身をシャットダウンさせ、死んだふりをする場合もあるとされる。>

 

いわば本能である自律神経の活動は、生命の叡智に満ちた深淵さを持っている。

自律神経失調症を治すために呼吸法や瞑想が効果的なのも、頭の過活動を抑えるためだ。

よく「身体の声を聴く」と耳にするが、

太平洋の言い分をトウフが聴く?という感じがしてしまう。

病気を治すには「過剰な頭を黙らせる」という方が、あるいは「身体感覚に委ねる」という方が、より核心に近づけると臨床経験を通じても思うのだが、いかがだろうか。

 

ギリシャの哲学者ソクラテスがいった「無知の知」は、自分の頭と身体の関係の中にも見出すことができる気がするのだ。

 

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ミクロネシア付近にて南太平洋を撮影

ハリ様への道2 出会い

人生を変えてしまう力を持つ出会い。

その出会いには、いくつかのタイプがあるように思う。

まずは、出会いのはじめからピンとくる場合。ピンッ!てね。

あるいは後になって、予期せぬその影響の大きさに驚きつつ、カウンターパンチのようにしみじみとじんわり胸が熱くなるケース。

更には時を経ての出会いなおし。などなど。。

 

20代半ばで初めてハリの先生である田中美津さんと出会った時、私はすっかり美津さんの魅力にヤラレタ感じがした。

しかしその出会いがその後の自分の人生を大きく変えてしまうとは、全く気づかずに優に2年以上の時が流れる。

 

田中美津さん・ハリとの出会いのきっかけはこちらから。

garaando.hatenablog.com

 

その頃の私は、毎日追われるように仕事をしていて、ヘトヘトに疲れきっていた。

精魂つき果ててわかった事は、ただ一つ。

毎日のルーティンをこなすことは、実は最小限のエネルギーで済むということ。たとえそれがどんなに大変であったとしても。

仕事を辞めるも転職するも何かを決断するも、変化を起こすには新たなるエネルギーが必要となる。

ましてや考えても答えが出ないであろう人生の意味や目的を求めるくらいなら、生活にどっぷり浸かって日々をやり過ごした方が楽なのだ。

やり過ごして生きている。

(DV被害にあっているバタードウーマンとか、ブラック企業であってもそこにい続ける選択しかできない人たちは、このようなエネルギー状態が極まっていて、体力も尽きて思考停止に陥り毎日が過ぎていくのだと思う。)

そんな中で、出会った美津さんとハリ。

ハリ治療へ行くという変化が、新たに私の生活に加わった。

 

美津さんの声は、スーッと人の深い部分に染みわたるような、そんな透明さとリズムを持っていて、しかも滑舌がいい。ユーモアのセンスも抜群で、拾いあげる言葉に力がある。

その美津さんがポツポツと語る東洋医学をめぐる言葉達は、あまりにも身近すぎて見過ごしてしまった現実の生活 (美津さんの言葉では「ぐるりの事」)に焦点を当てる。

そしてハリガネより太くて10センチ以上の長いハリを使う江戸幕府御用達の石坂流のハリは、私の世界観を塗り変えた。初めての身体感覚をいくつもいくつも伴いながら。。

 

美津さんのハリ治療を受けていると、

自分がイモムシのような一つの細胞になっていく感じがした。

「あなたね、分析して幸せになれた事ってある?」と、

背中にハリを打たれながら、あの心に染み渡る声で問われても、イモムシ状の私は返事ができない。

「分析かぁ。。」

寝てしまったかのように見えるかもしれないが、ドッコイ私は起きている!

「自分の行動やら人間関係のアレコレを分析してたけど、そういえば幸せには結びつかなかったな。。」と遠くでボンヤリ思う。

しかし身体がボヨーンと大きな軟体の塊になっていて、それこそ分析が難しい。

確かジプシーキングスの曲が聞こえていた。まだ売れていない頃の彼らの音楽は、その頃の私には新鮮だった。

ジプシーでボヘミア〜ンな異国の響きが、思考することで生じる束縛を解き放ち、身動きはままならぬが、身体内部をユラユラと自由にさせたよ、オレッOlé! 

 

こんな感覚を味わいながら治療が終わる。

すると、私は身体ごと大きな自分になっている。

ボワーンとドラエモンかドラミちゃんのように、ボワボワに。

そして、もうなんだか現実がどうでもいいように思えた。

投げやりな感じというよりも、「そういう現実もあってもいいかな、なんでもアリで!」というようなちょっと余裕の感じで。

今ならわかる。エネルギーが、気が、満ちたのだ。

それも身体まるごと。

(注:人間の身体は物質的肉体の周りにエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体などと呼ばれるエネルギーの層をまとっています。目に見えないこれらの層が充実してくると、大きくなったり、広がったりする体感があります。瞑想や太極拳、あるいはフリーダンスや踊りながら参加するライブやコンサートなどでも、このような体感を得られます。)

 

その頃の美津さんの治療所は、細い小路を入ってたどり着く隠れ家のようだった。

私は秘密基地へ行くみたいな高揚感を持って通っていた。

疲れたら、身体の様々なところへ打ち込まれた箍(タガ)を外してもらいにハリへいく。

そして箍(タガ)が外され、身体の各所は再び繋がりあい、イモムシのような自分になって、ボワボワと大きくなるのだ。

それだけで日常の様々なことの捉え方が変わった。

「ま、どうでもいいか」とか、

「なんだ、些細なことだったね」とか、

「よし、やってみるか」とか、

「何はともあれ、美味しいものを食べよう!」とか。。

自分に迷いが少なくなって、キッパリしてくる感じだ。

身体が楽になれば、自然に自分が変わる。

 

身体の面白さにのめり込みながら、

小さいことが積み重なっていくうちに、

子供時代に職業として知りもしなかった「鍼灸師」ってヤツを目指すことになったのだ。

もっとハリを知りたい。自分で自分にハリを打てたらいいな。

ちょっと、やってみるか。。と言ったノリの延長で。

このノリは、それまでの自分が選択してきた進路の決定方法とは全く違ったものだった。

それ以来、私の選択と決断はいつもこのノリになったように思う。

 

先日、美津さんのドキュメンタリー映画「この星は、私の星じゃない」が上映された。

映画の中で懐かしい美津さんの声を聞き、力ある言葉に頷いたり笑ったりしながら、昔のことを思い出していた。

久々に美津さんと再会し、私は鍼灸師をずっとやっていくと告げることができた。

美津さんは言った。

「身体って、面白いよね!」 

そう、これに尽きるのだ。

 

美津さんとの出会いは、その初めから魅力的だった。

本質を求めるハリと

美津さんの持つ優しさ、ユーモア、傷つきやすさ、強さ、正直さ、そしてカリスマ性。とりわけ美津さんにはチャーミングという言葉がよく似合う。

今、しみじみ思う。なんと大きな出会いだったかと。

そして私は、

それまで自分であったはずの自らの身体と、出会い直しをすることができたのだ。

たぶん、この自らの身体との出会い直しの道のりは、生涯続いていくに違いない。

それもまた、なんとも嬉しい。

 

田中美津さんの書籍> 

 「明日は生きてないかもしれない・・・という自由」インパクト出版会、2019年

 「この星は、私の星じゃない」岩波書店、2019年

 「かけがえのない、大したことのない私」インパクト出版会、2005年、

 「新・自分で治す冷え性」マガジンハウス、2004年 他多数 

 

 

(後記)

私はハリによって自分が大きくなるという体感を得ました。今にして思うのですが、これは心理療法で使われるエンパワーの手法に他なりません。

大きくなった自分は、クヨクヨ悩んでいた分析脳に支配されていた小さな自分を凌駕します。大は小をかねながら。。

インナーチャイルドワークも自我の成長が進まなければ、そこにアイデンティティを作ってエネルギーを注ぎ、物語をさらに強固なものに塗り変えて、いつまでもそこに居着くことになってしまうのです。

 

美津さんに「分析して幸せになる?」と聞かれた時に、私は頭で理解することの限界をうっすら感じ取り、相まって身体の感覚の面白さを味わうことができました。自分の身体を実感できるようになると安心感が増します。自己の一体感というか。。この安心感を礎に一歩が踏み出せるのだと自らの経験を振り返って思います。

 

「あなた、まずは身体よ!」と教えてくれた美津さんに感謝を込めて

生きづらかったら、苦しくなったなら、

とりあえずは身体、整えましょ。

そして身体感覚、開きましょ。 

私も皆さんに伝えていきたいなと思っています。

 

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チリ、プエルトモン付近(パタゴニア地方)の海上から撮影
 

 

勝手に陰陽論11 トリッキーな身体感覚 ほてり

身近な健康法である入浴。

昨今のシャワー派の台頭を聞くにつけ、私は入浴の恩恵について日々研究している。その成果もあって、体感で大体のお湯の温度がわかるようになった。ま、あってもなくてもいい能力だけどね。

 

それにしても先日はいったお風呂は、熱すぎた(約45℃)!

ヒートショックプロテインHSP)入浴法みたいだ。

<注:ヒートショックプロテイン入浴とは、身体に熱のストレスを与えることで、細胞を修復する時に働くタンパク質(HSP)を増やし、免疫をあげることができるとされる入浴方法。設定温度は40℃〜42℃>

浸かっているうちに、不思議な感覚に襲われる。

熱いはずなのに、皮膚の表面はかえってピリピリと冷たい。

熱いのか?冷たいのか?

 

そういえば昔もこんな逆転現象があったなぁ。。

子供時代、海で泳いでいて冷えきった時だ。

唇もブシ色(注:北海道の方言で、どす黒い紫いろ)になって、ガタガタと震えて海からでるのだが、冷たいはずの海の中(水温18℃以下)の方が陸地(気温20℃以上)よりも暖かく感じたのだ。

寒いのか?暖かいのか?

 

今回は、このトリッキーな身体感覚について考えてみたい。

 

更年期の女性が襲われるホットフラッシュ(顔面、頭からダラダラと滝のように汗をかく症状)。またはベッドで寝ている姿勢から布団を剥いで足を上げて壁につける。そうやって冷やさないと寝れないといった足の火照り。

これらは陰陽の不調によっておこる。

上にあがる性質を持つ陽の気が上半身、とりわけ頭部に昇ったまま下半身へとおりていかない。

頭痛、めまい、耳鳴り、イライラ、不眠などといった更年期の不調は、この陰陽の気の流れの分離によるところが大きい。

 

 更年期については、こちらも参照。

garaando.hatenablog.com

 

そもそもだ。

実質臓器の内臓や脳は絶えず活動しているため熱を生む。そのため実質臓器が多い上半身とその周辺はこの熱の影響で体温も高いが、実質臓器が少なく管腔臓器で占められる下腹部や手足の体温は上半身と比べて低く、冷えている。

 

東洋医学では、人体にはこの冷え(陰)と熱(陽)とが分離することなく巡りあうシステムがあるという。

月(陰)と太陽(陽)は、それぞれが一つ所に留まることなく互いに影響を与えながらも絶え間なく移動する。刻々と夜が更けて必ず朝がくるように。

人体は小宇宙なのだから、このような陰陽のバランスある流れが身体の中に備わっているのである。

 

さてこのシステムとは?

ざっくり言うと、人体には気の通り道である経絡(けいらく)という12本のラインが縦に走っている。

これらには陰陽の2種類が6本づつあり、陽のラインは身体の上から下へと、陰のラインは下から上へとエネルギーを運ぶ。

(注:陽は外・上へ、陰は内・下へ向かうエネルギーである。しかし宇宙や自然界は開放系でなく円環系であることを考えると、上へ向かった陽の気は限界点に達して下へ降りてくることになる。東にずっと行けば西になるように。足の下にも天があるように。

天と地の間に位置する人間は、天から降り注ぐ陽の「気」を受け取り、地から陰のエネルギーを「味」で受け取るとも言われている。

それゆえ人体では、経絡の陽ラインは上から下への方向で、陰ラインは下から上へと向かう流れに乗ってエネルギーを運ぶ。

天・地・人が組み合わさった生命エネルギーが、互いに影響しながら、流転し循環するという自然界のシステムなのだ)

 

つまり、身体の中で陰陽のエネルギー双方が健全に流れる時、それらは身体の上部と下部とに分離されることはない。

 

足がほてる方は言う。「冷え性じゃありません。暑くて暑くて、くつ下なんて絶対はけない」と。

しかし、東洋医学においては「火照り:熱」は「冷え:寒」の極まった状態とされる。(注:中国医学の古典「傷寒論」では、自覚できる冷えは「寒」、他覚的な冷えを「冷」という)。

足のほてりの場合は、更年期の不調の原因と同様、上半身に「熱」、下半身に「冷え」が偏ることが多い。

<注:熱と寒(冷え)が複雑に絡み合うケースとして、身体全体の内部は冷えているが体表全体が熱い場合や、躯体は熱いが、手足が冷えている場合など熱と寒(冷え)は、いくつかのパターンで混在している>

 

さらに陰極まりて陽となり、陽極まりて陰となるのだ。

つまり冷え(陰)が極まると、ほてり(陽)に反転する。

そのため、ほてるから冷やすと、さらに冷えが入り、より一層ほてるという無間地獄の扉を叩くことになる。

 

なんとトリッキーな身体感覚!

 

症状とは、細胞たちの表現であり、

繰り返し現れる症状には、その奥に時の集積がある。

そして症状がいったん取れることと、病気が治ることとは必ずしもイコールではない。

 

最後に長年の足の ほてり が実は冷えだったことに気づいた私の患者さんの、その独自のメソッドをご紹介させていただく。

 

Aさんは、およそ14年間、足の ほてり が悩みだったという。昼は仕事での車による移動がメチャクチャ多い。クーラーをつけて特に熱い足をガンガン冷やしていた。昼間はこうして過ごし、夜寝ると足が熱くて目が覚め、眠れない。バケツに氷を入れた水をはったり風呂場へ行って、足を冷やす。とにかく熱いから冷やす。この冷やし作戦は5年以上に及んだ。

2年ほど前に、それは冷えの極まった状態だ!と私に言われ、驚きながら作戦変更。クーラーを極力避けるように。そして暑かったこの夏。移動する車内はクーラーをかけて、足には後部座席に置いてあるモコモコブーツを取り出して必ず着用。常に足を温める行動をやってみたという。すると、今までの火照りがとれてきたのだそうだ。名づけてブーツ作戦。その後もスムージーを飲んだ日は足がほてるなど独自の研究を続けている。

いかがだろうか。

斬新なる作戦に、賛美を送りたい。

 
遊びココロを持って、自分を知り、自然を学ぶ。

健康へと向かう道のりの先には、希望がみえてくるはずだ。

 

<後記>

北国育ちの私は、真冬に手がかじかんで冷たくなると自分の首の後ろに手の平をあてて暖をとっていました。手が暖かくなると喜んでいると、次第に首が冷たくなるのに気づきます。

暖かいのか?冷たいのか?

この両極が淘汰し合う感覚を遊びながらよく味わっていたものでした。

どこに視点を置くのかによって身体感覚も変わります。

冷えていると無感覚になってしまうことが多いため、熱い方が感じやすく、冷えに気づかないのかもしれません。

その熱さ(暑さ)の裏に、奥に、下に、冷えは潜んでいないのでしょうか?

今一度検証してみていただければ嬉しいです。

 

 

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ブラジル、グアナバラ湾の海底油田の採掘現場にて撮影

臨床例としてAさんのご協力を得て掲載

 

東洋医学概論4 身体感覚を開く

あなたの座右の銘は何ですか?

そう聞かれた時を夢みて、わが座右の銘を決めてみた。かけだし鍼灸師時代の25年以上も前のことだ。その後ずっーと今の今に至るまで、ただの一度も誰からも聞かれたことがないです、ハイ。

私の座右の銘は「押してもダメならひいてみな!」なのにね。

 

先日そのことを思い出していたら、気づいてしまった。

なんと「押してもダメなら引いてみな!」は陰陽の法則だということに。

押し(外に向かう陽)てもダメなら引いて(内に向かう陰)みな!

というわけで、どちらか一方だけにリキンで上手くいかない時は、反対側でバランスとりな!と言っているのだ。

陰陽微妙に合わさってうまくいくのさと。

やはり、世渡り上手の金科玉条なるセリフ。

 

ところで、みなさんは  On the Job Training、略してOJT をご存知だろうか。

これは、企業の新人教育の際、職業訓練を行う手法のひとつである。

実際の業務を行い、動きながら身につける。

自分の経験を振り返っても、やりながら学び覚えるという方法は効果が著しいように思う。

子供が言葉を覚える方法も、まさにこれなのだ。

私がこのOJTという言葉をはじめて知った時、我が座右の銘「押してもダメなら引いてみな!」と共通の何ものかを感じた。

 

どちらも、身体を使ってやってみるという手法といえる。

体感も伴って進み、壁に当たると立ち止まって考え、臨機応変に別の動きをとる。

すると、なんとなくわかってくる。

理屈は動きとともに身体に落とし込まれて理解され、我らは実務を身につける。いわゆる体得だ。

 

さて、そもそも「わかる」「理解する」というのは、どういうことなのだろう。

 

わかるとは「分かる」「解る」と表記されるように、分けて分解して、そのエッセンスをあぶり出し、理性的にわかるということでもあるようだ。

西洋医学の力は、この「分析」にあるのだと思う。

分類され画像に映し出されて、

あるいは数値に置き換えられて、

視覚的に客観的にアタマで「ワ・カ・ル」世界。

まさに「百聞は一見にしかず」どおり、視覚に訴える分析は圧倒的な力を持つ。

身体の中を分け入っては細部に焦点を当てて、見えない世界を可視化させ、さらに客観視させる。

 

一方東洋医学において「分かる」というのは、「五臓六腑にしみわたる」あるいは「腑に落ちる」といった個人の身体感覚を伴う主観的なものだ。

<注:五臓とは肝・心・脾・肺・腎といった実質臓器を指し、六腑とは胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦(「さんしょう」といい、東洋医学特有の概念。これについてはまたいつか!)といった中が空気や水分が通ることのできる管腔臓器をいう。>

つまり内臓の隅々にまで行き渡るリアルな体感、それを通じてワカルというわけだ。

また東洋医学には、心(感情・精神)と身体とは分かつことができないものとする、「心身一如」という概念がある。(注:西洋医学では精神と肉体とを切り離す、デカルトが提唱した心身二元論の立場をとる)

心と身体は切り離せないのだから、感情(心)にも身体感覚を伴う。

怒った時は、頭に来て(頭に血がのぼり)、ハラがたち(腹直筋が筋張る)、ハラワタが煮え繰り返る。

嬉しい時は、ハートが開き、胸が高鳴り、脈が速くなる。

驚いた時は腰が抜け、恐ろしい時は身の毛がよだつ。

悲しい時は胸がふさぐのだ。

  

現代は、頭の理解(分析)がいき過ぎてしまい、アタマと身体との繋がりが弱く、

身体の感覚が鈍くなり、繊細な感情の感受も乏しくなってきた感じがする。

 

臨床での私と患者さんとのやり取りを例に挙げてみる。

・運動はしてますか?ーテレビでとにかく歩けと言っていたので、毎日5,000歩は歩いていますが、足りないみたいですね。本当は何歩がいいのですか?

・よく眠れますか?ー睡眠はアプリで測っています。レム睡眠ノンレム睡眠の繰り返しを4回していて時間も6時間。睡眠状態の管理もできているので大丈夫です。

・気になるところはありますか?ー体脂肪率は20%なのですが、体重は今のままで筋肉量を増やしたいんですよね。あ、プロテインは取ってます。

・病気のための減量はどんな感じですか?ーレコーディングダイエット(食べた物を記録するダイエット法)をしていたので、食品のカロリーはわかっています。今は糖質制限をしていますが、血液検査の結果はまぁまぁ良くなりましたね。

 

このように数量で測られる世界に、身体感覚を問う余地はない。

 

また私が民間療法を勧めてみると、

「それってエビデンスは、あるのですか?」と言われることもある。

エビデンス。ああ、悲しい響き、エビデンス

受け継がれる伝統療法ではダメなのだ。数値に置き換えられたデータこそが必要となる。

エビデンスも確かに大事だと思うし、必要性も感じる。しかし、エビデンスを求める人の中には、それこそが唯一の正解であるかのようにとらえる人もいる。One of them なのに。。

 

少し前までは、

「ワタシテキには、〇〇なんですよぉ〜」とか

「ワタシって、そういう人なんですよぉ〜」と言っていたではないか。

それが自分の身体に関することになると、

エビデンスがないことは、あんまり・・」と。

なぜに、ここだけ客観的になる?

なにかと求めてやまない「自分軸」。今ここでそれを発動させないでどうするの??

だって身体こそ、とっても個体差があるのだよ!

とツッコミたい所を、何度自らをグッと抑えたことだろう。

 

そしてエビデンスにこだわっているとこんな事も起こる。

痛みがあって病院へいった患者さん達が医師から言われたという。

「レントゲンで見るとすっかり治っている。おかしいね、痛くないはずだ。」とか、

「気のせいでしょう。心理的なものだと思いますので、心療内科へ行ってみますか?」とか、とか。。

でも本人達は、本当に痛いし、気のせいなんかではないと訴える。

 

敏感な方は、エーテル体(注:人体はその外側に幾つかのエネルギーの層をまとっており、肉体に一番近く、表皮の5mm位外側で感知できる層のエネルギー体をさす)の損傷も痛みとして感知する。私の臨床例でも、当人の訴え通りにエーテル体が傷ついている場合が多い。たとえデータに上がってこなくとも(注:メンタルの影響で痛みがでる場合ももちろんあり)。

また経絡(身体にある気の通り道)の流れも知らない方が、その走行どおりに痛みを感知していることも何度もあった。これは明らかに気のせいではないのだ。

  

治療する側もされる側も身体感覚を開いていくことは大事なのではないだろうか。

身体感覚を開いていくことは、

自己の拠り所としての身体をリアルにワカルようになる唯一の方法であり、

このプロセスをぬきにして真の健康はあり得ない。

 

そして身体感覚を開くためには、

頭で考えてばかりいないで、身体を動かしてみる。

するとエネルギーの流れが変わりはじめ、何かが起こる。

そうやって身体を使いながら、起こってきたことを通して

自らの肉体に、己の感情に、意識を向けるのだ。

まさに On the Job Training !

 

そう、ちょっことだけ押して、ダメなら引けばいい。

 

 

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ブラジル、リオデジャネイロコパカバーナビーチにて撮影 

(なお、本文における患者さんとのやりとりですが、多くの方に共通する例を、まとめて編集した形で記載。特定の方を想定したわけではありません。)