“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

雑考6 時と記憶

 我が家の上空にマイナス25度の寒気団がやってきた。木枠にはめられた平坦な窓ガラスは、万華鏡でうつしだされる模様にも似た、透明な雪の結晶が重なりあい、その厚みを増す。外は八甲田山のような猛吹雪だ(いったことはありません)。

 私は用があって、凍えそうな世界に勇気をふるって飛びだした。風雪が容赦なく視界をせばめる。足下だけを見つめるのが精一杯だ。歩道であるはずの道は雪ですっぽり埋もれている。膝下がズボッと雪に埋まるのを避けるため、他人の足跡の上に自分の足裏をのせて、両サイドに積もっている雪に触れないように、狭い1本道を綱わたりのようにソロソロと歩く。すると、同じ道をこちらへ向かってくる人がいた。こんな時に出あう人々は、たがいに声をかけあう。少しづつ身体をずらしあってすれ違った。用をおえて帰途になると、吹雪はおさまっていた。大雪に覆われてしまった歩道部分に、細いながらも深い溝が1本だけ続いている。何人にも行き来されたであろうその道は、来た時よりもしっかりと踏み固められ、幅が少し太くなっていた。

 行きかう人のみんなが、ただただ前の人の足跡に重ねて歩く。こうして道がしっかりとできていくのだ。

 

 この道のように、私たちの脳や身体で起こる反応においても、刺激が繰り返されるごとに確固たるルートができていくのだろう。とりわけ記憶も。繰り返される刺激によってシナプスでの伝達がスムーズとなり学習機能も加わって、1本のラインがくっきりと浮かびあがる。

 

 今回は、私たちの心と身体の中にできあがる1本の道、そしてその溝の深さについて考えてみたい。

 

 皆さまは、インナーチャイルド(内なる子供)という心理学で使われる用語をごぞんじだろうか。大人になってなお、人は自己の内に子供を抱えている。子供のころの苦しい経験や痛みといった記憶が大人になってからの行動パターンに影響を与えるため、無条件に反応してしまい人間関係がスムーズにいかなくなってしまうのだ。このインナーチャイルドを癒して生きづらさを手放す手法は、チマタにあふれている。私自身もさまざまなワークを経験してきたが、最終的にたどりついた考えは、「この問題をあつかうには前提条件こそが大事」というものだった。

 何度も何度も眠っていたかもしれない子供時代の辛い経験にアクセスすることで、痛みが強固になってしまうケースがあるからだ。雪道の底面がより深く、より固められていくように。トラウマを手放すどころか、それがかえって自分の中に居ついてしまう。また無意識の経路が意識化されることで、さらなる物語が紡がれていく。伝言ゲームで最後の人には別のお話になるように、何度もそのことを考えるたびに味わったはずの傷が少しづつ変質しはじめ、ある人にとってはより強烈なトラウマになりうるのだ(注:記憶がぬりかえられたとしても、今の自分が思う過去こそが現実であるという見方もある)。意識化されない膨大な過去の記憶という広い広い雪原に、痛みへとつづく一本道に焦点があてられ、深く掘りさげられる。自らが開放されるワークとして成功するためには、この痛みに居つかない視点が自己の内に育っていること、あるいは育っていくことが必要だ。つまり、広大な雪原を見渡しつつ一本道を俯瞰できる力、言いかえればある程度成長した自我がなくてはならない。

 

 つぎに身体における一本の道について考えてみたい。

 活性酸素の研究をしていらっしゃる方から老化について教えていただいたことがある。年をとると腎臓の機能がしだいに衰える。これは腎臓を養う血管の中で毛細血管がだんだん働かなくなって、比較的大きい血管がバイパスとして血液を集約して働きだすというのだ。こうして大きな血管がなんとか腎臓の働きをまかなっていると、微細な血管はどんどんサボりはじめる。これが老化なのだそうだ(補足:活性酸素を除去することによってこの末梢の血管が息をふきかえし、腎臓本体への血液量が増えて腎臓の機能向上へとむかう。よって活性酸素の除去はアンチエイジングに直結する)。同じことは、心臓の冠状動脈にもいえるだろう。加齢とともに血管がつまりはじめ、バイパス手術やステントを入れて血管を守ることで心臓の働きを保とうとするのだから。つまり年をとるにしたがい全体のエネルギー量が少なくなってくると、身体も省エネに励む。そして、いつしか細かい血管はより大きな血管に統合されていくのだ。細い道は、その役割をより大きな道に託して埋もれていくことになる。

 

 北国では、粉雪が優しくチラチラと舞う時もある。開いた手の平のうえに舞いおりたなら、スウッと溶けて消えゆくような軽い雪が。このような雪が降りつづくと、浅い溝の雪道は、ふわっとしたベールに包まれてしまったかのように、いつしかその姿を消す。こうして溝が深く幅の広い道の輪郭だけが浮きたつのだ。道を人体での血管にみたてるなら、毛細血管がやがて衰え、大きな血管にその働きをまかせるのに似てはいないだろうか。

 

 こんなふうに思いつつ雪を眺めていたら、想像がひろがった。

 人は年を重ねるごとに、イマイマの記憶は忘れさるのに、子供時代の記憶はかなり鮮明に覚えている。なぜ直前の記憶よりも昔の記憶の方を覚えているのか。イマ と はるか昔 とを時間軸で比べてみると、イマからさかのぼる昔を直線で結ばれる距離ではかっていたことに気づいた。しかし時間というのは直線的な距離ではなくて、身体に刻まれた溝の深さで計られるものなのではないだろうか。

 

 時を重ねるごとに、何度も何度も掘りつづける記憶がある。その記憶は塗りかえられながらも再生をくり返す。大雪であっても、しっかりした一本の道ができあがるように。

 その一方で、簡単に雪に埋もれてしまうような記憶がある。そこへとつながる道の溝は細くて浅いために。

 

 雪原に大の字になって横たわれば、時は、天から降ってくる。雪の形をかりて。私の身体の細胞たちが作りだす大小さまざまな溝を埋めつくすように。

 深く刻まれた、太い溝だけは埋まらない。どんなに時が進んでても、私たち生命体の活動がそれを再生しつづけ、それにより終わることがないからだ。

 その一方で、浅い溝でなされる生命活動は、浅いがために流れが少なく淘汰されやすい。そこに時が雪となって降りつもり、その溝はしだいに形を失うのだ。

 そして我らの上に舞いおりた雪は、やがて水となって身体をつらぬき流れて、さらに水蒸気となって再び天へと昇る。こうして終わることのない時がまわりつづけていく・・。

 

 私たちは、天空という大伽藍の中にいる。ここでは、砂時計の砂のかわりに雪が舞いおりているのかもしれない。

 

(後記)

 ウクライナでの戦争がはじまって1年がたちました。トルコ、シリアでの大地震もあって。

こういう現実から逃避したいような気持ちもあって、2月はよく雪の中を歩きました。寒さが骨身にしみましたが、同時に落ちついた気持ちにもなりました。雪は魅力ありますね。雪の持つ絶大なる力を、少しでも伝えられたら嬉しいです。

 

思い出のスキー場、小樽天狗山を撮影。その頂上からは小樽港までもみわたせる。大雪の時にすっぽり雪に埋もれた街を、もう一度あの場所から見てみたい。

 

記憶については、こちらも。

garaando.hatenablog.com

 

大伽藍、夏バージョン。

garaando.hatenablog.com