“ 伽藍堂 Garaando ”

〜 さかうしけいこ が語る東洋医学の世界 〜

身体感覚を開く5  曖昧な感覚

 私たちは、目・耳・鼻・舌・皮膚を通して世界を認識している。視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の、いわゆる五感と呼ばれる感覚器をツールにして。この五感の中で、最も保守的といわれているのが味覚だという。子供の頃の好き嫌いは、そのまま大人になっても続くことが多い。まるで永遠の小学生のように。

 

 ふと私は、以前に聞いた話を思い出した。それは先天性の全盲の方がおっしゃっていたことだ。「目が見える人は、目の前にある食べ物の味を予測できる。この予想と味とが一致する場合は、美味しいと思うのではないか。いきなり思ってもいない味を感じるとマズイと思ってしまう。」このように味覚は視覚とも関連しているのだろう。さらにその視覚は、これはこういう味であったという記憶とも繋がっている。こう考えてみれば人が何かを感じる時、ひとつの感覚器だけが働いているのではなく他の感覚と混じりあって、総合的に感じとっているのだといえる。目隠ししたまま味わって銘柄を当てる“きき酒”という妙技であっても、嗅覚によるところは大きいに違いない。

 

 食べず嫌いも味覚以外のセンサーが働く。歯ごたえや舌触りといった口腔内の皮膚感覚(触覚)が呼び起こされた結果かもしれない。

 また強烈に癖のある食べ物の場合には、何かの拍子に大キライから好物へと変わることも多い。私の患者さんは、フルーツの王様と呼ばれるドリアンの話をしてくださった。彼は、一度も美味しいと感じたことがなかったという。それどころか、なんだこれ ?! とさえ思っていたと。出張でタイを訪れる度に、ドリアンがふるまわれる。何度もシブシブ食べているうちに、美味しいかも?と感じはじめて、今や大好物になってしまった。人間の味覚というのも案外当てにならないものだと思ったそうだ。ドリアンの他にも鮒鮨(ふなずし)、くさや、パクチーといった嗅覚と結びついたクセのある食べ物は、何かの拍子に嫌いから好物へと転換することがある。

 保守的であるはずの味覚も、試してみれば大きく変わる可能性があるのだ。

 

 では視覚についてはどうだろう。

 人は、見ているようで見ていない。今までずっと見てきたはずの建物が壊されサラ地になっても、そこに何があったのか思い出せないことも多い。あるいは馴染みの風景の中で、気づかなかったモノが突然見えてきた時は、自分に驚く。ずっ〜とソコにあったとは!

 我らの視覚をスッポリすり抜けていく世界が、今ココにある。

 

 次に聴覚についてはどうか。

 聞いているようで正確には聞こえていないことも多い。皆様は、ルパン三世のテーマ曲を覚えているだろうか。コーラスのサビ部分で「ルパン・ザ・サード」と歌われる部分を「ルパンだよ〜ん」とずっと思い込んでいたという友人がいる。また学生時代、有頂天をユウチョウテンと言っていた友人もいた。未曾有をミゾユウと言った政治家がいたのを思い出すが、このような経験は誰にでもあるのではないだろうか。何度も音としても聞いていたはずの言葉であっても、何かの思い込みの前にはブロックされてしまうのだ。あるいは声やモノ音がしないのに、聞こえる気がするソラ耳もたまに起こる。

 

 さらに一番本能と直結しているという嗅覚についてはどうだろう。

 私には嬉しいエピソードがある。それは、5歳の頃に治療に通ってくださっていたチビっ子君が大学院生になって再び治療にいらしてくださった時のことだ。私自身もほとんど初対面の感覚で再会を果たした。「もう何も覚えていないでしょ?」と目の前の爽やかな青年に聞くと、「治療所の場所もサカウシさんのこともすっかり忘れていたのだけど、エレベータに乗ったとたんに、お灸の香りがした。ああ、この匂いは懐かしい。ここに来ていたなぁと思い出した」と語ってくれた。嗅覚には、時空を超える力があるのだろう。

 

 このように五感には、精度の高い感覚もあれば、実は曖昧で不確かな感覚もある。これらが入り混じって、確固たる?!今の自分の世界を作っている。つまり、私たちは、結構自分の感覚に騙されているとも言えるのではないか。

 自分の感覚は、ちょっと当てにならない。

 私たちが自由になりたいと望む時、このことを意識するのは大事だ。自由になるということは、自己の外側にある制約を取り除くことばかりではなく、自分の内側の楔(くさび)を外していくことも欠かせない。こうして体験できる世界が広がっていくのだ。

 

 自分の感覚を信頼しきってばかりはいられないとしたなら、どうやって今の自分の感覚を育てていけばよいのだろう。

 そんな問いかけをしながら、私は森を歩いた。自分の感覚を研ぎ澄ますようにして。見えるもの、聞こえるもの、香るもの、まとわりつくものに注意を払って歩いていたら、なんだかグッタリ疲れてきた。もうやめよう!こうやって感覚に任せるはずが、結局頭の解釈になる自分にウンザリした。そして立ち止まって大きく息を吸った。すると体重を乗せた柔らかい土から押し返してくるような感触が足裏に届いた。そうか・・。私はしばらくの間、その土の柔らかい感触を何度も確かめた。

 

 柔らかくあれ!

 こう、自然から言われたような気がした。

 

(後記)

 人間の感覚というのは実に不思議だなぁと、私は仕事をする中で思ってきました。身体が冷えているのに暑いと感じる。自傷行為をしても痛くない。こういった患者さん達は、何も特別ではありません。程度の差こそあれ誰でも、感覚と現実とのズレがあるように思います。こうして私は、自分のよってたつ感覚というものが、どれほどの精度を持っているのだろうかと考えるようになりました。

 また最近は、「身体の声を聴く」という言葉をよく耳にします。しかしこれは、かなり難しいことだなぁと思います。こう思った途端に、思考へとエネルギーがいってしまうことも多いかと。感覚に解釈が加わった時点で、身体の声ではなくなってしまうような・・。

 今回は私が日頃思っている感覚の持つ曖昧さについて、書いてみました。

 

 <味覚のオマケ>

 先日ウニ丼を食べました。 バフンウニは、食べ終わる頃にはご飯に溶けてしまい、まさに卵かけご飯の味。これからウニを食べたくなったら、卵かけご飯(注:アボカドと卵黄を混ぜた卵かけご飯の方が秀逸)で代用できるなと思った次第です。その話を友人にしたら、「ああウニね、プリンに醤油をかけたらウニの味だよ」と教えてくれました。もしこれを実践してみた方がいたら、感想をお聞かせくださいね。

 

積丹半島の美国で食べた海鮮ウニ丼を撮影  

 

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