“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

雑考7 マップヘイター

 あれは、いつのことだったか。「話を聞かない男 地図が読めない女」という本がはやったのは。男女の脳の使い方の違いに着目した内容だった記憶がある。最近になって私は、ハタと気づいてしまった。わが母ヒサコ(87歳)は、話も聞かないし地図も読めないということに。

 

 今回は、母の観察からはじまった生命体をめぐる考察についてお伝えしたい。

 

 母は、私の話を聞かない。だけどおしゃべり。私は長年にわたって、その母のコミュニケーションを観察してきた。たとえば私との会話。「お母さん、今日は忙しかったの?」などと聞いたとする。すると「今日は図書館へ行って、かえりに買い物でもしようかと思って歩いていたら、フキノトウが空き地に芽ぶいていた。取ろうかな・・と考えたけどやめて。今度とってきたら天ぷらにするか味噌を作るか、どっちがいいだろうか?そしたらバッタリ〇〇さんに会って・・」とエンエンと続くので、私が口をはさむ余地もない。また息つぎをねらって何か言ったところで耳が遠いので無視されることがほとんどだ。しかも母の声は、その時の気分によってツンザクように大きい時もあれば、蚊の鳴くように消えいりそうな時もある。

 母から「ねぇちょっとちょっと、こんなことがあったのよ」と言われたら、私は「うん。でもその話、長い?」と返すことにしている。こうしてワンテンポをおけば、話がすこしだけ要約される。

 ついに私は、この母の話ぶりを「走馬灯話法」と名づけた。時々、興にのってはなす母に「お母さん、いま走馬灯話法にはいっているよ」とお知らせすることにしたのだ。

 さて、この走馬灯話法には特徴がある。まず①主語がない。つぎに②そぞろなるままに途切れない。③話題はつぎつぎに変わる。また④話し手は聞き手に注意をはらうことがないため、⑤聞き手が必ずしも目のまえの人物でなくてもよい。さらに⑥結論めいたものがない。このうち3つ以上該当した場合には、走馬灯話法となる。

 また私は、母の人間関係でなされる会話にも注目してきた。とうとうある時、「お母さんたちの会話って、おもしろいね。なんかおたがいに別の話をしていてもフンフン話しているし、絶妙なバランスで成りたっているように思うんだ」と告げてみた。

 すると母は、小鼻をちょっと膨らましながら力をこめて言った。

 「私たちはね、耳も聞こえなくなっているからフンフンと適当に相槌をうって、なんとなく話すのよ。これをアンデコンデ噺(ばなし)というの。アンデといえばコンデと答える。コンデといえばアンデというの。とりあえず、こうやってえんえんと終わらない。この繋がりが必要なの。いい?これこそが人間関係では大事なことなのよ」と。

 私を見すえての、めずらしく説得力あふれる母の言葉に、私は自分の弱点をつかれた気がした。確かに!私は、こういった会話がダメなのだ。アンデコンデこそ、現世を生きぬく世渡り術にちがいないのに。そしてすぐに生命体の核心について書かれた「動的平衡」という本、その著者である福岡伸一ハカセが提唱するマップラバーとマップヘイターという概念が頭にうかんだ。<注:マップラバー、マップヘイターについては「世界は分けてもわからない」(福岡伸一著:講談社現代新書)に記載されています>

 

 マップラバーとは、地図をみて自分の立ち位置を理解するタイプで、俯瞰力があり設計能力が高い。原因と結果をフローチャート式に考えられる分析脳をもつ。いまや国民的大スター、マンダラチャートで有名な大谷翔平選手に代表されるだろう。いっぽうマップヘイターとは、地図というもの自体がそもそも苦手で、やみくもに又は直感的に、歩きだしてしまうタイプ。理性的であるのとはほど遠い反面、状況におうじて変わり身がはやい。

 鳥瞰的に全体をとらえつつ効率的な働きができるマップラバー と 自己をとり囲む身近な関係性の中で道なき道をオラオラ進むマップヘイター。福岡ハカセによると、人体の60兆個もある細胞の動きはマップヘイターで成りたっていて、それぞれがうごめいた結果として、全体に調和の取れた生命活動がくりひろげられているという。

 つまり生命体の基本活動は、全体における自らの役割すら知らないマップヘイターが担っているというのだ。

 私は、福岡ハカセのこの理論を読んだ時、マップヘイターに憧れた。それというのも私は、どちらかというとマップラバー。鍼と出あって、分析脳を手ばなし細胞さんたちに身をゆだねる生き方をめざしてきたはずだった。しかしオノレの習性はそう簡単には変わらないのだろう。会話のひとつにすら、その人の個性というのは滲みでてしまうのだと母の言葉で気がついた。

 こんな身近にナマミのマップヘイターがいた!そして走馬灯話法もアンデコンデ噺も、マップヘイターならではの特徴といえるのではないか。

 さらに考察を深めてみる。料理においても、母はマップヘイターの片鱗をのぞかせていた。調理における地図であるレシピ。これを彼女はほとんど気にしない。先日は、残っていたダイコンをバター焼きにしたと聞いて、私は驚いた。さすがにその組み合わせはないでしょう?!い、いくらなんでも。。それってどういう味だった?と聞く私に、母は深くうなずきながら低い声でゆっくりと言った「マコトに美味しかった」と。どうなの?美味しいの?なんなの?この自己肯定感?!

 よくよく考えてみれば、のこり物で食事をつくるという作業は、現実を受けいれる力強さがある気がする。自らの手のとどく範囲内で、テキトーにやり過ごしていく。高望みもなしに。

 とりあえず手あたりしだいに材料を使ってみるといった料理ができる母。マップヘイターには、枠をはずした自由な発想があるのだろう。そしてたとえその結果がいかなるものであったとしても、受けいれる強さをも備えている。

 

 この軽快さと安定感って、なんだかちょっと羨ましい。しかし私に走馬灯話法やアンデコンデ噺ができるだろうか。

 地図も道しるべもなしに、やり過ごすことができるマップヘイター。そこへと向かう私の道のりは、まだまだ遠い。

 

(後記)

 毎日の生活のほんの取るに足らない習慣や身体を使っておこなうこと(歩く、話す、食べる、考える・・)のクセの中にも、その人ならではの個性がつまっています。今回は、身近な母を題材にして、時々ぼんやり考えていたことをまとめてみました。こころよく?掲載を承諾してくれた母。こういうコダワリのなさもマップヘイターならではかと思います。

 

 

ベネズエラ、ラグアイアにて撮影

 

参考記事:マップヘイター的な方法

garaando.hatenablog.com