“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

繋がりあう世界3 間(マ)

人生は出会いに満ちている。

昨年私は1冊の本と出会った。タイトルは「紛争地の看護師」、作者は白川優子さん。

彼女は7歳の頃に見たテレビ番組で「国境なき医師団」の存在を知り、その医師達に憧れのような気持ちを抱いたという。中学・高校時代の彼女は、なりたい職業を意識することなく過ごした。就職活動の際に進路を決めかねていたが、友人が発した言葉ー「看護師になりたい」ーによって、自分の求めていた職業がやっとわかったそうだ。「私も!私も看護師になりたい!」と。この本は、紆余曲折を経て、ついに国境なき医師団で働くこととなった彼女の活動記録である。

 

一気に読み終わって、私はふうぅと脱力した。

降り立つことを想像しただけで竦(すく)みあがるような、そんな紛争地が地球上に点々とある。つき動かされる衝動で働いている人たちが世界中にいる。娘の夢を知った上で、その背中を押す母がいる。何より白川優子さんという、輝く玉のようなエネルギーを持った若い女性がいる。

この本を読み終えてしばらくの間、私は圧倒されていた。

圧巻の内容もさることながら、その後も私はこの本の中に記された何かについても考えさせられていた。

 

私が気になっていたこと、それは彼女が国境なき医師団に入るまでの道のりだった。

高校を卒業して看護師を目指すには、準備不足だったそうだ。しかし自宅の近くに新設の看護学校ができていると知る。そこは、半日を指定の医療機関で勤務するのが条件の、4年間の定時制学校だった。彼女はここに入学することができ、卒業と同時に看護師資格を得る。その後、近所の医療施設に就職し「手術室看護師」の経験を積む。これは緊急事態を冷静かつ臨機応変に判断しつつ、チームプレーが求められる職人仕事だという。

こうして看護師としての経験をつんだのちに、国境なき医師団へ入るためには英語が必須だという難問にぶち当たる。「英語力ゼロの26歳の日本人が英語で医療活動を行うことなどできるわけがない」と。その時、母が留学を勧めて、こう言ったー「しっかり準備して人生のピークを40歳あたりに見なさい」。彼女は、留学資金を貯めるために近所で最も給料の高い産婦人科で3年働く。こうしてオーストラリアの大学の看護科へ。大学卒業後にはオーストラリアの病院に3年半勤務した。そしてついに36歳で国境なき医師団のメンバーとなった。

 

この彼女の歩んだ道のりをどう捉(とら)えたらいいのだろう。

意志あるところに道は開けるということもできる。求めよさらば与えられんと。

またこういう特別な人には、必要なモノが準備されていると思うこともできる。

さまざまな幸運を彼女が引き寄せたとも言えるかもしれない。

ただ私は、彼女が子供の頃からずっと看護師を目指し続けていたわけではなかったこと、国境なき医師団に入るために必須の英語を勉強していなかったこと、看護学校や勤めた病院もたまたま近所だったことなどが気になった。

明確な目標をたてて、そこから用意周到に計画を立てたわけではない。

ひとつの課題をクリアする毎に立ち上がってくる問題を、今ある手持ちの手段を使ってコツコツと積みあげて努力していく。

努力するごとに、自分の夢の輪郭がハッキリしていったのではないだろうか。

白川さんの行動様式は、回り道に見えるかもしれないとも思う。しかし、一見遠回りに思えるようなことはすべて、彼女の夢を実現する際に必要なことだった。オペ室の看護経験も産婦人科での勤務も、命に関わる根本の医療行為である。

歩いてきた道を振り返って初めて、必要な経験を経てきたことに気づく。

手近にあったものをつかみながら前進するうちに、偶然性や幸運も舞いこんで、必要なモノやコトが準備されていく。

さらにその流れに乗って、ますます自分の意図は明確になっていく。

状況が自分をも巻き込みながら、道なき道が自然に現れてくる。

自分をとりまく状況が自らの進むべき道を示す。

このありようは、生命体の営みの基本となっているようにも感じる。

自分をとりまく状況とは、自分とその周りとの関係性だ。つまり、あらゆるモノやコトあるいはヒトそして自然ーそれらと自分とを結ぶ関係性であり、その両者を繋ぐ間(マ)のことである。

実は自分が主体なのではない、関係性こそ、間(マ)こそ主体。 

 

目的を達成するために逆算して計画を練る。この縦軸に沿ったエレベーター型の手法は、生命体においてあまり意味がないのではないかと、私はこっそり思ってきた。

水面に投げた石がつくる、同心円で水平軸に広がる輪のように、ひとつの些細な行為であったとしても、その影響は波紋となって広がる。水平軸のみならず全方位に渡って、隣接する細胞たちに放射線状に影響が及ぶのだ。細胞同士が出会っては互いに干渉しあい影響を受け合って、さらに大きさの違う円心の波紋が広がる。このように多重的に変化を遂げる中で、ひとつの細胞の動きが定められていくのだとしたら、数値目標を決めて計画を立てるという行為には、どれほどの成果があるのだろう。

たとえばダイエット。〇〇kg減だけを目標にして計画を立てる。その目的は達成されたとしても、リバウンドしやすい。一方、自分にあった食事療法などをして体調も改善され、いつの間にか体重が落ちてしまい、適正体重が結果としてダイエットとなった場合のリバンドは、極めて少ない。

また便秘を治したいという相談もよく受ける。便秘というのは結果であって、取り組むべきは消化機能の改善なのだ。便秘薬が手軽に用いられるが、ただ便秘しないのと消化に係る臓器が正常に働いた結果、便秘という症状があらわれないというのには違いがある。

さらにオペによって切除され再生されることがないと思われた器官が、隣あった細胞たちのふるまいによって、結果として機能が修復されていく。これはジグゾーパズルの1ピースが欠けた場合にも、周りのピースに型どられることによって再生されていくようなイメージがある。周りとの関係性によって失われたはずの1ピースは復元するのだ。

 

生命体を貫く自然法則は、自分たちの人生の流れ方にも共通するのだと思う。

 

新たな出来事と出会う。

それが人であれ、モノであれ、本や映画であれ、風景であれ、食べ物であれ、誰かの一言であったとしても、

これが一石となって、何の変哲もないように思える日常の中に波紋を呼ぶ。

こうして眠っていたであろう可能性が呼び起こされるのだ。

 

自分をとりまくさまざまな事象との関係性。その関係性を結びあう間(マ)の世界を考えてみると、出会いというものの持つ力の大きさが理解できる。

 

私たちは、

そして私たちの身体は、

さまざまな関係性が繋がりあった世界の中で、生かされている。

 

(注:白川さんが綿密に計画をたてて行動なさったことも多いと想像します。私の勝手な解釈をもとに、一部だけを取り上げてブログ記事を書きました。ご当人への確認も許可もなく。どうかご容赦ください。)

 

(後記)

今回のテーマは、私が治療家になってから気になりだした、フランスの哲学者メルロ=ポンティが提唱していることに関係しています。主観と客観という二項対立を超えた概念として間主観(カンシュカン)性があると彼は言います。

この間主観性とは具体的にどういうことを指すのだろうかと思いつつ、皆様のお身体を診せていただいてきました。身体が根本的に癒えていくということについてのヒントがあるように思えたのです。とりわけ難治の病いが回復していく過程には、この間(マ)の力学が働いているように思えてなりません。

これは何も東洋医学だけの話ではありません。

病院に行くと、いつからかお薬手帳なるものが渡されるようになりました。それぞれ別個の部門で出された薬どうしが全体として悪影響を与えないだろうかと検討するために。

これもそれぞれの関係性を考慮する医療の形かと思います。

関係性をぬきに何事も進まないのだと思っています。そしてここからコミュニケーションの重要性が見えてくるのだと。

現象学の流れをくむメルロ=ポンティ。彼のいう何だか難しい様々な事を、私の経験と引き寄せて、噛み砕いて自分自身が理解できるように、これからも学んでいきたいと思っています。

 

 

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カリブ海の島バルバドス、ブリッジタウンにて撮影 

間(マ)についてはこちらも!

garaando.hatenablog.com

 

 

勝手に陰陽論18 気・血・津液(き・けつ・しんえき)

雪、雪、雪。

「小樽の街角でよく見かけるオンコの木。その赤い実がタワワになると雪の多い年になる」とか、

「猛暑の夏の後には大雪の冬が来る」とか、チマタでは言われていた。

そのとおり、ひさびさに冬の厳しさを噛みしめた今年の幕開けだった。

そして大雪だと悩まされる雪かきという重労働。屋根の雪下ろしでは、毎年決まって誰かが死んでしまう。

ただこの雪かきという作業は、なんだかトリッキーに思える。だって雪ってどんなに積もっても、どうせ消えちゃう。このいずれは溶けてなくなるものにかける労働の重さは、とても割りに合わないだろう。

しかし!

人間はどうせ出すのに食べる。食べて出して、出しては食べて。

息も吸って吐いて、吐いては吸って。

掃除もそう。どうせ汚すのに掃除する。掃除しては汚し、汚しては掃除する。

もっというなら、どうせ死ぬのに生きている。

輪廻転生するとしたら、生きては死んで、死んでは生きての繰り返し。

ああ!どうせ消えちゃうのになさねばならぬ雪かきは、どこか悟りの道へといざなう修行のように私には思えてしまうのだ。

かいてもかいてもまた降り積もる雪。ミゾレになったり雨になったり、固まっては氷になったりと、地上に浮遊する目には見えない水蒸気たちが有形にヘンゲして、その姿を現す。しかも3月にもなればすっかり溶けちゃって無形の世界へと戻るのだから、ああ無情!

 

というわけで今回は、「無形から有形へ、有形から無形へと変化し循環する」という事を見つめつつ、人体の体液について陰陽論を用いて考えてみたい。

 

西洋医学東洋医学の違いのひとつに、病気の原因の捉え方があげられる。西洋医学では細胞の変性が病気を引き起こす(細胞病理説)として細胞に焦点をあてる。これに対し東洋医学では体液病理説をとる。これは、体液やその巡りの不具合によって病気になるというものだ。

さて、この体液に関わるものとして、気・血(けつ)・津液(しんえき)という概念がある。(東洋医学用語は太字で表記)

 

 気・血・津液は人体を構成する基本要素  f:id:garaando:20220123145825p:plain

    気・血・津液は互いに協力し合う

1 気 について

東洋医学は気の医学である。こういわれるほどに自然界のエネルギーである気は、東洋医学の基本となる概念だ。

古代中国思想では、気は太極という宇宙空間に充満している、無形の極めて微細な物質であるとされる。そしてその気は万物を構成するオオモトであり、生命体をも創造する。

では人体の気を見てみよう。

遺伝的に両親から受け継がれる気を 先天の気 という。

さらに成長の過程で、呼吸や飲食物から獲得できる気を 後天の気 という。

この二つが合わさって、人体の生命活動に必要な 気 となるのだ。

先天の気 は運命的であり、その量も質も努力で変えることはできない。それに対して 後天の気 は自分次第でより充実させることができる。

なぜなら 後天の気 は、呼吸から得られる 天の気( 清気:セイキ)と 飲食物から得られる 地の気( 水穀の精微:スイコクのセイビ)が合わさったものだから。呼吸法を取り入れたり、食生活を見直すことで、もっと元気になれるのである。

そして呼吸によって取り込まれる 清気 と飲食物から得られる 水穀の精微 から、体内での 気・血・津液 が作られる。

<補足 : 気には、万物を構成する力を持つ、宇宙に充満する気(広義の気)と 人体に関わる気(狭義の気) とがある。自然界の根源的なエネルギーである気から人体は生まれ、さらにその人体は生命活動の一環として気を作ることができる。>

 

こうして呼吸や飲食物によってもたらされた人間の気には、以下のような作用がある。

① 推動(すいどう)作用:押して動かすように、血や水分の流れや内臓の働きを促進する。

温煦(おんく)作用:体温を保って温め、代謝をあげる。

③ 防衛作用:体表を保護して、乾燥や寒さ、湿度などの外界からの 邪気 の侵入を防ぐ。

④ 気化作用:体液を汗に、血を (エネルギー源)に変える。

固摂(こせつ)作用:汗や出血、尿などの漏出を防ぎ、水分を統制する。

このように様々な働きをする気が充実することによって、我らは元気になるのである。

 

気の作用についてはこちらも参照。

garaando.hatenablog.com

 

気についてはこちらも。

garaando.hatenablog.com

 

2 (ケツ)について

血は血管をとおる赤い液体で西洋医学でいう血液をいう。ただし東洋医学での「血」は、西洋医学でいうところの赤血球をさすと理解する方が良い。血液の血漿部分などは 津液 に分類されているからだ。

血の原料は、飲食物から作られる 水穀の精微 という栄養分である。我々は飲食物を体内へとり入れる。これらは胃で消化され、さらに小腸や大腸で吸収されて初めて栄養分となる。(注:こういった消化吸収の役割り全般は東洋医学では 脾 が担当するとされており、西洋医学のいう脾臓とは働きが異なっている。)

この栄養分をモトに血が作られる。そして (心臓)の働きによって、内臓から皮膚の隅々にいたるまで血は巡り、栄養源を全身へと届ける。肌や髪にツヤがあり目や皮膚が潤って、筋肉や骨が充実し、メンタルが安定しているのは、血の栄養が行き届いているといえるのだ。

 

3 津液(シンエキ)について

津液は、血(ケツ)以外の全ての体液(リンパ液も含む)をいう。これは、飲食物から得られる 水穀の精微 が 脾 の働きによって吸収され変化してできたもの。体内の各部に潤いと養分を与える。髪や皮膚はもとより、目、鼻、口を、さらには臓器をも潤す。また関節に入っては動きを滑らかにし、脳・脊髄をも満たす。

こうして体内を巡る水分は、汗・涙・つば・ヨダレ・鼻水という代謝物となって、また不要になった津液は便や尿となって、体外へと排出される。

 

ここで陰陽論の視点からこの気血津液を見てみよう。

陰 とは、集約され凝集されて下や内へと向かう、物質的で量的な性質で目に見える。

陽 とは、放出し拡散されて上や外へと向かう、機能的で動的な性質で目に見えない。

よって陰は陽に比べて比重が大きくなることを踏まえておきたい。        

気・血・津液の中で、血は物質性が一番高く 陰 的要素が強い。

また気は最も動的で形を持たず 陽 的な存在となる。

津液は、陰と陽との中間的な位置をしめる。津液は血に材料を提供し(陰に向う)、また汗となって排出されるように、気化して蒸発する(陽へ向う)からだ。

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ここで重要なのは、この3要素が個別のものではなく流動的に混ざり合っていて、常に動いているということである。同じ血液でもドロドロの時もあればサラサラになることもある。鼻水や汗も場合によって濃度や性質は変わる。成人の身体の60%以上を占めるという水分は、気と津液と血との間で関わりあい、エネルギー交換しながら常に変化している。

 

我らは外界から気と飲食物とを取り入れる。

これらは、混ざり合いながら消化と吸収の代謝プロセスの中で栄養や液体成分となり、

さらに生命活動に必要な気血津液を作り出す。

この気血津液は、時には比重が増して物資化したり(陰)、またある時には気化して蒸発したり(陽)する。こうして陰と陽との世界を行き来しながら体内を巡る。

汗や鼻水、ツバといった代謝物を体外へと放出し、

最終的な不要物は大便や尿となって体外へと排泄されるまで、巡るのだ。

 

陰と陽とは、分離できない。

陰陽論とは、交換しあいながら移り変わる自然界の法則、

これを理解するためのひとつの世界観であり、方法論なのだ。

 

自然界の水蒸気は、雨や雪、そして氷にもなって姿を現す。

はたまた雪や氷は、溶けてしまうと形を失う。

我らの身体の中の水分も、

体内の微妙な条件に応じて、

その比重を刻々と変えながら、

自然界の掟にそって動き続けていくのだ。

 

(後記)

どうせ死ぬのになぜ生きるのだろうか?

私はこのことが頭から離れない子供でした。

こんな自分と私は長年付き合ってきたのだから、私自身が疲れてフーフーです。

ただこの疑問を持っていたことによって、私は多くの気づきをもらった気がします。

 

毎日降り続ける雪を見て、あるいは雪かきをしながら、

昔から考え続けてきた問いを思い出しました。

 

なぜ生きるのか?死ぬのにねぇ。

やっと見つけた答えのようなものは、「生きているプロセスこそが大事だ」ということでした。

今でしょ、今!

イマナカでしょ!!って感じ。

 

せっかく雪が降るので、雪かきをします。

雪に覆われた静謐さにどっぷりとつかります。

雪国の皆様、雪かき頑張りたいですね。

 

またウイルスから身を守るためにも、免疫力をつけなくてはなりません。

これには、質の良い睡眠と少食を心がけてくださいね。

かいてもかいても降り積もる雪を見たらグッタリするように、

分解し吸収する消化器の細胞たちも、働いても働いても食べ物が降り注いできたとしたら、どうでしょうか。

消化に使われるエネルギーは思っている以上に膨大です。もしかして雪かきのエネルギー量に匹敵するのかもしれません。

具合が悪ければ絶食する動物たちのように、疲れたところを回復するために、エネルギーを節約しましょう。それこそ免疫があがります。

ぐっすり寝てください。

そして良い食品をゆっくり食べてください。いつもより量をちょっと少なめにして!

 

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2022年お正月、小樽にて撮影。

津液については、よかったらこちらも!

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東洋医学各論14 五行論からみる臓器と感情

治療家の私には、患者さん達の様々なエピソードを聞かせていただくという、ありがたい特権がある。その中のひとつを紹介したい。

あの当時その方は82歳。横浜からご自分の運転で私の治療所へ来てくださるダンディで陽気なご老人だ。ある時、親友のお通夜へ行った時のでき事を話してくださった。

「ここに席があるからこっちへ来いと手招きする人がいる。よく見たらそれは30年近くにわたり絶交をしている天敵の憎っくきヤツなんだ!あまりに私を呼ぶのでね。仕方なくその席に座ると、彼は嬉しそうに私に話しかけてくるんだよ。ボケっちゃったのか?と思いつつ、お通夜の間中、隣の彼のことを考えていた。そもそもどうして彼とケンカしたのか?どんなに考えてもその理由が思い出せない。忘れちゃった!どうしてあんなに嫌っていたのか全くわからないんだよ。オレもダメになったなぁと笑えてきたよ。それで帰りはその彼と行きつけの蕎麦屋に行って故人を忍びつつお酒を飲んだ。なんか意気投合しちゃって、これが結構楽しくてね。また来週会うんだよ。全く人間の感情ってのはいい加減なもんだね。」

いい話だなぁと思った。年を取るのも悪くないなぁって。

 

今回は、この感情というものに焦点を当ててみたい。

人が大人になるとはどういうことを言うのだろうか。

肉体の成長は目でみればわかる。

知能や認知の発達もほぼほぼ周りからも感知できる。

しかし感情の成長は、計りうるスケールがない。

だからこそどこから見ても立派に見える大人が、感情的に成熟した人間であるという保証はないのだ。

そして幸か不幸か、好きとか嫌いといった感情こそが、多くの物事を決定していく。最もらしい理由は後づけされながら。さらにつけ加えるならば、憎しみが高じて犯罪に至ることもあれば、強固にも思えた感情が何かの拍子に溶けるがごとく変化してしまうこともあるのだから、これがなんとも扱いにくい。

 

心理学でいうところの心の問題において最も問われることのひとつが両親との関係性についてである。父や母との関係が後のあらゆる人間関係の基盤を作る。そしてこの関係性の問題とは、その関係から生じた自己の感情のことだ。感情は、いきおい他者へ向けての反応となり、自己の世界観を築く大きな要素となって、個人の性格をも形成していく。

 

感情的な態度は、大人としていかがなものかと嫌われる。理性的であることが大人の条件であり、スマートに映るのだ。

しかし実は世の中を動かすエネルギーのおおかたは、感情が握っているのではないだろうか。

 

今回はこの感情という大きなテーマの一端を、とりわけ人体における臓器と感情との関係に焦点をあてて、東洋医学五行論に基づいて考えてみたい。感情というものがどれほど密接に体質や病気と絡んでいるのかを理解する手がかりになればと願いつつ・・。(太字は東洋医学用語)

 

五行論についてはこちらを参照

garaando.hatenablog.com

 

東洋医学では病気の原因のひとつに感情の変化をあげている。これは七情(しちじょう)と呼ばれ、「喜・怒・思・憂・悲・恐・驚」の7つの感情をいう。こういった感情が直接的に病気と関連するという見方は、西洋医学にはみられない東洋医学独自の特徴と言える。

たとえば憂いや悲しみなどの感情が強すぎると肺を傷つけるとされている。このように特定の感情には特定の臓器とのつながりがあるという。以下の表を参照しつつ、それぞれの臓器と感情との関係を、さらには人体に表われる色と体質との関係を見てみよう。

 

五行による臓器と感情の関連>

五 行               

五 臓| 肝 |  心  |  脾 |  肺  |  腎   

五 情| 怒 |喜/笑| 思 |悲/憂|恐/驚

五 色| 青 |  赤  |  黄 |   白  |  黒   

 

(もく)のエネルギー(上や外へと拡散する運動のエネルギー)を持つ「怒」について

頭にきた!というように、怒ると気血(きけつ:気と血のこと)が頭に上昇する。このため、そもそも拡散するエネルギーを貯蔵する臓器である、この肝の働きを怒りは促進させる。もともと肝にエネルギーのある人は、怒りっぽくイライラし落ち着きなく行動する傾向がある。あまりに怒りを溜めすぎると更に機能亢進して肝を傷めるし、逆に肝が病むと怒りっぽくなる。

(補足:鬱という病は中医学では肝鬱ともいわれ、外へ向かうべき伸びやかなるエネルギーが内へ向けられ閉じ込められた状態。怒りを健全に発散することが難しくなる。)

また怒りやすい人は頭の血管が浮き出て青スジが立つ。肝の働きの良い人の白目は青いなど、と青とには繋がりがあるとされる。

 

(か)のエネルギー(熱を帯び上へ向かうエネルギー)を持つ「喜(笑)」について

喜んでケラケラと笑っている姿を想像すると、斜め上へ顔をあげて熱が発散されているイメージが浮かぶ。喜びには気を巡らせて、全身を緩ませる作用がある。しかし喜びすぎるとが乱れる。たとえば子供が翌日の旅行が楽しみで寝なくなる。また新居へ引っ越し興奮して疲れているのに眠くない。どんどん片付けができるものの、とうとう動悸、息切れの症状に至るといった場合がこれにあたる。不眠の症状は(しん)に影響を与え、また逆にが興奮したり弱ると不眠になる。これは中医学でいうには、西洋医学でいう心臓の働きの他に精神の働きも含みメンタルとの関連が深いからだ。

高血圧や心臓の悪い人は、赤ら顔になりやすい。と赤とには繋がりがあるとされる。

 

(ど)のエネルギー(滋養を与え育むエネルギー)を持つ「思」について

滋養を与えるエネルギーだが、考えすぎると気が固まって巡らなくなリ、消化機能であるを弱らせる。思い悩む性格だと消化不良となり、水はけが悪くなって体が重くなったりだるくなる。ストレスで胃潰瘍になるなど、考えすぎると消化器への影響は大きい。また消化器が弱いと考えがまとまらないという傾向もある。

消化機能が停滞すると、手足や顔色が黄色っぽくなる。また胆汁が円滑に流れないと黄疸などの症状が出る。と黄とには繋がりがある。

 

(ごん)のエネルギー(重厚で変容させるエネルギー)を持つ「悲(憂)」について

悲しみすぎると気が滅入って失せてしまうため、生きるためのエネルギーをなくしてしまい更にを弱らせる。また肺が弱いタイプの人は、悲しみや憂いへの親和性も強い。体質としては喉や肌が乾燥して、便秘にもなりやすい。思い切り泣いたりするグリーフワークの手法は、悲しみを解消しエネルギーを動かすのに有効だ。

結核などの肺の病気だと、カサついた色白の肌になりやすい。と白とには繋がりがある。

 

(すい)のエネルギー(潤いを与え下方へ流れるエネルギー)を持つ「恐(驚)」について

驚いて腰を抜かすといわれるように、恐れや驚きが強いとが下降して抜けてしまい、下半身に必要なエネルギーが回らなくなりを傷める。生存本能を脅かされるような恐怖の経験があると腎の持つ生命体のポテンシャルを発揮できずに発育不全となる。また腎が弱い人は、何事においても恐れが強い傾向がある。

腎が衰弱すると顔色は黒くなる。と黒とには繋がりがある。

 

このようにさまざまな感情は特定の臓器と密接な関係があるのだ。

また怒りの下には必ず悲しみがあるように、感情どうしも層をなして繋がりあっていて、はっきりと特定できる感情に割り切れないようなグレーゾーンもある。各種の感情は単体で存在するのではないため、痛みの表現が個人の体質によって異なるということも覚えておきたい。

 

感情はどこから湧いてくるのか。

どうして悲しみにばかり反応するのか。

なぜこうも恐れて最悪のことばかりを心配するのか。

思い悩むばかりで、かくも行動することができないのはなぜだろう。

いちいち怒りっぽい性格は変えられるだろうか。

 

こういったメンタルの疑問を持った時、

身体の具合を考えてみることをお勧めしたい。

こんなに悲しく感じるのは、肺が弱っているせいかもしれない。

あの人があんなに怒るのは、きっと肝がやられているのだろう。

こんな風に考えられれば、感情にすっぽり呑み込まれる前に身体へと意識がいくと思う。

 

良きにつけ悪しきにつけ、感情エネルギーの持つ威力は計り知れない。

ただ単にストレスだと決めこんでやり過ごすのではなく、

身体をいたわることができれば、ストレス自体も軽くなるはず。

感情的な辛さについて、身体からアプローチする重要性を今一度考えてみたい。

 

(後記)

健全な肉体に健全な精神が宿る。

小さい頃からこの言葉が嫌いでした。

健全な肉体とは何を指すのか?弱者切り捨てのような文言に聞こえたのです(弱者というのも適切ではないですが)。また健全な精神というものがあるのだろうか?などとも思って・・。いわゆる「健全」という言葉に抵抗する自分がいました。まぁ、こんな私が健康を扱う仕事をしているのですから、全くもって人生の一寸先は闇でござんす。

ただ陰陽五行論に出会ってからは、自分の中の凸凹がどちらかに振り切れることなく適当に行ったり来たりする、このことを健全というのだと理解できました。思えば長い年月がかかったものです。

 

また「パワハラモラハラ」という言葉もソコココでよく聞くようになってきました。

患者さん達の話を聞いていると、実際持って酷いパワハラもあって、これはなんとかならないものかと思うこともあります。

ただ、人間関係というのはある程度のパワハラはつきもののようにも思います。誤解しないでくださいね。ある程度の、ということで。

さまざまな事象にパワハラといったレッテルが貼られてしまう。なんでもかんでもこのレッテルを貼ることは、問題の表面だけを簡単に浮き彫りにすることで、かえって感情の本質的な問題に降りていけない気もするのです。

 

そもそもどうすれば感情の成熟度を増すことができるのでしょうか。

私もあなたも!

 

この時代にあって、各所で分断が進んでいく感じがしています。

そしてこの分断のオオモトには、感情が渦巻いているように思えるのです。

感情の成熟度を増す。

このことの必要性を感じていますが、あまりにも難しいことなので、

まずは自分の臓器と感情との関係を整理してみようと思いながら書いてみました。

 

長いブログを変わらずお読みくださる皆様、今年もありがとうございました。

いつまでも大人になりきれない、そんな老女になりつつあります。

ああ!遥かなるかな、成熟という2文字!

ですが、、また来年もコソコソと書いていきたいと思っています。

どうぞ皆様、良いお年を!

 

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ワイ島マウナケア山頂にて撮影

(なお文中の患者さんのお話は了承を得て掲載)

東洋医学各論13  五行からみる食養生と薬膳

色彩豊かな秋が深まって冬に向かっていくと、外界の景色は次第に色褪せていく。こんな季節にあって、橙色に輝く柿を見かけるとなんとなく嬉しい。枯れていく風景の中で力ある暖色系のオレンジ色は、元気を与えてくれる。

秋はやっぱり柿でしょ!

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺、でしょ!?

 

というわけで、今回は季節と食べ物、そしてそれらと身体との関係性を東洋思想の五行という概念を用いて説明し、東洋医学の「医食同源」「薬食同源」について考えてみたい。

 

五行についてはこちらを参照。

garaando.hatenablog.com

 

医食同源」とは、医療と食事のどちらも生命を維持し健康を保つために大事であり、オオモトは同じとする考え方。バランスの取れた食事は病気の予防や治療に欠かせない。食事の恩恵を得て積極的に体調を整えようとするのが食養生だ。

さらに食べ物には身体の不調を治す薬効があり、薬と食事もモトは同じとするのが「薬食同源」。この薬効を十分に活かし、体調の改善をめざす食事を薬膳という。

 

古代中国の伝説上の人物に「神農(しんのう)」と呼ばれる、農耕と医薬の神様がいる。この神農が書いたとされる中国最古の薬学書「神農本草経(しんのうほんぞうきょう):前漢末〜後漢中期」には、365種の植物などについての薬効が書かれ、食べ物を3つ(上品じょうほん、中品ちゅうほん、下品げほん)に分類している。

上品:身体を丈夫にする日常的に用いられる無害の食品。石薬(せきやく)と呼ばれるミネラルや、ハトムギ、ゴマ、ミカン、クコ、ナツメ、人参など。

中品:滋養強壮、虚弱体質の改善や養生に用いるもので、上品よりも少し副作用の可能性があるもの。クズ、ホオズキ、マオウ、センキュウ、ウメ、トウキ、クチナシなど。

下品:毒にも薬にもなる薬性を持ち、病気の治療のため短期的に用いるもの。トリカブトケイトウレンギョウ、ダイオウなど。

また古くは皇帝の食事を管理する「食医(しょくい)」は、「疾医(しつい:内科医)」や「瘍医(ようい:外科医)」より重要視されていたほど、病気の治療や健康な身体づくりに食事が重要とされてきた。

 

では一般に漢方的な食事療法と言われるものは、どんなものなのだろう。

まずは食物の性質を知ることからはじまる。基本は以下の2点。

 

まず1点目。その食物は身体を冷やすのか、温めるのか、それともどちらでもないのかと考えてみる。

これらは、程度により以下のように分類される。

 (冷)→  (やや冷)→   (どちらでもない) ← (やや温)←  (温)

実際には、ざっくり身体を冷やすか温めるかで食品を選ぶと良い。夏野菜であるきゅうりやトウガンには身体を冷やしたり潤したり排毒するといった効果がある。生姜やニンニクは身体を温め、代謝を促進する。冷やす食物には消炎・鎮静作用があるため高血圧やのぼせなどに向き、温める食物には代謝をアップさせる作用があるので、冷え性や貧血に良いとされる。

ただし同じ食材であっても調理法によって、この性質は変化する。たとえば大根。大根は 寒 の性質で身体を冷やすが、煮ると 平 へと変化し生姜を加えると となる。

単一の食材の性質を見極め、あるいは他の食材と合わさったり、料理方法によって変化する性質を踏まえた上で、今の自分には温める食事が適切なのか冷やす方が好ましいのかを選ぶのだ。

 

次に2点目。その食べ物はどんな味がするのだろうかと考えてみる。

酸っぱいのか、苦いのか、甘いのか、辛いのか、鹹(塩辛い)のか。これらの味は五味と言われ(陰陽五行論五行による分類:下表参照)、それぞれの味は特有の五臓六腑へ影響を与える。酸味は肝と胆の、苦味は心と小腸の、甘味は脾と胃の、辛味を肺と大腸の、塩辛いは腎と膀胱の、それぞれの働きを助けるとされている。

    <五行による関連性>

五行 | 木  火  土  金  水   

五味 | 酸  苦  甘  辛  鹹   

五臓 | 肝  心  脾  肺  腎   

五腑 | 胆   小腸   胃  大腸  膀胱 

さて味はどのように身体へ作用するのだろうか。

味:梅やレモンに代表される酸味は、筋肉を引き締め身体を活性化する。汗や尿、鼻水など排出量を抑える働きがあるため、多汗、下痢、頻尿、鼻水が止まらない時に効果を発揮。取りすぎると、身体が硬くなる。

味:ゴーヤや苦瓜といった夏野菜に多く含まれる苦味は、体内の余分な熱や水分を排出し、消炎する作用がある。便秘や胃もたれに効果的。取りすぎると、肌が乾燥し冷える。

味:人参やカボチャに代表される甘味は、緊張を緩める作用があるので、痛みを和らげる。体力不足を補い、滋養強壮にも役立つ。疲労回復、胃の痛みに有効。取りすぎると、骨が脆くなる。

味:唐辛子や生姜などに含まれる辛味は、気血(きけつ)の巡りをよくし、体温をあげる。発汗・発散作用があるので、風邪の初期症状に有効となる。興奮しやすくなる傾向がある。また取りすぎると、あるいは自分の体質に合わないと冷えるので要注意。

味:塩辛い味のこと。醤油や塩、牡蠣など代表される塩味には、固まりをほぐす作用あり。便秘や首・肩の凝りに効果あり。取りすぎると、血がドロドロになり高血圧になる。

 

このようにその食物が身体を温めるか冷やすかという視点と五味の視点から食物をとらえることが食養生や薬膳の基本となるのである。

 

また「身土不二」と言われるように、

身体(身)と環境(土)は、分かつことができないほど密接な関係がある。

ここでいう環境(土)には、食物はもとより、自らが暮らす土地の気候や風土、さらに季節の変化が含まれている。

五行の観点から、季節と食材との関連性を探ってみたい。

五行 | 木  火  土  金  水   

五季 | 春  夏   土用   秋  冬  

五気 | 風  暑  湿   燥    寒  

は、春一番といった突 風 が吹き、木の芽が伸びて、のびやかに広がるエネルギーが満ちてくるため、体内も気の流れを良くする食べ物が良い。香菜、セロリ、春キャベツなど。

は、暑 さが旺盛となってくるので、熱を冷まして夏バテを防止する食べ物が必要となる。きゅうり、トマト、苦瓜など。ただし、熱を冷ますために、冷たい飲み物や生のものをとりすぎると胃腸が冷えてしまい、消化吸収できずに夏バテ悪化となるので要注意。

土用とは、立春立夏立秋立冬の前の18日間をいい、次の季節へ移る変わり目の期間をいう。特に養生が必要な期間であり、湿 度も高い時期である夏土用のウナギは有名。

は、徐々に寒くなり、空気が乾 燥 しはじめる季節となる。この季節に実る梨、柿、ブドウといった果物は、乾燥を補う。また滋養にとんだ長芋もこの季節が旬。

は、寒 さが厳しいので、身体を温める食材を。鳥肉、にら、生姜など。

 

その土地で自然にできた食物をその時々に食べること。

ただそれだけで自らの身体への恩恵を受けられるのだ。

このことは、

私たちが自然との関係性の中で生かされているということに他ならない。

 

自分をとりまく自然の中に自らの身体があり、

自分と自然との様々な関係性の中のひとつが食物である。

さらにその食物のひとつひとつにエネルギーがあり、

それらが調理方法や組み合わせによっていろいろな味となり、作用となって、

我らの五臓六腑に、筋肉や器官に、さらには感情にまで影響を与えているのである。

 

(後記)

ローフード(生食)がブームだった頃、徹底したローフードで身体が冷えきってさまざまな症状が出ている患者さんを何人か診せていただいたことがあります。それはそれは、季節も自分の体質も無視した徹底したローフードでした。

(注:ローフードとはRAW(生) FOOD(食)のことで、火を通さない食事のこと。美容や健康、ダイエットにも効果ありとされ、ビタミン、ミネラル、酵素などが効率的に摂取できるとされる)

その時に私は、情報によって食べる、あるいは単一の基準にのみに従って食べる、といったことの弊害について考えました。

 

現代栄養学では、タンパク質、脂質、炭水化物、ビタミン、ミネラルといった栄養素とカロリー計算によるエネルギー量を中心に食品を分析しています。このため塩分を制限し、栄養素のバランスを考え、カロリー計算することによって食事を管理します。さらにオーソモレキュラー療法といった細胞レベルの栄養を扱う分子栄養学なども盛んになってきました。

しかし、コエンザイムQ10α-リポ酸、最近では若返り成分NMN(ニコチンアミド・モノ・ヌクレオチド)といった成分が次々と注目されるように、食品やその効能については未知のことも多く、更なる成分がこれからも発見されていくように思います。

漢方の食養生においては、食品を栄養素によって分析する手法は取りません。人類の歴史や文化の中で育まれてきた食物の効用を、それぞれの体質や症状によって、また移り変わる季節に応じて、受け取っているのです。

 

また私は、厳密なマクロビオティックを信仰しているお母さんのお子さん達にも出会いました。彼らは、甘い物を禁じられて育てられたお子さん達でした。

砂糖は確かに毒なのかもしれません。

ただ子供は甘さが大好きです。

くりかえし甘さを感じることによって幸せの感覚を追体験しているようにも感じます。

あまりに厳格に甘さを禁じられて育つお子さんは、

なんとなく感情の発達が乏しく、安心感などが希薄な気がします。

味覚による感情の発達への影響もあるのではないかと想像します。

 

自分には、どんな食べ物が基本的に向いているのか。

どんな偏食傾向(激辛好き、甘々好きなど)があり、それは何か感情と結びついていないだろうか。

自分を探るツールとしても、食事に目を向けることは面白いと思っています。

 

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トルコ、イスタンブールのエジプシャンバザール(スパイスマーケット)にて撮影

 

東洋医学概論6 陰陽五行論

猛暑に見舞われた今年の夏の小樽。秋の紅葉は今年もまた綺麗だろうと期待した。夏の暑さが厳しい年に、木々は綺麗に紅葉すると記憶していたからだ。しかし我が家近隣の紅葉の美しさはイマイチだ。そこで紅葉が美しくなる条件を調べてみた。

夏に十分な日照時間と適度な雨量があり、秋に昼夜の寒暖差が大きいことが決め手となるらしい。

季節に応じた太陽の光・熱・日夜の気温差・湿度といったいくつもの条件が必要なのだ。

さまざまな要素が絡みあいながら時を刻み続ける。ひとつの微細な変化が各要素に波及して更なる変化を絶え間なく生むのだから、秋と言っても一度として同じ秋は来ない。

変わるということ。決して止まることのない流れ。このことは東洋哲学の基本をなしている。

この常に移り変わるということを念頭において、同じく東洋思想の基本である陰陽五行論、とりわけ五行論について、今回はザックリと書いてみたい。

 

陰陽五行論とは、陰陽論と五行論とが合わさったもの。陰陽論は、古代中国における儒教の経典であり、占いの理論と法則を説いた「易経(えききょう)」という書物の中心思想である。一方五行論は易経より後の時代にできた、中国古代の歴史書である「書経(しょきょう)」の中の思想。この双方が組み合わさって陰陽五行論と呼ばれ、この自然界の成り立ちや変化の法則、あるいは複雑な事象を理解するための方法を説いている。

 

陰陽論は、ひとつの世界あるいは事象を、陰と陽とに象徴されるエネルギーで理解しようとする試み。陽は太陽であり光、陰は月であり影。つまり物事を光と影との視点から解釈しようとするものである。

陰陽論については、過去記事を参照していただきたい。

garaando.hatenablog.com

 

陰陽論に対して五行論(五行説ともいう)は、5つの要素に象徴されるエネルギーに基づいて、自然界のあらゆるものを理解しようとする試みと言える。

互いに影響しあう、5つの象徴的要素:木・火・土・金・水(もく・か・ど・ごん・すい)。これら5つの要素は、それぞれ固有の性質を持っている。この5つの要素間での関係性に着目して、様々な現象を読みとく手法が五行論だ。

自然界で目にする木・火・土・金・水。

五行論で重要なのは、実際の木や土や水といった物質ではなく、それぞれの5要素が持つエネルギー(気)に着目するということである(ココ、ポイントです!)。ここでも東洋思想の基本である、気の思想が生きている。モノではなくてキ、物質ではなくてエネルギーにまずは視線が注がれる。

 

では、それぞれのエネルギーはどのようなものなのだろう。

木:樹木に象徴されるように、伸びやかに上や外へと拡がっていくエネルギー。

火:炎に象徴されるように、熱を帯び上へと向かうエネルギー。

土:大地に象徴されるように、滋養を与え育むエネルギー。

金:金属や鉱物に象徴されるように、重厚で、錬金術の如く変容させるエネルギー。

水:水や川に象徴されるように、潤いを与え冷やしつつ下へと流れるエネルギー。

 

これら各要素は、助長(相生・ソウセイ)と抑制(相克・ソウコク)という関係の中で互いに影響しあっている。

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相生関係とは、木が燃えて火がおこり、火から灰を生じて土となり、土の中には鉱物ができ、鉱物から鉱水を生じて、その水が木を成長させるといった、生み・育てるといった助長させる関係のこと。風が吹けば桶屋が儲かる風な流れだ。この流れは好ましいように思えるかもしれない。しかし、どんどん膨張する循環輪の先に待っているのは爆発。バブル経済がいつかは弾けるように、好循環だけでは世界は成り立たない。

相克関係とは、木は根をはって土を侵食し、土は水を堰き止め、水は火を消し、火は金属を溶かし、金属製の斧は木を斬り倒すといった、抑制し、牽制し合う関係のこと。

これら相生関係と相克関係とがあるからこそ、それぞれの要素が互いに助け合い、あるいは1つの要素のエネルギーが突出しすぎないように歯止めをかけ、総体として調和を保つことができる。ザックリ言うと、それぞれの要素間にアメとムチ、あるいはアクセルとブレーキの関係があり、流れ動く世界の全体的バランスを保っている。

あたかもそれは呼吸しているかのように、吸気時(相生関係)には世界全体が膨らみ呼気時(相克関係)には縮むような生命の息吹きにも似ているように思える。

 

さて五行論であるが、自然界のあらゆるものが分類できるとされている。ここでは人体に関する例をいくつか取り上げてみたい(下図「五行色体表」を参照)。

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上図色体表の具体的な説明については、追って記事にしていきたいと思っているが、少しだけ説明を。

この表に示されるとおり、人体の各内臓はそれぞれ異なったエネルギーを持つことになる(末尾に臓器に関する記事を掲載するので、ご興味ある方は参考に)。

また青春、朱夏、白秋、玄冬(玄は黒の意味)という言葉で表現されるように、ある色と特定の季節には共通するエネルギーがある。

たとえば、青春。つまり青と春は同系列のエネルギーで、ともに伸びやかに広がるパワーを持つ。また青春時代は人生のスパンから見ても春にあたり、若くして躍動しはじめる時期となる。

黄河が流れる中国において、黄は特別な色であり物事の中心をなす意味を持つ。

このように色のエネルギーは季節の特質をも表現している。そしてその季節がめぐり年月が重なって人生となる。人生においても思春期から青年期や壮年期、熟年期から老年期へといったそれぞれの時期もまた、色の持つエネルギーで特徴づけられる。つまり、青(思春期)→赤(青年期)→黄(壮年期)→白(熟年期)→黒(老年期)といった感じで。

 

さまざまな自然は、その様相を変えながら、めぐる。

めぐりつつ、変化をとげるのだ。

 

また、こういった五行のエネルギーは日常に入り込んでいるにもかかわらず、

あまりに身近すぎて意識していない。

あるいは意識しないほど当たり前に

すでに我らの生活に組み込まれているのだ。

 

陰陽論でいうと、

陽は中国語で阳と表記し日(太陽)を表す。

陰は中国語で阴と書き、月を表す。

日と月。さらに五行論の五行である木・火・土・金・水を並べ変えると、

日・月・火・水・木・金・土の1週間となる。

 

毎日は異なったエネルギーで満たされている。外界は、我らの内奥に通じながら、

今日もまたかけがえない1日がはじまる。

 

(後記)

前回、五臓六腑の「脾」を記事にして、5つ全ての臓器についてやっと書き終えました。

そしてずーっと書きたかった五行論を記事にすることができて、ホッとしています。

陰陽五行論なんていうと、難しそうに思えるかもしれませんが、身近なところのソコココに案外あるのだよ〜とお伝えできたら嬉しいです。

 

 

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太平洋に面するエルサルバドルのアカフトラにて撮影

 

各臓器についてはこちらを参照

garaando.hatenablog.com

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東洋医学各論12 脾

稲が実って田んぼ一面が黄金色に染まる季節がやってきた。先日、空高く晴れわたった青空のもとで、黄金に輝く稲穂の大地を見た。黄色い大地。そんな言葉が頭に浮かんだ。

 

今回は、黄色や土に象徴される人体の臓器、五臓六腑の五臓(肝・心・脾・肺・腎)のうちの一つ、東洋医学でいう 脾 について取り上げてみたい。(東洋医学独自の言葉は太字で記載)

<注1:東洋医学で 脾 という場合、西洋医学でいう脾臓の概念とは異なる。西洋医学では脾臓という解剖学的な部位である実質臓器を指すが、の医学である東洋医学では実質臓器に加えてその臓器が持つ機能を指す。肝・心・脾・肺・腎といった五臓の中で、特に脾は物質として捉えるとわかりづらく、摂食・消化吸収・栄養といった機能を司ると理解してもらいたい。西洋医学でいう消化器全体(胃と腸)の働きをコントロールしていると捉えるとわかりやすい。さらにその役割は広く、手足の動きも司り、水分代謝を担い、血液にも関与する。>

<注2:東洋医学には臓象学説といわれる考え方がある。これは器という身体の内側()の活動異常は、必ず外側()の現に現れるとし、その関係性に着目するもの。脾は、口や唇へと流れが繋がり(下図の経絡図参照)、肌肉とも関連がある。また脾()は、胃()と経絡のルートで通じあい、陰陽表裏の関係となる。つまり脾と胃とは、互いに密接に関連してシステムを形成している。>

 

 <十四経発輝(14世紀に書かれた中国の医学書)による脾経の流注経絡の流れ)>

  ー 体表のルート  体内のルート

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足の親指先内側のツボ<隠白・インパク>から始まり、内くるぶしを通って足の内側を上り、
大腿骨内側を通って腹腔へ入る。腹部で体表と体内に枝分かれする。
体内のルートは、脾と胃を通って胸の奥へ流れ、心の経絡である心経・シンケイと繋がる。
体表のルートは、胸へと上り、脇の下へと下行して<大包・ダイホウ>というツボで終わる。
さらにその枝分かれした流れは、体内に入って喉から舌に達する。

 

さて東洋医学でいうには、どのような役割があるのだろう。

①消化によって得られる栄養分を全身の細胞へと送る。

私たちの身体は水分と食物を取り入れ、それらは混ざり合った状態で体内を巡っている。胃はこれらの飲食物を消化する。この消化によって得られる栄養分(この栄養分のことを東洋医学では水穀の精微スイコクノセイビと呼ぶ)を全身に運び、血管や細胞に活力を与えるのが脾の役割となる。

②栄養分から津液を作り、全身へ巡らせる。

脾は、飲食物の栄養(水穀の精微)から水分を取り出して津液シンエキ(身体の正常な水分の総称。細胞内の水分、胃液、涙、唾液、リンパ液、汗などを含み、体内や体表を潤す作用がある)を作り、全身へ送る。余分な水分は汗や尿となって排出される。

       津液については、こちらを参照garaando.hatenablog.com

③出血を防ぐ。

東洋医学は気の医学であるから、脾が有する気(脾気)には、血(ケツ・主に血液を指すが、血液に含まれる栄養分も含む)が血管外へ漏れるのを防ぐ作用がある。

脾の機能が低下すると出血しやすくなり、泌尿器に異常がないのに血尿になるとか、血便が出る、女性であれば不正出血が続くといった症状が臨床においてもみられる。

 

このように脾は飲食物からの栄養を取り入れ、それを全身へ巡らせ、水分代謝をつかさどるといった生命力に直結した力を生み出す。両親から受け継がれるところの、生まれながらに持つ生命エネルギー(先天の本センテンノホンという)は、腎が担う。そして後天的に飲食物から獲得できる生命エネルギー(後天の本コウテンノホンという)は脾の働きによるのである。自然界で言うなら、腎は種であり、脾は種を発芽させる土壌となる。

       腎についてはこちらを参照

garaando.hatenablog.com

 

では脾の機能低下はどんな症状をもたらすのだろうか。

脾と関連する器官とされる口に現れる症状では、味覚が鈍くなったり、甘味や苦味を感じたり、ねっとりしたりといった口内の異常となり食欲が落ちる。

また正常であれば涎(ヨダレ)は、口腔の粘膜を保護し内部を潤し嚥下や消化を促す役割があるのだが、不調になれば分泌が増し、ヨダレが口外に漏れてしまう。

口唇の色や艶は、全身の気血の充実度が見てとれるので、脾が運ぶ栄養が全身にいきわっているかどうかの指標となる。口唇の血色が悪く乾いている時は、脾の機能が低下している。

全身に栄養が運べず気血が不足すると、食欲不振・全身倦怠となり、やつれてくる。さらに津液の巡りが悪くなると、津液が滞ってむくんだり痰が出たりと水分代謝が悪くなる。その結果体内に湿が溜まり水はけの悪い身体となってしまうのだ。全身に栄養が回らない上、水はけの悪い身体になると、身体は重だるく疲れやすい。

 

ここで自然界に目を向けてみる。

地球上の土にもいろいろな性質がある。肥沃な土地、痩せた土地、粘土状の土、砂土など。

粘土状の土は水を弾いてしまう。砂土は水を通すだけで潤いや養分を保つことができない。

農作物がよく育つ肥沃な土地とは、スポンジのごとく雨を十分に吸収し、落ち葉や動物の糞尿などから栄養を得ることができる土地だ。この栄養を得るためには、落ち葉や糞尿を分解するために微生物が宿っていなくてはならない。つまり保水性がありながらも水はけが良く、通気性も備わっている土地のこと。

これは、そのまま人体にも当てはまる。

潤いつつも水はけがよく、栄養がいきわたって、呼吸する身体。

いくら自然な食品を食べても薬を飲んでもサプリメントを試してみても、

受け皿である身体の中の脾の機能が低下していると、その効用を受け取ることができない。

またどんなに食べても太らない人がいる一方、水を飲んだだけでも体重が増える人もいる。

この違いは、土の性質を持つ脾の働き方の違いによるのである。

 

東洋医学における脾は、

植物や農作物を育てるために重要な役割を持つ土と同様の役割を担っている。

 

自らの身体は、どんな土にたとえられるのだろう。

 

(おまけ)

脾と関連あるもの:

自然界においては 土用(春夏秋冬の中での土用の期間で季節の変わり目にあたる)・湿・中央・黄色

人体においては 胃・唇・ヨダレ・甘味・肌肉・口・思(思考や思慮:ストレスがたまると消化器に異常をきたす)

 

(後記)

この記事を書きながら、ずいぶん昔に見た中国の映画「黄色い大地」を思い出していました。

その後中国へ行ってみると、湿度が高く木々がみずみずしい日本とは違って、中国の大地はナルホド本当に黄色だなぁと思ったことがあったのです。

先日私が見たのは、稲が実って田んぼ一面が黄金色に染まり、稲穂が輝かしく光ってたなびく黄色の大地。

同じ色であっても、土でも、ホントいろいろあるなぁ・・。

今回とりあげた脾は、他の臓腑と違って馴染みが少ないうえに東洋医学独自の概念なので説明が難しく、実はずっと先延ばしにしていました。でも見ちゃった!黄色い大地を。観念して挑戦してみた次第です。

願わくば、脾といえば土の性質だということだけでも伝わりますように!

 

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中国の西北部、黄土高原にて撮影。ここは日本に飛来する黄砂の発生地。

身体感覚を開く2 響(ひび)き

私が初めて印象派の画家クロード・モネの睡蓮を間近に見たのは、午後の日差しが心地よい、晴れわたった秋の日だった。そこはニューヨーク近代美術館、通称MoMA

話は、20年以上前にさかのぼる。当時の私は、通っていたアメリカのヒーリングスクールの授業を終えて、開放感いっぱいでMoMAに向かった。

 

正直、それほど美術とか絵画に興味があったわけではない。もっと正確にいうと、有名な絵とか見ても「ふ〜ん、なるほどね」というくらいだったのだ。

 

その私が、モネの睡蓮が展示されているホールに足を踏み入れると、その絵画の大きさの持つ迫力に驚いた。デカい!とにかくデカい!!

 

そして大柄の人間五人が大の字になっても仰向けで眠れるような、黒いシンプルなソファが作品の真向かいにドドーッンと置かれていた。

私はそこに座って、友人との待ち合わせ時間まで暇を潰すことにした。無駄に大きい低めのソファに座りながら、なんという巨大な作品なんだろう!と思いつつ。。

 

ジッとというよりも眺めるような感じでボンヤリと絵を見ていたら、絵の中の蓮が動き出した。いや、動き出した気がしたのだろう。そして飛び出す絵本のような感じで、ある部分が大きく見えたり他の部分が小さく見えたりしはじめた。

私はその絵の中の、たゆたうような世界に取り込まれると、まるで船酔いをしたかのようにボヤボヤとした体感を覚え、目がまわりだした。私は身体を支えることができずに片肘をつき、次に頭からうっ伏して、とうとう座っていたソファに天井を向いて倒れた。

 

パスポートやトラベラーズチェックといった貴重品を持っているのに、なぜにこんなところで無防備に寝てしまうのか・・おいおい私!!

そう思いつつもそこからたぶん10分くらいは意識混濁。混じりあう意識の中で、このソファは私のような人のためにあったのだと妙に納得したことを覚えている。

 

あの経験から私の絵を観る感覚は変わったのだと思う。

少し離れてボンヤリ観るようになった。そして自分の内部で起こってくる体感をみつめるようになった。

 

あえて言葉にするなら、響(ひび)きのようなものを察知するために耳をすます感じ。

 

そう、たぶん響き。。

 

たとえば境内の鐘がゴーンと厳かに鳴ったとする。

その音は大気を伝わって、定量化できない響きとなる。

リズムでもない、拍でもない音が、その響きを包みこむほどの間(マ)の中に拡散されて、私の身体の中にも振動となって届く、あの響き。

 

音楽でも(メロディのない単音であったとしても)、映像でも、言葉でも、音のない絵画でも文字でも、そのものが発する響きが伝わってはじめて、作品と自分との間に関係が生まれ、私の内部で何かが始まる。

 

こんな風に考えていると、ふと私の愛する鍼(ハリ)のことが頭に浮かんだ。

そうだった!鍼が持つ人体に与える独特の感覚は、響きとよばれるのだ。

鍼を身体に打つ。するとその打った所から関係のないように思えるような遠い場所、そんな場所に刺激を感知する、" 響く" としか言いようのない感覚。

さらにズーンとくる、あるいはジワッとするといった、鍼だけが伝えることのできる、ピンポイントを抑えながらも周りに拡がる、あの感覚のことだ。

 

鍼灸学校時代、クラスメイトが名人と噂された先生に質問したことがあった。

「鍼が上手くなるために最もすべきことは何ですか?」

その先生は答えた。「本物の芸術に触れなさい」

私はこの言葉が忘れられず、自らの治療所の名前をアーツと名づけたのだ。

 

鍼と芸術。

ともに響きとなって体感するという点において、

私の中でこの両者が繋がりあった。

 

(後記)

先日、ライアーという楽器を使って治療なさる方が、私の背中で音を奏でてくださいました。その時、弦が弾かれる音とともに振動となった響きは、私の体内の奥深くをめぐりました。

音や波動の治療効果も面白いなぁと思って、しまってあったチベタンボールを鳴らして空間に響かせたり、音叉やトーニングといった音を使っての治療方法を自分に試して遊んでいるうちに、モネの睡蓮を見た時の体感が蘇ってきたのです。

 

悲しいことにTVなどからは、1ミリも響かない政治家たちの言葉が聞こえてきます。

見事なまでに、およそ響かない。人との会話、コミュニケーションがこんなにも響き合わない世界に未来はあるのだろうかと思ってしまいます。

 

悲しいことであれ、嬉しいことであれ、その響きを感じてみたい。 

こう、私は思っているのですね。

 

我が人生に響きあれ!

 

私と同じように望む方がいたとして、まだ鍼を体験したことがないのであれば、鍼治療オススメしちゃいます。(あ、治療家は私じゃなくとも!)

  

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紅海に面するエリトリアの都市、マッサワにて撮影。 

(戦争の傷跡が色濃く残る都市、マッサワ。マッサワの凪(ナギ)のように穏やかな海と戦禍ですっかり荒れはてた街。廃墟に漂う寂寥と時が止まったかのような空気感が、当時の私に随分と響きました。)

 

 

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