“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

繋がりあう世界6 生命力

 数年前に父が亡くなった。生と死との境界はなんだか曖昧だなぁと、その時私はぼんやり思った。死んだはずの父の身体は、人肌ほどの暖かさがあるように感じたし肌艶もよかった。爪や髭も伸びる(体内の乾燥により身体が小さくなって伸びたようにみえるという説もあるが)。父の死は緩慢に思えた。

 そもそも死とは、生物学的にどのように定義されているのだろう。心肺停止を死と定めてみても、AEDや人工呼吸などの心肺蘇生法で息をふきかえす場合も多いのだから、早々には決められない。脳死を死と認定するかどうかについても、大変ナイーブな問題だ。また脳死の場合に臓器が移植できるとされている点をみても、脳という局所におこった死は、他の臓器の死までにはいたっていないことになる。つまり私たちがひとつの身体と思っている自らの肉体は、さまざまな生命のより集まりにちがいない。

 心肺が停止して酸素と血液が全身にまわらなくなると、他の臓器や細胞はしだいに代謝できなくなって、やがて活動はとまる。ひるがえっていうならば、酸素や血液といった繋がりさえあれば多くの生命は生きつづけるのである。それゆえ脳死と判定された場合に取りだされたある臓器は、別の肉体でのさまざまな組織との間に関係をきずけたなら、再生できるのだ。ウシやブタの生体弁が人間の心臓に用いられるのだから、種をこえてさえ移植ができる時代になってしまった。移植や再生医療の成功は、その場における繋がりができるかどうかにかかっているように思える。

 また体内にある臓腑(臓とは肝・心・脾・肺・腎の実質的な組織を、腑とは胆・胃・大腸・膀胱といった中空の器官のこと)の一部が失われた場合はどうだろう。病気で胃を全滴した場合も、個人差はあるものの、ある程度の時間の経過とともに食物を消化できるようになる。脾臓や腎臓の片方などを切除してもそれなりに修復されていく。声帯の神経が切れて声がでなくなってもその半年後にはカラオケで歌が歌えるようになった症例もあるし、膝の半月板がなくなっているが支障なく生活していらっしゃる方もいる。主要だと思われる臓器や組織をなくしたとしても、働きは緩やかに復活する。形は失えどその機能は回復していくのだ。

 ひとつの個体と思っている私たちの肉体は、大小さまざまな生命体の共生の場であり、多くの生命が複雑に繋がりあっている。そしてこの繋がりこそが、身体をひとつの個体として成り立たせているにちがいない。

 こんなことを考えていたら、経絡こそ、臓腑をつなぎ合わせている体内をめぐるネットワークだと閃いた。そういえば胃を全滴した方たちは、胃の経絡(特に膝から足首まで)に力がないことが圧倒的に多いし、心臓弁のオペがうまくいった方は心臓にかかわる経絡(心経と心包経という経絡。腕に流れている)の反応がすっかり改善されていたこともある。

 自らの身体をひとつの個体として成り立たせている繋がり。私は血液や酸素、その他の細胞レベルでの繋がりのみをイメージしてしまっていた。狭い部分にとらわれていたのだ。そうだった。もっと大きな、あるいは別次元の繋がりもあるはずだ。細胞レベルの繋がりのみならず、気の通り道である経絡という繋がりなど、まだまだ生命というものの持つネットワークははかりしれない。

 

 多くの生命が結集した我らの身体。それらを繋ぐものこそ、生命力の根源なのではないだろか。

 

(後記)

 2000年頃から量子力学やエネルギー医学といった分野が注目されてきています。実は鍼灸エーテル体とよばれるエネルギー体をあつかう治療です。エネルギーオタクのように気の観点から物事を見るように実験している私が、時としてすっかり近視眼的な発想にまだまだ縛られているのだなぁとこの記事を書きながら感じました。人体とは、いくつものエネルギーのレイヤーをまとい、外界に対しても体内においても、たえずエネルギー交換をしている有機体と思っていたのに・・。

 東洋医学をはじめ、こういった分野がもっともっと研究されていくことを切に願いつつ、私も精進していきたいなぁとあらためて思っています。

 

 

 

太平洋と大西洋を繋ぐ、全長82kmのパナマ運河を明け方に船上から撮影。3段階の閘門を作り、船の水位を上下させて通航させる方式の運河。

 

気については、こちらを参照

garaando.hatenablog.com

 

経絡については、こちらを参照

garaando.hatenablog.com