“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

雑考5 痛み2

 災難は前ぶれもなくやってくる。お正月気分もぬけかけた頃のある夜、87歳の母がなにも障害物のない畳の上で転んでしまった。手をのばした拍子にバランスをくずし、トコノマと畳との段差のカドに脇腹から背中を打ちつけたという。奥の部屋にいて現場を見ていなかった私が、ほどなくして母の部屋にいった。そこには、自力でベッドの上に這いあがりウンウンと唸っている母の姿があった。

 私はあせった。母は5年前に腰椎を圧迫骨折している。そして、その時のひどい痛みの記憶はいまだ鮮烈に母の脳裏に刻まれているのだ。また圧迫骨折だろうか?!母もそう思ったに違いない。しかも私はその2日後に母をおいて東京へ向かわなくてはならない。

 さっそく私は母に状況を説明してもらい、どこが痛むか背中をさすりながら聞いてみた。

 「ここらへん」と意気消沈した母は、ざっくりすぎる範囲を示す。「痛い!痛い!」というから、どこがどういう風に痛むのかと聞いたら「わからない。とにかく痛いんだ!」と威張り気味で答える。皮膚を見ると打撲している。治療したいという私の誘いに「動けない」と消えいりそうな声で母は言った。これまた不機嫌きわまりない態度で。そして「枇杷エキスをハケで塗ってくれ」とのご命令が。そこで私は枇杷エキスをガーゼにたっぷりつけて患部に湿布した。ハケで塗ることに固執する母に、このほうが継続的に枇杷エキスが染みこむよとなだめながら。しばらくして疲れきった母はウトウトしはじめた。

 漠然とした不安が私を襲う。骨折しているのだろうか。母はどうなるのか。そして私は東京へ帰れるのだろうか。今後こういう不測の事態が多くなるのかなぁ・・。ふとカーテンから外をのぞいてみると、大粒の雪が空間を埋めつくすようにシンシンと舞いおりている。とたんに私は、この雪のごとく祓いきれない何ものかに取りつかれたような、そんな重たい気持ちになった。とその時、つきそう私の横で母はイビキをかきはじめた。ん?イビキかいて寝むれるのか??もしかして大したことではないのかもしれないと私は思いはじめた。

 翌朝、やっとのことで起きあがった母の動作をつぶさに観察して、私は圧迫骨折ではないと判断しホッとした。治療しようと私が言うと、母はヨタヨタと歩きながら別の部屋に行って、なんとハケを持って私に渡した。これで枇杷エキスを再度塗れというお達しだ。こういう根拠のないコダワリに、治療家である私はずいぶんと慣れているのだが、この時ばかりは心底あきれた。まぁ病人のわがままは聞いてあげるとしようと思いなおし、さらに私は打撲部分の数カ所に点灸(米粒の半分くらいの大きさにモグサをひねっておこなう灸)をした。椅子から立ちがる時に激痛が走ると言っていた母に、立ちあがってもらう。すると「あれ、ずいぶん楽だ」と言った。さらに点灸をつづけるうちに、打撲の痛みは激減した。良かった!大したことはないかもしれない・・。お灸をするたびごとに痛みがへって動作がスムーズとなり、それにつれて私たちの希望の灯が大きくなった。

 このまま回復に向かうかと思われたが、夜になって母は「まだ痛い、折れているかもしれない。明日病院へ行く」と言った。やっぱり気分はこの世の終わり・・といった感じで。「最悪折れていても肋骨だよ。肋骨は折れていたとしてもそのまま治るまで待つしかないから、わざわざ病院へ行く必要はないよ。明日は猛吹雪の予報だし・・」と肋骨を折ったことのある私は言った。「でもたぶん肋骨は折れてはいないよ。ヒョイヒョイと向きを変える動作もしてるし・・。肋骨折った患者さんを何人もみてきたけど、たぶん大丈夫」とつけ加えると憮然とした表情で私をにらみつけて「でも痛い!」と言ったのだ。

 そこで私は、テーブルの上のコップを指して言った。「このコップに水が入っているね。まだこんなに入っていると思う人もいれば、もうこれしかないと思う人もいる。物事はポジティブにとらえる方が幸せだと思う」と言った。「ポジティブってなに?」と母。「ポジティブってのは前向きってこと。ずいぶん痛みが減ったと思うか(ポジティブ)、まだある痛みだけを見つめるか(ネガティブ)の違いがあるよ。では、もう一度聞きます。昨日の転んだ時とくらべて今の痛みはずいぶん減ったと思いませんか。まだ痛い方ばかりを見つめますか、さてどちらでしょう?」となぜか丁寧語を使いながら誘導尋問する私。すると母は「かなり痛みは減ったけど、まだまだ痛い!」というマサカの反撃に出たのだ。

 とその時、私は自分の間違いに気づいた。ポジティブを ◯ とし、ネガティブを X とする極端に振り切れた思考法、あるいはその短絡的な世界観。これを私は否定してきたはずだったと。このブログ記事で書いてきた陰陽論の中でも、白か黒かという両端にたったモノの見方にこだわることは無意味であり、その間(マ)にこそ真理があると何度か言ってきたはずだった。母のいうとおりだ。「痛みはかなり減ったが、まだ痛い」ーまさしくこれこそ、痛みを持ったもののナマの声だったのだ。

 自らの間違いに気づいたものの、私に残された時間はあまりない。そこで私は、自分がコソッと試しつづけているケガや事故の時の治療方法を母に伝授することにした。

 母は転んだその瞬間に、やってしまった!と痛烈に思ったと言っている。その後悔の念をふくんだショックが細胞の動きを固まらせ、痛みが患部に封印されている。このショックには、昔の圧迫骨折をした時の痛みの記憶までもが瞬時に埋めこまれてしまう。今回のケガによる単体の痛みのまわりには、いろいろな形で痛みを大きくする要素がまとわりついたままで、細胞は身動きできないでいるのだ。

 私は、衝撃による物理的かつ精神的ショックを解放すれば痛みは減るはずだと母に伝えた。母はめんどくさいことはいいから、治療家ならサッサと痛みをなんとかしてよとでもいいたげな面持ちで応戦してくる。

 私は母に、「痛む患部に自分の手を当てて、深呼吸をしながらその痛みの中にはいれ!」と言った。すると母は間髪いれずに「はいった!」と言うではないか!?ちっとも呼吸も深くなっていないし、どうみても痛みとアクセスしているとは思えなかったが、まぁ仕方ない。「さぁそこで痛みを感じながら、その細胞にコンタクトしてみて」というと、「コンタクトってなに?」と母。言葉も通じない。「まあ、その場所の細胞とつながってみて感じてください」と呆れながら伝えると、これまたいい加減に「つながりました。つながりました」と2回も言う。「ではそこで、細胞たちに大丈夫、大丈夫と伝えてみて」と私。まったく心のこもらない大丈夫、大丈夫の連呼が始まった。言えばいいんでしょ、言えばという感じで。しばらくして痛みはどうなったかと聞いたら、「まったく変わらず痛い!」と訴えた。当たり前だ。何も起きていなかったのだから。私は、母にケガの程度を軽くし、痛みを少なくすることができるセルフヒーリングの方法を教えたかったのだが、相手が悪すぎた。

 しかたなく私は、母の患部に手をあてて細胞たちを感じてみた。患部はやはりショックで硬直していた。母と呼吸を合わせ、ゆっくりとその硬さをゆるめていくと、痛みと思われる核心に触れた。私の手に痺れるような痛みが流れた。そう、どんどん放出せよ。もっと流れよ・・。そう念じていたら、突然母が痛みがなくなったと驚く。そしてオモムロにたちがり、全然違うと嬉しそうに言ったのだ。「まだ痛みはあるけれど、これなら治る。病院へは行かなくても大丈夫」と。この「大丈夫」には、はじめて心がこもっていた。

 その後は多少の痛みはあれど徐々に回復にむかい、私は予定どおりに東京へ戻ることができた。

 

 さて私が伝えたいこと、それは痛みという身体感覚の本質であり、事故やケガの時の対処方法である。またこれは私が治療家だからできるという方法でもない。本気で自らの身体で試してみれば、誰にでも必ずできるのだから、イザという時のために練習しておくのを勧めたい。

 

 ケガによるショックは、肉体にも精神にも思っている以上のダメージをもたらす。

 せめてショックを軽減することができれば、苦痛を減らし回復を速めることができるのだ。

 

(ショックを軽減するセルフヒーリングの方法)

 ケガをして「やってしまった」と思ったら、まずは気を取りなおして、その患部を意識する。呼吸を深くしてゆっくりとその周辺の細胞たちに手を当てる。ビリビリとかドクドクとか痛みを感じるかもしれないが、呼吸を深くして「大丈夫、大丈夫」と細胞たちに念をおくる。「安心・安全」の感覚を細胞に伝えるように。しばらくすると、患部の脈拍が速かったのがゆったりしてくるとか、固まっていた何かが動きだすような感じがあったりとか、熱感が冷めていくといったようなさまざまな手応えがある。こういった反応が落ちついてくるまで、自分の呼吸を深く保ったまま手をあてつづける。手が当てられない場合は、身体を内観する方法(瞑想など)やイメージでおこなう。

 

(後記)

今回は、身近で起きたことを題材に、ふだんから痛みについて考えていることを、また私が実践していて著しく効果のあるケガの対処方法を皆さまへお伝えしたいと思いました。また高齢者の転倒やケガの心理についても、あらためて考えてみました。

 

出版業界が不況にみまわれる中、母の世代へむけた書籍はどうやら売れるらしい。母の本棚から並べて撮影。横尾忠則氏の本は私からのプレゼント。

(なお、本文は母の承諾を得て掲載)

東洋医学各論17 腎3

 いつまでも鮮明に心に残っている言葉がある。あれは、私が鍼治療をはじめて受けた20代半ばの、隠れ家のような小さな治療所での先生が発した力強い一言だった。「あなた、まずは身体よ」。それ以来私は、自分自身に、そして私の患者さん達にも、おりにつけ呪文のように唱えてきた。

 

 ねえ、まずは身体よ!

 

 今回は、その身体を作るキホンのキである 腎 について考えてみたい(太字は東洋医学用語)。

  西洋医学でいう腎臓は実質臓器をさし、泌尿器系と副腎をふくむ内分泌系の働きをになっているとされる。これに対し東洋医学でいうは、自然界の種(タネ)に匹敵するといわれる。植物の種(タネ)にはその生命体のあらゆるポテンシャルが内蔵されているのだから、そら豆のタネの形をした腎臓には、各人の生命力がギュウっと詰まっていることになる。

<補足:東洋医学は東洋哲学をもとに発展。この東洋思想の柱となるものに、天人相応説がある。これは、自然界(ミクロ・大宇宙)の要素はそっくり人体(マクロ・小宇宙)にも当てはまるとされるもの。フラクタル、相似象といった世界観と同義>

 さて腎は、その生命の根源であるタネに匹敵するのだから、成長、発育、生殖、そして老化といった誕生から死にいたるまでの大きな流れ全般に関わっていることになる。このため腎のケアは、養生にとって肝腎カナメとなるのだ。

<補足:東洋医学では腎には腎精(じんせい)という物質が蓄えられているとされる。これは、遺伝的に両親から受け継いだ「先天の精(センテンのセイ)」と飲食物から作り出す「後天の精(コウテンのセイ)」とが合わさってできている。つまり腎を強めるには、腎精を補うことが重要となる>

 

腎精についてはこちらを参照

garaando.hatenablog.com

 

 またタネは芽ぶいて双葉になる。ひとつの葉は を象徴し、もう一方は を示す。陰は水に代表される物質的な力を持ち、陽は火にたとえられる動的なエネルギーを有する。この2つのパワーが備わってはじめて、人体は円滑な生命活動を営むことができる。の持つ力にも陰と陽との2つの要素(腎陰腎陽という)があり、これらがバランスよく活動して、本来の生命力が花開くのである。

 さてここで鍋が火にかかっている状態を想像してほしい。鍋の中にある材料(栄養物やら水分といった物質)が腎陰にあたり、鍋を温める火が腎陽にたとえられる。この鍋の中の材料が少ないのにコンロの火が強すぎて空焚きになっているのが、腎陰が不足している状態である。具体的には、加齢や疲労などで腎陰が不足すると手足がほてり喉が渇く。ひどい場合には微熱が続く。あるいは汗にも悩まされる。顔色は上気して紅潮するといった女性の更年期に似た症状がでる。高齢の方で寝汗がひどく夜中に何度もパジャマを着替えなくてはならないというのも、腎陰不足が原因となるので、腎を補う漢方薬の中でも腎陰を補う薬(補陰薬という)でサポートすることもある。

 これに対して鍋の中に材料はあるのに、火力が弱すぎて鍋の材料に熱が回らない場合がある。これが腎陽が不足している場合だ。具体的な身体症状としては、とにかく冷える。低体温になる。手足、お腹、足腰が冷えて頻尿や排尿困難となり、さまざまな機能低下をまねく。こうして病気が慢性化し生命力が低下してしまう。この腎陽が不足している場合には、火を強くするパワーを補充しなくてはならない。漢方薬を用いる時は、腎陽を補う薬(補陽薬という)を用いて代謝を高め生命活動を活発にする。

 鍋の中にある程度の材料(腎陰)が入っていて、その量に熱がまわるほどの火(腎陽)が灯っている。こうして腎は、その持てる力を発揮するのだ。

 

 では次に老化について具体的に考えてみたい。

 臨床では、耳が遠くなる、目が見えなくなる、骨が脆くなる、認知機能が衰える、髪に艶がなくなり抜けるといった相談が多い。また浮腫みや夜間頻尿、排尿困難といった老化に特有の症状もある。タネである腎は、骨、骨髄、目、耳、脳、髪にも関連が深く、また腎には水分代謝の役割もあることから、これらのさまざまな症状はことごとく腎の機能に関係することになる。

 いやがおうでも刻々とおしよせる老化に向かいうつために、コラーゲンやヒアルロン酸を顔に塗るとか、水素水を飲むとか、カルシウムやサプリを補充するといった方法は、ツケヤキバのごとし。腎陰腎陽のバランスをとりながら、腎精(ジンセイ)といわれる腎に貯蔵されている物質を補うことが何より大事となるのである。

 

 まずは身体でしょ!

 ならば、まず腎をケアしようではないか。

 

(後記)

 ここ数年、年が明けてみると私の予想もしていない疫病や戦争がおこりました。その煽りをうけて私たちの日常も思わぬ変化を強いられています。いつだって絶えまなく移ろいゆく世界の中に私たちはいるのですが、それにしても大きなウネリみたいなものに翻弄されていくような怖さを感じています。

 こんな風になんだか落ち着かないザワザワ感に包まれる時は、まずは身体でしょ!と自分に言いきかせて今までやってきた気がします。そこで、何度かとりあげてきた腎についてですが、改めて書いてみました。

 自分が健康へとつながることで、世界に少しでも暖かさと優しさがもたらされますように。

 

南アフリカ共和国ケープタウンテーブルマウンテンを大西洋から撮影 

東洋医学において、腎の自然界における属性は「水」)

 

腎については、こちらも。

garaando.hatenablog.com

 

東洋医学各論16 痛み

 この痛みさえなくなるなら、他は何も望まない・・。痛みを伴う病気で苦しまれた方の多くは、このように思われた経験があるのではないだろうか。それほどに痛みは、苦しみを与え不安をあおり前向きに考えることを難しくする。

 

 「なんで痛むの」「どうやったら良くなるの」「本当に治るの」「いったい私はどうなるの」。こう、思い悩んでも自分ではどうにもできない。そして病院へ行き、病名を告げられて治療がはじまる。

 激しい痛みがある病気としては、四十肩・五十肩、ぎっくり腰、ヘルニア、坐骨神経痛、脊柱管狭窄症、股関節痛、膝関節症などの整形外科的なもの、リウマチ、帯状疱疹といった全身におよぶもの、頭痛、痛風や尿路結石など体質に関するもの、そして怪我や火傷などの限られた部位に起こるものなどがある。

 

 さて今回はこれら痛みの原因と治療方法を東洋医学の観点で見てみたい(以下、太字は東洋医学用語)。

 東洋医学において痛みは、気血(きけつ:エネルギーと血液)の流れが停滞しているために起こるとされている。あるいは気血の不足が原因だという。この気血がとおる道が東洋医学でいうところの経絡(けいらく)だ。つまり痛みは、経絡の上で気血がつまっていて、流れが悪いということが原因とされる。

<補足:経絡経脈(けいみゃく)と絡脈(らくみゃく)とが合わさった名称で、人体の縦のラインで太い流れを経脈といい、経脈から枝分かれした横をつなぐ細い流れを絡脈という。経絡は、気血が流れることにより、臓器と臓腑、さらに器官や皮膚といった全身をつなぐネットワークを作っている。経脈の流れが悪いと痛みが、絡脈の場合にはシビレが起こるとされている。この痛みとシビレを合わせて中医学では「痹症(ひしょう)」という。この「痹(ひ)」とは、つまって通じないという意味。>

 

 裏をかえせば、適切な量の気血がスムーズに経絡上を流れていれば、痛みやシビレはおこらないことになる。

 ではどうして気血の流れが阻害されるのだろう。

 ここでは急性の痛みにおける外的要因についてのみ話してみたい(注:外的要因の他に体質などによる内的要因もある)。

 痛みに関する外的要因は、風、寒、湿、熱(火と暑を含む)といった自然界の影響があげられる。この4種それぞれの持つ (じゃ)によって痛みは起こる(注:邪とは 気 の性質をさし、ヨコシマな気である邪気 と 真っ当な正気 とに分けられる。ただし邪気は流れさえすれば正気となる)。

風邪(ふうじゃ)の痛み:痛みが随所に移動し場所が特定されず、突発的に発生。例:頭痛

寒邪の痛み:固定痛、冷えると悪化し温めると楽になる。例:腰痛、腹痛、関節痛、頭痛、神経痛

湿邪の痛み:重だるく、締めつけられるような痛み。例:関節痛、頭痛、神経痛

熱邪の痛み:炎症性。赤く腫れあがる。冷やすと楽になる。例:化膿性関節炎

(補足:関節痛や頭痛という症状であっても、原因はそれぞれ違う)

 

 このように風邪、寒邪、湿邪、熱邪といった邪気が体内に入りこむことによって、経絡上の気血の流れが滞り、さまざまな痛みになるのだ。

 ざっくり言ってしまえば、痛みは自然界の変化に対応できずに、体内の気血の流れが滞ることによって起こる。それならば、痛む場所とつながる経絡の流れを整えていけば良い。

 

 赤く腫れあがった炎症性のものは、周りに散らせば痛みは和らぐし、寒くて固まって痛みになっている時は、温めて緩めて周りとのつながりを回復させれば楽になる。

 歴史上の人物である勝海舟が、肩に小刀をツンと立てて血をぬき凝りをやわらげたのも、虫のヒルに血を吸わせるのも、集まりすぎて固まってしまった古い血をぬくことによって、結ぼれをほぐして流れを作ろうとしていると言える。

 また捻挫で赤く腫れあがった炎症がある時は、痛みを抑えるために冷やす。その後熱感がなくなったら温めるのが良い。冷やし続けたなら、その箇所が固まってしまい、なかなか流れを作れない。結局完治までに時間がかかるのだ。

 頭痛も足が冷えている場合が多い。頭にばかり昇ってしまった気血を、足を温めることによって下半身へよびこみ、大きな流れを作る。こうして改善されるケースも多い。

 

 滞らずに周囲と繋がって、流れゆく。

 

 これは体内で起こる痛みだけでなく、メンタルにおいても同様だ。

 他者と繋がることができなかったり、こちらの気持ちが通じずに誤解されると痛みとなる。怒りや悲しみ、あるいはあきらめといった感情に取りつかれてしまったなら、その想いは流れていかず、ずっとそこに止まり続けてしまい、苦痛となる。

 

 通じるということ、繋がるということ、そして流れるということ。

 これらが生命体に与える重要性を、ぜひ試してほしい。もし自らの体内に痛みを感じたなら、それが腰痛でも関節痛でも筋肉痛であったとしても、温めたりマッサージしたりして患部の詰まりを和らげて、その流れ先を作ってみる。

 こうして流れができたなら、きっとその痛みは変わっていくだろう。

 

(後記)

ここ数年では珍しく、今年の秋は長いですね。秋晴れも多く、林の中を歩くのが楽しい。落ち葉は雨露に濡れてシンナリして、そのうちに土へと還る流れに入っていくのでしょう。一陣の風が通り、落ち葉は軽々と飛ばされて空(クウ)を舞う。ふと大きな空を仰ぐと、雲が流れていました。流れが生命体にとってどれほど大事かを思いつつ書いてみました。

 

 

小樽、自宅近くにて撮影

繋がりあう世界4 マクロの視点

 最近、足首の捻挫や指の骨折といった症状の患者さんたちを診ることが多い。手や足といった身体の末端で起こる不調は、どれほど小さな部分の損傷であるにしても、いずれも身体には重要なのだと思いしらされる。足の小指の骨折は、両足で均等に体重をのせて立つことができなくなるため、身体全体のバランスに多大な影響を与える。松葉杖を使ったことがある方なら、それがどれほど腰や肩、さらには首といった部位に影響を与えるかがわかるだろう。事故や不注意などである部分を怪我したなら、そこを庇うことによって他のさまざまな部分の不調へとつながっていく。部分から全体へと向かうベクトルで。この場合、局所の治療のみならず、身体全体のバランスをとる治療を組み合わせると、患部の治りは格段に速くなる。

 

 では、全体から部分へと向かう流れはあるのだろうか。ある日突然、特定の部位が痛みに襲われるバネ指や腱鞘炎などがそれに当たる。私は、仕事柄、職業とこういった痛みとの関係をみせていただく機会が多い。その職業の特質によって身体の一部が酷使されつづけた結果、何らかの痛みとなる。料理人が重いフライパンを片手で持つことによって発症した手首の腱鞘炎。ドライヤーを一定の高さに片手で持ちあげつづける美容師さんの四十肩。身体全体を使う蕎麦打ち職人の腕や肩の痛み。重い機材を肩にかついで仕事するカメラマンの頸腕症候群や腕の痺れ。楽器を抱えてコードを押さえるギターリストのバネ指や腱鞘炎など。

 また趣味も極まれば同様だ。編み物では肩こりから頚椎ヘルニアになり、指先が痺れることもある。そして年配の女性に多いバネ指へバーデン結節、あるいは手指の変形性関節症などは長年の主婦業の産物ともいえるだろう。

 長い時間をかけて習慣化した姿勢や身体の使い方の結果が、めぐりめぐって末端の症状として現れてくるのだ。

 このような疾患の治療方法として、痛みのある患部への直接的なアプローチは欠かせないのだろう。ロキソニンつきの湿布を貼ったり、患部へブロック注射をしたり。なかには手術をする人も少なくない。しかし、これらの方法でもなかなか治らない場合も多い。とりわけ手や指の故障は、日常生活で使わずにはいられないため安静がむずかしく、簡単には治りにくい。

 そこで患部のみならず、治療範囲を広げてみる。身体全体の、あるいはある程度の範囲にわたる部位の疲労が根本にあるのだから、指の関節や手首の症状といえど、腕を治療することが根治へとつながる。肩甲骨や肩をも含んだマルマル腕一本を。

 また膝の痛みは、股関節の問題に起因することが多いし、四十肩は骨盤のねじれがオオモトにある。身体の構造的な繋がりが分かるほどにアングルをひいて患部を見てみると、ある部分に起こっている痛みの原因があらたに見えることがある。局所だけを見ている時には気づかなかったのに。

 

 私たちの身体は、多くの部分がより集まって集合体となり全体をつくる。そして、その各部分は互いに密接に影響しあって構成されているのだ。それゆえ、ある部分の治療であっても、部分から全体へ、全体から部分へといった双方向の視点が必要になる。

 

 全体は部分の総和であるのだから、全体から部分を眺めることができる。

 しかし部分は全体を見ることができない。

 

 何ごとも細部にだけ分けいっていくならば、本質を見失うことも多いのだ。

 

 身体においてもマクロ的視野の重要性を思わずにはいられない。

 

(後記)

 今月、私が卒業した学校の校長であるバーバラ・アン・ブレナンが肉体を去りました。

そして私の恩師 王由衣 氏の翻訳によるバーバラの言葉を目にし、「全体であること」を考えていたので、この記事となったのだと思います。

 

「ヒーリングは、1人1人の内にある、喜びに満ちた生命の創造的な力の流れから始まる。喜びを選べ、愛を選べ、自らの全体であることを選べ」

 

 

メキシコシティの上空からポポカテペトル山を撮影

 

マクロ的視点の参考記事

garaando.hatenablog.com

 

ミクロ的視点の参考記事

garaando.hatenablog.com

 

東洋医学各論15 水は1日2リットル?!

 「日が暮れるのが早くなりましたね」患者さんの言葉に、私は薄暗くなった治療室の時計を見た。まだ5時なのに、そろそろ夜モードだ。熱と光のビームで野蛮なまでにアスファルトを照らしつづけた太陽を時に疎ましくも思えた夏。その夏がゆっくりと終わりを告げる季節となってきた。「異常気象だ地球変動だと言っても、立秋を過ぎたとたん、確実に秋めいてきますね」とも。本当にそうだ。正確に循環している世界のただ中に私はいる。そして森羅万象をつかさどる自然界の掟こそ、あらゆる生命体が還る道にちがいない。

 

 循環するという自然界の法則。今回はこのことを踏まえつつ、私たちが毎日必要とする水分量について考えてみたい。

 

 いつの頃からなのだろう。”水は1日2リットル”ーこれが多くの人たちの意識に植えつけられたのは。患者さんたちの話からも、その浸透ぶりはうかがえる。「1日2リットルの水分を取らなきゃと思っています」とか「水を2リットルなんて、そうそう飲めないですよ。どうしたらいいのでしょう」とか「毎日2リットルは取ってます。まずは目覚めの1杯、日中はペットボトルで、最後は寝る前にまた一杯。こまめに取るのがコツで、これが私の健康法ですね」という方もいる。

 またこんな声も。「腎臓のお医者さんは水分を取れ取れと言うけど、心臓の先生は控えるようにという。困ってしまいます」「母の認知症が進まないように水を測って飲ませることになりました。でも、そんなに飲まない。厳しく監視しているうちに私との関係が悪化して・・」「利尿剤も出すので、なるべく多くの水を飲んでください。こう、お医者さんに言われたけれど、なんだか身体が疲れて疲れて・・」「夜中に4、5回はトイレに起きるので、睡眠が十分に取れません」「足のムクミが取れず身体もモッタリ重くて・・」「胃が浮腫んでボテッとしている感じです」とか。さらにこんな症例も。「父が脳ドッグを受けたら水頭症になっていて・・。頭に水が溜まっていた影響でよく転ぶとわかりました。水を飲むように指導されていたので、頑張って飲んでましたが・・」と、水分に関する質問や訴えは途絶えることがない。

 

 どうなのだろう?老若男女、季節も体質も病歴も問わず、毎日2リットルの水が本当に必要なの?どうなの?

 

 水分は、私たちの身体の6割以上を占めている(胎児で体重の約90%、新生児で約75%、成人では約60〜65%、老人では50〜55%)。東洋医学では、この水分を津液しんえき:栄養分を含む体液の総称)と呼び、重要な基本概念としている。西洋医学では病気の原因を細胞の変性による(細胞病理説)としているのに対し、東洋医学では体液の過不足や滞りによってその流れが阻害されたために起こる(体液病理説)としている。つまり東洋医学において水分量は、あらゆる病気に関わっているとして重要視しているのだ。(注:太字は東洋医学独自の用語を示す)

 

 水分は、具体的にどのように病気と関係しているのだろうか。

 水分の停滞によって起こる浮腫み(ムクミ)は、誰しも感じたことがあると思う。この浮腫みには、ザックリ以下のようなタイプがある。

 ①体内の津液があふれ、代謝されない状態での浮腫み。お酒の飲み過ぎにもみられ、胸がムカムカしたり身体全体がだるく頭もすっきりしない。梅雨時や夏の湿度の高い時期にも多い。

 ②冷え性タイプに多く、の働きが弱くなった場合に見られる浮腫み。全身が冷えて足腰や膝が痛み、下半身やふくらはぎ、足首が浮腫む。

 ③胃腸()が虚弱なタイプに多い浮腫み。冷えた飲食物で下痢しやすく、手足も冷たく疲れやすい。

 ①②③いずれの場合も尿量が減って、体内に余分な水分が停滞して起こる。

 

 こういった浮腫みは老廃物をも含んで、体内のあらゆる場所に溜まりはじめ、さまざまな病気の原因にもなる。しめつけられるような頭痛や石を乗せられたような頭重もそうだ。耳に停留すれば、めまい・難聴・耳鳴りの原因にもなる(注:西洋医学でいうメニエール病も内耳が浮腫む内リンパ浮腫が原因)。また花粉症でタラタラと鼻水ばかりが出る場合も水分過多がみられる。身体の下方へと水分が代謝できずに鼻から出てしまう。

 アトピー性皮膚炎では皮膚の表面が乾燥してしまうことが多い。これは、皮膚の内側で貯留し固まってしまった水分や老廃物などが、表面へと向かう水分の経路を邪魔してしまい、表皮まで水分や血液が行きわたらないから。それゆえ汗がかけない。あるいはその浮腫みと老廃物とによって、熱の発散もできない。そして熱がこもって赤く腫れて痒くなってしまう。表皮の下にある硬めの浮腫みのようなものが代謝され、汗がかける体質に変わっていくと、アトピーは格段と良くなっていくケースが多い。

 また気道の一部が浮腫むことによって空気の摩擦音が発生する喘息。特有のヒューヒューという音が特徴的だ。これも水分量との関わりが深い病いといえる。

 私は、朝起きると痛みが強く出るリウマチの患者さん3人に、夜の水分量を減らす実験をしてもらった。全員から翌日の痛みが楽になるとの回答をもらっている。リウマチも湿シツ)の影響を受ける病気であるので、水分量や冷えに注目することは大事なのだ。同様に朝起きがけに痛む手指の関節痛も夜の水分量を控えることで軽減されることが多い。また手に小さなブツブツができる主婦湿疹とか足裏にできる湿疹などは、きまって春先になると出てくる。これは、体内に溜まって固くなってしまった浮腫みの残骸で、あたたくなりかけの時期に溶けだして表面に浮上し、末端の皮膚を通して老廃物を体外へ排出しようとしている身体の反応といえる。

 この他にも浮腫みは、貧血、心肥大、肺水腫、血行不良、腰痛、頻尿、痛風・・と実にさまざまな病気の誘因となっている。また重篤な病気が進み、腹水や胸水がたまってニッチモサッチモいかない状況を考えれば、水分代謝が生命維持において、とても重大な役目を果たしているとわかるはずだ。

 

 1日に摂取する水分量には、ご飯に含まれる水分も、味噌汁も、果物や野菜から得た液体分も含まれる。となれば1日2リットルという目安(個人的には2リットルは多すぎると思っている)があったとして、実際に水分として取る量は、かなり少なくなると思う。

 適切な水分量は、何よりも体質という個体差が考慮されなければならない。また外界の気候や季節といった条件によっても変化する。汗をいっぱいかいて力仕事をする人、太陽の下で運動する若者、終日を室内でおとなしく過ごす老人によっても、1日に摂取する水分量は異なって当然だ。

 

 では自分はどの程度の水分量でいいのだろうか。

 これをチェックするには、舌を見てほしい。毎朝鏡を見る時に、力を入れずに舌を出す。ポテっとしているか?歯形が舌の縁(フチ)に付いていないだろうか?表面がビチャビチャではないか?もしそうであれば、水分量は多すぎる。舌の状態は日々変わる。自分の舌が浮腫んでいる時は、自分の内臓も浮腫んでいると思ってほしい。毎日チェックしていれば、なるほど歯形がない時はムクミの少ないのだなぁとわかってくる。

 寝起きのマブタは腫れていないか?も、簡単なチェック方法だ。

 また尿の出方にも注目してほしい。気持ちよく尿が出る日は、内臓が緩んでいて十分に働いている。尿量が減ってなんだか身体がすっきりしない時は、水分量を控えて内臓への負担を減らして様子をみるのも大事だ。あるいは利尿作用のあるコーヒーや紅茶、烏龍茶などを飲んでみるのも良い。そして下痢や軟便が続いている場合も水分過多を疑ってみる。このようなチェックを通して自分がとるべき水分量を考えてみてほしい。

 

 自然界は循環するという法則で動いている。

 私たちの身体も開放系ではなく循環系なのだ。

 薬でもサプリメントでもどんなに飲んでも余分なものは尿となって出るから大丈夫とか、エネルギーは高い方から低い方へと流れるからどんどん流せばいいといった、開放系ではない。私たちの身体は、体質という内部環境と季節や風土といった外部環境の影響を受けている。そしてこれらの環境がもたらす変化に細かに呼応しては循環する、そんな自然の道理に導かれているのである。

 

 自分の身体にあった巡りを自ら発見していく。こういったプロセスを通して、私たちは自己の内に自然の叡智を垣間みるのだ。

 

<おまけ:水の代謝を良くする食物と方法>

・玄米、小豆、黒豆、ハトムギ、カカオ、とうもろこし、大根おろし、ナス、スイカ、烏龍茶。あおさ・昆布といった海藻類。小豆、黒豆などの豆類の茹で汁や、とうもろこしのヒゲの煎じ汁もお茶としてオススメ。きゅうり、冬瓜といった瓜類も水の巡りを良くするが、冷え性の方は加熱したり、生姜や胡椒を使った料理を!

・牛乳は噛んで飲め?!と言われていた時代があった。水も噛んで飲むというのがオススメ。噛んで唾液とまぜてみると、内臓の消化力や水分の代謝はあがる。

・喉が渇いている時は、水を一気のみせずに氷をなめてゆっくりと乾きを和らげる。ただし、氷食症の人は不可。

 

(後記)

 夏が終わって熱中症の心配が少なくなったので、やっと水分量についての記事を書くことができました。真夏に「水分量を減らしてみては」と書くのは冒険すぎると思えたので。

 チマタで流行る健康法には、さまざまなものがあります。自分に合うのかどうかといった視点で、これらをイチイチ検証してみることはとても大事です。めぐる季節や体調に合わせつつ、自らの適切な水分量を探ってみて、日々微調整してみようと思ってもらえたら嬉しいです。

 水分がどんどん失われてカサついていく自分の肌を鏡で見ると、ついつい水分を多く摂らなきゃ!と思うこと多し。自分への自戒もこめて書いてみました。ちなみに肌の乾燥も浮腫みによって表皮への水分・血液・栄養が阻害されていることから起こることも多いです。水を飲む前に浮腫みをとった方がいいかもしれません。

 

 

見あげると秋の息づかい。自宅近くの林にて撮影。

 

津液については、こちらを参照

garaando.hatenablog.com

 

身体感覚を開く5  曖昧な感覚

 私たちは、目・耳・鼻・舌・皮膚を通して世界を認識している。視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の、いわゆる五感と呼ばれる感覚器をツールにして。この五感の中で、最も保守的といわれているのが味覚だという。子供の頃の好き嫌いは、そのまま大人になっても続くことが多い。まるで永遠の小学生のように。

 

 ふと私は、以前に聞いた話を思い出した。それは先天性の全盲の方がおっしゃっていたことだ。「目が見える人は、目の前にある食べ物の味を予測できる。この予想と味とが一致する場合は、美味しいと思うのではないか。いきなり思ってもいない味を感じるとマズイと思ってしまう。」このように味覚は視覚とも関連しているのだろう。さらにその視覚は、これはこういう味であったという記憶とも繋がっている。こう考えてみれば人が何かを感じる時、ひとつの感覚器だけが働いているのではなく他の感覚と混じりあって、総合的に感じとっているのだといえる。目隠ししたまま味わって銘柄を当てる“きき酒”という妙技であっても、嗅覚によるところは大きいに違いない。

 

 食べず嫌いも味覚以外のセンサーが働く。歯ごたえや舌触りといった口腔内の皮膚感覚(触覚)が呼び起こされた結果かもしれない。

 また強烈に癖のある食べ物の場合には、何かの拍子に大キライから好物へと変わることも多い。私の患者さんは、フルーツの王様と呼ばれるドリアンの話をしてくださった。彼は、一度も美味しいと感じたことがなかったという。それどころか、なんだこれ ?! とさえ思っていたと。出張でタイを訪れる度に、ドリアンがふるまわれる。何度もシブシブ食べているうちに、美味しいかも?と感じはじめて、今や大好物になってしまった。人間の味覚というのも案外当てにならないものだと思ったそうだ。ドリアンの他にも鮒鮨(ふなずし)、くさや、パクチーといった嗅覚と結びついたクセのある食べ物は、何かの拍子に嫌いから好物へと転換することがある。

 保守的であるはずの味覚も、試してみれば大きく変わる可能性があるのだ。

 

 では視覚についてはどうだろう。

 人は、見ているようで見ていない。今までずっと見てきたはずの建物が壊されサラ地になっても、そこに何があったのか思い出せないことも多い。あるいは馴染みの風景の中で、気づかなかったモノが突然見えてきた時は、自分に驚く。ずっ〜とソコにあったとは!

 我らの視覚をスッポリすり抜けていく世界が、今ココにある。

 

 次に聴覚についてはどうか。

 聞いているようで正確には聞こえていないことも多い。皆様は、ルパン三世のテーマ曲を覚えているだろうか。コーラスのサビ部分で「ルパン・ザ・サード」と歌われる部分を「ルパンだよ〜ん」とずっと思い込んでいたという友人がいる。また学生時代、有頂天をユウチョウテンと言っていた友人もいた。未曾有をミゾユウと言った政治家がいたのを思い出すが、このような経験は誰にでもあるのではないだろうか。何度も音としても聞いていたはずの言葉であっても、何かの思い込みの前にはブロックされてしまうのだ。あるいは声やモノ音がしないのに、聞こえる気がするソラ耳もたまに起こる。

 

 さらに一番本能と直結しているという嗅覚についてはどうだろう。

 私には嬉しいエピソードがある。それは、5歳の頃に治療に通ってくださっていたチビっ子君が大学院生になって再び治療にいらしてくださった時のことだ。私自身もほとんど初対面の感覚で再会を果たした。「もう何も覚えていないでしょ?」と目の前の爽やかな青年に聞くと、「治療所の場所もサカウシさんのこともすっかり忘れていたのだけど、エレベータに乗ったとたんに、お灸の香りがした。ああ、この匂いは懐かしい。ここに来ていたなぁと思い出した」と語ってくれた。嗅覚には、時空を超える力があるのだろう。

 

 このように五感には、精度の高い感覚もあれば、実は曖昧で不確かな感覚もある。これらが入り混じって、確固たる?!今の自分の世界を作っている。つまり、私たちは、結構自分の感覚に騙されているとも言えるのではないか。

 自分の感覚は、ちょっと当てにならない。

 私たちが自由になりたいと望む時、このことを意識するのは大事だ。自由になるということは、自己の外側にある制約を取り除くことばかりではなく、自分の内側の楔(くさび)を外していくことも欠かせない。こうして体験できる世界が広がっていくのだ。

 

 自分の感覚を信頼しきってばかりはいられないとしたなら、どうやって今の自分の感覚を育てていけばよいのだろう。

 そんな問いかけをしながら、私は森を歩いた。自分の感覚を研ぎ澄ますようにして。見えるもの、聞こえるもの、香るもの、まとわりつくものに注意を払って歩いていたら、なんだかグッタリ疲れてきた。もうやめよう!こうやって感覚に任せるはずが、結局頭の解釈になる自分にウンザリした。そして立ち止まって大きく息を吸った。すると体重を乗せた柔らかい土から押し返してくるような感触が足裏に届いた。そうか・・。私はしばらくの間、その土の柔らかい感触を何度も確かめた。

 

 柔らかくあれ!

 こう、自然から言われたような気がした。

 

(後記)

 人間の感覚というのは実に不思議だなぁと、私は仕事をする中で思ってきました。身体が冷えているのに暑いと感じる。自傷行為をしても痛くない。こういった患者さん達は、何も特別ではありません。程度の差こそあれ誰でも、感覚と現実とのズレがあるように思います。こうして私は、自分のよってたつ感覚というものが、どれほどの精度を持っているのだろうかと考えるようになりました。

 また最近は、「身体の声を聴く」という言葉をよく耳にします。しかしこれは、かなり難しいことだなぁと思います。こう思った途端に、思考へとエネルギーがいってしまうことも多いかと。感覚に解釈が加わった時点で、身体の声ではなくなってしまうような・・。

 今回は私が日頃思っている感覚の持つ曖昧さについて、書いてみました。

 

 <味覚のオマケ>

 先日ウニ丼を食べました。 バフンウニは、食べ終わる頃にはご飯に溶けてしまい、まさに卵かけご飯の味。これからウニを食べたくなったら、卵かけご飯(注:アボカドと卵黄を混ぜた卵かけご飯の方が秀逸)で代用できるなと思った次第です。その話を友人にしたら、「ああウニね、プリンに醤油をかけたらウニの味だよ」と教えてくれました。もしこれを実践してみた方がいたら、感想をお聞かせくださいね。

 

積丹半島の美国で食べた海鮮ウニ丼を撮影  

 

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身体感覚を開く4 変化

時代は、そのスピードをあげて進みだした。こう感じている私に、会社を経営している患者さんは、ふとおっしゃった。

「組織は時代の流れについていけない。時代はいつも、思う以上に変化している。」

さらに「大きな組織になればなるほど、それを維持していくためにエネルギーを使う。こうして安定を求めていると、気づいてみたら時代はずっと先に進んでいるんだ。時代にだけは勝てない」と。

この話から2つのことがわかる。

1つは、時代が変わっていくスピードは、実は予想以上に速い。

2つめは、組織は大きくなればなるほど安定・維持に努めなければならず、そのうちに時代から取り残されてしまう。

ありきたりの毎日を積み重ねているうちに、いつの間にかコトが進んでいる。これは、組織に限らず、人体についてもいえるのではないだろうか。

健康な身体とは、外界の変化に臨機応変に対処し、かつ適切な新陳代謝がなされてはじめて維持できるものだと思うから。

 

今回は、身体の変化に焦点を当てて、うつり変わるということについて考えてみたい。

 

万物は絶えまなく変わり、流れつづけている。この東洋思想の基本概念を礎(いしづえ)にして東洋医学がある。

そして我らの日常は、この万物の変化と呼応して成り立っている。しかし、このことを実感できる機会は少ないように思う。

 

私は、痛みや痺れといったハッキリとした症状を突然訴える患者さんに接すると、何か変わったことがありましたか?と聞く。長年にわたりおつき合いしている患者さん達は、思いあたることを話してくださる方も多い。その一方で、「何も変わったこともしていないし、いつもとおんなじ!」と答える方も相当数いらっしゃる。

 

いつもとおんなじ!何も変わっていない。

 

こう聞いて、「あなたの身体の細胞の相当数は昨日すでに死んでしまい、新たにドンドコ生まれ変わっているのですよ」とか、

浮腫んでいる身体を見て、「低気圧になったから身体を圧迫する大気の力が弱くなって、私たちは膨張する。もったりと重くだるいのですよ。それだけ外界の影響が身体に日々反映されるわけだから、天気が毎日違うように、いつもと同じってあり得ないのですよ」といったフレーズが頭に浮かぶが、そこはできる限りグッとこらえる。ググッとね!

 

常に移り変わる世界のただ中にあって、人は自分の意志だけではどうしようもできない影響を受けて、生かされている。

このことを少しでも体感できるようになっていただくことが私の仕事の最も大事なことのひとつだと、私は思っているのだ。

いつもと同じ毎日はない。小さな変化に気づくことが健康へと向かう最初の一歩なのだと伝えたい。

 

では、どうしたらいいのだろう。

まずは徹底的に緩んだ身体を味わっていただき、感覚をバージョンアップさせることができたらと願う。

 

施術後に、なんか楽になったとか、よくわからないけどダラ〜ンとしてると実感してもらえたら嬉しい。

呼吸がいつもと違うとか、なんだこの身体のズドンとしたダルさは!も、なんでもアリで。

これを繰り返していると、知らず知らずに緊張している時に、あれ?いま相当チカラ入っているなと気づきはじめるかもしれない。

こうして自分と身体との親和性を高めるのだ。

 

このように親和性が高まっていくと、どんなことが起こるのか。

最もありがたいのは、断薬や減薬が成功しやすいということだ。

効いているのだか?いないのだか?なんだかわからないけど、出されたから薬を飲む。こういう状態から、「なるほどこの薬を飲むと尿がいっぱい出るなぁ」とか「おや頭がぼんやりするぞ」などと、より意識しやすくなる。

こうして自らの身体を実感しつつ、今までの生活習慣を変えながら、数十名の患者さん達は大量の薬を断つことができた(注:この中には、難病の方達もメンタルの病の方達も含まれる。山ほどの薬を飲み続け、肝臓や腎臓の値が悪くなると、半年間にわたって減薬するということをくり返す。本人達が生活を変えつつ、薬を減らしたいとの希望から数年をかけて断薬や減薬に成功した例である)。

また身体感覚がバージョンアップされた方達の、健康になっていく速度には、かなり目覚ましいものがある。そしてそれは身体の変化のみならず、転職や移住といった人生の大きな決断に至ることもあった。

その一方で薬をやめたいと訴えつつも、その効能や副作用を体感できない方は、薬から離れることがなかなか難しいように思う。

 

彼らを観察していて思う。

根拠とは、実感に他ならないのだ。

数値でも見える化されたデータでもなく。

 

こうして身体感覚が目覚めていくと、自分のまわりとの関係性を改めて意識できるようになる。

こうした関係性を見つめなおすことができれば、予想以上に速いであろう、外界から押しよせる諸々の変化に、少しは迅速に対応できるのかもしれない。

どんなに抗っても時代の大きなウネリには勝てないのだとしても。

 

実感できる能力を高めることができたら、

変わりゆく流れの中で、自ずと自分も変化する。

 

これからの時代を考える時、

変化の波に押しつぶされないために、

実感力をアップする。

そして

フットワークはできるだけ軽い方がいいのだと思う。

 

(後記)

世界中を自分の庭のように旅する添乗員の友人達は、5年以上前から私に言っていました。

「ヨーロッパやアメリカ、そのどこへ行ってもランチにかかる費用は2000円以上。日本だけだよ、探せばワンコインの500円ですませられるのは。何かがおかしいよ、この国」と。

へえ〜っと思って聞いていた私ですが、ランチは安いし、100均もある。結構暮らしやすいのかも?と安住していた気がします。物価高になってはじめて、大変な時代がやっぱり来ていたのだなぁと実感できるようになりました。

 

私自身、顔にできたシワやシミは気になるのに、コリ固まった思い込みには、なかなか気づきません。時は流れているというのに。

この記事を書きながら、いろいろ探ってみる余地ありだなぁと思っています。

 

いつの間にか姿を消したお札たちを撮影。珍しくなってしまったお札を惜しげなく差し出してくださる患者さん達に感謝をこめて。

なお、冒頭の患者さんの言葉は了承を得て掲載。