“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

勝手に陰陽論14 ダウンサイズ

どこか知らない国へ行ってみたい。

子供の頃から、そう思っていた。

 

最初に訪れたのは中国。トイレットペーパーの芯を抜いて潰しては、ペーパーのカサを小さくしてスーツケースに押し込み持参した。北京の語学学校に通いながら、そこを拠点に時々旅に出る。

1980年代の、100円ライターやシャープペンシルが中国へのお土産として喜ばれた時代で、人民幣と外貨兌換券の2種類のお金が流通していた頃の話だ。

中国で過ごしていた時、中華料理にはパワーが溢れていると何度も思った。

路地裏の屋台で食べる朝ごはん。立ちのぼる白い湯気に巻かれながら、お店の人もアルミの弁当箱を持って買いにくる人達も活気に満ち満ちていた。

昼食も夕食も。ふんだんに色とりどりの野菜や肉を使い、高温に熱した油で豪快に調理する。鍋やオタマなどがまるで楽器のような音を立て、中華鍋の上で食材が踊り、跳ねる。そこに料理人の大きな声も加わる。

このようにして出来あがったエネルギー溢れる食事。これを食べる人達は、いやでもパワーがみなぎるだろう。 

この溢れんばかりのパワーを持って、中国は爆発的な速度で変化したのだと思う。

 

あれから30年以上が経った。

 

90年代以降、中国の一般家庭にもテレビが広く普及しはじめた。多くの家では白黒テレビの時代をスキップしていきなりカラーテレビに。冷蔵庫や炊飯器といった電化製品も最新型が続々と。 カラオケセットまで。

私は鍼灸師を目指す前は中国関係の仕事をしていたから、中国の目覚ましい経済成長に比例して自分達の仕事量が爆発的に増え続けたので、その速度には多少実感がある。

日常においても、あらゆる物が made in China で溢れ、

2008年に開催された北京オリンピックをTVで見た時は、まるで違う国のように感じられた。その発展の速度に驚き、驚いている内に中国の大金持ちの数が日本の人口総数を超えていたのだ。

 

このように急速に物事が進むということ。これは中国の経済成長がずば抜けているとはいえ、日本においても、いや今やどの国であっても程度の差こそあれ、何事も以前より速く変化するようになったのではないか。コンピュータやネット、携帯などの普及によって。 

 

学生時代の試験の時には、友人のノートをコピーさせてもらっていた。コピー機をありがたいと思っていたが、今は写メがある。

講義も、携帯にあるボイスメモで録音できる。

速度が速いだけではなく、急激に外へと開かれていく。

知らない人と、あるいは距離的に絶対会えないような人とでも気軽に、かつアッという間に友達になれる。

世界で起きていることを、動画を通じて知ることができる。それもクリックひとつで。

調べ物をするのも便利になった。辞書も引かずに検索でわかる。引っかかる内容があれば次々に追っていって、しまいには何を調べていたのかを忘れるほどの情報が入る。

 

とにかく速い。その上簡単。

しかも身体感覚が全く追いつかないほど拡大された世界へと繋がれるのだ。

止まらない膨張。

  

あまりにも速く、急激に開かれていく変化は、何をうみ、何をなくしていくのだろうか。

それはある意味気楽で、生きやすさに通じる軽さをうむように思う。

関わりたくない人とは、簡単にブロックできるらしい。

身体感覚がない分、それほど感情をひきずらないのかもしれない。

こうしてさらに速度を増す。

その一方で手続きを大事にしない、いい加減さも生むだろう。

効率だけを求めるというような短絡さも。

 

速度が速いと粗雑になる。取りこぼしていくものに注意を払わずに、さらに進む。

軽快さも伴い、無感覚のままに。

 

人間が等身大の感覚を使っていた時代は、

もっとゆっくりとしたペースで、

丁寧に世界が回っていたのではないかと思う。

 

新型コロナウイルスが、国境という垣根を軽々と越えて世界中へ広がりつつある一件を見ながら、

時空間が30年前とは完全に変わったのだと、今更ながら思った。

 

どうだろう。

今やスピードも速く外へと拡大するといった陽の力が強すぎるのではないか。

この先に待っているものは、もしや爆発?!

規模を小さくし、

身体感覚の及ぶ範囲へとダウンサイズして、

丁寧に生きる。

そんな陰の力が大事に思えてきた。

(注:陽とは、外に向けて拡散するエネルギーを有し、火に象徴される「熱」や「動」の性質を帯び、軽さを生む。陰とは、内に向けて収斂するエネルギーを有し、水に象徴される「寒」や「静」の性質を帯び、重さを生む。)

 

では一体どの程度ダウンサイズしたいのかと考えてみる。

テマ(手間:手の間)とヒマ(すなわち時間)をかけ、空間を作り、かつ守る。

人間(人の間)が心地よく集い、分かち合うことができるようにと。 

この「間(マ)」を感じられる世界、これくらいでいいのではないだろうか。

 

他人へと感染する病いには、あの時あそこでといった「時空間」が問題となる。

何かしら「間」が問われているような気がする。

人との間、つまり関係性によって初めて人間性を保つことができる人間。その土台が、感染力を持つ病いによって揺さぶられている。

 

外に向かって過剰に膨れ上がった世界をダウンサイズして、自分にふさわしい間合いを取り直す。

そんな機会にしたいと感じている。

 

 

陰陽についてはこちらを参照!

garaando.hatenablog.com

 

(後記)

今回は、前回の「勝手に陰陽論13−1 目からウロコが落ちる」の対として、「勝手に陰陽論13−2 知らぬが仏」を書くつもりでいました。しかし、今の新型コロナウイルス流行の最中にあって、「知らぬが仏」の持つ全き幸福感や世界観を書くのはどうにも気が乗らなくなりました。

また鍼灸を生業としている私は、東洋思想をはじめ、中医太極拳などに馴染みがあり、中国には思い入れがあります。

そこで、このところ気になっている中国をおり混ぜて、今感じていることを書くことにしました。

「知らぬが仏」については、またいつか書ける時がきたら!

 

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 中国、北京の胡同(hutong)にて撮影