“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

東洋医学各論5 肝

春になると肝臓が動きだす。

草木が芽吹きだし、小さな蕾が膨らみだすように。

冬眠していた動物たちが目覚めるように。

エネルギーを貯蔵する性質を持ち、冬に活躍する腎。その腎から、伸びやかに拡がる力を持つ肝へとバトンが渡された。

季節のめぐりに呼応して、我らの体の中で主役となる臓器も移りかわるのだ。

 <注:東洋医学で「肝」といった場合、西洋医学でいう肝臓の概念とは異なる。西洋医学では、肝臓という解剖学的な部位である実質臓器を指すが、東洋医学においては、実質臓器の他に肝臓に関わる機能をも含んでいる。それゆえ「肝」には東洋医学独自の解釈である①蔵血作用②気の運動や循環といった巡りを調節する疏泄(ソセツ)作用が含まれている。>

 

古代中国思想で人体は小宇宙と言われるように、宇宙のリズムがそのまま人体にも当てはまる。1日の中でも巡りくる時間に応じて特定の内臓の動きが活発化し、季節においても主役となる臓器が移り変わる。春は肝、夏は心、土用は脾、秋は肺、冬は腎といった流れで、生・長・化・収・蔵といったリズムを作り出す。(注:土用とは、立夏立秋立冬立春の直前約18日間をいう。)

 

また陰陽論で臓器を見てみると、

押し進める力の推動作用、温める力の温煦(おんく)作用をもつ陽の気の臓器と

栄養・滋潤作用をもつ陰の気の臓器とに分けられる。

この視点で分類するならば、

肝・心・肺は陽の働きを持つ臓器であり、

腎・脾は陰の臓器となる。

(補足:陽とは、上・外へと向かう拡散されるエネルギーを指し、「火」に代表される「熱」や「動」の性質を帯び、外部へ押し進める力と持つ。陰とは、下・内へと向かって凝集するエネルギーをいい、「水」に代表される「寒」や「静」の性質を有し、内部を育む。)

  

自然界において、肝は流れゆく風 や しなやかに枝を伸ばす木 に象徴される。

時に激しさを持ち、変化を促す風に。

大地に根をはって陰の滋養を享受し、天に向かって自由闊達に枝葉を拡げていく樹木に。

そして肝を象徴する色は、青。

(補足:草や木の葉色、新緑色である蒼 や  緑、青緑である もアオと読むのであるから、緑色をも含む青としてとらえるのが良いと思う。)

 

春になると()、春一番が吹き()、草木が伸びて()、新緑が輝く()。。

 

このように考えるとき、肝が有するエネルギーの性質が見えてくる。

軽やかに進み、躍動し、発散し、上昇し、拡張する。

 

身体の部位においては、動きを作り出すことのできる筋肉(腱や靭帯も含む)に肝の働きをみる。 

 

そして肝の蔵血機能には血液を貯蔵し、血流量を調整し分配する作用があるため、

肝の異常は、、あるいはに現れる。

は肝血不足で栄養不良となり、縦皺がはいり脆くなる。変形したり、色・つやが悪くなる。

は血行不良による痺れや震えがおこり、あるいは腰痛で腰を曲げられないなどの屈伸不可になることもある。

は血行不良で、充血、視力低下、かすみ、ドライアイに。肝が清浄な子供の白目部分はきれいな青色を呈する。

(注:肝と目の繋がりは気の通り道である経絡からも読みとれる。肝の経絡は足の親指から目を通り頭頂へと向かう。下図参照。)

岡本一抱の「十四経絡発揮和解」より厥陰肝經之圖 」(ネットより拝借)

f:id:garaando:20200524010838j:plain

 

更にそれぞれの臓器には、特定の感情が対応するとされており、肝はりと結びつきやすい。

誰しも怒った時は、気が上昇して頭にくる!(参照:上図の経絡図。肝の経絡の流れは下から上へ向かう)   外に向かって発散し、爆発的で熱量を帯びる。これは肝の持つエネルギーの性質と類似している。

伸びやかで、陽気なメンタルが保たれ、決断力・行動力が充実している時は、肝の状態が良好であると判断できる。

一方、肝の疏泄作用(ソセツ作用:気の運動や循環といった巡りを調節する作用)が失調すると感情が変わりやすくなる。この作用が亢進すると興奮状態になりやすく怒りっぽくなり、ついに爆発!!

もし、それだけのエネルギーが停滞し内側へこもったならば、抑鬱状態となり動くことが億劫になる。一般的な鬱(ウツ)病も、実は肝との関わりも深い。

 

さらに 東洋医学では、「」と「」は表裏の関係にあるという。

(補足:「肝胆相照らす」というのは、極めて親しくつき合うという意味で、肝と胆の結びつきの強さが理解できる。)

またそれぞれの内臓には、生命活動に必要な行いを統括する力が備わっており、

「肝より謀慮いづ」「胆より決断いづ」とされている。

つまり考慮する肝 と 決断する胆 とが連携して実行力が生まれるのだ。

 

このように肝の特質を見ていくと、肝気旺盛な人のタイプが見えてくる。

筋肉が発達していて肉づきが良く、行動的。気が上がりやすく上半身がガッシリしていて肩幅が広い。頭皮は硬く頭髪は薄くなりがち。目力あり。エネルギーに溢れ、決断力や実行力があるため、リーダーとしての素養がある。陽気で、スピーディ。人を巻き込み現実を変えていく力がある。一方でうまくエネルギーを使いこなせない場合は、怒りやすく、気分にムラがある。移り気。浮気性で、わがままにもなる。

 

自分が肝気旺盛なタイプでなかったとしても、

もし優柔不断でなかなか行動できない時があったなら、

それを自分の性格と決めつけずに、

単に肝と胆が弱っている状態なのかもしれないと考えてみてはいかがだろうか。

 

(おまけ)

肝と関連あるもの:

自然界においては 木・春・風・青。

人体においては 爪・筋・目・胆。

  

 (後記)

木の芽どき。季節がめぐり陰から陽への流れに切り変わる時です。春先になると、その変化の大きさに体調を崩すとかメンタルがダメという方も多い季節。

今年は、この動きだすエネルギーが外へと向かう時期に、Stay Homeと言われ著しく行動に制限を加えなくてはなりませんでした。

この自然のリズムに反する行動が、心身に与えている影響はどれほど大きいのでしょう。行動を自粛しなくてはならなかったとはいえ。。

ただでさえ言葉にならないような複雑な感情を抱えているであろうこの状況の中で、モヤモヤを他人にぶつけたり自分を攻撃したりしないために、理解して欲しいと思います。身体のエネルギーが外へ向かう季節なのだということを。

安全な方法で運動をしたり、いつもよりゆっくりお風呂に入って汗をかき、創造的な遊びを見つけて、エネルギーを発散する循環を何かしら工夫して欲しいと思います。たとえ行動範囲が小さくとも、ネ!

 

f:id:garaando:20200528092344j:plain

 春。小樽にて撮影

 

こちらも参照!

garaando.hatenablog.com

garaando.hatenablog.com

雑考

小学生か中学生の頃に、考えていたことがある。

私が育った小樽の街では、市内の一定の区域内に住んでいる子供達が同じ小学校に通い、そこでクラス分けされる。小学校は確か1学年5クラス。1クラスでは男子が女子より少し人数が多い。私の学年だけではなく、兄の学年も5クラス。私の下の学年も5クラスで、どの学年も総生徒数はだいたい同じで、どのクラスも同じような男女比で。

そして中学生になると小学校とは別の区域割りとなり、その地域から集められた学生達が3クラスに振り分けられた。各学年はいつも3クラス。そして各クラスは男子が女子よりも少し人数が多かった。

不妊治療も男女の産み分けの手法もなかった時代のことだ。

いろいろな家族が自由意志で住む場所を決め、子供を産み、兄弟姉妹の数も制限はない。それなのに、ある地域区分で括ってみれば、小学校6年間や中学校3年間のその地域の同い年の子供の数はほぼ同数となり、男女比も大差がない。

これはどういう事なの??と、子供ながらに思っていたのだ。

 

神様とよんでいたかもしれない、大いなる力がそこにあると思った。

人間の手の届かないところに、見えざる秩序があると。

そしてその後に、

生まれ落ちた場所や空間、そして時刻で、その人の人生の全てが決まるというホロスコープというものの存在も知ったのだった。

 

こんなことを思い出したのは、今の私がゆるりゆるりと生活しているからだと思う。

今、コロナウイルスが拡大する中で、

密から疎へ

都会から地方へ

拡大から縮小へとどのように向かうのだろうかとボンヤリ思い続けている。

 

またスカイプでカウンセリングセッションを受けたり、zoomでのセミナーやミーティングなどに参加したりしながら、この状況下で初めて使いはじめたツールの便利さにも驚いている。

地方にいながらも繋がりたい人と繋がれる。

地縁で繋がるコミュニティ以外に、趣味や嗜好、あるいは志といった共通する方向性で繋がれるコミュニティもできるのだ。

これはありがたい。

地縁だけでは息苦しくなるような関係性も、方向性で繋がれる世界があれば救われる。

この地縁によるコミュニティと方向性によるコミュニティ、このバランスが取れれば新しい世界になると期待した。

 

ところが、ちょうどその頃に私は、

4月始めに発症して4日で劇的に治ったと思われた帯状疱疹の後遺症と思われる身体のダルさ、神経痛の痛痒さにじわじわと襲われた。

背中の幅広いところで5センチ、長さ細くなりながらも15センチという、見事にも思える帯状疱疹にかかるも、抗ウイルス剤である強アルカリの海洋深層水をph11の濃度にして患部に噴射することにより、アッという間に痛みが7割減。身体を動かす際のぎこちない動きもなくなり、いつも通りの行動ができるようになった。たった4日で皮膚はほとんど元どおりとなった。こんな簡単に治るのだ!私は嬉しかった。あの激烈な痛みの帯状疱疹がこれで治る。今後の治療にも活かすことができると。

私は力を得た。そしていきおい調子に乗った。

早々にいつも通りの生活に戻り、外出したり上述のようにスカイプやzoomでいろいろな人達と話したりした。

 

しかし。。その後に襲われた身体のダルさや重さ、そして虚脱感。寝たり起きたりとボンヤリ過ごしながら、だんだんと自分の間違いに気づきはじめた。

 

そもそも帯状疱疹という病は、疲れすぎて免疫が落ちた時に発症する。

ゆっくりと休養して英気を養うことが、ああ!大事なのに。

病が治りきらずに見切り発車で活動する患者さん達に、私はいつもこう言っていた。

「無理はしないで、ゆっくり休んでください」

「症状が取れることと病が治ることとは別ですよ」

「薬で表面だけ綺麗にしてもそれは対症療法で、根本的治療ではないのですから」

な〜んてね。

ごめんね、みんな!本当に、ごめんなさい!!

 

あれほど、

「1回で治る」とか「これさえあれば大丈夫」とか「奇跡の治療」といった文言も嫌っていたはずなのに。。(注:1回で症状が取れることもあれば、奇跡的なことも起こることもあるし、特効薬みたいなモノもあります。ただそこを目指して自己増長する治療家にだけはなりたくないと思っていたわけです、ハイ・・。)

目に見える症状をアッという間に変化させる力に、 私は足をすくわれた。

反省しつつ、ハリやお灸、あるいはビワエキスの湿布などをしてユルユルと免疫アップを図っていたら、小中学校の頃に考えていたことが思い出されてきたのだ。

 

効率が良くて、速くて、都合が良いものを、無意識に私は求めてしまっていた。

便利なものはあってもいいが、それに溺れてはいけないのだろう。

どこまでも人間様の都合の良いような世界ではなく、

私という我を超えた計らいの中に、新しい世界が見えてくるに違いない。

 

都会との対比としての地方ではなく、

田舎の、まだしも自然に囲まれた生活は、私の自我からくる不自由さや不満足さをも含めて、それだけで完璧な世界なのかもしれないなぁと思いはじめている。

  

(後記)

今、自戒を込めて治療の現場からすっかり離れてゆるゆると生活しています。近場の林を散歩してみると、雪が溶けて姿をあらわした湿った落ち葉たちが一面に広がっており、この落ち葉を足でしっかり踏みこんでみるとジワッと水分が滲み出てきます。落ち葉を通してどれほど大量の水がこの大地に染み込んでいったのでしょう。落ち葉の傍らには、芽吹く春の草や花が凛と天に向かって小さな背を正しています。何があっても循環している自然はすごいなぁといろいろ発見しつつ、この記事となりました。

 

f:id:garaando:20200428103336j:plain

自宅付近の林にて撮影

気!流れる身体1 腕

アンティークな円錐ドーム型の鳥カゴを想像していただけるだろうか。

私は即座に、背骨と胸椎と左右12本ずつあるあばら骨とが接合してできる人体の骨格、すなわち胸郭を思い描く。内臓を納めて保護する、そんな場を作るための胸郭を。

今回は、この骨でできた鳥カゴが作りだす空間、そこに鎮座まします臓器(陰)と 鳥カゴの外で自由に動くことのできる手足(陽)ーこれらの関係について、経絡(けいらく)という気の通り道を踏まえて考えてみたい。

(注:経絡とは東洋医学でいうところの 気 の通り道のこと。気 の出入りする場所であるツボを、人々が電車を乗り降りする「駅」と例えるなら、経絡は気の通り道である「線路」といえる。)

 

たとえばの話。

自分の腕は、身体の中でどんな役割をしているのかと聞かれた場合、

身体運動に関わると答える人が圧倒的に多いと思う。

もし腕が特定の内臓と関係しているといったら、多くの人に笑われるかもしれない。

 東洋医学では、腕は肺や心臓といった胸郭上部にある臓器との関連が深いのだ。

つまりそれぞれの臓器の身体における位置により、気の通り道である経絡(けいらく)の流れ方が決まる。腕に流れるのか、あるいは足と絡むのかが。

 

さてここで経絡の流れを説明する前に、東洋医学独自の臓腑概念である 「三焦(さんしょう)」と言われるものについて説明したい。

この三焦とは、五臓六腑の六腑中で最大の腑とされるものだ。人体の腕と脚を除いた躯体部分を3つに分け、それぞれを上焦・中焦・下焦という。これら3つを合わせた総称を三焦と呼ぶ。つまり、胸郭を頂点とし骨盤を底辺にした鳥カゴ全体を指すことになる。

(注:五臓六腑とは肝・心・脾・肺・腎、胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦をいう。臓は実質臓器で腑は中空の器官。)

ざっくり言うと、三焦は 水分の運行 と 気の昇降 を行い、臓器の腎・胃・肺と特に関係が深く、リンパ管系と解釈される場合もある。「焦」という字から熱量を表すエネルギーを示すという説もあり。躯体全体の場をあらわし、臓腑としての実態というよりは、そこでの機能として捉えた方が分かりやすい(う〜ん、分かりにくね!つまり、器官の形は見えねど、働きはあるという感じ。五臓五腑を納めている場と捉えると分かりやすいかも)。また五臓六腑は経絡を有しているので、三焦にも三焦経と呼ばれる経絡がある。

f:id:garaando:20200322125946p:plain

上焦は横隔膜から上の空間部分を指し、肺や心臓を内包する(広義では頭顔面部も含む)。

中焦は横隔膜からヘソまでの脾や胃を含む空間となる。

下焦はヘソより下の小腸・大腸・膀胱などを含み骨盤までの空間をいい、肝・腎も含まれるとされる(広義では下半身全体を含む)。

 

上焦に位置する内臓、そこにまつわる気は腕へと流れ、さらに腕から臓器へと戻る循環を作り出す。

つまり、肺や心臓の経絡は腕へと流れている。

中・下焦にある内臓にからむ気は下半身をめぐる循環網を築いている。

ゆえに肝・腎・脾の経絡は足先から躯体へと昇って各々の内臓と繋がりつつ更に枝分かれして流れ、胃の経絡は足へとむかう流れを作る。

<補足:主要な12本の経絡には、それぞれ流れる方向がある。例:肝・腎・脾の経絡は足先から上へ向かう。肺や心の経絡は各臓器を通って手指の末端へと向かう。この方向を含む経絡の流れのことを「流注(るちゅう) 」と言う。>

こうして内臓は実質臓器のみの働きだけではなく、内臓が網羅する流れに生命エネルギーを載せて末端の手足をめぐることになる。

以下の経絡図を参照(岡本一抱の「十四経絡発揮和解」) 

f:id:garaando:20200327231707j:plain   

f:id:garaando:20200327232515j:plain            

f:id:garaando:20200327232748j:plain

肺や心臓といった内臓が腕と関連していることをザックリ理解していただいた所で、

実際に腕と内臓がリンクしている臨床例を少し。

 ・職業柄腕を使う美容師さんが、慢性気管支炎の治療にみえた。腕の疲れがひどく、凝りも強い。常態化した腕の疲れを取っていくことで、咳が治っていく。これは、肺の経絡の流れが詰まっているケース。

・高血圧で狭心症の患者さんのケースでは、肩、首、腕がパンパンに張っていることが多い。特に左前腕内側の中央ライン上で、肘と手首の真ん中より2センチ位手首寄りの場所(ゲキモンという名のツボ)が、格段に硬くなっている。心臓疾患がある方には、大体共通してこのゲキモンに反応が出ている。腕全体の凝りと詰まりをとることが大事な治療になる。

・就寝中に気がつけばバンザイの格好をして寝ているらしく、朝起きると腕が痺れているという方の場合、起きてる時の姿勢が猫背気味で肺が圧迫されていたり、肩・首の凝りが強いことが多い。胸郭を開いたり、肩周りの筋肉を緩める姿勢を無意識ににとってしまう。しかしこの姿勢により更に腕が冷える→血液循環も悪くなって凝りを増す→肺や心臓の経絡が詰まる→腕がだるい→バンザイをすると腕の内側ものびて気持ちがいい→悪循環となる。

・肩や首の凝りは自覚しやすいが、腕の凝りは自覚が少ない。腕を十分に緩めることで、実は肩甲骨周りや首の凝りは相当楽になるケースが多い。肩甲骨の動きが良くなると呼吸が楽になり、心臓の働きも良くなって不整脈が改善されるケースもある。

 

このように肺や心臓の負担を減らすためには、まずは腕の凝りを取り、余計な力を抜いて気の流れをよくすることが大切になる。自覚ある一部分を揉んだり緩めたりしても、溜まっていた邪気の流れ処がなければ、また戻ってきてしまうのだから、その部分を含む流れを作らなくてはならない。

 

凝り(凸:陽)がとれて緩んでくると気が流れる。

力のないところ(凹:陰)にもエネルギーが廻りはじめる。 

目指すべきは、

気!流れる身体。

ここに免疫力が宿る。

 

鳥カゴの形をした人体の胸郭。

この場所にある臓器たち。

それらのそれぞれのエネルギーが手や足という外の世界へ飛び出しては、また戻ってくる。

 

ドーム型をした大聖堂では、日曜日ごとに礼拝が行われている。

そこに人々が集い祈っては、また日常へと返ってゆく。

鳥カゴに守られた臓器のエネルギーが巡る様にも似ているように、今の私には思える。

 

我らの身体内部に鳥カゴがあり、

それが大聖堂へと形を変えて、

身体の主要機関である内臓を守ってくれているとしたら。。

 

そんな風に感じてみるだけで、

神聖さに満たされて、

安心できる気がするのだ。

 

(自分でできる腕を緩める方法)

両膝をたて、仰向けに寝る。片方の腕を手の甲がお尻の下にくるように身体の下敷きにし、体重のかけ具合によって、または身体の向きを変えるなどして、圧迫し腕を感じてみる。両膝を伸ばしたり、腕の位置や肘の曲げ具合などを少しずつ変えてみるのも良い。

 

(後記)

三焦という東洋医学独自の概念は、なかなかわかりづらいと思いますし、説明も難しいです。ただ私は、場の概念も網羅した東洋医学の面白さとして、ずっと注目してきました。

身体は、物理的な道具としての側面と

エネルギー体として変容し得る場としての側面とを併せ持っています。

自らの「身体場」の管理者は、この私。

身体に対する信頼を強めていきたいと思っています。

 

どうか腕の凝りを取って、温めて、緩めて、肺や心臓を守り、免疫力を高めていただければ嬉しいです。 

 

新型コロナウイルスの流行が1日も早く収まりますようにと切に祈ります。

 

f:id:garaando:20200323224901j:plain

トルコ、イスタンブールのブルーモスクにて撮影 。本文中の図はネットから拝借。

 

東洋医学の内容の理解のために、こちらも! 

garaando.hatenablog.com

garaando.hatenablog.com 

勝手に陰陽論14 ダウンサイズ

どこか知らない国へ行ってみたい。

子供の頃から、そう思っていた。

 

最初に訪れたのは中国。トイレットペーパーの芯を抜いて潰しては、ペーパーのカサを小さくしてスーツケースに押し込み持参した。北京の語学学校に通いながら、そこを拠点に時々旅に出る。

1980年代の、100円ライターやシャープペンシルが中国へのお土産として喜ばれた時代で、人民幣と外貨兌換券の2種類のお金が流通していた頃の話だ。

中国で過ごしていた時、中華料理にはパワーが溢れていると何度も思った。

路地裏の屋台で食べる朝ごはん。立ちのぼる白い湯気に巻かれながら、お店の人もアルミの弁当箱を持って買いにくる人達も活気に満ち満ちていた。

昼食も夕食も。ふんだんに色とりどりの野菜や肉を使い、高温に熱した油で豪快に調理する。鍋やオタマなどがまるで楽器のような音を立て、中華鍋の上で食材が踊り、跳ねる。そこに料理人の大きな声も加わる。

このようにして出来あがったエネルギー溢れる食事。これを食べる人達は、いやでもパワーがみなぎるだろう。 

この溢れんばかりのパワーを持って、中国は爆発的な速度で変化したのだと思う。

 

あれから30年以上が経った。

 

90年代以降、中国の一般家庭にもテレビが広く普及しはじめた。多くの家では白黒テレビの時代をスキップしていきなりカラーテレビに。冷蔵庫や炊飯器といった電化製品も最新型が続々と。 カラオケセットまで。

私は鍼灸師を目指す前は中国関係の仕事をしていたから、中国の目覚ましい経済成長に比例して自分達の仕事量が爆発的に増え続けたので、その速度には多少実感がある。

日常においても、あらゆる物が made in China で溢れ、

2008年に開催された北京オリンピックをTVで見た時は、まるで違う国のように感じられた。その発展の速度に驚き、驚いている内に中国の大金持ちの数が日本の人口総数を超えていたのだ。

 

このように急速に物事が進むということ。これは中国の経済成長がずば抜けているとはいえ、日本においても、いや今やどの国であっても程度の差こそあれ、何事も以前より速く変化するようになったのではないか。コンピュータやネット、携帯などの普及によって。 

 

学生時代の試験の時には、友人のノートをコピーさせてもらっていた。コピー機をありがたいと思っていたが、今は写メがある。

講義も、携帯にあるボイスメモで録音できる。

速度が速いだけではなく、急激に外へと開かれていく。

知らない人と、あるいは距離的に絶対会えないような人とでも気軽に、かつアッという間に友達になれる。

世界で起きていることを、動画を通じて知ることができる。それもクリックひとつで。

調べ物をするのも便利になった。辞書も引かずに検索でわかる。引っかかる内容があれば次々に追っていって、しまいには何を調べていたのかを忘れるほどの情報が入る。

 

とにかく速い。その上簡単。

しかも身体感覚が全く追いつかないほど拡大された世界へと繋がれるのだ。

止まらない膨張。

  

あまりにも速く、急激に開かれていく変化は、何をうみ、何をなくしていくのだろうか。

それはある意味気楽で、生きやすさに通じる軽さをうむように思う。

関わりたくない人とは、簡単にブロックできるらしい。

身体感覚がない分、それほど感情をひきずらないのかもしれない。

こうしてさらに速度を増す。

その一方で手続きを大事にしない、いい加減さも生むだろう。

効率だけを求めるというような短絡さも。

 

速度が速いと粗雑になる。取りこぼしていくものに注意を払わずに、さらに進む。

軽快さも伴い、無感覚のままに。

 

人間が等身大の感覚を使っていた時代は、

もっとゆっくりとしたペースで、

丁寧に世界が回っていたのではないかと思う。

 

新型コロナウイルスが、国境という垣根を軽々と越えて世界中へ広がりつつある一件を見ながら、

時空間が30年前とは完全に変わったのだと、今更ながら思った。

 

どうだろう。

今やスピードも速く外へと拡大するといった陽の力が強すぎるのではないか。

この先に待っているものは、もしや爆発?!

規模を小さくし、

身体感覚の及ぶ範囲へとダウンサイズして、

丁寧に生きる。

そんな陰の力が大事に思えてきた。

(注:陽とは、外に向けて拡散するエネルギーを有し、火に象徴される「熱」や「動」の性質を帯び、軽さを生む。陰とは、内に向けて収斂するエネルギーを有し、水に象徴される「寒」や「静」の性質を帯び、重さを生む。)

 

では一体どの程度ダウンサイズしたいのかと考えてみる。

テマ(手間:手の間)とヒマ(すなわち時間)をかけ、空間を作り、かつ守る。

人間(人の間)が心地よく集い、分かち合うことができるようにと。 

この「間(マ)」を感じられる世界、これくらいでいいのではないだろうか。

 

他人へと感染する病いには、あの時あそこでといった「時空間」が問題となる。

何かしら「間」が問われているような気がする。

人との間、つまり関係性によって初めて人間性を保つことができる人間。その土台が、感染力を持つ病いによって揺さぶられている。

 

外に向かって過剰に膨れ上がった世界をダウンサイズして、自分にふさわしい間合いを取り直す。

そんな機会にしたいと感じている。

 

 

陰陽についてはこちらを参照!

garaando.hatenablog.com

 

(後記)

今回は、前回の「勝手に陰陽論13−1 目からウロコが落ちる」の対として、「勝手に陰陽論13−2 知らぬが仏」を書くつもりでいました。しかし、今の新型コロナウイルス流行の最中にあって、「知らぬが仏」の持つ全き幸福感や世界観を書くのはどうにも気が乗らなくなりました。

また鍼灸を生業としている私は、東洋思想をはじめ、中医太極拳などに馴染みがあり、中国には思い入れがあります。

そこで、このところ気になっている中国をおり混ぜて、今感じていることを書くことにしました。

「知らぬが仏」については、またいつか書ける時がきたら!

 

f:id:garaando:20200225010611j:plain

 中国、北京の胡同(hutong)にて撮影

 

勝手に陰陽論13−1 目からウロコが落ちる

時々、ピタッとハマる言葉のすばらしさに驚くことがある。

「目からウロコが落ちる」という表現もそのひとつ。

調べてみると英語にもあった!「The scales fall from the one's eyes」というらしい。

お国を問わずに存在する「目からウロコが落ちる」という経験。皆さんはどんな経験をお持ちだろうか。

 

あれは、茶髪や金髪が珍しくなくなりカラーコンタクトで目の色を変える時代になりはじめた頃の、私がクルーとして船で働いていた時のことだ。イスラム圏への入国審査のために、我らクルーは船内の大きな1室に集められた。何やら書類に記入しなくてはならないという。そしてそこには「the color of eyes」という項目があった。

私がB...と書きはじめた瞬間、欧米のクルー仲間が私が書くのを覗き込みながら、Brown と言った。

えっ??Black でしょうよ??

だって東洋人だよ、私。

すると「何言ってるの!自分の目の色も知らないなんて!」と、軽蔑した笑みを浮かべてBrownと言い放つ。周りにいたクルー達もこぞって「Brown !」 と言うではないか。

皆は私を見ながらBrown というのだから、なんとも分が悪い。しぶしぶフクレながらBrown と書き込んだ後、脱兎の如く自室へ駆け込み鏡を見た。

な、な、なんと!Brownだった。。

この時のボーゼン度は、まさに目から鱗が落ちるというほどの身体感覚を伴っていた。

 

物心ついて以来、顔を洗い、歯を磨き、化粧もする際に、おそらく毎日鏡を見ていた。ああ、それなのに。。

何を見てきたのだ!この私。

しかも自分は「人は見たいものしか見ていない」などと、チョクチョク訳知り顔で仲の良い友人達にのたまっていた。今でいうマウンティング的に!

 

その昔、フリオ・イグレシアスとかいうオジサンが「黒い瞳のナタリー」という歌を歌っていた。私は、ナタリーという名前だけど彼女は東洋人だな!とピンときた。だって黒い瞳なんだもの。。

それほど私は東洋人ってのは黒髪で黒い瞳だと思っていた。

いや、思っていたというよりは思い込んでいたのだ。

 

人は大きくなるにつれて、何かしら思いこみという色眼鏡をかける。枠を作りながらカテゴライズして物事を自分なりに組み立てて世界を把握しようとする。

一旦でき上がった世界に風穴が開けられたならば、

思いこみや先入観、そしていつしか自らがはめていた枠があったことに気づかされる。

驚きを持って思う。

私の世界は違っていた。

新しい世界がそこにある。

 

ひとつの色眼鏡が取れたとしても、また次の色眼鏡をかけているのだから、何度もウロコは落ちるのだ。

こうやっていくつもの思い込みが、何かのきっかけで落とされていく。

その度ごとに、今ある現実が違って見える。

 

私は子供の頃から、人間は何のために生きているのか?とずーっと考えてきた。

目からウロコが落ちる。

これを経験するために生きているのかもしれない、そう思うようにいつしかなった。

 

外の世界に対して開いていく。

今までの自分に新しい風が吹きこまれる。

思い込んでいた世界が違った色に塗り替えられる。

気にも留めてこなかった事柄に心を奪われる。

惰性で過ごしてきた日常が揺さぶられる。

私を取り巻く世界は、何度でも生まれ変わるのだ。

たとえそれがどんなに些細な事柄であったとしても。

 

偉人達による驚異的な発明や発見も、

そのきっかけは、

当たり前だった世界が塗り替えられるような、

そんな小さな気づきや

目からウロコが落ちるような体験だったのではないだろうか。

 

「目からウロコが落ちる」。

覆いかぶさっていたものが落とされる。

内発的に外へと向かって開かれる。 

この現象を陰陽論でいうなら、

外の世界へと導かれる「陽」と言える。

ああ!勝手ですぅ・・。

 

東洋医学のおまけ>

東洋医学には、体質や病態を表す用語として「」と「」があり、

気はその性質により「正気」と「邪気」とに分けられる。

(注:正気:淀みなく正しく流れている気。邪気:ヨコシマな気であり、正気の流れが滞って行き場がなくなると邪気となる。邪気>生気で病気の発症となる。2種類別々の気があるのではなく、正気の流れが停滞し淀んで邪気となる。とは文字通り中身がウツロな状態で生気が衰えている状態を指し、とは抵抗力が充実している状態と邪気が溢れて病気の素を作り出す状態の双方を指す)

 

鍼灸治療の基本概念>

ハリは、行き場が無くなって過剰に詰まった邪気を解放し、身体の風穴を開けて凝り固まった世界を外にむけて開き流す。この方法を(シャと読み、余分なものを除くの意)という。

は力のないの状態の箇所にエネルギーを充填して生気で満たす。この方法を(足りないエネルギーを補うの意)と呼ぶ。

このように鍼灸治療は、ハリと灸を使いながら病状に合わせてを行う治療をする。

(補足:上記ざっくり大まかな説明ですが、ハリの中にも体内の深部に及ぶハリは瀉、浅いハリは補、経絡という気の流れに沿って行うハリが補で、流れに逆らうハリは瀉という具合に、ハリだけでも補と瀉を用います。灸においても、硬くモグサをひねって熱いお灸をするのが瀉、柔らかくひねって適度な熱のお灸は補となるなど、灸のみでも補も瀉もできます。) 

勝手に陰陽論13−2へと続く予定!?

  

f:id:garaando:20170731012050j:plain

クロアチアドゥブロヴニクの城壁から旧市街を撮影

 

陰と陽についてはこちらも参照に! 

garaando.hatenablog.com

 

 

勝手に陰陽論12 豆腐と太平洋

冬を迎え鍋料理の美味しい季節がやってきた。

湯豆腐を作るため土鍋に豆腐を入れて煮えるのを待つ時、たまに思い出すことがある。

あれは、私が精神科医であるS医師のもとに足しげく通っていた頃の話だ。フロイトに詳しいS先生が話された内容のいくつかを、私は今も鮮明に覚えている。

その一つに、潜在意識(無意識)についての話があった。

「潜在意識(無意識あるいは本能的なもの)ってのは太平洋みたいに広大で、人間の頭で判断できる顕在意識(表層の意識あるいは理性的なもの)ってのは、そこに浮かぶ豆腐だよ。潜在意識は太平洋、いわゆる意識は豆腐。太平洋に浮かぶトウフ!」

そうなのか!?

ト、トウフでしかないのか・・。

トウフのような個人の表層の意識は、なんと潜在意識という太平洋の海に浮いているのか・・。

 

太平洋に象徴される潜在意識には、いくつかの層がある。まずは個人の無意識の世界があり、その下には家族や社会、民族、国、さらには人類全体に共通する集合的無意識が、好むと好まざるとにかかわらず綿々と繋がって存在しているのだ。

例えばクリスマスに演奏されるベートーヴェンの第九。歓喜の歌を唱い上げる、国籍を問わないあらゆる人々のさまざまな歓び。そのエネルギーが、唱う人や聴く人々の中に眠っている無意識を呼び覚ます。

あるいはガンという病名を聞いた時、個人がその病名に持つイメージそのもの以外に、人間がガンで苦しんできた歴史に刻まれる痛み、悲しみ、苦しみ、怖れといった人類全体に共通する無意識のエネルギーが貼りつけられる。

こうして言葉は、この潜在意識に乗っかって、一人歩きする力である言霊を持ってしまうのだ。

 

さてこのトウフとは意識であり、我らの頭の世界のことである。これに対して無意識とは自分の力を持ってしてもコントロール不能で勝手に自律的に働く神経に支配される身体の世界なのだ。

 

つまり、頭はトウフで身体は太平洋なのである。

陰陽論でいえば、軽々と流されるトウフは陽で、泰然として下ざさえをする太平洋は陰といえないだろうか。

 

さて、皆さんは自律神経失調症と診断された場合、どんな風に思うのだろう。

私の臨床では

「心臓が苦しくて調べましたが異常はありません。自律神経失調と言われました。」

「手の震えは問題ないそうです。緊張すると起こるので、自律神経の問題みたいです。」

こうして器質的疾患にまで及んでいないので、ちょっと安心する。あるいは自律神経がちょっと狂ってるけどどうすることもできないし、繊細で体質が敏感なのだから仕方ない。。と思われるケースが多い。

不眠症

胃酸過多も

めまいも

不整脈

ダルさも

痺れも

高血圧も低血圧も。。

原因不明で体質に起因し機序が説明できない病は、自律神経の失調となるのだ。

 

ただし、外界へ向けて行動することができなくなる鬱も、

自分の細胞を間違って攻撃してしまう様々なアレルギーをはじめとする膠原病も、

取り除くべきガン細胞を増幅させてしまうのも、

トウフである意識の力ではどうにもコントロールできない自律神経の活動といえるのだから、

自律神経失調というのは、実は全くもって油断ならないのだ。

 

では、この無意識の領域で働く自律神経とはどんなものなのだろうか。

 

ざっくり言うと、脳から仙骨を結ぶ背骨に沿って走り、背側と腹側から身体の内臓の全てに、また眼球、涙腺などの各部位に繋がる神経である。知覚や運動の神経とは異なって、自らの意志とは無関係に自律して働く。ゆえに我らは、心臓の鼓動を止めることも血管を収縮させたり拡張させたりすることも、内臓の動きやホルモンをコントロールすることもできない。

そして自律神経は交感神経と副交感神経という2種類の神経からできている。

交感神経は、外敵に出会った時のサバイバルモードを作り出す神経で、起きている時や緊張・興奮している時に活発になる。

副交感神経は、身体内部の環境を整える神経で、寝ている時などに働きリラックスモードを作る。

 

陰陽論で言うなら、外へとエネルギーがむく交感神経が陽であり、身体内部の活動へエネルギーが注がれる副交感神経が陰となる。

人体は、この交感神経(陽)と副交感神経(陰)とで、全体として一つの目的を果たす。(この互いに対立し合うものどおしが、ある目的のために統一して働くというのも、陰陽の特徴でもある)

 

 陰陽論については、こちらを参照

garaando.hatenablog.com

 

さて、交感神経と副交感神経とが対立しながらも、ある目的のために一体となって働く、その目的とは?

それは生命体の基本、自らの命を守りながら育むこと。

外敵に襲われている時に、お腹がすいたり、眠くなってはヤラレル!危険が去れば、自分の内部環境へとエネルギーが向かう。いつもハイではいられない。

<注:注目のポリヴェーガル(複数を意味するポリとその大部分が副交感神経である迷走神経を意味するヴェーガル)理論によると、副交感神経(迷走神経)には原始的な背側のネットワークと進化型の腹側の2種類のネットワークがあり、副交感神経であってもリラックス状態へ導かず、危機に接して心身をシャットダウンさせ、死んだふりをする場合もあるとされる。>

 

いわば本能である自律神経の活動は、生命の叡智に満ちた深淵さを持っている。

自律神経失調症を治すために呼吸法や瞑想が効果的なのも、頭の過活動を抑えるためだ。

よく「身体の声を聴く」と耳にするが、

太平洋の言い分をトウフが聴く?という感じがしてしまう。

病気を治すには「過剰な頭を黙らせる」という方が、あるいは「身体感覚に委ねる」という方が、より核心に近づけると臨床経験を通じても思うのだが、いかがだろうか。

 

ギリシャの哲学者ソクラテスがいった「無知の知」は、自分の頭と身体の関係の中にも見出すことができる気がするのだ。

 

f:id:garaando:20191224011402j:plain

ミクロネシア付近にて南太平洋を撮影

ハリ様への道2 出会い

人生を変えてしまう力を持つ出会い。

その出会いには、いくつかのタイプがあるように思う。

まずは、出会いのはじめからピンとくる場合。ピンッ!てね。

あるいは後になって、予期せぬその影響の大きさに驚きつつ、カウンターパンチのようにしみじみとじんわり胸が熱くなるケース。

更には時を経ての出会いなおし。などなど。。

 

20代半ばで初めてハリの先生である田中美津さんと出会った時、私はすっかり美津さんの魅力にヤラレタ感じがした。

しかしその出会いがその後の自分の人生を大きく変えてしまうとは、全く気づかずに優に2年以上の時が流れる。

 

田中美津さん・ハリとの出会いのきっかけはこちらから。

garaando.hatenablog.com

 

その頃の私は、毎日追われるように仕事をしていて、ヘトヘトに疲れきっていた。

精魂つき果ててわかった事は、ただ一つ。

毎日のルーティンをこなすことは、実は最小限のエネルギーで済むということ。たとえそれがどんなに大変であったとしても。

仕事を辞めるも転職するも何かを決断するも、変化を起こすには新たなるエネルギーが必要となる。

ましてや考えても答えが出ないであろう人生の意味や目的を求めるくらいなら、生活にどっぷり浸かって日々をやり過ごした方が楽なのだ。

やり過ごして生きている。

(DV被害にあっているバタードウーマンとか、ブラック企業であってもそこにい続ける選択しかできない人たちは、このようなエネルギー状態が極まっていて、体力も尽きて思考停止に陥り毎日が過ぎていくのだと思う。)

そんな中で、出会った美津さんとハリ。

ハリ治療へ行くという変化が、新たに私の生活に加わった。

 

美津さんの声は、スーッと人の深い部分に染みわたるような、そんな透明さとリズムを持っていて、しかも滑舌がいい。ユーモアのセンスも抜群で、拾いあげる言葉に力がある。

その美津さんがポツポツと語る東洋医学をめぐる言葉達は、あまりにも身近すぎて見過ごしてしまった現実の生活 (美津さんの言葉では「ぐるりの事」)に焦点を当てる。

そしてハリガネより太くて10センチ以上の長いハリを使う江戸幕府御用達の石坂流のハリは、私の世界観を塗り変えた。初めての身体感覚をいくつもいくつも伴いながら。。

 

美津さんのハリ治療を受けていると、

自分がイモムシのような一つの細胞になっていく感じがした。

「あなたね、分析して幸せになれた事ってある?」と、

背中にハリを打たれながら、あの心に染み渡る声で問われても、イモムシ状の私は返事ができない。

「分析かぁ。。」

寝てしまったかのように見えるかもしれないが、ドッコイ私は起きている!

「自分の行動やら人間関係のアレコレを分析してたけど、そういえば幸せには結びつかなかったな。。」と遠くでボンヤリ思う。

しかし身体がボヨーンと大きな軟体の塊になっていて、それこそ分析が難しい。

確かジプシーキングスの曲が聞こえていた。まだ売れていない頃の彼らの音楽は、その頃の私には新鮮だった。

ジプシーでボヘミア〜ンな異国の響きが、思考することで生じる束縛を解き放ち、身動きはままならぬが、身体内部をユラユラと自由にさせたよ、オレッOlé! 

 

こんな感覚を味わいながら治療が終わる。

すると、私は身体ごと大きな自分になっている。

ボワーンとドラエモンかドラミちゃんのように、ボワボワに。

そして、もうなんだか現実がどうでもいいように思えた。

投げやりな感じというよりも、「そういう現実もあってもいいかな、なんでもアリで!」というようなちょっと余裕の感じで。

今ならわかる。エネルギーが、気が、満ちたのだ。

それも身体まるごと。

(注:人間の身体は物質的肉体の周りにエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体などと呼ばれるエネルギーの層をまとっています。目に見えないこれらの層が充実してくると、大きくなったり、広がったりする体感があります。瞑想や太極拳、あるいはフリーダンスや踊りながら参加するライブやコンサートなどでも、このような体感を得られます。)

 

その頃の美津さんの治療所は、細い小路を入ってたどり着く隠れ家のようだった。

私は秘密基地へ行くみたいな高揚感を持って通っていた。

疲れたら、身体の様々なところへ打ち込まれた箍(タガ)を外してもらいにハリへいく。

そして箍(タガ)が外され、身体の各所は再び繋がりあい、イモムシのような自分になって、ボワボワと大きくなるのだ。

それだけで日常の様々なことの捉え方が変わった。

「ま、どうでもいいか」とか、

「なんだ、些細なことだったね」とか、

「よし、やってみるか」とか、

「何はともあれ、美味しいものを食べよう!」とか。。

自分に迷いが少なくなって、キッパリしてくる感じだ。

身体が楽になれば、自然に自分が変わる。

 

身体の面白さにのめり込みながら、

小さいことが積み重なっていくうちに、

子供時代に職業として知りもしなかった「鍼灸師」ってヤツを目指すことになったのだ。

もっとハリを知りたい。自分で自分にハリを打てたらいいな。

ちょっと、やってみるか。。と言ったノリの延長で。

このノリは、それまでの自分が選択してきた進路の決定方法とは全く違ったものだった。

それ以来、私の選択と決断はいつもこのノリになったように思う。

 

先日、美津さんのドキュメンタリー映画「この星は、私の星じゃない」が上映された。

映画の中で懐かしい美津さんの声を聞き、力ある言葉に頷いたり笑ったりしながら、昔のことを思い出していた。

久々に美津さんと再会し、私は鍼灸師をずっとやっていくと告げることができた。

美津さんは言った。

「身体って、面白いよね!」 

そう、これに尽きるのだ。

 

美津さんとの出会いは、その初めから魅力的だった。

本質を求めるハリと

美津さんの持つ優しさ、ユーモア、傷つきやすさ、強さ、正直さ、そしてカリスマ性。とりわけ美津さんにはチャーミングという言葉がよく似合う。

今、しみじみ思う。なんと大きな出会いだったかと。

そして私は、

それまで自分であったはずの自らの身体と、出会い直しをすることができたのだ。

たぶん、この自らの身体との出会い直しの道のりは、生涯続いていくに違いない。

それもまた、なんとも嬉しい。

 

田中美津さんの書籍> 

 「明日は生きてないかもしれない・・・という自由」インパクト出版会、2019年

 「この星は、私の星じゃない」岩波書店、2019年

 「かけがえのない、大したことのない私」インパクト出版会、2005年、

 「新・自分で治す冷え性」マガジンハウス、2004年 他多数 

 

 

(後記)

私はハリによって自分が大きくなるという体感を得ました。今にして思うのですが、これは心理療法で使われるエンパワーの手法に他なりません。

大きくなった自分は、クヨクヨ悩んでいた分析脳に支配されていた小さな自分を凌駕します。大は小をかねながら。。

インナーチャイルドワークも自我の成長が進まなければ、そこにアイデンティティを作ってエネルギーを注ぎ、物語をさらに強固なものに塗り変えて、いつまでもそこに居着くことになってしまうのです。

 

美津さんに「分析して幸せになる?」と聞かれた時に、私は頭で理解することの限界をうっすら感じ取り、相まって身体の感覚の面白さを味わうことができました。自分の身体を実感できるようになると安心感が増します。自己の一体感というか。。この安心感を礎に一歩が踏み出せるのだと自らの経験を振り返って思います。

 

「あなた、まずは身体よ!」と教えてくれた美津さんに感謝を込めて

生きづらかったら、苦しくなったなら、

とりあえずは身体、整えましょ。

そして身体感覚、開きましょ。 

私も皆さんに伝えていきたいなと思っています。

 

f:id:garaando:20191124124756j:plain

チリ、プエルトモン付近(パタゴニア地方)の海上から撮影